“あきらめないっ!”(1)
1899(明治32)年12月9日土曜日、午後2時。
「梨花、額に皺が寄っているぞ」
皇居の車寄せから、梨花会が行われる会議室に向かって歩く途中、右隣を歩く兄が、私の顔を心配そうに覗き込んだ。
「ああ、兄上」
私はしかめっ面のまま、兄の方を振り向いた。
「心配でしょうがないの。ペストの件が」
先月の12日、神戸市で、ペストによる死者が3人出たことが確認された。医科研の北里先生と志賀先生、東京帝大の緒方先生が現地に急行し、ペスト患者が発生したエリアの消毒や防疫を指揮した。また、翌日の13日から、神戸からの船舶は必ず検疫するように義務付けられ、神戸から来た列車や、神戸に通じる道路でも検疫を行っていた。
その努力にもかかわらず、その1週間後の先月の20日に、大阪でもペストによる死者が出てしまった。もちろん、大阪のペストの発生エリアでも、同様の処置を取っている。
「伊藤さんの話だと、“史実”よりは、被害を抑えられているみたいだけど、ペストがまた別の場所で発生しちゃったらどうしよう……。何年も前から、全国のネズミは、1匹3銭5厘で買い上げて殺処分していたのに、まだ足りないのかな。ああ、ネズミ……日本中のネズミを殺し尽くさないと……」
ぶつぶつ呟いていると、
「お前が言うと、ペストを撲滅したいのだと分かるが……他の者が言うと、別の意味に聞こえてしまうな、今の台詞は」
兄が苦笑した。
「どういうこと?」
「例えば、武官長が同じ台詞を言ったと想像してみろ」
兄の言う通り、私は「ネズミは殺し尽くさねば……」と呟く我が有能な臣下の姿を脳裏に思い浮かべた。
「……別のネズミが死にそうだね」
「軍刀を床に突き刺した瞬間、床下から断末魔の呻き声が聞こえるかもしれん」
「確かに、防諜と言う意味では、そのネズミも日本からいなくなってほしいな」
兄と言い合っていると、いつの間にか、会議室の前に到着していた。
会議室の中には、既に梨花会の全員と、お父様とお母様が顔を揃えていた。なぜかみんな、顔が強張っている。お父様とお母様に一礼して中に入り、指定の席に移動した。
「あの……何かあったんですか?」
もしかしたら、緊急事態が発生したのかもしれない。そう思って私は一同に問いかけてみたけれど、返事は無かった。
「も、もしかして、ペストの発生地域が広がった?」
最悪のシナリオを頭に描きながら質問すると、
「違います。増宮殿下、落ち着いてください」
厚生大臣の原さんがため息をついた。
「よ、よかった。皆、すごい顔をしてたから……」
私がほっと息をつくと、
「原君、なぜそんなに冷静でいられるのだ」
内務大臣の黒田さんが眉をしかめた。
「さよう。この危機、我々とて、冷静ではいられないのだ」
松方大蔵大臣が重々しく同意する。
「危機?一体何が起こったのですか、お父様。清が同盟を破棄するとでも言って来たのですか?」
兄の質問に、
「違います」
お父様の代わりに答えたのは伊藤さんだった。
「え、じゃあ、何が起こったんですか?」
伊藤さんに私が質問すると、
「それでは、申し上げます」
顔を真っ青にした山縣さんが答えた。
「ヨーロッパからの情報によりますと、オーストリアのフランツ・フェルディナント殿下と、ロシアの皇帝のニコライ陛下が、増宮殿下との婚約を狙って動き始めたと……」
「こ……こん、やく?」
(はああああああ?!)
