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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第26章 1900(明治33)年穀雨~1900(明治33)年大雪
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信じるもの(2)

 1900(明治33)年6月20日水曜日、午前6時50分。

 起床して、身支度を整えた私は、青山御殿の拝礼部屋にいた。いつものように、お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)、兄と節子さまなどの家族の無事を祈った後、東京帝大病院の方角に向かって頭を下げた。

 今日は、朝から西郷さんの手術が行われる。近藤先生たちが奔走してくれた結果、検査の結果を西郷さんに話してから10日も経たないうちに、手術ができることになった。本当は、私も華族女学校(がっこう)の授業をサボって、帝大病院に詰めていたかったのだけれど、

――まずは学生としての本分を果たされますように。

と大山さんに止められたのだ。だから私にできることは、手術に当たってくれる近藤先生たちが最高のパフォーマンスを発揮して、西郷さんの手術が上手く行くことを祈ることしかない。でも、学生としての本分が無くても、今の私には、こうすることしかできないのだろう。

 どれぐらい、頭を下げていたのだろうか。祈りでいっぱいになっていた頭の中が、

「宮さま!」

突然響いた元気な声で、激しくかき乱された。千夏さんだ。

「もう、7時を過ぎています!ご朝食の時間です!」

「!」

 私は慌てて立ち上がった。この時間に朝食を食べないと、華族女学校(がっこう)に遅刻してしまう。南側の障子を開けると、目の前に千夏さんが平伏していた。傍らに、私のランドセルがある。

「お、おはようございます、千夏さん。ありがとうございます、ランドセルまで持ってきてくれて……」

「千夏で結構でございます、宮さま」

 千夏さんは平伏したまま答え、

「さ、お早く。今日は絶対に時間通りに御殿を出ていただきますように、と大山閣下にきつく命じられております」

と言った。

(お見通し、か……)

 私は軽くため息をついた。まだ出勤する時間ではないけれど、我が有能な臣下は、私が取る行動を読み切って、千夏さんに、今朝するべきことをあらかじめ命じて置いたのだろう。

「どうなさいました、宮さま?」

 私の顔を覗いた千夏さんが、不思議そうな声で尋ねる。「微笑んでいらっしゃいますけれど……」

「……いや、大山さんは、本当にすごい人だと思ったから」

 顔に浮かべた苦笑いを、私は慌てて引っ込めた。自分の未熟さにほとほと呆れ果てたというのは、ここでは言わないことにした。口に出したが最後、千夏さんが全力でそれを否定しにかかり、朝食が更に遅くなってしまう。

「じゃあ、食堂に行きましょう、千夏さん。ランドセルを持って、私についてきてください」

 声を掛けると、千夏さんは「はいです!」と返事して、食堂に向かう私を後ろから追った。

 朝食を済ませて登校すると、私はなるべく授業に集中した。休み時間も、クラスメートたちとのおしゃべりや遊びに熱中するようにした。もちろん、西郷さんのことは心配だ。けれど、平常心を保たなければ思ったのだ。恐らく、我が臣下は、それを私に要求している。

(自分だって辛いと思うけれど……こんな時でも、私を鍛えるのは忘れないんだなぁ)

 なぜか今日はいつも以上に親切にしてくれる、徳川糸子さまはじめとするクラスメートたちとのおしゃべりに興じながら、私は、我が臣下にはやはり敵わないという思いを強くしたのだった。

 授業が終わって華族女学校(がっこう)の玄関を出ると、私を待つ人の姿があった。黒いフロックコートを着た大山さんである。

「やっぱりね」

 私が苦笑いを浮かべると、我が有能な臣下は一礼して、

「やっぱり、とは?」

と私に微笑みを向けた。

「他の人間が迎えに来ると、私がその人を振り切って、帝大病院に行っちゃうかもしれないと思ったから、大山さんが迎えに来たんでしょう?」

 そう尋ねると、

「ご明察にございます」

大山さんは穏やかに言った。

「今朝からのあなたの布石を見ていると分かるわ。あなた、千夏さんだけじゃなくて、糸子さまたちにも手を回したでしょう。私が考え込んだり、落ち込んでいたりしたら、話しかけて平常の心持ちに戻すように、って」

