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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第27章 1901(明治34)年冬至~1901(明治34)年穀雨
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“これでおしまい”(1)

 1901(明治34)年3月6日水曜日、午前9時半。

「では、具合が悪いのが3日前から続いている、と……」

 東京至誠医院の患者待合室。マスクをつけた私は、40代の男性患者に話を聞いていた。

「モノを食うと、みぞおちのあたりがしくしくするんだ」

「ほうほう……。他に、何か気になることはありませんでしたか?」

「ねぇなあ。あんたがその顔の布を外したら、別嬪になるんじゃねぇかってぐらいで」

「そうですか」

 深緑色の無地の着物の袖をたすきでたくし上げ、鼠色の袴を付けた私は、事務的に答えると、情報の整理を続けた。私と同じく後期試験を目指している同級生たちと、交代で初診患者さんの問診を取るようになってから1か月が経過している。

「じゃあ、そろそろ熱は測れたので、体温計を脇から出してください。その次に血圧を測ります」

 私は彼に引き続き事務的にお願いすると、体温を記録して血圧を測定した。他に既往歴や随伴症状などを聞き出すと、患者さんに記載してもらった問診票の余白に、情報を見やすく整理して書き記した。

 待合室から出ると、廊下にある流しで石鹸を使って手を洗いながら、鑑別診断についてぼやっと考えておく。問診結果を弥生先生に報告するときに、“どんな疾患を想定するか”と必ず問われるのだ。

(胃炎か胃潰瘍かな……?)

 ある程度頭の中で答えを作り、診察室の中に声を掛けようとしたその時だった。玄関の方が急に騒がしくなり、ガラッと引き戸が開けられる。そして、玄関の三和土の上に、とんでもない人物が現れた。

「梨花!」

 紺の着物に薄茶色の袴。立派な口ひげを鼻の下に蓄えたこの若者は、どこからどう見ても、我が兄である。

(な、何でここに兄上が……?!確かに、学校の場所は教えてたけど?!)

 とっさに反応できないでいる間に、硬い表情をした兄は靴を脱いで建物に上がり、つかつかと私に歩み寄って私の右耳に口を寄せると、

「勝先生が倒れた……」

と囁いた。

「!」

 目を見開いた私に、

「今朝参内しようとして、突然倒れたらしい。意識が戻らないそうだ。往診に来た医者が、脳卒中を起こしたのではないかと見立てて、親族を呼び集めさせたと……俺の所に連絡が入った」

兄は容易ならざる情報を、更に囁き続けた。

(脳卒中か……)

 脳卒中……脳の中の血管のトラブルで、急激に神経の症状が出ることだ。血管が詰まる脳梗塞であったり、血管が破れる脳出血だったり、くも膜下出血であったり、種類はいくつかあるけれど、意識が戻らない、ということは、重篤な状態であると言っていい。

(助からない、か……。私の時代みたいな画像診断も治療も、まだ無理だからなぁ……)

 私が目を伏せた瞬間、

「勝先生の見舞いに行くぞ、時間がない」

兄が私の左手を掴んだ。

「み、見舞いに行くぞって言われても、私、今、実習中で……」

「それは承知の上で迎えに来た。勝先生に、二度と会えなくなってもいいのか?!」

「そうだけど……!」

 と、

「半井さん?」

診察室の戸が開いて、紫の着物を着た弥生先生が、廊下に顔を覗かせた。

「何を騒いで……って、あなた、どなたです?医院に入り込んで、わが校の生徒に言い寄って、手まで握るとは何事ですか」

 弥生先生が兄を睨み付けた。私たちの返答次第では、その場に雷が落ちるだろう。

(ま、まずいっ!でも、“兄”って答えると、叔父さま以外に兄がいるのかって話になっちゃって、私の正体がバレるし、ええと、ええと……!)

