ヴァルデマー殿下の来訪(1)
1900(明治33)年2月3日土曜日、午後2時。
「増宮さまには、開校資金を出していただき、誠にありがとうございました……」
花御殿の私の居間で、私に向かって深々と頭を下げたのは、高山歯科医学院の講師……ではなかった、今月1日に開校した東京歯科医学院の院長である、血脇守之助先生である。
実は、血脇先生が講師として勤務していた高山歯科医学院の経営状態は余り良くなく、経営者だった高山紀齋先生は、状況の打開策として、昨年末、血脇先生に医学院の経営権を譲った。とはいえ、経営権を譲られた血脇先生にも、経営状態をよくする妙手がある訳ではない。そんな状況の中で、今年のお正月に私の所にあいさつにやって来た彼は、
――この度、高山歯科医学院を継承することになりまして……。
と言った後、少し眉を曇らせた。「それはすごいですね」などと、話を合わせておいたのだけれど、どうも気になり、大山さんに調べてもらったら、開校資金が足りないという事情が判明したのだ。総額で200円ほどあれば足りるというので、大山さんと伊藤さん、厚生大臣の原さんに相談した上、私が開校資金を出すことにした。
「血脇先生、気にしないでください。歯科医学の発展も大事ですから」
私は血脇先生に微笑を向けた。「やっぱり、将来は専門学校にすることを目指しているんですか?」
「はい、それは是非、と思っています。欧米の歯科大学にも負けない学校を作りたいです」
血脇先生は目をキラキラさせながら答えた。
「是非頑張ってください、血脇先生。12日の開校式には、何とかして伺いたいと思います」
三浦先生も穏やかにほほ笑みながら言った。
「ところで、以前、土曜日のこの時間には、ベルツ先生や北里先生も花御殿にいらっしゃると聞いたのですが……」
血脇先生は、私の居間を見渡しながら尋ねた。彼の言う通り、この居間には、私と彼の他には、大山さんと三浦先生、そして森先生しかいない。
「北里君は、今、昨年のペスト発生についての報告をまとめている所で、今日は来られないということでした」
森先生が言った。昨年11月に神戸と大阪で発生したペストは、防疫策が功を奏したか、“史実”の半分ほどの規模で収まり、12月下旬を最後に、新規の罹患者の発生はなくなった。
「ベルツ先生は、今日は所用で来られないということで……」
血脇先生に、三浦先生はこう答えた。
実は、“所用”の内容を私は知っている。ベルツ先生は今、お父様の実母、つまり、私の実の祖母である二位局の往診に行っているのだ。先月の半ば、二位局は重篤な肺炎にかかったのだけれど、ベルツ先生が治療に当たった結果、状態は改善した。肺炎の原因菌が、ペニシリンに効くタイプだったのが幸いしたようだ。
「そうでしたか。……可能であれば、お2人に、12日の開校式にいらしていただきたいと、この席で頼もうと思っていたのですが」
「血脇先生、私が確認しておきますよ。明後日には、2人に会えるでしょうから」
残念そうにため息をつく血脇先生に、三浦先生が申し出ると、
「それはありがたいです、三浦先生」
血脇先生は深々と頭を下げた。
「ところで、増宮さま、来月に日本にいらっしゃる、デンマークのヴァルデマー殿下とお会いになるというのは本当ですか?」
「そう、来月の10日の午後に、花御殿にいらっしゃるそうです。本当は、勉強の邪魔になるから、会いたくないんですけどね」
森先生の質問に、私は苦笑しながら返答した。
デンマークの国王・クリスチャン9世陛下の三男であるヴァルデマー殿下は、3月5日から、約1週間の予定で東京に滞在する。その滞在の期間中に、彼は私に面会することを希望した。デンマーク側は“毎日でも会いたい”と言ってきたけれど、学校の授業もあるし、医術開業試験の勉強もあるのに、ヴァルデマー殿下の相手を毎日する余裕はない。交渉の結果、3月10日土曜日の午後に、30分だけ面会することになった。デンマーク側との交渉に当たった外務次官の小村寿太郎さんが、伊藤さんを通じて、“何とかヴァルデマー殿下と2回面会してもらえないか”と頼み込んできたけれど、
――梨花さま。ここは小村には構わず、要求を押し通すべきです。
――ええ。彼にとっては、いい修業の機会になりましょうから。
などと大山さんと陸奥さんに言われ、“会うのは土曜日の午後の30分だけ”という条件を撤回せずに頑張ったのだ。……ヴァルデマー殿下が東京を去ったら、小村さんには、迷惑料として、何かをあげる方がいいかもしれない。後で伊藤さんと大山さんに相談しておこう。
「勉強と言えば、医術開業試験の試験勉強はいかがですか?」
三浦先生が私に尋ねると、
「な、なんと!」
