閑話 1900(明治33)年大雪:明治牛若伝
※地の文を一部修正しました。(2020年3月13日)
1900(明治33)年12月16日日曜日、午前10時。
東京府赤坂区にある青山御殿。そこの主である今上の第4皇女・増宮章子内親王は、自分の居間に来客を迎えていた。兄の嘉仁皇太子とその妃・節子妃である。
「そうか、そういう経緯だったのか」
人払いをさせた章子内親王の居間で、皇太子はそう言うと茶を一口飲んだ。10月中旬からの中国・九州・四国地方を回る行啓を終え、今月10日に東京に戻った皇太子は、出発前よりも少し日に焼けていた。同じ敷地内にある、気のおけない間柄の妹の家なので、皇太子も皇太子妃も、洋装ではなく和装だった。
「節子に聞いて、お前が更に美しくなったということは分かったのだが、それ以外の細かいことが分からなくてな」
「もう、嘉仁さまったら」
皇太子の隣に座った節子妃が、軽く唇を尖らせる。
「しょうがないよ。私だってドタバタしてたから、振り返る余裕が今まで無かった。それに、節子さまだって大変だったんだよ」
長い髪の毛を後頭部の低い位置でまとめ、前髪をヘアピンを使って分けた章子内親王は、兄をたしなめると、「節子さま、着帯、本当におめでとう」と深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、梨花お姉さま!」
頬を少し赤らめた節子妃が、とても嬉しそうに頷く。節子妃は、12月10日の侍医団の診察で、懐妊していることが確定し、戌の日である昨日、着帯の儀を執り行ったのだ。
「つわりの時期を、無事に乗り越えられたのは、梨花お姉さまのおかげです。本当にありがとうございました」
「いやぁ、前世の母親が妹を産んだ時のこと、何となく覚えてたし、前世でも勉強したからね。……来年の4月下旬ぐらいかな、出産予定日は」
章子内親王の言葉に、節子妃が微笑みながら頷く。
「頑張ってね、節子さま。私も医科分科会の先生たちと協力して、出来る限りのことはする。……兄上、節子さまのこと、大事にしてあげなきゃダメよ。意地悪したら、花御殿に殴りに行くから」
「する訳がなかろう!俺はな、旅行の間中、お前が前期試験に合格するかどうかも心配だったが、節子が体調を更に崩していないかと、ずっと心配していたのだぞ!節子を、この腕で抱き締めながら励ませればよいのにと、何度思ったことか……」
思わず立ち上がろうとする皇太子を、
「嘉仁さま、おやめになってあげて」
隣から節子妃がそっと止める。「梨花お姉さま、顔が真っ赤ですから」
皇太子が前を見ると、髪をシニヨンにまとめ、よりいっそう美しさが増した妹は、空間の一点を見つめたまま、動きを止めてしまっていた。その両頬は、節子妃が指摘するように、真っ赤に染まっている。
「全く……前期試験に合格しても、一段と美しさを増しても、お前が奥手なのは変わらんな」
苦笑した皇太子に、
「あ、兄上、人の、性格なんて、そんな、簡単には、変えられないよ……」
ようやくそれだけ言った章子内親王は、椅子の背に深く身体を預けてうつむいた。
「ところで、新しい学校はどうなのだ?」
話題を変える必要性を感じた皇太子が、章子内親王にこう尋ねると、
「うん、楽しいよ」
彼女は落ち着きを取り戻したのか、ようやく笑顔を見せた。
「午前中は、弥生先生の診察を、見学させてもらっている。まだ臨床医学を勉強してないってことになってるから、問診を取ったり、実際に診察したりするのはもうちょっと先だって言われた。午後は授業なんだけど、今は生徒が私一人だから、荒太先生と一緒に、教科書を選んでる」
「教科書を選ぶ?」
首を傾げた皇太子に、
「東京女医学校は、私みたいに、後期試験を受験する学生だけじゃなくて、前期試験を受ける学生も受け入れる予定なんだ」
と、章子内親王は微笑みながら説明を始めた。「でも、女学校で解剖学や生理学を授業するところはないし、物理や化学も、女学校で教えられている内容は、前期試験に耐えられるレベルじゃない。だから、教科書が必要なんだ」
