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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第25章 1899(明治32)年立秋~1900(明治33)年穀雨
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葉山の夏

 1899(明治32)年8月12日土曜日、午後3時。

「なるほど、そういう状況であるか」

 葉山御用邸の会議室。部屋の一番上座に座ったお父様(おもうさま)に、総理大臣の山縣さんが黙って頭を垂れた。

 今日は8月の第2土曜日。定例の梨花会の日である。私と兄は、先月の25日から葉山御用邸の別邸で避暑をしている。そして、お母様(おたたさま)が先月の28日に、お父様(おもうさま)が今月の5日に御用邸の本邸に入ったので、今月の梨花会は葉山で開かれることになった。一通り、国内・海外の情勢に関する話題が終わり、今は、国内の人材の成長具合について話し合っている。

「清浦が出来るのは前から分かってたけど、尾崎も成長してきたじゃねぇか」

 勝先生がニヤリと笑うと、

「ええ、当初はあの論客が、逓信省を壊すのではないかと心配していたのも事実ですが、今では、そんな懸念を抱いたことが馬鹿らしく思えるほどです」

山縣さんは勝先生にこう答える。尾崎行雄さん……“史実”では政党政治家として知られ、東京市長としても活躍し、第一次護憲運動で先頭に立って桂内閣打倒を叫んだ人だけれど、今の山縣内閣では、成立当初から前島(まえじま)(ひそか)逓信相の下で、次官として働いている。次官になってから約1年8か月、彼は大過なく業務をこなしていた。

「鉄道の三線軌条化も、彼の指揮で順調に進んでいるようです。東海道線は三線軌条化が終了しましたし、山陽鉄道も全線三線軌条となりましたので、東京から防府まで広軌の車体が運行できます。日本鉄道も、上野から青森までの全線で、三線軌条となったと聞きました」

 黒田さんの言葉に、列席者が一斉に頷いたけれど、1人だけ、首を縦に振らない人がいた。前逓信大臣、今は文部大臣の大隈さんである。

「広軌となるのは喜ばしいが、吾輩は、新幹線が走る姿を、この目で見たいんである……」

「大隈さん、まだあきらめてなかったんですか?」

 私が呆れながら大隈さんに質問すると、

「朕もだ、大隈よ。章子の世では、時速300kmにも達そうかというその車体……乗ってみたいものだが」

上座でお父様(おもうさま)もため息をついた。

「章子、何とかならんのか」

「なりませんよ!!」

 私は思わず大きな声を出してしまった。「私の前世、鉄道の技術者じゃなくて医者ですから!」

 お父様(おもうさま)にそう返すと、お母様(おたたさま)と兄がクスクス笑った。

「しかし、おれが尾崎を推すのは、いい意味で欲が無いってところさ」

 勝先生の言葉に、

「それは一体、どういうことでしょうか?」

と兄が尋ねた。

「いや、逓信次官ともなれば、今の世相、こっちに鉄道を引いてくれ、いや、あっちに電話を開通させてくれって、いろんな奴に言われちまうんですよ。金品だの美術品だの、賄賂になりそうな品を渡されながら」

 勝先生は兄の方に身体を向けた。「ところが、尾崎の奴、そういう声に一切興味が無い。金銭にも一切興味が無くて、賄賂の類も受け取らないし、無理やり押し付けられた金品も、送った奴に全部送り返しているそうです。それで、真にこの国に必要なところを選んで、鉄道や電話の事業を始めるよう大臣に進言する。ありゃあ、なかなかできることじゃないですよ」

「なるほど……確かにそれは、なかなかできることではありません」

 7月で御学問所を卒業した兄が頷いた。

「ただ、後進の教育という意味では、林君は手こずっていそうです。特に、外務次官の小村君に関して」

 横から、山田さんが苦笑しながら言った。すると、

「ああ、僕の所に、時々林君が相談をしにやって来ますよ。“小村君は融通が利かない”と……」

前外務大臣でもある陸奥さんが、こう付け加える。

(そう言えば、“小村は馬鹿正直で、交渉の時、策を弄する人間が相手だと出し抜かれやすい”って聞いたなあ……)

 いつか、原さんと伊藤さんが私に教えてくれたことがある。ただ、“馬鹿正直”というのは、裏を返せば“誠実”ということでもある。もしかしたら、外務大臣の林さんが“融通が利かない”と言うのは、持ち味が発揮できない相手と、小村さんが交渉しているというだけかもしれない。

