乳母子(めのとご)
※誤字の指摘があり訂正いたしました。(2020年2月14日)
1900(明治33)年4月27日金曜日、午後5時。
私は新居・青山御殿の応接間に、転居してから初めてのお客様を迎えていた。爺の息子さんで、現在の堀河家の当主・堀河護麿さんだ。爺が亡くなる寸前に、東京帝大病院にお見舞いに行って以来、およそ3年半ぶりに会うことになる。
「実は、増宮さまに渡すものがありまして……」
挨拶を交わすと、護麿さんはそう切り出した。
「私に渡すもの、ですか?」
「はい、お父さん、いや、父から託されたものでして」
「爺から……?」
私が首を傾げると、
「なるほど、最後に面会した時に、おっしゃっておられたものですか」
私の隣に座った大山さんが静かに言った。
(あ……)
――本当は、皇太子殿下が、ご結婚されたら、増宮さまに、お渡しするものが、ありましたが……息子に託します。
そう言えば、最後に爺に会った時、爺はこう言っていた。兄と節子さまの結婚式は来月の10日だから、それを渡す時が来た、ということだ。
けれど、
「しかし、どうやって増宮さまにお渡しすればよいものか、悩んでおりまして、それで事前にご相談を、と思って参上したのです」
護麿さんはこんなことを言った。
「え?どういうことですか?」
まさか、とても大きなもので、ここまでの運搬が難しい、ということなのだろうか。私が怪訝な顔をしたのを見て取った護麿さんは、
「ああ……御不審に思われるのも、無理はありませんね」
と頷いた。
「恐らく、見ていただいた方が早いかと思います。しばしお待ちを」
そう言った護麿さんは急に席を立った。
(い、一体、何なんだ?)
「梨花さま」
大山さんが、私に小さな声で呼びかけた。「あれこれ思い悩むより、静かにお待ちになる方がよろしいでしょう」
振り返ると、大山さんは微笑を含んだ目で、私をじっと見ている。その視線は“まだご修業が必要ですね、梨花さま”と語りかけているようだった。
(修業して、追いつけるのかなぁ、大山さんに……)
そう思った瞬間、廊下から複数人の足音が聞こえてきて、護麿さんが障子を開けた。
「お待たせいたしました、増宮さま。……さ、入りなさい、千夏」
護麿さんが後ろを振り返ると、
「は、はいです!」
という高い声がして、1人の少女が姿を現した。背格好も、年齢も、私と同じぐらいだろうか。銀縁の眼鏡をかけ、黒い髪を後ろで三つ編みに束ねている彼女は、紺色の女袴に、白地に紺の矢羽根模様の着物を着ていた。笑うと可愛いのだろうけれど、表情がガチガチに固まってしまっている。
「ええと、護麿さん?この方はどなたですか?」
「ああ、覚えておいでではないですか。無理もありません。一度、我が家を出ていましたからね」
私の問いに、護麿さんは苦笑しながら答えた。「この子は、榎戸千夏。増宮さまの乳母の榎戸ハルの娘、つまり、増宮さまの乳母子になります」
「榎戸ハルの娘……」
確か、私は、農家出身の乳母の乳を吸って育ったと聞いたことがある。その乳母の名前が榎戸ハルだということは、全く覚えていなかった。どうも、今生の幼いころの記憶は、ほとんどが抜け落ちてしまっているようだ。
「千夏は、増宮さまより、半年ほど早く生まれました。増宮さまが2歳になられる頃までは、増宮さまと一緒の乳を吸って、我が家で過ごしておりましたが、その頃に我が家を母親と一緒に出ました」
そう言われれば、千夏さんの顔は、どこかで見たような気がする。ハッキリと思い出せないのがもどかしいけれど。
「榎戸ハルは、増宮さまが花御殿に引っ越された直後に亡くなりまして……」
「そうだったんですね……」
護麿さんの言葉に、私は目を伏せた。私の記憶がないとはいえ、鉛中毒から、私を救ってくれた人である。彼女にきちんとお礼を伝えるべきだった。
「それで、父が千夏を引き取って、我が家で育てていたのです。将来、千夏を増宮さまのお側に上げるために」
「私の側に上げるって……つまり、私に仕えるということ?」
確認するために発した言葉の語尾は、
「そうです!」
という、千夏さん自身の言葉にかき消された。
「亡くなった大殿さまにも、殿さまにも、“お前は宮さまのお側に仕えるのだぞ”と言われながら、血が繋がっていない千夏を、ずっと育てていただきました。ですから千夏、宮さまのお側に上がる日を、心待ちにしておりました!」
「はぁ……」
そう言ってその場に平伏した千夏さんを、私は戸惑いながら見つめた。千夏さんが、彼女の言う“大殿さま”、つまり、爺の渡したかったものだとすると、どういう手続きを踏めば、彼女を私の側にいてもらうようにできるのだろうか。
「あの、大山さん?千夏さんが、ここの女官として働けるようにするためには、一体どうすればいいのかな?」
我が有能な臣下に尋ねると、
「一番無難なのは、宮内省の女官採用の試験を受けていただくことですね」
と彼は答えた。「ただ、女学校を卒業した者、という条件がまずあります。そちらの方はどうでしょうか?」
すると、
「去年の9月に、5年制の女学校を卒業しました!」
千夏さんは平伏したまま回答した。そう言えば、華族女学校の中等科は卒業に6年掛かるけれど、他の女学校は、5年で卒業できるところが多いのだった。
「女学校も優秀な成績で卒業しました。特にフランス語と作文が非常に上手でしたね」
護麿さんが横から補足する。
(おおっ!)