 私の言葉に、大山さんの顔が更に綻ぶ。どうやら私の推測は当たっていたようだ。

「心配しなくても、今日はおとなしく青山御殿に帰ります。剣道の稽古だってしないといけない。せめて師匠とそれなりに戦えるように、平常心を保って……」

 すると、

「いいえ」

別当さんは首を振った。「梨花さまにお呼び出しがありましたゆえ、馬車でそちらに向かっていただきます」

「呼び出し?皇居から?」

 お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)に何かあったのだろうか。そう思って眉を顰めた私に大山さんは顔を近づけ、

「帝大病院です。近藤先生が、手術が終わったので、摘出した検体を見ていただきたいと」

と囁いた。

「……!」

 目を見開いて、馬車に走ろうとした私の右手を、大山さんはがっしりと掴んだ。

「減点ですよ、梨花さま」

「……あなただって、西郷さんのことが心配なくせに」

「もちろんそうですが……気を付けて参りましょう、梨花さま。転ばれると大変です」

 唇を尖らせて大山さんを見つめたけれど、彼の微笑みは崩れない。私は軽くため息をついて、「エスコート、お願いしていいですか」と小さな声で大山さんに頼んだ。

 帝大病院に着くと、すぐに西郷さんの病室に案内された。西郷さんの跡継ぎである従徳(じゅうとく)さんや、兄のご学友さんで、今は江田島の海兵士官学校にいる従義さん、西郷さんの奥さんの清子(きよこ)さんなどが囲む中、西郷さんは個室のベッドに仰向けに寝ていた。口の上に、ゴム製の酸素マスクがある。

「西郷さん」

 枕もとに歩み寄り、膝を床について呼びかけると、西郷さんは目を開けた。大きな黒目の焦点が、ピタリと私の顔に合う。

「お疲れ様でした」

 点滴が入っている西郷さんの左手を握ると、西郷さんが空いた右手で酸素マスクをずらした。

「西郷さん、まだ酸素は吸う方が……」

 私はこう言って止めたけれど、

「話しにくいですからなぁ」

西郷さんはしっかりした声で言って微笑した。

「増宮さま、ありがとうございました」

「私にお礼を言わないでください、西郷さん」

 私は西郷さんに、小声で答えた。「手術したのは近藤先生ですし、それに……私は、近藤先生を信じていただけです」

 西郷さんのご家族は、もちろん私の前世のことを知らない。でも、これだけは、西郷さんに今、どうしても伝えなくてはいけない。そう思って私が口にしたセリフが耳に届くと、西郷さんは満足そうに頷いて、口を開いた。

「しかし、増宮さまの美しい顔が間近に見られて、手も握っていただけるとは……手術も悪くないですなぁ」

「はぁ?!」

 私は目を丸くした。「な、なに言ってるんですか、西郷さん!手術なんて、ご縁が無い方がいい場合が多いんですよ!」

 背後で、クスクスと笑い声が聞こえる。大山さんだ。病室の中を見回すと、清子さんは平然としていたけれど、従徳さんと従義さんが、顔を真っ青にして、怯えた表情で私を見つめているのが分かった。

「もう……、私、帰ります!従徳さんも従義さんも怯えてるし!」

 私が叫んで立ち上がると、

(おい)の息子どもは、相変わらず情けないのう。増宮さまの素晴らしさが分からないとは。ただご活発なだけではないか」

西郷さんは顔に苦笑いを浮かべた。もしかしたら、全身麻酔の影響で、感覚が混乱しているのではないだろうか。病室を出た私は、大山さんに近藤先生の元に案内してくれるよう頼んだ。

