閑話 1906(明治39)年啓蟄:ホワイトデーの密談
※章タイトルを変更しました。
※地名ミスを修正しました。(2021年2月26日)
1906(明治39)年3月14日水曜日、午後5時。
今上の第4皇女・増宮章子内親王と第5皇子・満宮輝仁親王が住まう赤坂御料地内の青山御殿。和風建築の本館の隣には、2階建ての洋館が建っている。公には、青山御殿の職員が詰める“別館”という扱いになっているが、立派な建物なので、初めて青山御殿を訪れた者の中には、“洋館の方が本館だ”と勘違いする人間もいる。別館がそんな建物になってしまったのは、ここの実質的な主である、青山御殿別当の大山巌伯爵の趣味と、そして、この建物に課せられた国家的な使命とによる。この別館の真の姿は、日本国内のみならず、世界各地で暗躍する、日本の非公式の諜報機関・中央情報院……その本部だった。
その別館の中にある会議室に、4人の人間が顔をそろえている。
“国軍の麒麟児”の異名を持ち、先の極東戦争で実質的な戦争指導を行った、国軍参謀本部長の斎藤実海兵中将。
前厚生大臣であり、現在は野党・立憲自由党の幹部として党運営に邁進している、衆議院議員・原敬。
内閣総理大臣を2度務め、海外でも知名度の高い、伊藤博文枢密院議長。
そして、中央情報院総裁を務めている青山御殿別当・大山巌伯爵だった。
「おや、斎藤さん。この集まりに高野は来ないのですか?」
見事な白髪をかき上げながら、原前厚生相が尋ねた。「“史実”の記憶を持つ者を集めると聞いたから、あの若造も来るのだと思っていましたが」
「無理ですよ、原さん」
斎藤参謀本部長が苦笑する。「高野がここに来ようとすれば、間違いなく、児玉閣下がついてきます。高野だけをこの別館に来させる手段が、どう考えても見つからなかったので、高野は呼びませんでした」
「なるほど。それは一理ありますね」
原前厚生相は頷くと、
「となると、今日はどのようなご用件で我々を呼び集められましたか、大山閣下?」
探るような視線で諜報機関の長を見つめた。
「何、単に、この時の流れを再点検しようと思っただけですよ」
大山中央情報院総裁は、実力ある政治家の視線を、正面から柔らかく受け止めた。
「ああ。この時の流れ、“史実”とあまりにも変わり過ぎている。一度考えを整理しておくのも悪くないと思ってな」
伊藤枢密院議長が横から言う。彼は10数年前、交通事故に巻き込まれて脳震盪を起こした際に、“史実”の記憶を得ていた。斎藤参謀本部長も、今から約20年前、アメリカで列車事故に遭った時に、“史実”の記憶が流れ込んでいる。
「ホワイトデーの今日なら、梨花さまに贈り物をするためと称して、この青山御殿に自然に集まることができます。……ああ、原どの。心配しなくても、山縣さんなら、今日の朝一番に青山御殿にやってきて、梨花さまに和歌を捧げていましたから、この時間に来ることはありませんよ」
「……さすが、用意周到ですね。お気遣いをいただき、ありがとうございます」
他人には秘密にしているが、恭しく一礼する原前厚生相も、明治初年、天然痘に罹って生死の境をさまよった際に、“史実”の記憶を得ている。そして、別当として大山総裁が仕える青山御殿の主・増宮章子内親王も、約110年後の“史実”で医者として生きていたという前世の記憶を持っており、彼女は臣下として深い信頼を寄せている大山総裁に、その記憶の内容を詳しく伝えていた。
「しかし、伊藤さん。日本国内の状況は、“史実”の今頃のことを思えば、この上もなく良いではありませんか?」
“梨花会”の場で見せる過剰なまでの礼儀正しさをかなぐり捨てた原前厚生相は、ややぞんざいな調子で伊藤枢密院議長に確認する。
「わたしが内相として色々とやり始めたのは、ちょうど今頃だ。山田閣下でなくて桂が内相でも、容易く物事を片付けられるでしょう」
「桂は既に、総理大臣をやれる実力を持っていると思うがね……」
伊藤枢密院議長は薄く笑うと、
「しかし、原君の言うことは正しい。極東戦争にかかった戦費は、“史実”の日露戦争の約10分の1。もちろん、人的資源の消耗も日露戦争よりはるかに少ない。その点だけでも、事態はすこぶるよい」
