邂逅
※日付ミスを訂正しました。(2021年2月17日)
1905(明治38)年6月8日木曜日午前11時、横須賀国軍病院の応接室。
「何で私の職場に来たんですか……」
白いシャツに白いスラックスの作業着の上から白衣を着た私は、急な来客に苛立った声で尋ねた。
「おお、初めて拝見しましたが、仕事着姿も凛々しいですな。この時間に訪ねて得をしました」
カーキ色の軍服の児玉さんは、私の姿を見ると目を細める。
「それだけのために来たんですか?この開戦間際の、緊張している時間に……」
「開戦?一体どういうことですか?私は、対馬沖海戦の報告や、その後引き続いて発生したロシアの政変についての詳報を、増宮さまのお耳に一刻も早く入れようと思って参ったのですが……」
「その対馬沖海戦のおかげで、こっちはこれから大変なんですってば!今日佐世保から、患者さんがたくさん来るんです!」
私は立ったまま、不思議そうな顔をしている児玉さんを睨み付けた。
5月27日の午後2時頃、対馬東方の海上で、日本と清の艦隊が、リバウから回航してきたバルチック艦隊と海戦を行った。“史実”の日本海海戦とほぼ同時刻、ほぼ同じ場所で発生したこの海戦で、バルチック艦隊は壊滅した。つまり、海戦は日本と清の勝利で終わったのだ。
しかし、私たち横須賀の軍医にとっては、戦いは全然終わっていなかった。
バルチック艦隊が対馬海峡を通る見込みという情報が入った先月の26日から、全国の国軍病院では戦傷者を受け入れる準備に取り掛かった。恐らく海戦は、九州の北の海上で行われるだろう。そうなると、戦場から一番アクセスしやすい国軍病院は佐世保、その次が広島と熊本、そして舞鶴になるだろう。中央では、バルチック艦隊との海戦で発生する戦傷者を敵味方合わせて約1500人と見積もり、あらかじめ策定してあった収容計画に従って行動を開始した。
陸上で一刻も早い処置が必要な重傷者は、佐世保で受け入れる。佐世保の収容力を少しでも上げるために、佐世保国軍病院に入院中で移送可能な患者は、他の病院に転院させることにした。患者のうち、軍人は病院船で大阪や名古屋の国軍病院に、また、佐世保に住んでいる軍人の家族は佐世保にある民間の病院へ転院をお願いした。中等症の患者を受け入れることになった広島・熊本・舞鶴の各国軍病院でも、同じようにして、移せる患者を他の病院に転院させた。
佐世保・広島・熊本・舞鶴での治療が終わった戦傷者は、状態が落ち着けば他の国軍病院に移送する。そして今日、佐世保で治療を終えて、状態が安定した対馬沖海戦の戦傷者78名が、病院船“西京丸”で、ここ横須賀の国軍病院に転院してくるのだ。これだけの人数が一度に転院してくると、病状を把握するために目を通さなければならない資料が膨大な量になる。また、“西京丸”からは、移動中に傷の状態が悪化して、指や足の切断など、船では出来ない処置が必要な患者さんが3人発生したという連絡も入っていた。“西京丸”が到着したら、今日は滅茶苦茶忙しくなる。
「児玉さんにとっては、対馬沖海戦は終わったんでしょうけれど、横須賀の軍医の戦いはこれからなんです。1人でも多く、命を救わないと」
私は児玉さんを睨み付けたまま言った。「それに、治療が無事に終わっても、私にとって、戦いは一生終わりません。私は1人の皇族として、この戦争で亡くなった人のご冥福を、敵味方の区別なく祈り続けないといけないんですから」
「なるほど、確かにそうですな。それは是非、国軍の一員として治療にご尽力いただかなくてはなりません」
児玉さんが神妙な顔つきになり、私に一礼した。「今日移送される患者たちの中にも、重症な者がたくさんおるのでしょうから」
「そうですね。緊急手術が必要な人は何人かいるみたいです。……あ、それから、“日進”の竹内艦長から、至急電で“くれぐれもよろしく”って頼まれた患者さんがいるんです。少尉候補生の“タカノイソロク”という人。電報はカタカナだけだから、どういう漢字を書くか分からなかったんですけど」
医師が軍医学校を卒業して、軍医として任官するとき、最初の職位は“軍医少尉”になる。ところが、海兵士官学校を卒業した人は、最初に“海兵少尉候補生”に任命され、何か月かしてから“海兵少尉”に任命されるのだそうだ。だから、タカノさんは、去年海兵士官学校を卒業したばかりなのだろう。
「竹内艦長がとても心配しているんです。“自分のそばで大けがをした。自分の身代わりになったんじゃないか”って。竹内艦長には、私も実習中にお世話になりましたから、出来る限りのことはしてあげたいんです」
「ほう、そうでしたか」
と、応接室の扉がノックされ、
「失礼します、殿下」
新島さんが入ってきた。国軍看護学校の教育期間は1年……昨年9月に学校を卒業した新島さんは、三等看護兵に任命され、この横須賀国軍病院に勤務しているのだ。
「“西京丸”が入港しました」
「よし、それじゃあ、戦闘開始ですね」
そう言って軽く頷いた私に、
「では、昼食の時にでもお話を」
と児玉さんが提案する。