血脇先生が目を丸くした。「確かに、初めてお会いした時に、“医師を目指している”とおっしゃっておられましたが、……てっきり、高等学校の医学部に進学されるものかと思い込んでおりました」
「そのつもりだったんですけれど、ちょっと色々あって」
私は曖昧な微笑を顔に浮かべ、
「この春じゃなくて、この秋の受験を目標にしておいてよかったなぁと思います」
と言いながら、三浦先生の方を見た。
「特に生理学が、何をどこまで答えたらいいか、さじ加減が分からないんです」
例えば、“膵臓の機能について説明しろ”という問題があるとする。未来の知識を持っている私は、膵臓には、消化酵素を含む膵液を十二指腸に流し込み、食物の消化を助ける役割と、インスリンやグルカゴンなどのホルモンを血液中に分泌して、血糖値を調整する役割があると知っている。けれど、インスリンは、京都帝国大学のチームが、去年犬の膵臓から抽出に成功したけれど、グルカゴンはまだ発見されていないのだ。だから、回答にグルカゴンのことを書いてしまったら、採点する先生は間違いなく、“こんなものはない”と言って減点するだろう。そういうことがあるので、今は、この時代の知識のレベルがどの程度なのか、改めて確認をしているところだ。
「なるほど、おっしゃりたいことはよくわかります。私もお手伝いしましょう」
三浦先生がクスリと笑う。森先生も苦笑いを浮かべた。
「それよりも、間近に迫った苦難のことですよ。どうやって、ヴァルデマー殿下に、私を残念な女と思わせるか」
ため息をつくと、
「ちょっと待ってください」
「残念な女、とはなんですか!」
「そうです、増宮さまより美しい女性は、この世にいませんよ!」
三浦先生も森先生も血脇先生も、一斉に私にツッコミを入れた。
「美しいと言っていただけるのはありがたいんですけど……でも、ヴァルデマー殿下、私を甥御さんに嫁がせるかどうかを検討するために、私に会いたいそうなんです」
「ヴァルデマー殿下の甥御に嫁がせる……となると、当然、増宮さまは外国に行くことになりますか」
森先生は私に答えると、
「それはいけません。増宮さまを、外国に渡してなるものか!」
右こぶしを固めて立ち上がった。
「そうです。私と野口くんにとって、いや、日本の医学と歯学にとって、増宮さまは恩人です。それを失ってなるものですか!」
血脇先生も顔をひきつらせる。
「大山閣下、何とかならないでしょうか。増宮さまに、日本を離れていただきたくはありません」
三浦先生の表情からは、普段の穏やかさが消えていた。
「それは大丈夫ですよ。増宮さまが、医師になるつもりで様々な準備を始めている、と正面からきちんと殿下におっしゃれば解決することですから」
大山さんが一同に向かって微笑する。今日は、私の前世のことを知らない血脇先生がいるので、珍しく、私のことを“増宮さま”と呼んでいる。
「ですから、増宮さまがご自身を傷付ける必要はありません」
急に大山さんが私を見たので、私はドキリとした。隣に、大山さんの微笑みがある。私の心を全て見通している優しくて暖かい瞳が、私の目を捕らえて離さなかった。
「な、何よ、大山さん。私、そんなこと考えてない」
私は慌てて答えた。「そんなことをしなくたって、小さいころからの、男どもを怯えさせた数々の凶暴なエピソードを、おどろおどろしい脚色を加えて分かりやすく説明すれば……あ」
大山さんが私の右手をしっかりつかんだので、私の舌の回転が止まってしまった。
「いけません」
大山さんが優しい声で言った。「どうやら、ご教育が必要なようですね」
「……勘弁してくれないかな、大山さん。私、試験勉強がしたいんだけど」
「試験勉強よりも大事なことでございます。己を客観的に捉えていただく訓練をすることは」
考えられる最強の逃げ口上を、我が臣下に正面から封じられてしまった私は、口を閉ざさざるを得なかった。
「それは是非」
「ええ、ええ」
助けを求めようとした矢先、森先生も三浦先生もこう言った。どうやら、私の逃げ道は完全にふさがれてしまったらしい。観念した私は、大きなため息をついたのだった。
※血脇先生の東京歯科医学院開校前後の事情は、東京歯科大学のホームページを参照しました。
※実際にはこの年の1月15日に、二位局は従一位に叙されています。恐らくこの世界線でも同様に従一位になっていると思われるので、正確に言えば“一位局”になりますが、煩雑になりそうだったので、今回は触れていません。
※インスリンも、作中で京都帝大に投げて数年経ちましたので、流石にそろそろと思い伏線回収しました。インスリンが実際に発見されたのは1920年のことです。膵臓から分泌されるホルモンは他にもありますが、ここでは省略します。