「なるほど。それで手伝っているという訳か」
「うん。臨床医学の教科書は、私が持ってるのでいいって荒太先生に許可をもらった。でも、前期受験の生徒向けの教科書選びが難航しててね……それに、荒太先生、身体を壊したことがあるみたいなの。前期受験の生徒は荒太先生が教えるって言ってるんだけど、万が一、荒太先生の体調が悪くなった時は、私も生徒に教えるのを手伝おうかなって思ってる」
「確かに、学問所にいたころは、よくお前に物理や数学を教わっていた。腕前は俺が保証するが、……評判になってしまいそうだな」
「まあ、変な連中が来たら、拳と蹴りで追い返すよ」
不敵に笑う章子内親王に、
「済生学舎の不届き者どもがやって来ても、裸足で逃げ帰りそうだな」
皇太子はまた苦笑した。済生学舎の一件は新聞でも大きく取り上げられ、世間では大騒ぎになった。そして、12月11日、大隈文部大臣が長谷川校長を文部省に呼び出して叱責し、女子生徒の復学と女子の入学者の受け入れ再開を命じた。もちろん、女子生徒を乱暴した者たちや、“女子生徒を排除すべし”という暴論を煽り立てた生徒と教職員を、退学・懲戒免職にすることも要請した。長谷川校長はそれに従い、女子生徒に乱暴した男子生徒たちは警察に身柄を拘束され、法の裁きを待っている状態である。また、逮捕された者たちが全員、逮捕の前に何者かに襲われ、顔面をボコボコに殴られたという噂も東京市内では流れているが、真偽のほどは不明であった。
すると、
「不届き者ねぇ……私は、別の不届き者を何とかして欲しいんだけど」
章子内親王はため息をついた。
「別の不届き者?」
嘉仁親王が尋ねると、
「あいつよ、あいつ!尾山紅梅!“明治牛若伝”の作者!」
章子内親王は頬を膨らませた。「斎藤さんに教えてもらって、ちょっと目を通したら、あの主人公、どう考えても私をモデルにしているとしか思えないの!」
「面白いですよね。旧大名家のお姫様が、ご当主のお兄さまの病を治すために、医者を目指すのだけれど、医術を学ぶために天狗に弟子入りしたり、薬の材料を手に入れるために、弁慶のように頼もしい家来と一緒に、材料を買い占めている悪党と戦ったり……。読んでいて、まるで梨花お姉さまと大山さまみたいだなって、思ったことがあります」
節子妃がクスっと笑う。
「やだ、節子さまも読んでたの?やめて欲しいなあ。だってさぁ、主人公の名前が晶子って、私の今生の名前だって“あきこ”とも読めるもの。しかも、“私の医学の師を侮辱するとは、たとえ神仏がお許しになっても、この晶子が許さぬ!”ってセリフが出て来てさぁ……。私、昔、同じようなセリフを、公衆の面前で言い放っちゃったことがあって……」
「らしいな。義兄上が教えてくれた。あの後、それをネタにしてからかうと面白かった、と」
苦々しい表情を浮かべる妹に、皇太子もニヤニヤ笑いながら言う。
「もう、やめてよ、兄上。……ああ、やっぱ、黒田さんに、“明治牛若伝”を発禁にしてくれってもう一回頼む。この間も頼んだんだけど、“増宮さまをモデルにしているとは必ずしも限りませんし、第一、この小説は面白いではないですか”って言って、全然取り合ってくれなかったんだ。尾山紅梅の居所が分かったら、直接そいつの所に行って殴ってやるんだけど、大山さんに調査してもらっても、居場所も正体も分からなかったから、せめて本を発禁にしないと……」
立ち上がった章子内親王に、
「まぁ、落ち着け、梨花」
皇太子はなだめるように声を掛けた。「その小説、俺も目を通してみたが、別に、主人公を馬鹿にしているような話でもないし、ましてや、皇室を馬鹿にしているような話でもない。それに、その主人公が梨花をモデルにしたという確たる証拠もない。将来的に、我が皇室に害をなすようなことになれば発禁しなければいけないが、そうではないのだから、様子を見ていいだろうよ」
章子内親王は、兄の言葉を黙って聞いていたが、
「……はぁ、分かった、兄上」
と、不満の色を顔に浮かべながら頷いた。
「うん、わかったならいい。……では、千夏を呼んでくれ。茶のお代わりをもらいたい」