私は、顎が外れてしまうかと思うほど、口をあんぐりと開けてしまった。
「お父様、確認させてください」
硬い声を上座に向かって投げたのは、兄だった。
「確か、フランツ・フェルディナント殿下も、ニコライ陛下も、配偶者がいなかったように記憶していますが、ドイツの皇帝の時のように、それぞれの国の別の皇族に梨花を嫁がせようとしている、という訳ではないのですね?」
「ああ。残念ながら、な」
お父様は両腕を組んで、大きなため息をついた。
「ええと……2人とも、私と何歳差だっけ?」
私は一同に、首を傾げながら問いかけた。ニコライ陛下には、8年前の大津事件の時に、フランツ・フェルディナント殿下には、6年前に顔を合わせている。けれど、2人とも、あの時には既に成人していたはずだ。
すると、
「フランツ・フェルディナント殿下は20歳、ニコライ陛下は15歳、梨花さまより年上です」
私の隣に座っている大山さんが答えてくれた。
(ちょ、ちょっと待って……)
確かに、大山さんと奥さんの捨松さんの年の差は18歳あるし、母方の叔父・千種有梁さんも、18歳年下の奥さんをもらっている。だから、分からなくはないのだけれど……。
「あ、あの、あれから全然確認してなかったんだけど、ドイツのヴィルヘルム皇太子との婚約の件は、完全に無くなったってことでいいんですよね?」
「ええ、そちらは大丈夫です」
児玉さんが頷いた。「ハインリヒ親王殿下が、増宮さまのお返事を皇帝に伝えた結果、“それならばあきらめざるを得ない。忘れがたき初恋の君とは……なんと麗しい恋なのだ”と皇帝が号泣されたそうです」
(相変わらず、皇帝は訳が分かんない奴だなぁ……)
私の所に変な絵を送り付けたり、自分の息子と私との婚約を申し出てみたり……。とりあえず、ヴィルヘルム2世はおとなしくしていて欲しい。切実にそう思う。
「だけど、今度は、フランツ殿下とニコライ陛下が、私と婚約しようなんて馬鹿なことを考え始めた訳か……」
私はため息をつくと、
「フランツ殿下は皇位継承者、ニコライ陛下は皇帝だから、ヴィルヘルム皇太子の時の話と同じように、結婚したら、私が日本を離れないといけなくなります」
梨花会の面々に向かって話し始めた。
「そうすると、私はお父様と兄上を守れなくなってしまうから、その2人と結婚するという選択肢は、私にはありません。もっと言うと、フランツ殿下は、“史実”のサラエボ事件で夫婦ともども殺されたはずだし、ニコライ陛下も、ロシア革命の直後に殺されたはず。……“史実”の通りに歴史が動くかどうかは分からないから、この時の流れでは起きないかもしれませんけれど、それとは別に、複雑な利害と同盟関係が絡み合っているヨーロッパに私が嫁いでしまえば、日本が余計な戦争に巻き込まれてしまう可能性が高いです。だから、フランツ殿下とも、ニコライ陛下とも、私は結婚したくないです」
「冷静なご判断です」
大山さんが私に頭を下げる。
「ありがとう。でも、後半は、ヴィルヘルム皇太子の時に、斎藤さんが言っていたことの受け売りだし、それに……」
私は口を閉じた。今、この場で言うべきことではないと思う。2人とも、ドイツとは関係はないのに、婚約すると考えてしまうと……。
(殿下、許してくれるのかな……。殿下とあのまま、結婚出来ればよかったのに……)
「増宮さまの仰せはごもっとも、なんだが……それをそのまま返したら、フランツ殿下もニコライ陛下も納得しねぇだろうな。“史実”のことを知らねぇんだから」
勝先生が顔に苦笑いを浮かべる。「ヴィルヘルム皇太子の時は、増宮さまの率直なお気持ちを伝えたら向こうも納得したけど、この2人の場合、そうもいかねぇだろ?」
「それは否定できませんね、勝先生。“初恋の男など、俺が忘れさせてやる”ぐらいのことは言って来る可能性がある」
井上さんが、ムスッとした表情で返した。
「あ、あの、大山さん?きゅ、……求婚って、そんな風にやるものなの?」
顔を真っ赤にしながら、こっそり大山さんに尋ねると、
「梨花さま、勘違いなさらないでください。あくまで、それで上手くいく場合もある、ということです」
彼はクスリと笑って、私の頭を撫でた。
「ただし、今回は、増宮さまが医者を目指しておられる、という理由が通用する可能性が大いにあります」
伊藤さんが私を見た。「フランツ殿下が、公使を通じて婚約を正式に打診してこないのは、オーストリアの皇帝陛下と皇后陛下が、フランツ殿下には、皇帝家の分家の女性を娶ってほしいと考えておられて、フランツ殿下と対立しているからです。そして、皇帝陛下と皇后陛下は、結婚に関しては保守的な考えをお持ちでして……」
「つまり、私が医者になることを本気で目指しているということが分かったら、“この進歩した女とは結婚させない”と、オーストリアの皇帝陛下と皇后陛下が態度を硬化させる、ということですね」
私が言うと、伊藤さんは「おっしゃる通り」と答えて、ため息をついた。
「ニコライ陛下の方も、お母上のマリア皇太后陛下が、増宮さまとの婚約に反対されていて、説得に苦労されているそうです。増宮さまのご志望を、結婚に対してやはり保守的な考え方をお持ちのマリア皇太后陛下が知らされれば、皇太后陛下は更に態度を硬化させます。ニコライ陛下は普段、お母上には逆らえないそうですから、間違いなく、我が国に求婚はしてこないでしょう」
「……残念な理由ではあるけれど、今はそれを利用させてもらうしかないですね、伊藤さん」