と言って頷いた。
「日清戦争が起こらなかったので、清からの3億円以上の賠償金は得られませんでした。しかし、国家の運営方針が変わったこともあり、それも大した損失にはなっておりません。それよりも、“失われた20億円を取り返す”と言いながら、満州や朝鮮に固執して、多額の金を更にそこに突っ込む必要が無くなったのが大きい」
斎藤参謀本部長が大きく首を縦に振ると、
「戦争による物価上昇は、ほとんど発生しなかった。景気もさほど変動していない。来年には内国博があるし、国民の消費活動が刺激されて、緩やかな好景気が続きそうだな。政友会……ではない、立憲自由党が衆議院議員選挙で負けた時には、増税が出来なければ、国家財政は破綻してしまうのではないかと心配になったが、流石は聞多と渋沢だ。緩やかな好景気に伴って税収入が自然と増え、国家財政の状況は良くなりつつある」
伊藤枢密院議長が両腕を組んだ。
「そして、議会では非常にまともな議論が行われ、我が立憲自由党と立憲改進党の2大政党制が固まりつつある。貴族院の方も、三条公や千種どのが尽力した結果、“貴族院は政党に牛耳られてはいけない”という空気は完全に一掃された。井上さんは立憲改進党の党首ではないが貴族院議員……そのうち、国会に議席を持つ与党の長が、内閣総理大臣になるのも当たり前になるだろう」
「梨花さまの発案された、野党に金を衆議院選挙直後に下賜する、という制度が大きいですな」
原前厚生相の言葉に、大山総裁がこうかぶせた。「あれで、与野党ともに、不正な金に手を染めることが激減し、議員や議員候補諸君が、真面目に政策を勉強するようになりました。もちろん、今後も不正は取り締まっていきますが」
「院の取り締まりが厳しいことも影響していると思いますが、あれだけは、主治医どのの思い付きが功を奏しています。“立憲政治の成熟のため、よく政策を研究すべし”という勅語付きで金を下賜されてしまっては、下手に遊んだり、私腹を肥やしたりすることはできません」
原前厚生相が渋々、と言った感じで頷くと、
「もう少し、きちんと梨花さまを評価してもらいましょうか、原どの」
大山総裁が穏やかな声で言う。しかし、その声には何となく、凄みも伴っていて、原前厚生相は思わず息を飲んだ。
「梨花さまが言い出された極東戦争の和平案は、極東にほぼ恒久と言ってもいい平和をもたらしました。あれは、梨花さまにしか出来ない考えでしょう」
「確かに、中東地域での将来の騒乱を避けることも兼ね、沿海州と樺太にユダヤ人の国を作るというのは、100年先を見てきた者にしかできない発想です。新イスラエル共和国が建国されたおかげで、ロシアは我が国と朝鮮に直接手を出せなくなりました。ミハイル2世も内政に力を入れています。極東・中央アジアはほぼ平和になったと言っていいでしょう」
斎藤参謀本部長が大山総裁に続けて言った。
「義和君が処刑された後、朝鮮が少し不穏なのが心配だが、これなら4月には、西蔵・新彊・蒙古の地方政府が清から予定通り独立できる。朝鮮に妙な国がちょっかいを出さないようにだけ気を付ければ、我々は日本の発展に存分に力を注げる」
伊藤枢密院議長はそこまで言うと、ふっと口元を緩めた。「増宮さまがいなければ、わしらが“史実”の記憶を持っていても、ここまで時の流れを変えることはできなかった。日本がよい方向に向かっているのは、間違いなく増宮さまのおかげ……」
「が、主治医どのがいらぬ騒動を巻き起こしているのも事実でしょう、伊藤さん」
“極東の名花”とも称えられる美貌を持つ青山御殿の主を眼前に思い描いていた伊藤枢密院議長に、原前厚生相は冷静に指摘した。
「先月も、有栖川宮殿下のお屋敷で倒れて、大騒ぎだったではないですか。……ところで大山閣下、主治医どのがあの時倒れたのは、10年ほど前のフランツ殿下の時のように、心に激しい負担がかかったからではなく、酒に酔ったということで本当にいいのですね?」
「それは間違いありませんよ」