「手術は成功しました」

 私の顔を見るやいなや、近藤先生は一礼して言った。「標本をご覧になりますか?」

 頷くと、近藤先生が器を持ってくる。ホルマリンの匂いが、ツンと鼻をついた。

「……幽門側胃切除になりましたか」

 ホルマリン液で満たされた器の中には、切除された西郷さんの胃と、郭清されたいくつかのリンパ節が入っていた。切り開かれた胃に、直径3㎝ほどのごつごつした隆起が載っている。

「腫瘍の一部を迅速診断いたしましたら、悪性の可能性が高いという結果が出ました」

 近藤先生が淡々と説明する。「肉眼的には転移は確認できませんでした。詳しい結果は、更に病理検査をしなければわかりませんが……」

 ということは、胃のエックス線検査で写っていたこの腫瘍は、やはり胃がんだった、ということだ。放っておけば増大して、やがて西郷さんの命を奪っていただろう。

「手術そのものも、出血は少量で済みました。従徳どのと従義どのの血液が、西郷閣下に輸血しても問題ないと分かりましたので、万が一の際、供血者になることをお願いしていますが、現在のところ、血圧も安定しています。順調なら、明日か明後日には、水分の摂取が可能になるでしょう。西郷閣下とご家族にも、手術の結果はありのままに伝えまして、ご了解されました」

(よかった……)

 私は、ほっと息をついた。まだ、手術後の合併症が出てくる可能性はある。それに、合併症を起こさずに退院できたとしても、これから起こって来る貧血に対処するための薬剤……鉄剤や、私の時代で言うビタミンB12を補充する薬を開発しなければいけない。やらなければいけないことはまだあるけれど……でも、よかった。近藤先生を信じてよかった。

 私は、近藤先生に向かって、無言で最敬礼した。


 1900(明治33)年7月6日金曜日、午後4時半。

 私は青山御殿の居間に、急な来客を迎えていた。ベルツ先生である。

「西郷閣下は、今日の午前中、無事に退院されました」

 私がお茶を出すと、ベルツ先生は開口一番、こう言った。

「しばらくは、目黒の別邸で静養されるそうです。術後の詳しい病理検査でも、癌の浸潤は胃の粘膜に留まっておりましたし、リンパ節にも転移は認められませんでした。術後の合併症もありませんでした。本当は、近藤先生自ら、増宮殿下に報告したいということでしたが、手術が長引いているということで、代わりに私が参りました」

「じゃあ、早期の胃がんだったんですね。よかった、進行してなくて……。先生方には協力をいただいて、本当に感謝の言葉しかありません」

 私は頭を下げると、「ベルツ先生」と呼びかけた。

「なんでしょうか?」

「私……今回の件で、自分の未熟さを、また痛感してしまいました」

 私はベルツ先生から視線を外しながら言った。いつもなら、視線を外したその先に、大山さんがいるのだけれど、今は別邸の方で仕事をしているのでここにはいない。

「数年前でしたか、陸奥さんに初めて会った時に、こう言われたんです。“少なくとも、医学に関しては、殿下は真実を的確に見通すことがお出来になる。しかし、得た真実をどう扱うかに関しては、失礼ですが、まだまだ殿下は未熟です”と。私……西郷さんに、エックス線検査の結果を伝える時に、どうしたらいいか分からなくなったんです。重大な病気の結果を伝えるのも、前世では自分でやったことがありませんでした。それに、私の時代の医療のことを知っているから、それと比べてまだ危険が多い今の治療を、西郷さんに受けてもらっていいのかどうか、すごく迷いました。それで、思ってしまったんです。“西郷さんを、私の時代の日本に連れていけたらいいのに”って」

 ベルツ先生は、私を見つめながら、黙って私の話を聞いてくれていた。その穏やかな視線に励まされるように、私は口を動かし続けた。

「その時、西郷さんが、“増宮さまは近藤先生を信じておられますか”って聞いたんです。“もちろん”と答えたら、西郷さんは、“では、自分も近藤先生を信じる”って答えたんです。……多分、西郷さんは、私がどうしたらいいか分からなくなっていたことも、私の時代の治療と比べて危険がどうしても大きくなるから、私が治療を勧めるのを迷っていることも、見抜いたんだと思います」