女は男より一歩下がった位置にいて、男に従え。手に職を持って、自立するなどありえない。日本だけではなくて、世界でもそれが普通の感覚なのだろう。
と、
「しかし、俊輔、それだけで足りるだろうか」
山縣さんが、眉をしかめながら伊藤さんに声を掛けた。
「狂介、どういうことだ」
「来年の3月に、デンマークのヴァルデマー殿下が来日されるのだが……」
「ああ、聞いている。しかし、ヴァルデマー殿下は、既に結婚されておられて、子供もいらっしゃるはずだ。夫婦仲もよいと聞いているが、それがどうした?」
不思議そうな顔をする伊藤さんに、
「実は、ヴァルデマー殿下が、ギリシャのゲオルギオス殿下の婚約相手として、増宮さまが相応しいかどうかを、来日中に見極めようとしている、という情報がある」
山縣さんは真剣な表情で告げた。
「ゲオルギオス殿下?あの、大津事件の時に、ニコライ陛下と一緒に日本にやって来たギリシャの王子か?しかし、ヴァルデマー殿下がなぜ、彼のために増宮さまを見極めようとするのだ?」
伊藤さんが首を傾げると、
「なるほど、そういうことですか」
末席で、陸奥さんが頷いた。「ゲオルギオス殿下のお父上は、元々デンマーク王家の出で、ヴァルデマー殿下の兄君です。甥のゲオルギオス殿下を、ヴァルデマー殿下が養育されたこともあると聞いたことがあります」
「つまり、可愛い甥に、増宮殿下を嫁として迎えさせたい、ということですか……?!」
末席の方で、桂さんが顔をひきつらせた。
「……キリがありませんな。このままでは、増宮さまへの求婚が止まりません。しかも、我が国に増宮さまの婿を送り込むのではなく、増宮さまに嫁に来て欲しい、という求婚が」
山本さんがため息をついた。
(医師免許が取れたら……私が、“進歩している女だ”と、世界にアピールが出来たら、縁談を持ち込まれることもなくなるのかな)
議論を聞きながら、ふと、そんな考えが頭を過ぎった。
もし、本当にそうなら、結婚のことも考えなくて済むから、とても気持ちが楽になる。けれど、私が華族女学校を卒業するのは、再来年の7月。そこから首尾よく、一高の医学部に合格できたとしても、4年間の学業を終えて医師免許を取るのは、明治38年の7月だ。
「医師免許を取るまで、あと6年……。それまで、梨花会の皆に、迷惑を掛け続けなきゃいけないなんて……」
すると、
「殿下、ご提案があります」
陸奥さんが、椅子から優雅に立ち上がった。
「医術開業試験……それに合格して、さっさと医師になってしまえばよろしいのです。そうすれば、進歩した女性を嫌う者たちからの求婚は止まるでしょう」
「む、陸奥どの!」
大隈さんが目を丸くした。「それでは、女子の高等学校進学、その第1号に、増宮さまがなれないということか?!」
「大隈殿。殿下がなれなくても、他の優秀な女子が第1号の進学者になれる。それは間違いないでしょう」
顔をひきつらせた大隈さんに、陸奥さんは冷静に告げた。「殿下が高等学校に進学して医師免許を取ろうとなされば、医師免許の取得は、最短でも明治38年の夏になる。しかし、医術開業試験の受験に年齢制限はありませんから、受けようと思えば、今からでも前期試験を受けられる。前期試験と後期試験の間、1年半の期間を置くことを考慮しても、明治38年より前に医師免許が取得できる可能性は十分にある……そうでしょう、原どの?」
「そ、それは確かに……」
陸奥さんに視線を投げられた原さんが、気圧されたように首を縦に振る。
(そうか、医術開業試験か……)
今まで、再来年の夏、第一高等学校の医学部に合格するための勉強をしてきた。それを、医術開業試験を受けるための勉強にシフトする……。やれなくはないだろうけれど、そもそも、医術開業試験で、どの程度のレベルの知識が問われるか、全く把握していない。
(けれど、もしそれで、より早く医者になることが出来て、結婚することを考えなくてよくなるなら……)
「梨花さま」
大山さんが私を呼んだ。「陸奥どののご提案、検討する価値はあると思います」
「大山さん……」
「梨花さまが外国で暮らすことが前提となる婚約話を遮断するには、陸奥どのの仰る方法が最善かと」
「……大山さんが言うならそうなんだろうけど、実現の可能性は、あなただけじゃ検討できないわよ」
私は大山さんに苦笑いを向けた。「経験者に話を聞いて、過去問を研究しないと。孫子曰く、“彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆うからず”でしょ?」
「その通りでございます」
児玉さんが、私に向かってうやうやしく頭を下げた。
「帰ったら、医科分科会の何人かを集めて、陸奥さんの提案がどのくらい現実味があるか、検討します。……お父様、よろしいでしょうか?」
「わかった。……そなたの思うようにやれ」
お父様は、私の目を見て頷いた。
そして、お父様の隣に座るお母様は、無言のまま、私にじっと視線を注いでいた。
※ペストの伝播については「神戸市大阪市ペスト病調査報告」を参照しました。なお、この年の流行での最初の死亡者は、台湾から門司に上陸して関東方面に向かう途中、広島で亡くなった方です。ただ、同時期の「中外医事新報」によれば、その方の職業が“台湾通訳”だったとのことで、台湾が日本領になっていない拙作の世界線上では、恐らくその方も台湾に行っていなかっただろうと判断して、発生場所は神戸と大阪のみとしました。ちなみに、実際のネズミ買い上げ価格は、東京市では1匹あたり5銭でした。