大山総裁は首を縦に振った。「酒を1滴も飲めないという訳ではないが、酔いやすい条件が重なってしまった……梨花さまはそうおっしゃっておられました」
「ふむ、1滴も飲めないという訳ではない……。それならばやはり、アルコールを飲まされても潰れないように、ある程度はアルコールに慣れていただく必要がありますね。ホワイトデーとやらの贈り物、これにして正解でした」
そう言いながら、斎藤参謀本部長が、横に置いてあった風呂敷包みを机の上に置く。解かれた包みの中からは、赤ワインと白ワインが1本ずつ現れた。
「フランスの16年物のワインです。かなり値が張りました」
「……お気遣いはありがたいですが、それは梨花会の面々以外の来客に出させていただくことになりますね。斎藤さんが梨花さまのお酒を飲む訓練に付き合う、と言いながら、このワインをすべて飲み干す未来が見えます」
青山御殿の別当の答えに、
「ちっ、そううまくはいかないか……。数年ぶりに酒を口に出来ると楽しみにしていたのに」
と斎藤参謀本部長は悔しがる。
「何が“ちっ”ですか、斎藤さん。高橋さんもそうだが、斎藤さんの酒量は多すぎますよ。主治医どのが止めてくれて助かったと思っていたのに」
原前厚生相は眉をしかめながら、斎藤参謀本部長に指摘した。
「しかし、気になるのは、有栖川の若宮殿下も、増宮さまも、あの主張を崩していらっしゃらないのかということじゃが……」
伊藤枢密院議長の呟くような言葉に、
「崩していらっしゃいませんね」
大山総裁は静かに首を横に振った。
「あるはずがないのですよ。梨花さまが、間違って他人のグラスに口を付けるなど。それに、梨花さまのグラスに誤って白ワインが入っていたことは、俺も調べてすぐにわかりました」
「誰が間違えたかは分かったのですか、大山閣下?」
「有栖川宮殿下の屋敷の職員の一人が、“自分が誤ってワインを注いだ”と申し出ました。梨花さまにも、若宮殿下にも、その旨は報告しましたが、お2人とも、“それは職員の思い違いだ”と否定され、あくまで梨花さまがグラスを間違えたのだ、と主張されています」
原前厚生相の質問に、大山総裁はこう答える。
「庇っているのでしょうな、その職員を」
斎藤参謀本部長の推測に、大山総裁が黙って頷くと、
「自分が間違ったことにしておかなければ、伊藤さんが大騒ぎして、職員に重い罰が下されてしまうと思った……というところだろう。明らかに拙い言い訳だが、自分の置かれた立場というものに、多少は思いを致すことができるようになったようだな」
原前厚生相は少し忌々し気に言った。
「言い方が非常に気に食わないが、まぁ、そんなところだろう」
伊藤枢密院議長はこう返すと、
「ところで、検討しなければならない重大な問題があるぞ」
と一同にもったいぶりながら言った。
「重大な……問題?」
斎藤参謀本部長が小首をかしげると、
「決まっているであろう!増宮さまが、若宮殿下との恋に落ちたかということじゃ!」
伊藤枢密院議長は、非常に真面目な表情になった。「わしが増宮さまなら、確実に落ちているぞ!」
「伊藤さん、それは絶対ないでしょう」
原前厚生相はそう言うと、口をあんぐりさせた。
「原さんの言う通りです。高野からも以前聞きましたが、若宮殿下と、北白川宮の輝久殿下の真っすぐな好意に、増宮殿下は全く反応しなかったと……」
斎藤参謀本部長も、伊藤枢密院議長に向かって強く主張する。
「その通りです。あの鈍感で奥手な小娘が、恋に落ちる訳がないでしょう」
原前厚生相の言葉に、
「小娘とは何だ、小娘とは!訂正しろ、原君!」
伊藤枢密院議長が、突然怒りを露わにする。「わしが手塩に掛けてお育て申し上げた増宮さまを小娘呼ばわりとは……命を捨てる覚悟はできているのだろうな?!」
「いいえ、できておりません。まことに申し訳ありませんでした」
怒鳴る枢密院議長に、原前厚生相は気のない声で答え、事務的に頭を下げた。反論したいことは多々あれど、ここで争うのは得策ではないと見たのである。
「しかし、真面目な話、増宮殿下に恋ができるとは、俺もとても思えません」