「ごめんなさい、児玉さん。もしかしたら今日、お昼ごはんを食べる暇がないかも……」
今朝、“今日入院する患者数は、横須賀国軍病院開院以来の多さだ”……上官もそう言って青ざめていたのだ。いつ仕事が終わるのか、ちょっと見当がつかない。
「では、お仕事が終わった後にでも」
「あの、いつ仕事が終わるか、本当に分からないんです。もしかしたら、全員で徹夜しないといけないかも……」
食い下がる児玉さんに、私は困りながらも説明した。
「そんなになりますか」
「普段なら、みんなで定時で上がるんですけれど、今日は非常事態ですから……。待つのは止めませんけど、覚悟をして待っていてください。……じゃあ新島さん、行きましょう!」
「承知!」
私は児玉さんのことを頭から追い払うと、新島さんを従え、激戦が予想される仕事場へと向かった。
その後は、やはり修羅場だった。
“西京丸”から昨日の夕方、ある程度の情報はもらっていたので、個々の患者の重症度や、すぐにやらなければいけない治療は横須賀でも把握できて、実際にこの一日、作業をどう進めるかという計画は大雑把に立てていた。それで、その計画通りに全員動くことはできた。
けれど、いっぺんに78人が転院してくる、というのは大変だった。やはり、新しい患者さんの病状を把握するという作業は、それなりに手間が掛かるのだ。転入してきた重症者の指切断術の助手を務めた後、転入患者の病状を同僚たちと分担して把握して、当直番への申し送り書を書き上げたのは、午後5時近くになってからだった。
(な、何とか、定時までに終わった……)
当直番の同僚に申し送り書を渡すと、疲れが一気に襲ってきた。今日は余りにも忙しくて、昼ごはんを食べ損ねてしまったので余計に辛い。けれど、帰る前にこれだけはやっておかなければならない。私は白衣の前を合わせ直すと、ある病室に向かった。
「失礼します」
扉をノックした病室は、個室だった。10年ほど前だっただろうか。今の時代の病院では、だだっ広い病室に20人も30人も詰め込まれるのがほとんどだと医科分科会の席で聞いて、“プライバシーが保たれないし、大部屋で細菌やウイルス感染が一気に広まるリスクも大きいから、なるべく病室の収容人数は少なくしてほしい”と森先生やベルツ先生に頼んだことがあった。それを受けて、各国軍病院では病室の構造を見直し、士官候補生以上に任命されている軍人は原則として個室に入院し、他の病室の定員も4人までになるよう、制度が改められ、適宜病院内も改装された。もちろん、各病室には換気が出来るように大きな窓があるし、大部屋でも個人のスペースをある程度確保している。療養の環境を整えるのも、病気を治すには大事なのである。
低い声で返答があったので、私はドアを開けて病室に入った。ベッドの上には病衣を着た、鋭い目つきの青年が足を伸ばして座っている。
「貴女は……」
がっちりした身体つきの彼は、私の姿を見て驚いているようだ。まぁ、いつものことだ。男性と同じ白衣とスラックスを身につけていても、乳母子の千夏さんと違って、膨らんでいておかしくない部分が貧弱でも、男性と比べて華奢な身体をしているのは誤魔化せない。患者さんは、目の前に立っている軍医が女性であることを認識して驚き、更に、女性の軍医は現在日本には私しかいないことに思い至って、開いた口が塞がらなくなってしまうのだ。
口をぽかんと開けた患者さんは、急に真面目な表情になると、私が止める間もなく、無事な右手で私に向かって敬礼する。仕方なく、私も答礼を返した。
「ええと、初めまして、章子と言います。“日進”に乗っていた少尉候補生の、タカノ、イソロクさん、ですよね?」
彼の病状をまとめた同僚から、彼の名前を漢字でどう書くのか、結局聞きそびれてしまった。
「はい、間違いありません」
敬礼をしたまま、タカノ少尉候補生はしっかりした口調で答えた。
「竹内艦長からあなたのことを頼まれていたので、早くここに来たかったんですけれど、遅れてしまってごめんなさい」
「あ、いえ、そんな……気に掛けていただいて、恐縮です」
「恐縮しなくていいですよ。竹内艦長には、私も実習の時に大変お世話になりましたから、タカノさん……ええと、“タカノ”って漢字でどう書きますか?高い低いの“高い”、に、野原の“野”でいいのかしら?」
名前をきちんと知っておかないと、流石に失礼だろう。そう思って私は彼に尋ねた。
「はい、その通りであります」
緊張した表情で、高野少尉候補生は答えてくれる。
「“イソロク”は……海辺の“磯”に、漢数字の“六”ですか?」
「いえ、数字で“五十六”と書きます。俺は、父が56歳の時に生まれたので、そう名付けたと父から聞きました」
「へぇ……、じゃあ、山本五十六と同じ字を書くのか」
聞いて思い出したので、こんな言葉が口をついて出た。“史実”の太平洋戦争開戦時に、連合艦隊司令長官……今の東郷海兵中将と、同じポジションに就いていた人だ。けれど、この時の流れで、山本五十六は生きているのだろうか?
