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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第25章 1899(明治32)年立秋~1900(明治33)年穀雨
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閑話 1900(明治33)年穀雨:国軍官房長の憂鬱

「何をしにいらしたんですか!」

 愛しい(ひと)が叫んだのと同時に、室内に銃声が轟いた。

 硝煙の臭いを感じる(いとま)も無く、身体を衝撃が貫いて、意識が急速に崩れていく。床に倒れ込む刹那、網膜に映ったのは、自分に向かって銃を構える何人かの陸軍軍人、そして、自分を庇おうとして、軍人たちの前に立ち塞がる愛しい(ひと)だった。

(ダメだ、お前まで死んでは……)

 止めたい。しかし止めようにも、もう動くことも、声を出すこともままならない。


(はる……こ……)


 そこで意識は、一切の無に還る……。

 そのはずだった。



 △△△



 1900(明治33)年4月21日土曜日正午、東京・麹町区永田町にある、国軍省の大臣室。

「という訳で、来月から、参謀本部長をよろしくな、斎藤」

 国軍大臣官房長の斎藤実海兵大佐の左肩をポンと叩いたのは、現在の参謀本部長・児玉源太郎歩兵少将だった。

「……はい?」

 目をパチクリさせた斎藤大佐に、

「そう驚くことではないだろうが」

笑いかけたのは、山本権兵衛国軍次官である。「源太郎がウィーンに行っていた時の事務取扱も、お前はしっかりこなしていた。この人事は、実力を見ての結果だよ」

「しかし、次官閣下、我が軍には、桂閣下など、数多の人材がおります。そんな中、一大佐にしか過ぎぬ身が、参謀本部長などという大役を務めていいのでしょうか?」

「いいのだ。むしろ一大佐ゆえいいのだ」

 斎藤官房長の質問に、山本次官は自信ありげに頷いた。「実力がある者は、階級にとらわれず取り立てる。それが(おい)のやり方だ。なぁに、階級など、実力の後からついてくる」

「は、はぁ……」

 戸惑う斎藤官房長は、

「しかし、児玉閣下が東宮武官長になられるとして、大山閣下はいかがなさるのですか?児玉閣下が院の仕事を引き継がれましたら、大山閣下は宮内大臣あたりに転出されるのでしょうか」

と、児玉参謀本部長と山本次官に尋ねた。“院”というのは、現在の東宮武官長・大山巌歩兵大将が総裁を務める諜報機関、中央情報院のことである。

 すると、

「ああ、大山閣下は、青山御殿の別当になられる」

児玉参謀本部長がさらっと答えた。

「は……?!べ、別当……?!」

 斎藤官房長は目をまん丸くした。

「もちろん、院の仕事は続けられる。俺も東京にいる時は、そちらを手伝うし……」

「い、いや、そういう問題ではないでしょう、児玉閣下!」

 斎藤官房長は思わず叫んだ。

「大山閣下が東宮武官長になられた時にも、国軍には大きな衝撃が走りました。その方が、今度は御殿の別当という、余りにも軽い役職……他の大将方は、全員今は大臣をされているのに、これでは大山閣下が……」

「言っておくが斎藤、この人事は、大山閣下が自ら望んでのことだ」

 山本次官が、斎藤官房長に苦笑いを向ける。「(おい)も、もう少し上の役職の方がよいのではないかと大山閣下に申し上げたのだが、頑として拒否された。まぁ、青山御殿の別当ならば、院の面倒はしっかり見られるだろうから、それは安心ではあるのだが……」

「それならば、俺ではなく、大山閣下に参謀本部長をやっていただければよろしいのではないでしょうか。一大佐に過ぎない人間ではなく、大将が参謀本部長になれば、皆も納得する人事となりますが……」