斎藤参謀本部長が首を横に振りながら言った。「築地の国軍病院の院長に聞きましたが、最近は、ますます医学の修業に夢中で、メキメキと外科手術の技量を上げているそうではないですか。更には、この3月から、国軍病院の休みの日、帝国大学の外科にも顔を出して、外科の修業に励んでおられるとか……。その状況で、増宮殿下が恋に落ちることがあるのですか?」
「……ご自身が気付かない間に、若宮殿下を意識されている可能性はあります」
穏やかな声で大山総裁が言った。
「しかし、梨花さまは、原どのの言う通り、ご自身の恋心にすら、とても鈍感でいらっしゃいます。フリードリヒ殿下に恋をされた時もそうでしたが……。ただ、俺としては、時が満ちるまでは、心の内にある仄かな好意に気づかないでいただきたい……そう思うのです」
すると、
「確かに……」
斎藤参謀本部長の表情が曇った。
「道孝公は、“史実”通り亡くなられてしまった……」
原前厚生相も、暗い顔をして、ボソボソと言った。「三条公や勝内府、黒田閣下や山田閣下や西郷閣下のように、主治医どのが積極的に関わったわけではないが……いや、だからこそ、“史実”通りの寿命となったと考えるべきか……」
「となると、やはり、万が一のことが起これば、増宮さま自身の手で、運命を変えていただく他ない」
伊藤枢密院議長が、普段は出さない重々しい声で絞り出すように言うと、会議室にいる一同に沈黙が訪れる。そこに、車輪が軋むような音が響いた。規則正しい馬の蹄の音も、遠くから微かに聞こえてくる。
「……お帰りになられましたな」
大山総裁の言葉には主語が無かった。しかし、誰のことを指しているかは、その場にいる人間にはすぐに分かった。今まで彼らの話題に上っていたこの青山御殿の主が、国軍病院での勤務を終え、馬車に乗って帰宅したのである。
「では、すぐに増宮さまのもとに参上しなければならん!」
伊藤枢密院議長が、勢いよく立ち上がった。その手には軸を入れた細長い木箱がある。斎藤参謀本部長も、2本のワインを風呂敷に包み直した。
「おや……原どの、“小娘”と罵っておきながら、梨花さまに贈り物をされるのですか」
椅子を机の下に入れた原前厚生相の手に、小さな包みがあるのを目敏く見つけた大山総裁は、微笑しながら声をかけた。
「し、仕方ないでしょう」
原前厚生相が、目を逸らしながら応じる。「本当は、こんなことなどしたくないのですよ。しかし、先月のバレンタインに、主治医どのには菓子器をもらいましたから、一応返礼をしなければ、他の梨花会の面々に怪しまれます」
「……ということにしておきましょうか」
ニヤリと笑った大山総裁に、
「そうおっしゃる大山閣下も、贈り物を持っていらっしゃらないではないですか」
原前厚生相はすかさず反撃した。「主治医どのの一の臣下と、自他共に許しておいでの方が……。それとも、大山閣下、いつまで経っても成長しない主治医どのに、とうとう嫌気がさしたのですか?」
すると、
「とんでもない。俺は、梨花さまが一番喜ばれる贈り物をしようと思っているだけですよ」
大山総裁は全く動揺せずに答えた。「俺の淹れた紅茶をお飲みになること。それが、梨花さまの一番お好きなホワイトデーの贈り物ですから」
大山総裁はそう言うと、静かに椅子から立った。
「結局、主治医どのに甘いではないか」
吐き捨てるように原前厚生相がつぶやくと、
「何を言っておる、原君。わしらは常に、増宮さまが上医となられるよう、鍛えているつもりだが?」
伊藤枢密院議長が原前厚生相をギロリとにらみつけた。
「伊藤さんは黙っていてください。あなたが口を出すと、余計に話がややこしくなる」
「ややこしくなるとは何だね、原君。わしは増宮さまのためを思って……」
「はいはい、もう本館に行かなければなりませんし、原さんも伊藤閣下も、ちょっと頭を冷やしましょうか」
口論しかかった原前厚生相と伊藤枢密院議長を、斎藤参謀本部長が呆れながら仲裁する。ワイワイと騒ぎながら会議室を出ていく3人の後姿を見ながら、
「やはり、梨花さまは扇の要でいらっしゃいますね」
小さな声でつぶやいて、大山別当はふっと微笑を漏らしたのだった。