「あー、兄上。千夏さん、今日は非番だから、私が淹れてくるよ」
そう兄に答えると、章子内親王は兄の前の湯呑をいったんお盆に載せた。
「驚いたな。千夏が休みとは。四六時中お前の側にいそうだが」
皇太子が言うと、
「本人はそうしたいみたいだけど、そこまで拘束しちゃうと、身体に悪いからね。週に1日半の休みは、無理やり取っていただいております。青山御殿は、ブラックな職場じゃないから」
と章子内親王は答えた。「まぁ、彼女の場合、青山御殿の本館に住み込みだから、休みの日もプライバシーが保たれないんじゃないかって、ちょっと心配してるんだよね。かと言って、院の業務にはタッチしてないから、別館に引っ越してもらう訳にもいかないし」
「別館はある意味、魔物だらけだからな。おっと、こう言うと、大山大将に叱られてしまうか」
皇太子はクスッと笑う。この青山御殿の別当・大山巌歩兵大将は、非公式の諜報機関・中央情報院の総裁を務めており、彼が管轄する青山御殿の別館には、青山御殿の職員に偽装した諜報のエキスパートたちがひしめいていた。
「千夏さん、休みの日は、部屋に閉じこもってることが多いみたいだけど、時々は出かけてるよ。今も外に出てる。ちゃんと気分転換して、英気を養ってほしいな」
章子内親王はこう言うと、「じゃ、お茶を淹れてくるね」と皇太子夫妻に声を掛け、居間から出て行った。
一方、その頃。
「いやぁ、今回も素晴らしいですよ、紅梅先生!」
京橋区銀座一丁目にある、洋館風の建物。その中にある、たくさんの机が並べられた部屋の一角で、眼鏡を掛けたやせぎすの男が、紙の束を机に置くと興奮気味に言った。
「登場人物の動きが生き生きしているのも、いつも通り最高なんですが、今回は何と言っても、この、和傘を差した晶子さん!いやぁ、描写が美しくて惚れ惚れしてしまいますよ!まるで、晶子さんを目の当たりにしているようだ!」
「ありがとうございます、加賀美さま!」
やせぎすの男に向かって、束髪の若い女性が深々とお辞儀をした。「よかったです。ちょうどよい資料が手に入りましたので、今回の描写には、特に力を入れられました!」
「前回の評判も上々です。そろそろ、原稿の枚数もたまって参りましたので、単行本の第2巻を出そうと思っているのですが……」
加賀美と呼ばれた男がそう言うと、
「本当ですか!それは嬉しいです!」
束髪の女性はニッコリと笑った。太陽の光に、彼女が掛けた眼鏡が一瞬きらめく。
「詳しいことが決まりましたら、いつもの通り封書で連絡いたしますので、よろしくお願いします、紅梅先生」
「はいです!」
女性は男に一礼すると、軽い足取りで部屋を出て行った。
「いいですねぇ……」
建物の玄関を出ながら、笑顔でつぶやいたのは、“明治牛若伝”の作者・尾山紅梅こと、増宮章子内親王付きの女官・榎戸千夏だった。
「今回も宮さま、大活躍ですねぇ……」
実は、子供のころから、文章を書くのが好きだった彼女、女学校時代に、頭の中の妄想……ではない、創作欲が抑えきれなくなり、出版社の小説作品公募に、“明治牛若伝”のダイジェスト版ともいえる作品を応募した。それが見事に入選し、月刊雑誌に定期的に“明治牛若伝”を連載するようになったのが、1898(明治31)年の秋のことだ。美少女が大活躍する物語は、世間での章子内親王の人気にも助けられてか、読者に熱狂的に迎えられ、今年の正月に出版された第1巻は、順調に版を重ねていた。
「取材し放題の上に、執筆資料も獲得し放題!ふふふ……天職です。宮さまの女官になれて、千夏、本当に幸せです!」
うっとりと空を見上げた尾山紅梅、こと、榎戸千夏の口からは、歓喜がだだ漏れていた。そんな彼女の手には、1枚の写真がある。そこに写されていたのは、和傘を持ち、変装用の束髪のカツラを被った章子内親王の立ち姿だった。
「よーし、帰ったら、頑張って続きを書きますよー!」
空に右こぶしを突き上げると、章子内親王の最大の敵とも言える人物は、銀座の町中へと消えて行ったのである……。