 斎藤官房長は、すがるように部屋の奥を見た。そこには、大山大将の従弟でもある西郷従道国軍大臣が、ニコニコしながら座っている。

「西郷閣下、閣下からも、参謀本部長への就任を、大山閣下に要請していただいてもよろしいでしょうか?」

「嫌じゃ」

 官房長の頼みに、西郷国軍大臣は笑みを崩さず、即座に返答した。

「お前にしかできないものを、どうして弥助どんに頼まないといけないんじゃ?」

「しかしっ!」

 反論しようとした斎藤官房長の肩を、児玉参謀本部長がまたポンと叩く。

「まぁ、頼むよ、斎藤。引継ぎは、今度の清との演習が終わったらする」

 児玉参謀長の人懐っこい笑顔を向けられた齋藤官房長は、口を渋々閉じざるを得なくなったのである。


 午後2時。

「参ったな……」

(俺が、参謀本部長か……)

 国軍省から程近い、行きつけの蕎麦屋を出た斎藤官房長は、大きなため息をついた。自宅に向かって歩を進めながら、斎藤官房長は今までのことを振り返っていた。

 奥州の地で生まれた彼は、近所に住んでいた幼馴染みの後藤新平と切磋琢磨しながら成長し、1873(明治6)年に海軍兵学寮、今でいう海兵士官学校に入学した。卒業後はもちろん、海軍士官としての道を歩み、順調に実績を重ねていた。

 そんな彼の身に、奇妙なことが起こったのは、1884(明治17)年、彼が駐米武官の辞令を受け、任地のワシントンに向かっている時だった。サンフランシスコから列車に乗ってアメリカ大陸を横断中、乗った列車が貨物列車に衝突されて横転し、寝台に閉じ込められてしまったのである。破壊された部材の下敷きになり、段々意識が薄れていく中、突然、老年となった自分が殺される情景が、意識の中に入り込んで来た。その自分は、海軍大臣を何度か務めた後、朝鮮の総督、次いで総理大臣となり、殺された時は内大臣を務めていた。困惑しているうちに、部材が取り除けられて救助されたが、流れ込んだ記憶は、斎藤官房長の脳裏にしっかりと刻まれた。そして、ワシントンに着任してからの情勢は、流れ込んだ彼の記憶と寸分も違わずに進んでいった。余りの不気味さに、誰にも相談することが出来なかったが、几帳面な斎藤官房長は、流れ込んだ記憶の内容を、思い出せる限り詳細にノートに記した。

 駐米武官の任期を終えた斎藤官房長が帰国を命じられたのは、1888(明治21)年の秋だった。帰国した彼を待っていたのは、陸軍と海軍に分かれていた日本の軍隊を、翌年の紀元節までに“国軍”として一体化させるという、驚愕の計画だった。あの事故の時、脳裏に流れ込んだ記憶にはない内容である。果たして上手く行くのだろうかと心配していたら、当時の桂陸軍次官が奮闘し、見事に難題を解決した。更に、1889(明治22)年の紀元節の日に発布された憲法の内容は、記憶の内容とは異なった。近隣諸国との外交方針も転換した結果、日清戦争は起こらず、治外法権も1894(明治27)年の12月に撤廃された。1891(明治24)年5月の大津事件も、起こったには起こったが、対処の仕方も結果も、流れ込んだ記憶とは別物になった。犯人の津田三蔵の名前が、事件発生前にはいくら頑張っても思い出せなかったのが痛恨事ではあるが……。

 そして、医学は、流れ込んだ記憶のそれよりも、はるかに進歩している。レントゲン……ではない、エックス線写真や血圧、そして、医科学研究所の北里博士と東京帝国大学の緒方教授により発見されたペスト菌、昨年東京帝国大学の近藤教授により発表されたABO式血液型など、日本人が成した発見が明らかに多いし、薬の種類や病気の治療も進んでいた。