それは非常に心強い。フランス語は何とか話せるようになってきたけれど、兄ほど上手には話せない。仮名遣いも改正されたから、最近は文章を書く時に不安に感じることは無くなったけれど、ちゃんとした文章を書く時には、一度誰かに目を通してもらいたい。兄と別居した今、気軽にその役を頼める人がいなくなってしまったので、千夏さんの存在はとてもありがたい。
「あとは、武術の方ですが……」
「実は、講道館の嘉納治五郎先生に頼み込みまして、柔道を指導してもらっています。驚きますよ、男子を軽々と投げ飛ばしますから」
大山さんの質問に、護麿さんが少し得意げに答える。「それに、なかなか良い字を書きますし、和歌も得意です。裁縫や掃除、炊事洗濯も一通りできますし、茶道や華道、琴の心得もあります」
(強い上に、女子力高っ!)
護麿さんの説明に、私は目を見張った。私も華族女学校で習っているから、お裁縫は前世よりも出来るようになった。けれど、お料理やお洗濯には手を出せていない。茶道と華道は、去年の秋から、母に少しずつ教わり始めたけれど、琴は弾けない。まぁ、ピアノはある程度弾けるようになったけれど、節子さまの方が私より断然上手だ。
「唯一の欠点は、近眼ということでしょうか……」
「いや、護麿さん、それって、眼鏡で矯正すればいい話だから、全然欠点とは思えないですよ……」
私は千夏さんを見つめたまま、護麿さんにツッコミを入れた。万能すぎる。この乳母子、本当に万能すぎて、私には無い物をたくさん持っている。おまけに、どことは言わないけれど、着物の下のそれは、私より大きいような気がする。
「どうなさいました、増宮さま?」
「ん、ちょっと、人体について科学的な考察を試みてしまって……」
我が臣下の質問には、わざと難しい言葉を使って誤魔化しておいた。この乳母子に、様々な面で嫉妬してしまったとはとても言えない。
「……大山さん、宮内省の採用試験って、7月だっけ?」
咳ばらいを一つすると、私は大山さんに尋ねた。
「そうですね」
「じゃあ、この7月の宮内省の採用試験を受けてもらって、合格したら、この御殿への配属をお願いしてもらって……」
私がそう提案すると、
「嫌です!」
千夏さんは頭を上げ、キッパリと言った。
「え?ちょっと待って、千夏さん、あなた、私に仕えたいんですよね?」
「“千夏”と呼び捨てにしていただいて結構です、宮さま!」
千夏さんはそう言うと、
「その通りです、宮さま。千夏は、一刻も早く、宮さまのお側に上がりとうございます。ですから、採用試験があるまで待つなんて、そんな悠長なことはしたくないのです!」
と、また私に向かって平伏した。
「私も、“7月まで待ちなさい”と千夏に言ったのです」
護麿さんが困り果てた表情で言った。「ところが、千夏は“大殿さまには、皇太子殿下のご成婚の時と言われましたから、すぐにでも宮さまに仕えます”と言うばかりで……。それで、どうしたものかと思いまして、相談に上がったのです」
「そうでしたか……」
椅子に座ったまま、私は両腕を組んだ。こんな私に仕えたい、と言うのだから、きちんと千夏さんにお給料は出したいし、身分も保証したい。そのための手段が、宮内省の採用試験に合格することなのに、千夏さんは、それは待てない、一刻も早くこんな私に仕えたいと言う。
(あ、そうだ)
「大山さん、ちょっと」
隣に座った我が臣下を呼ぶと、
「何か思いつかれたのですか、増宮さま」
と言いながら、大山さんは私に身体を寄せた。
「千夏さんを私の女官として仮採用して、宮内省の採用試験に合格したら本採用する、みたいな形はとれるかな?」
「難しいかもしれません。仮採用制度がありませんから。制度を作っている間に時が過ぎてしまい、宮内省の採用試験の日を迎えてしまうかも……」
大山さんがこう言うと、
「お側に置いていただけるなら、女官でなくても、下働きで一向にかまいません!」
千夏さんが叫ぶように言った。
「いや、それはダメでしょう。こんな私に仕えると言ってくれるんだもの、きちんとした待遇にしたいし、それから……」
千夏さんに反論する私に、
「こんな?」
隣から鋭い視線が飛んだ。大山さんだ。
「それは、不必要な卑下でございます。あれだけ教育させていただきましたのに、まだ足りないようですね」
(ひいっ!)
