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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第41章 1905(明治38)年寒露~1906(明治39)年啓蟄
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医科研総裁

 1905(明治38)年10月10日火曜日午後2時、麴町区富士見町の医科学研究所の玄関前。

「増宮殿下……いえ、総裁宮殿下」

 玄関前に立った医科学研究所の所長・北里柴三郎先生は、満面の笑みで私を出迎えた。彼の隣にはベルツ先生がいて、やはりニコニコしながら、私に視線を向けている。

「やっとこのようにお呼びできることを、心より嬉しく思います!」

「私もです、北里先生、ベルツ先生!」

 北里先生とベルツ先生に歩み寄った私も、ニッコリ笑って頷いた。

「やっと……本当に、やっとですよ!先生方に会えたのも久しぶりですし!」

 私は10月1日付で、横須賀から東京築地にある国軍病院に転任した。そして、医科学研究所、通称“医科研”の総裁にも就任した。今日は病院の休みが取れたので、総裁に就任してから初めて、医科研にやって来たのだ。一応、微行(おしのび)の形にしてもらったけれど、玄関前には噂を聞きつけたらしい研究所の職員たちが並んでいた。

「そういえば、大山閣下は……」

 ベルツ先生があたりを見回そうとした瞬間、

「申し訳ありません、梨花さま。不届き者の処理は終わりました」

黒いフロックコートを着た大山さんが、両手を軽く払いながら私のそばに戻ってきた。

「……一応確認しておくけれど、生きてるわよね?」

「ええ」

 大山さんが指し示す先では、研究所の職員の一人・野口英世さんが地面にうつ伏せに倒れている。その横で、「まったく、何を考えているんだ、野口君は」「ええ、増宮殿下に抱き付こうとするなどとは言語道断」と言いながら、同じく職員の(はた)佐八郎(さはちろう)先生と志賀(しが)(きよし)先生がため息をついていた。野口さんは私が馬車から降りてきたのを見ると、秦先生と志賀先生が止めるのも聞かずにフラフラと前に進み出てきて、私に抱き付こうとしたのだ。私が蹴りを放つ体勢を取る前に、大山さんが野口さんの身体をつかみ、「北里先生たちの方にお行きください」と小声で私に指示を飛ばした。そして、私が北里先生たちに挨拶をしている間に、非常に有能で経験豊富な我が臣下は、邪魔者の始末を終えたというわけだ。

「まったく、いつものこととは言え、野口は本当にどうしようもないですな。総裁宮殿下、アメリカかイギリスの研究所にでも追い払いますか?」

「日本の恥を輸出するだけだからやめましょうよ、北里先生……」

 ムスッとする北里先生を、私はため息をつきながら止めた。野口さんは、金銭感覚が破綻している上に、美人と見れば問答無用で口説きにかかるという、とても変な人だけれど、研究者としての腕は超一流で、蛇毒の血清を完成させた後、昨年の夏に百日咳菌を発見して、医科学研究所の名声をさらに高めた。SMの女王様のように、野口さんを容赦なく殴って止められる美女がいれば、野口さんも暴走しなくなるんだろうけれど……。

(ま、最悪、インフルエンザの研究をしてもらって、“ウイルスが漏れ出たら大変なことになるから”って理由をつけて、荒野のど真ん中か絶海の孤島に野口さんを閉じ込めればいいか……)

 少し物騒なことを考えていると、

「殿下に報告したいことが、たくさん、本当にたくさんあるのですよ」

今年の春、医科研の顧問に就任したベルツ先生が言った。「人材の採用状況もですし、それから、放線菌探索の方も、有望な物質が2、3出てきまして……」

「本当ですか!それは楽しみですねぇ……私の持ってきたドイツの森先生からの情報もありますし……」

 思わず身を乗り出そうとすると、

「梨花さま、続きは所長室で」

大山さんが苦笑しながら私の肩をたたく。私は慌てて姿勢を正し、

「そうですね、では行きましょうか」

冷静な態度を装った。

 医科研の総裁になったと言っても、総裁専用の部屋が医科研の中にあるわけではない。医科研の場合、総裁職に就いている皇族はお飾りで、医科研の実際の運営は、所長の北里先生の仕事である。……少なくとも、前総裁の有栖川宮(ありすがわのみや)威仁(たけひと)親王殿下の時代はそうだった。

 ところが、この医科研は、私が小さいころ、梨花会の面々と相談して設置したという経緯がある。昨年の初夏、私が装甲巡洋艦“日進”で実習を始めた時から途絶えてしまっていたけれど、北里先生から医科研での研究の進捗については報告をもらっていたし、今後進めるべき研究についても医科分科会の面々と討議をしていた。というわけで、

――医科研の運営についても、梨花さまに関わっていただきましょう。

数日前、北里先生が青山御殿に挨拶にやってきたとき、我が臣下が私にこう申し渡したのである。このため、実際の運営は北里先生がやるけれど、医科研の研究計画やその進捗状況、人事や研究費についても、私がある程度把握して、政府に提出する予算案も、北里先生と一緒に作ることになった。……おそらく、私に修業をさせたい、ということでそうしたのだろうけれど、本当に、梨花会の面々は容赦がない。