 私が必死に言い訳を考えようとしたその時、私の左手から、兄の手がぱっと離れた。

「失礼いたしました。あなたが、吉岡弥生先生ですか」

 弥生先生に身体を向け直した兄は、姿勢を正すと、弥生先生に深々と頭を下げた。

「梨花がお世話になっております。わたしは、梨花の婚約者の松平(まつだいら)と申します」

「「?!」」

 弥生先生の両目が、満月のように真ん丸くなった。

「あ、あの、半井さん……?」

 恐る恐る、私に尋ねる弥生先生に向かって、

「ち、……小さいころに、亡くなった父が決めていて!」

私は必死に、虚構のストーリーをでっち上げ始めた。

「で、でも、松平さん、私が医者になってもいいって言ってくれてるんです!」

「当たり前です。優秀な女子が世に出て行き、世の中に貢献するのは素晴らしいこと。だからわたしは、この許嫁の夢を応援して、彼女を支えると誓っております」

 兄は、非常に礼儀正しい態度を崩さないまま、私が骨子を作った話を、うまく膨らませていく。動揺の余り、問診票を落としそうになるのを、私はかろうじてこらえた。

「まあ……そうだったのね」

 兄と私を交互に見比べながら、弥生先生が納得したように頷いた。「ごめんなさいね、2人とも。……半井さん、あなたにぴったりの方じゃないですか」

「ど、ど、どうもありがとうございます、はい」

(あああ、ごめん……節子さま、本当にごめん!)

 心の中で、花御殿にいる節子さまに全力で謝りながら、私は弥生先生に向かって最敬礼した。どうやら、兄の嘘を、弥生先生は無事に信じたようだけれど……。

「ところで、失礼ですけど、松平さん、皇太子殿下によく似ていらして……」

(?!)

 下げたままの頭の上に降ってきた弥生先生の言葉に、私の心臓が飛び跳ねた。

(うわああああああ……)

 激しく動揺する私の心の内を知ってか知らずか、

「ほら、去年の皇太子殿下のご成婚の時、新聞に皇太子殿下と皇太子妃殿下の肖像画が載っていましたから、それによく似ているな、と……」

弥生先生は兄を見つめながら、少し首を傾げているようだ。

 そう言えば、そうだった。去年5月の兄の結婚の当日は、新聞各紙が特集記事を組み、兄と節子さまの写真や肖像画を紙面に載せていたのである。各学校に肖像写真が配られているお父様(おもうさま)お母様(おたたさま)と同じくらい、兄と節子さまの顔は、全国津々浦々に知れ渡っているのだ。

「よ、よく言われるんですよね、恐れ多いけれど!」

 私は頭を上げると、無理やり笑顔を作った。

「学習院に通っている時も、“皇太子殿下の影武者になれる”って言われてましたしね!」

 “松平”……旧大名家にはよくある苗字だ。だから兄も、とっさに偽名として思い付いたのだろう。華族の子弟は、特別な事情がない限り学習院に通学するから、私はとりあえず、“許嫁の松平さん”の真実味を増やすべく、こう話を作ってみた。

「あ、ああ、そうだったな、恐れ多いことだが……」

 兄も若干動揺しているようだけれど、上手く話を合わせてくれる。

「ああ、そうでしたか」

 弥生先生はにっこり笑って頷いた。「そう言えば、半井さんも……」

「そ、それより、弥生先生!」

 更に何か言おうとした弥生先生の口を、私は封じに掛かった。これ以上、ここに兄と一緒に留まっていたら、肝心な用事が果たせなくなってしまう。

「松平さんは、私の女学校時代の恩師が、急に倒れて危篤になったと知らせに来てくれたんです。私が大変お世話になった先生で、その先生が勧めてくれたのも、医者になる決心を後押ししてくれたんです。だから、せめて最後、先生に一言お礼を申し上げに、お見舞いに行きたいんです。先生、申し訳ないのですが、今日は早退させていただきたいです!」

 最敬礼してお願いすると、

「わかりました。そういう事情なら仕方がないわ。今日は帰って」

弥生先生が頷いてくれた。

「ありがとうございます!」

 私は弥生先生に問診票を渡すと、教室に荷物を取りに帰り、「行きましょう」と兄を促して、2人一緒に玄関を出た。

「もう、びっくりしたよ……」

 青い帆布で出来た特注のカバンを背負い、通学に使っている自転車を門柱の裏から引き出しながら、私はため息をついた。この自転車は国産品だ。輸入品の方が性能はいいのだけれど、国内産業の奨励という意味で、わざと国産品を購入したのだ。普段使いには支障はないし、畳んだ仕込み傘を収納する特製のホルダーも、前輪の横に設置してもらっているからとても便利で、私は非常に気に入っている。