 その進んだ医学により起こったのが、陸奥宗光男爵の活躍である。彼には、アメリカに滞在していた時世話になったが、その時既に結核にかかっていた。流れ込んだ記憶では、日清戦争の直後、1897(明治30)年の夏に、陸奥男爵は結核を悪化させて亡くなったのだが、実際には、薬剤の投与により結核を完治させた陸奥男爵は、外務大臣を辞任した今も、立憲自由党総裁として活躍している。流れ込んだ記憶の中では、自分が殺された1936(昭和11)年にも、結核は不治の病であったのに、である。そう言えば、脚気の原因がビタミン欠乏であると結論が出されたのも、流れ込んだ記憶の中では関東大震災の前後だったような気がするが、既にその結論が出ていて、国軍の兵食の主食が、全て麦飯に切り替わったことにも驚いた。

 流れ込んだ記憶とは全く違うことが次々と起こり、斎藤官房長は一つの結論に達した。あれは夢なのだ。現実と似通ったところはあるが、一つの夢なのだ、と。

 しかし、夢の経験であっても、参考にすべきところはたくさんある。それを咀嚼して、一つ一つ現実に当て嵌めて考えていくと、不思議と状況がよく見えた。それを上司たちに提言していたら、児玉参謀本部長と山本次官の目に留まり、中央に抜擢された。そこで、夢の同じ時点では、まだ話すら出ていなかった自動車や飛行機……今は考案者の二宮(にのみや)忠八(ちゅうはち)中尉の原案通り“飛行器”と呼んでいるけれど、それら、夢の中でも出ていた兵器の萌芽を発見し、それを早く実現させるために、夢では存在していなかった産業技術研究所に研究を依頼した。結果、夢よりも数年早く、飛行器は空を飛んだ。飛行器や自動車に使うエンジンの馬力も上がってきており、時速30から50km程度で走れる自動車を、現在国軍で内々に試作中である。

(ただ、もし、夢と同じように、ロシアと戦争になって勝ったら、軍はしっかり引き締めなければ)

 斎藤官房長はそう思う。あれで軍隊の中に驕りが生じ、軍隊を抑えていた元老たちが亡くなった結果、タガが外れた軍人たちの野望が制御できなくなった。それが満州事変の遠因になってしまったのではないかと思う。もし、あの夢の世界が続いてしまったら、日本はやがて、中国大陸での戦線を拡大させただろう。そうなれば、必ずイギリスやアメリカなどの介入を招き、それに反発した日本が、ヒトラーやムッソリーニなどと軍事同盟を結び、更なる戦争に突入するという可能性もある。

 もっとも、今は憲法で、総理大臣が国軍の指揮権を持つことが明記されているし、国軍の予算や軍備、人事も、総理大臣の管理下に置かれているから、軍が暴走する危険は少ない。しかも、夢では存在しなかった中央情報院が暗躍している結果、日清戦争はもちろん、米西戦争までもが発生していない。義和団事件が起こる気配もないから、日露戦争が、そして、世界大戦が、夢と同じように起こるのか起こらないのか、全く読めない。特に、世界大戦が起こるか否か、そのカギを握るのが、ドイツの皇帝(カイザー)・ヴィルヘルム2世の動向なのだが……。

(なぜ皇帝(カイザー)は、増宮殿下に、あのように愛着を感じているのだ?!)

 どうしてもそれが、斎藤官房長には理解出来なかった。

 増宮章子内親王。今上の第4皇女だが、姉宮たちの相次ぐ死去により、実質的には長女になる。夢の中でも、確かに増宮内親王はいらっしゃったが、1歳にならないうちに薨去された。しかし、彼女は現実には健やかに成長し、17歳となられた今、武芸にも優れた才色兼備の内親王として国民の人気を集めている。“増宮殿下御用”と銘打たれ、数年前から売り出された無鉛白粉は爆発的に売れ、海外からの需要もある。また、最近では、彼女を主人公のモデルにしたと思しき“明治牛若伝”という小説が雑誌に連載され、そちらも大好評を博しているそうだ。