 そんなわけで、月に1回程度は医科研に出向いて、北里先生から医科研の現況について説明を受けることになった。今日がその第1回目だ。……まぁ、仕方がない。医科研は私が小さいころに蒔いた種の一つだ。今は信じられないくらいに、それこそ、医学の歴史を変えるほど大きく育ってしまったけれど、その成長を見届けるのは私の義務だろう。

「職員一同、総裁宮殿下が研究の進捗を確認されるということで、報告資料を張り切って作ったようです」

 所長室に入ると、北里先生が嬉しそうに机の上から紙の束を取った。

「張り切ったのはいいですけれど、結果をわざとよく見せようとはしていませんよね?」

「それはもちろん。正直に結果を記載することは厳命いたしました」

 質問に北里先生が断言したのを見て、

「ありがとうございます」

私は軽く頷いた。

「寄付金や国庫からのお金をもらって研究している以上、嘘はついてはいけませんからね」

 それだけではない。この医科学研究所での研究成果は、世界中の医学者から注目されている。今年のノーベル生理学・医学賞を受賞したコッホ先生が所属する王立プロイセン感染症研究所、フランスのパスツール研究所と並び、“世界3大医学研究所”の一つと評価されることもあるのだ。医科研で発表された研究は、世界中で追試がされる。だから、可能な限り、研究の中身は信頼のおけるものにしたい。

「……じゃあ早速、報告を聞かせてください、北里先生」

「はい、総裁宮殿下!」

 北里先生はまるではしゃぐ子供のように、何度も首を縦に振った。


 それから約1時間半、所長室の来客用の椅子に腰かけた私は、この1年半の間の医科研の状況について、北里先生とベルツ先生から説明を受けた。野口さんの百日咳菌の発見は論文を読んで知っていたけれど、やはり実際の話を聞くと理解度が深まった。それ以外の医科研での様々な研究成果も、興味深いものばかりだった。

「この放線菌の産生物質は、抗生物質に使えそうですね。ペニシリンとは違うけれど、効く細菌はペニシリンとほぼ一緒……私の時代の抗生物質だと何になるのかな」

 さすがに、薬の一つ一つの構造式を全部覚えているわけではないから、この物質が“史実”で何に相当するのかはわからない。“史実”の私が死んだ時点では見つけられていなかった物質にヒットしている可能性もある。けれど、大事なのはそこではない。この物質の性質を調べ上げ、薬剤として使えるのか吟味することだ。

「まぁいいや、可能な限り物質の性質を調べて、それから臨床試験ですね。また進捗を教えてください、北里先生」

「かしこまりました」

 北里先生は頷くと、

「さて、今度は総裁宮殿下の番です。ドイツからの最新情報、ぜひお聞かせください」

目を輝かせながら私に言った。ベルツ先生もしきりに頷いている。

「リスト化したのがこの表です」

 私は持ってきた紙を北里先生とベルツ先生に示した。長年の想い人・エリーゼさんと結婚してドイツで暮らすことを選択した森先生は、一昨年の夏から、バイエルン王国に新しくできた“森ビタミン研究所”の所長をしている。そして、医学のみならず、化学や工学分野の最新情報を私のところに定期的に送ってくれるのだ。ちなみに、森ビタミン研究所の職員のほとんどは中央情報院の人で、送られてくる情報には、企業機密と思われるものも混じっている。……たぶん、大山さんのところには、森ビタミン研究所から、ドイツ政府の機密情報が大量に届けられているのだろう。

「大注目しているのが、この“プロカイン”という麻酔薬です」

 プロカインはドイツで最近合成された局所麻酔薬……体の一部分の痛みを取るために使う薬だ。一番なじみのある使い方は、切り傷を縫合する時に、傷の周囲に注射して痛みを抑える、という方法だろう。実は、今まで、傷を縫合する時に使える局所麻酔薬はコカインしかなかった。コカイン……薄めて使ってはいるけれど、もちろん、私の時代では麻薬に分類される、中枢神経作用のある薬だ。薬物依存者を作ってしまうリスクもある。けれど、プロカインは中枢神経作用がないので、薬物依存の心配をしなくていい。その意味では、医者も患者も安心して使える局所麻酔薬なのだ。

「アドレナリンを一緒に使う方が長い時間効きますし、そうすると人体で使える場所は限られてしまいますけれど、何とか製造許可をもらって、日本でも製造できるようにしたいんです」

「なるほど……そうすると、単独で使用する場合と、アドレナリンと併用する場合とで、麻酔の効き方に差があるかという実験を行う、という名目で、医科研でドイツの製薬会社から製造許可をもらう方がいいかもしれません」