「そ、それだけは、それだけはやめて……」
大山さんの硬い微笑みに、私は顔を引きつらせた。
と、
「そうです!」
前の床に座り込んでいる千夏さんが、突然、大きな声を出した。
「宮さまはとても素晴らしいお方です。学業の成績も優秀でいらして、剣道もお得意で、天皇陛下と皇太子殿下をお助けするために医師になろうと頑張っていらっしゃって、その上美しい……羞月閉花とは、まさに宮さまのためにあるような言葉で……」
(うわあああああああ!)
「や、やめて、もうやめて、千夏さん……」
私は頭を抱えた。
「申し訳ありません、宮さま。才色兼備の方がよかったでしょうか?」
きょとんとして尋ね返す千夏さんに、
「違う、そうじゃない!」
私は顔を真っ赤にして突っ込みを入れる。「私、褒められるのが苦手なんです!自分を甘やかしちゃうから!」
すると、
「な、なんですって……」
千夏さんの目から、涙がポロポロとこぼれ落ちた。
(まずい!)
泣かせてしまった。同じ年頃の女子を泣かせてしまった。内親王としては、完全にいただけないことだろう。
「あ、あの、ごめ……」
私の謝罪の言葉は、
「何と素晴らしい宮さまなんでしょう!」
千夏さんの声にかき消されてしまった。
「は、はい?」
戸惑う私の前で、
「称賛に溺れることのないそのお心掛け。千夏、感服致しました!ううっ……殿さま、やはり千夏は、一刻も早く宮さまのお側にお仕えしたいです!」
千夏さんは泣きながら、護麿さんに向かって平伏する。どうやら、こぼれた涙は、恐怖ではなく、感激の涙だったようだけれど……。
(てか、この子、どうしたら……)
涙を流し続ける乳母子に、どんな反応を返せばいいか、私は全く分からなくなってしまった。
1900(明治33)年5月5日土曜日、午後4時。
「それで、彼女はどうなったのですか?」
新居に引っ越してからも、相変わらず“結核治癒後の経過観察”と称してやってくる陸奥さんは、私の居間の椅子に座るなりこう言った。
「彼女?」
首を傾げると、
「とぼけないで下さい、殿下。先週おっしゃっておられた、殿下の臣下志願の乳母子どのですよ」
陸奥さんは唇の端に微笑を閃かせた。「殿下は大分戸惑っておいででしたから、彼女の宿願が叶えば、さぞ面白いだろうと思っていたのですがね」
「陸奥さん……人が困ってることを、面白がらないでもらえますか?」
「何、議論ならば、僕もそっとしておきますが、これは殿下の御修業ですからね」
私の抗議を、陸奥さんは軽く一蹴する。
(修業で片付けるなよ……)
陸奥さんをにらみつけると、
「一応、片が付きましたよ」
私の隣に座った大山さんが微笑しながら言った。
「梨花さまの女官になるには、宮内省の採用試験を通る必要があります。しかし、花松どのの女官ならば、採用試験を通る必要はありません」
そうなのだ。内親王である私の側に仕える人間になるには、宮内省職員である必要があるので、宮内省の採用試験を受けなければいけない。けれど、母は皇族扱いされていないので、母の側に仕える人間は、宮内省職員でなくてもいいのだ。何だかややこしいけれど、そういう規則であるらしい。
「ですから、まずは花松どのに仕える女官として採用することに致しました。働きながら、宮内省の試験に向けて勉強していただいて、合格したら梨花さまの女官に正式に配置を変えようかと」
「母上が皇族扱いされてないのは、ちょっと納得できないですけどね。今回はそうやって規則を掻い潜るしかないなって」
大山さんの言葉にそう続けると、
「おや、彼女がここに勤務するのは、殿下もご異存がないのですか」