(生まれているとしたら、私よりかなり年下だよね。1941年に50歳ぐらいだとすると、私より6、7歳下かな……)
そんなことをぼんやり考えていると、突然、高野少尉候補生の身体が、ガタガタと震え始めた。
「ちょっ……どうしたんですか、高野さん?!」
高野少尉候補生は返事をしない。彼の身体の震えも止まらない。
(まさか……悪寒戦慄?!)
私は最悪の可能性に思い至った。同僚の話では、ペニシリンの投与が効いていて、左手の人差し指と中指の手術痕、そして右下腿の傷跡には感染兆候は見られないし、熱も出ていないということだったけれど……。
(傷口から細菌が入り込んで、敗血症になった?!それで熱の上がりかけで、悪寒戦慄が起こってるとしたら……)
「高野さん、熱と血圧を測定します。場合によっては、点滴の針を入れて、傷の具合をもう一度確認しないといけないかも……」
とにかく、身体の状態を把握するにも、処置をするにも、人手が必要だ。私が急いで廊下に出ようとした時、
「違います!」
高野少尉候補生が叫んだ。
「違うって、我慢をしちゃダメです!症状があるなら症状があると、ちゃんと言ってくれないと状態が把握できません!」
振り向いた私が言い返すと、
「そうではない!症状があるわけではないのです!」
高野候補生は、強情を張ってこんなことを言う。
「だから高野さん……」
「俺が言いたいのは!」
私の声と、高野さんの声とが重なった。余りに気迫のこもった彼の声に、私は思わず、口の動きを止めてしまった。
「どうして殿下が、山本五十六を御存じなのか、ということです!」
(え……?)
思考も止まってしまった私に、
「その名前は、まだ名乗ってはいないのです!大正の御代になって、山本の家の養子になってから苗字を変えたので……」
高野少尉候補生は、更に続けて言った。
(あれ……?)
疲労し切った私の頭の中で、ようやく、点と点が結ばれていく。なぜ高野少尉候補生は、次の年号を知っているのだろう。“史実”での、明治の次の年号を……。
(まさか……まさかとは思うけれど、“史実”の日本海海戦とほぼ同時刻に、ほぼ同じ場所で起こった対馬沖海戦……もし、日本海海戦でも彼が怪我をしていて、それが、今回の対馬沖海戦で彼が負傷した時刻と一致していたら……)
「あの、あなた、もしかして、怪我をした時に、別の記憶が流れ込んだの?自分が、連合艦隊司令長官・山本五十六として、昭和16年12月8日に、アメリカ領のハワイを空母機動部隊で奇襲して、ミッドウェーの海戦で敗れて、その後戦死した、っていう記憶が……」
そう尋ねた私の声は、微かに震えていた。
「はい……。殿下の、おっしゃる通りです」
高野五十六少尉候補生、“史実”では、後に連合艦隊司令長官・山本五十六になる彼は、そう言って私に一礼する。それを見るや否や、私は廊下に飛び出した。
「こ……、児玉さんっ、児玉さーん!」
児玉さんは、まだ応接室で待っているのだろうか。後から冷静に考えれば、その可能性は低いのに、すっかり気が動転した私は絶叫しながら、児玉さんの姿を求めて、応接室に向かって走ったのだった。
※実際には山本五十六さんが西京丸で横須賀に入ったのは6月13日ですが、少し早めました。なお、この時、西京丸で横須賀に一緒に転院したのは174人(?!)なので、だいぶ手加減しています。「極秘明治三十七八年海戦史 第七部 医務衛生 第四篇 中央ノ衛生施設及ヒ主ナル衛生機関 第四章 海軍病院」(アジ歴レファレンスコードC05110148200 )を参照しました。
※あと、細かいことですが、広島の国軍病院は、国軍合同時に呉の海軍病院と広島の陸軍病院が合併してできたという想定です。