「しかし、製造許可をもらうのに必要な金を、どこから出すかという問題が生じますね」

 ベルツ先生が北里先生の言葉に答えて両腕を組んだ。

「医科研の予備費で足りますかね?最悪、私が補助してもいいんですけれど、私が自由に動かせるお金にも限りがあるし、このリストにも載っている、イタリアの製薬会社が開発中の抗生物質も、どうにかして日本で生産したいって思いますし……」

 すると、

「梨花さま、それは予算を取ってくればよろしいのですよ」

私のそばに控えている我が臣下が、微笑しながら言った。

「……またあなたは、無理難題を私に吹っかける」

 眉を軽くしかめながら答えると、

「おや、今の厚生大臣は、梨花さまもよくご存じの後藤さんではありませんか。掛け合うのは容易いことでは?」

大山さんは微笑を崩さずにさらに続ける。立憲自由党が下野したので、今まで厚生大臣を務めていた原さんはその職を辞し、陸奥さんの片腕として、立憲自由党の党務に邁進している。その原さんに代わって厚生大臣になったのは、今まで厚生次官だった後藤さんだ。確かに、彼が相手ならばまだ戦えるとは思うけれど……。

「問題は次官よ。元大蔵官僚に、私がまともな論戦をさせてもらえると思ってるの?」

 後藤さんの跡を継いで厚生次官に就任した若槻(わかつき)禮次郎(れいじろう)さんは、今まで大蔵省に勤めていた。後藤さんが10年ほど前に、国土調査委員会を立ち上げて国土調査事業をやった時、彼は各省庁の有望な若手を国土調査委員会のメンバーに加え、その能力を見極めていた。その時に目を付けた有望な若手の一人が若槻さんだったそうだ。

――“史実”では総理大臣になったということですが……果たして総理にふさわしい器かどうか、我輩、手元で見極めます!

 私が東京に戻るや否や、青山御殿にやってきた後藤さんは、鼻息荒く言っていたけれど……。

(確か、東京帝国大学の法科大学を滅茶苦茶いい成績で卒業して、“法科大学始まって以来の天才”って言われたんだよね、若槻さん……。そんな相手から、私が予算をもぎ取れるの?皇族の威光を使えば何とかなるかもしれないけれど、そんなの、あまり使いたくないし……うーん……)

 眉の間の皺が深くなったその時、

「梨花さま」

大山さんが私を呼んだ。

 そして、

「これもご修業でございますよ」

彼は、いつもの決め台詞を私に突き付けた。

 ……大体、私が小さいころから、この人はいつもこうなのだ。私に課題を与え、もし私にいろいろと思い悩む様子が見えると、よほどのことがない限り、“とにかくまずやってみなさい”と促す。場合によっては、千尋の谷底に私を放りこむようなこともやってのける。けれど、それは本当に私を思ってくれてのことなのだ、というのは解る。私の行く手にどんな困難が立ちはだかっても、上医としてひるまずに立ち向かえるように、大山さんは私を鍛えてくれているのだ。時折、本当に死んでしまうのではないかと思うことはあるけれど。

「……じゃあ、仕方がないか」

 私は軽くため息をついた。「まず、製造許可をもらうのに、どのくらいのお金が要るか調べてみましょう。医科研の予備費で足りるならそれを充てればいい。足りないなら、産技研か国内の製薬会社を巻き込んで、そこからお金を出させるか、私と北里先生で厚生省に掛け合って、国庫からお金をもらう。製薬会社や厚生次官と戦うためにも、アドレナリンとプロカインの併用実験の計画、しっかり立てましょう」

 私の言葉に、北里先生とベルツ先生は頷き、「承知しました、総裁宮殿下」と同時に深々と頭を下げたのだった。

※百日咳菌は、実際には1904年にジュール・ボルデとオクターヴ・ジャングによって発見されています。


※一応、主人公の“使える場所が限られる”というセリフについて補足しておきますと、耳介や指趾などへの局所麻酔は、アドレナリンで動脈が収縮し、局所の壊死を誘発するため、局所麻酔薬とアドレナリンの併用ができない、ということです。2020年の12月に、厚生労働省から、一部の局所麻酔薬とアドレナリンの併用は、耳介・指趾なら条件を満たせばやってもいい、という通達が出されたようですが、主人公は2018年7月までの知識しかないので、その通達は知らないはずです。というわけで、こういう書き方をしました。ご了承ください。

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― 新着の感想 ―
[一言] 更新お疲れ様です。 次話以降でウソツキ礼次郎が登場するのですね。作者様がどう描写するのか楽しみです。ちなみに私が若槻礼次郎著「古風庵回顧録」を呼んだ後の感想は「言い訳だらけ」でした。師事し…
[一言] ここ最近の十数例しか知らない身としては首相経験者だからと言ってまともだとはなかなか言えないですからねー。 一緒にするのは失礼かもしれないけれど大戦前に内閣を投げ出した公爵や高度成長期の数人も…
[一言] >動脈が収縮し、局所の壊死を誘発する そのレベルで収縮するなんて……恐ろしや……
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