 しかし、増宮内親王を巡って、余計な騒動が起こるのも事実で、イタリアのトリノ伯は彼女に求婚して、文字通り彼女に返り討ちに遭った。その結果、オーストリア・ロシア・ドイツが、なぜかイタリアに攻め入ろうとする気配を見せた。イタリア国王が、一連の騒動の詫びの印として日本に駆逐艦を贈ると聞いた時には、開いた口がふさがらなかった。今、その駆逐艦――増宮内親王により、“迅雷(じんらい)”と名付けられたけれど――は、造船所のあるドイツを出発し、日本に向かって回航されているところだ。

 その後も、ロシアのニコライ2世と、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公、更にはギリシャのゲオルギオス王子が、増宮内親王との婚約に動くという一幕があり、彼女自身が“医師免許を取るまでは結婚を考えない”と宣言して、ようやく騒ぎが落ち着いた。……よく考えれば、皇族が医師免許を取ろうとするのも、常識から余りにもかけ離れているのだが、増宮内親王は本気のようで、医術開業試験突破に向けて勉強を始めたと聞いた。

(それに、外国だけではない。天皇陛下も、お子様方に対する態度が変わられて、増宮殿下だけではなく、他のお子様方も可愛がるようになった。夢の中では、お子様方への愛情を、滅多にお示しにならなかったからな……。しかし、元老の方々が増宮殿下に夢中なのは、一体どういうことなのか……。新平など、増宮殿下を神のごとく崇めているし……)

 大きなため息を再びつきそうになった斎藤官房長の足が止まった。麻布区の自宅に帰り着いたのだ。玄関をくぐると、奥から軽い足音が響いて、華奢な可愛らしい女性が玄関に現れる。妻の春子である。夢でも、この(ひと)と結婚していた。それは違わないで欲しいと願っていたら、首尾よく射止めることができたのだ。

「あなた、どうされました?」

 官房長より15歳年下の妻は、首を傾げて夫に尋ねた。その仕草は、8年前に結婚した時から変わらず可愛らしい。

「ああ、何でもないよ」

 斎藤官房長は、愛妻に微笑してみせた。とてつもなく美しい内親王のことを考えていたとはおくびにも出さない。どんなに美しい女性が自分の前に現れようと、自分の大切な愛しい女性は、この春子だけなのだ。流れ込んだ記憶が夢なのか、それとも今ここに流れている時間が夢なのか……それは分からないけれど、同じ夢なら、下らなくとも、平和で、この愛しい(ひと)が笑顔でいてくれる夢の方がいい。そう思う。

「晩酌はなさるでしょう?」

「ああ、もちろんだ」

 アメリカにいたころ、己を鍛えようと考えて、毎日ビールを瓶で1ダースは飲んでいた。それで養った体力は、夢でも自分を大いに助けてくれた。夢の中では、老齢に差し掛かり、腎臓結石にかかった後、医者に酒を止められたけれど、若い今なら、存分に酒が飲める。

「そうだな、今日は、酒を3升ぐらい飲もうか。頼むよ」

 飲むなら、今しかない。

 斎藤官房長は、満面の笑みで妻にリクエストしたのだった。

「強くてニューゲーム」が出来なかった人がまた一人……!



以下、ちょっと補足です。

※冒頭のシーンは「斎藤実追想録」を参照しています。

※血液型の発見は実際には1900(明治33)年、オーストリアでなされたものです。

※自動車の時速については、1900(明治33)年6月にヨーロッパで行われたゴードン・ベネット・カップでの優勝者平均速度が時速62kmだったそうで、それを参考にして盛って書きました。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 病気になった記憶が甦ったなら! 禁酒しようよ! これだから!!!
[良い点] この斎藤さんは良いですね。自分自身にすら囚われない柔軟さ(原君、、)この様子だと答え合わせするまで誰も気づかなそう [一言] さすがに参謀本部長が佐官級はまずいですね。軍は階級で指令系統…
[一言] 多分、梨花会に入ったら速攻で禁酒させられるので斎藤さんの酒三昧期間は史実より大幅に短くなりそうですね…w しかしこの後まだ増えるんでしょうか?逆行転生者…。
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