「そうか」

 兄も私の隣で、自転車を引っ張っている。恐らく、普段の私と同じように、花御殿からここまで、自転車でやって来たのだろう。

「ところで、兄上、侍従さんたちは?」

 小声で兄に尋ねると、

「いや」

兄は首を横に振った。

「じゃあ、武官さんたちと来たの?」

 更に尋ねると、

「一人だ」

……兄からとんでもない答えが返ってきた。

「は?」

「知らせを聞いて、慌てて自転車に飛び乗ってここまで来たが……誰も追いついていないなぁ」

 門をくぐった兄は、往来を見渡して苦笑する。

「あのさぁ?!」

 私は思わず、兄を睨み付けた。

「それ、ヤバいでしょ!今頃、花御殿が大騒ぎよ!」

「すまん、梨花。しかし、俺にとって、勝先生は大事な恩師だ。死ぬ前にきちんと別れを言いたいと思ってな」

「そりゃあ、私だってそうだけどさ……」

 私は少し考え込んだ。ここで花御殿に戻って、きちんと然るべき準備を整えてから、勝先生の家に行くべきだろうか?本来ならば、そうする方が絶対にいいに決まっている。けれど、勝先生は危篤状態だ。花御殿に戻って準備をしている間に、亡くなってしまう可能性もある。

「目的を達成するには、このまま2人で、勝先生の家に行くのが一番ね……」

 仕方がない。私についている職員さんも今はいないから、兄の護衛は私がしよう。いざとなれば、仕込み傘を抜くしかない。

「となると、皇宮警察の人たちに捕まると時間を食っちゃうから、捕まらないような経路を考えないと……あ、そうだ、兄上。勝先生の家に、“これから行きます”って、連絡はしてないよね?」

「そうだな」

「ということは……」

 麹町区と赤坂区の、大体の地図を頭の中に描く。麹町区の南西に赤坂区がある。今いる麹町区飯田町は、麹町区の北端に近い場所にある。勝先生の家がある赤坂区氷川(ひかわ)町は、赤坂区の西側だ。ここから南に向かえば、勝先生の家に着くけれど、皇居のお濠の側を通ると、皇宮警察に捕まってしまう。花御殿に近すぎる道を通っても、同じ危険が生じる。

「ということは、勝先生の家に行く前に、電話所に寄ることも考えると……ふむふむ、麹町の電話所に寄って、それで勝先生の家に向かえばいいかな」

 ブツブツ呟く私に、

「電話所に寄る?」

と兄が尋ねた。

「いや、何の予告もなしに兄上と私が行ったら、勝先生の家の人がびっくりするから、一応知らせるだけ知らせておかないと。アポなし訪問なんてもっての他だから」

「“あぽなし”というのがよく分からないが……とにかく、連絡を入れておけ、と言うのだろう」

「はい、そうです」

 頷いて、兄の目をじっと見つめていると、兄が大きくため息をついた。

「そう恐ろしい目をしなくてもよいだろう。分かった。意味があるかは分からないが、電話をしよう。ただ、俺は今持ち合わせがないから、後で費用は折半だ」

「了解。じゃあまず、靖国神社の方に向かって、兄上。そのあたりから南に行けば、麹町の電話所の近くを通るから、そこから電話を入れようか」

「詳しいな、梨花」

「へへっ、千夏さんと毎日自転車(けった)で走っているから、この辺の地理は大体覚えたよ」

 女医学校の行き帰りには、千夏さんが護衛としてくっついてくるので、2人で自転車を飛ばしている。帰りには、彼女と示し合わせて、少し遠回りをしたり、途中のお店で買い物をしたりするので、お店の位置も大体把握した。ちなみに、千夏さんは、朝に私を送り届けると、青山御殿にいったん戻るので、今、私についている職員は誰もいない。

「じゃあ兄上、申し訳ないけど、私が遅れないように、少し速度を緩めて走ってね。兄上を守れるの、今は私しかいないから」

「わかった。では、お前に護衛を命じよう。頼んだぞ」

「かしこまりました」

 私は兄に、軍隊式で敬礼した。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 梨花さんは地図の読める女性 [一言] タイトル……
[一言] 更新お疲れ様です。 遂に勝先生が!? (><) 次回も楽しみにしています。
[気になる点] 二人乗りで飛ばして行くのも手かな [一言] 皇太子にケッタに反応させるべきかと。 ケッタマシーンは邪道です。
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