 だから、西郷さんは、迷っている私の背中を押したのだと思う。リスクなく物事が進められるのならば、それに越したことはないけれど、時にはある程度のリスクを許容して進んでいかなければならないのだ、ということを、彼は“増宮さまが信じているなら、(おい)も信じる”という言葉で、身をもって示してくれたのだ。

(だから、手術の後、“近藤先生を信じてた”って言ったら、頷いてくれたんだよな……)

 考えてみれば、維新の時、そしてその後も、梨花会の面々は、危ない場面を数えきれないくらい乗り越えてきたのだ。ある程度のリスクを許容しなければいけない場合だって、たくさんあったに違いない。そんな面々の一人である西郷さんは、私がリスクを前にして立ちすくんでいるのを見て、私が医者としてまだまだ未熟であることを、陸奥さんと同じように感じ取っただろうけれど、そのことに関して、私には何も言わなかった。だけど、それに甘えていてはいけないと思う。私は、本当の意味で、信頼に応えられる医者にならなくてはならない。そのためには……。

「ベルツ先生……私、医者として、もっとたくさん経験を積みたいです。私の知識だけでも、人を助けることができるけれど、私も医者として経験を積んで、人を助けたいんです。だから、私、今度の秋の医術開業試験に合格したら、済生学舎に通って、少しでも実際の経験を積みます。それで、後期の試験に合格したら、医者として経験を積んで……信頼に応えられるような医者になって、そして、上医になります」

「……非常によいことだと思います」

 ベルツ先生は微笑んだ。「殿下の知識は、西郷閣下のお命を助けられた。そして、経験を重ねれば、更に大勢の命を助けられることになるでしょう。その時のために、私も準備を始めなければいけません」

「準備……?」

 首を傾げた私に、ベルツ先生は、

「実は、8月に、ドイツに戻ることになりました」

と言った。

「え……?」

 私は、軽く目を見張った。そう言えば、ベルツ先生は、“史実”ではドイツに戻り、そこで亡くなったはずだ。

「じゃあ、もう、ベルツ先生と会うことはできないんですか?」

 思わず身を乗り出した私に、

「いいえ」

ベルツ先生は微笑しながら首を横に振った。

「ドイツから2、3件、講演の依頼が来ているのです。ですから、講演をするついでに、故郷の見納めをして参ります」

「故郷の見納め……ですか?」

「ええ、日本に戻るのは今年の末になるでしょうが、戻ったら、日本に帰化しようと考えています。もし、殿下が医者になられたときには、殿下を助けたいと思いまして」

「ベルツ先生……」

 それは嬉しい。とても嬉しいことだ。今生の医学の師匠が、私の側にいてくれるというのは、何と心強いことなのだろう。

「じゃあ、今度日本に戻られる頃には、私、前期試験の合格証書を実力でもぎ取ります」

 私はベルツ先生に微笑みを向けた。「先生を信じて、日本で待ってます」

「分かりました。では、私も殿下が前期試験に合格していることを信じて、故郷の見納めに行って参ります」

 ベルツ先生は、私の目を見ながら、しっかりと頷いてくれた。


 目黒の別邸で静養に入った西郷さんは、国軍大臣を辞任し、後任の大臣には次官の山本さんが繰り上がりで就任した。また、第1軍管区の司令官の桂さんが国軍次官になり、山本さんを補佐することになった。

 そして、この西郷さんの退任が、結果的に大きな出会いをもたらすことになったのだけれど、その時の私はまだ、それに気づく由もなかったのである。

※西郷さんは、実際には1902(明治35)年7月に胃がんで亡くなっています。もちろん、このお話はIFですので、架空の症例として捉えていただければと思います。

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