陸奥さんが意外そうな声で言った。
「いや、千夏さんがこの御殿に勤めるのは、全く異存はないですよ?」
(ただ、問題は……)
そう私が思った瞬間、
「失礼致します!」
と、障子の向こうから高い声が聞こえた。
「おや、噂をすれば、ですね」
微笑する陸奥さんを放っておいて、私は慌てて障子を開ける。そこには、3人分のお茶を載せたお盆を持つ千夏さんがいた。
「ああ、千夏さん、ありがとうございます。私がお茶を淹れに行こうと思っていたのに……」
私は千夏さんに頭を下げた。陸奥さんは私のお客様だ。だから私がお茶を淹れなければいけないのに、千夏さんの手を煩わせてしまった。
すると、
「み、宮さまがお茶を?!」
千夏さんは銀縁の眼鏡の奥の目を、これ以上無いほど真ん丸くした。
「そんなこと、宮さまにさせられません!」
「いや、させられませんって、陸奥さんは私のお客様だから、私がお茶を淹れないと……」
千夏さんをたしなめようとすると、
「な、なんと素晴らしい……」
彼女の目に、また涙が浮かんだ。
「宮さまが、こんなにお優しいお方だなんて……。千夏、宮さまのお側に仕えることが出来て、とても幸せです!」
「あの、千夏さん?千夏さーん?」
上気した顔の千夏さんに、とりあえず呼び掛けてみたけれど、
「千夏と呼び捨てにしてください、宮さま!」
彼女は私の話を聞いているのかいないのか、こんな返答をした。
「お優しいとか……なにをバカなことを言ってるんだか。お客様にお茶を淹れて出すのは当然の……」
すると、
「何が“バカなこと”なのですか!」
千夏さんが目を怒らせた。
(しまった……!)
「仮にも内親王でいらっしゃる宮さまが、家事をなさるということだけでも、大変にお優しく、おそれ多いことなのですよ!バカなことでは、絶対にありません!」
千夏さんは、言葉をどんどん私に叩きつける。こんなに自分を肯定したり、褒め称えたりする言葉を聞いてしまうと、自分が自分でなくなってしまいそうだ。
「お、大山さん、助けて……」
我が臣下に助けを求めると、
「よろしいですよ」
と大山さんが頷いた。
(あ、助かっ……)
ホッとした次の瞬間、
「千夏どのが言うのは当然のこと。増宮さまは、お優しいお心をお持ちの、才色兼備の内親王殿下です」
非常に有能で経験豊富な我が臣下は、微笑みながらこう言った。
「ちょっと……、何でっ?!助けてくれるんじゃなかったの、大山さん?!」
「おや、“助けよ”と仰せられたので、修業を助けよという意味かと」
顔を真っ赤にした私の抗議に、大山さんはこう嘯いた。「ご自身のお持ちの性質と力とを、正しく認識していただく。今の増宮さまには、そのようなご教育が必要ですから」
「い、いや、そんなっ……」
「では千夏どの、お優しくて美しい内親王殿下に、お茶を出して差し上げなさい」
我が別当の声に、
「はいです!」
千夏さんは軽く胸を張った。身体に近付けたお盆に胸が軽くぶつかり、茶托同士が微かに音を立てる。
「あの、千夏さん?“はいです”っていうのは、文法としてどうなの?!」
慌てる私のツッコミを物ともせず、
「宮さま、お茶をどうぞ!千夏、お優しい宮さまと、宮さまのお客様のために、心を込めてお茶を淹れました!」
千夏さんは満面の笑顔で、私と陸奥さんの前にお茶を出す。
「いや、だからあああああっ!」
頭を抱えた私の上に、
「なるほど、確かに彼女は、殿下の女官として最適かもしれません」
陸奥さんの忍び笑いが漏れたのであった。
※念のためお断りしますが、榎戸ハル・千夏母子については、実際に存在していない、完全に架空の存在です。