 と、首筋に視線を感じた。振り向くと、陸奥さんが、じっと私を見ている。

「適材適所……とも言いますが、どのような相手でも対応できるようになるのが一番よろしい。外務省の諸君の教育は、少し僕も気に掛けておきましょう」

「……だそうですよ、梨花さま」

 陸奥さんの言葉を聞いた大山さんが、私に囁きかける。私は黙って頷いた。どうやら、私の考えたことは、陸奥さんに見通されてしまったようだ。

「そう言えば、曾禰(そね)はどうなのだ?」

 上座からのお父様(おもうさま)の声に、

「目下、吾輩の下で、バリバリ働いてもらっておるところでございます」

大隈さんが胸を張る。曾禰荒助(あらすけ)さん……“史実”では、司法大臣や農商務大臣を務めたこともあり、更には日露戦争開戦時には大蔵大臣だったという、伊藤さんと原さん曰く、“とりあえず何でもできる”“器用貧乏”な人である。現在彼は、大隈さんの下で文部次官を務めていた。

「義務教育の拡充、教育機関の拡充も、ドシドシ進めていかなければなりません。中等学校卒業後に進学する専門学校の基準も、早く統一しなければ。今、我が国民は、熱心に教育を求めておりますゆえ」

 鼻息荒く大隈さんは言う。専門学校の基準を規定する“専門学校令”を、再来年には制定したいと、先ほども力説していた。自分が創立した東京専門学校のこともあるから、余計に気合が入っているのかもしれない。

「まぁ、曾禰ならば、教育行政も何とか出来るだろう。“史実”以上に力量を上げて欲しいものだ」

 伊藤さんが頷いた。

「我が党の星、松田、岡崎なども、徐々に実力をつけております。立憲改進党も、犬養君が頑張っているようです」

「党務の方は、彼と尾崎君に任せきりじゃ。よくやってくれておるよ」

 陸奥さんの言葉に、大隈さんが目を細める。大隈さんは立憲改進党の党首ではあるけれど、“東京専門学校(がっこう)のことも見なければならないから”という理由で、党内の取りまとめは、尾崎さんと犬養さんがやっていた。

「嘉仁も御学問所での学業を終えた。章子もこの9月からは、高等中等科の2年級だ。2人とも、尾崎らに負けぬよう、しっかりと励め」

 お父様(おもうさま)の威厳ある声が、上座から降って来る。私も兄も頭を垂れて、「かしこまりました」と返答した。


 午後7時半。

「はぁ、梨花会が終わったから、これで夏も、半分ぐらい終わりかぁ」

 兄と一緒に別邸に戻り、夕食をとった後、別邸の2階にある居間の長椅子に腰かけた私はため息をついた。

「そうだな」

 私のすぐ向かいの椅子に座った兄が微笑む。7月に御学問所での学業を終えた兄は、公式の用で出かける時は、学習院の制服ではなく、軍服や、モーニングコートやフロックコートなどの洋装を着るけれど、普段着は和服で通している。紺色の無地の着物をシャキッと着こなしている兄の鼻の下には、口ひげがうっすら見える。“学生ではなくなったから”という理由で、ひげを蓄え始めたのだ。

(寂しいなぁ……)

 このまま、夏が終わってしまうのが、である。来年の5月には、兄は節子さまと結婚する。兄と私、それぞれの新生活の準備も徐々に始まっていた。花御殿で兄が使っている区画は、節子さまも一緒に住めるように現在改装中で、今月の末には完成する。また、私も、来年の4月下旬には、お父様(おもうさま)嫡母(ちゃくぼ)・英照皇太后陛下が使っていた青山御所に転居することになっていた。だから、この夏が、兄と2人一緒に過ごせる最後の夏なのだ。

 と、

「去年までは、皆と一緒に沼津で過ごしていたからな。あれはあれで楽しかったが、お前もいたらいいのにと思っていた」

兄が言った。

「兄上がよくても、ご学友の皆がよくなかったと思うよ。平和が破られるから」

 私がこう返すと、

「俺の愛しい妹に怯えるとは、どういう料簡をしているのだと、何度も問い詰めたがな」

兄は盛大にため息をついて、「ああ、そうだ、梨花」と私を呼んだ。

「先ほど、従義から手紙が届いてな。あいつ、海兵士官学校に合格したそうだ」

「おおっ、それはめでたいね。ということは、御学問所の士官学校希望組は、全員合格したのかな?」

 兄と一緒に過ごしていたご学友さんたちも、7月で御学問所が閉鎖になったのに伴い、それぞれの道に進んだ。御学問所卒業は、中学校を卒業したのと同等と見なされることになったので、高等教育機関に進学したり、就職したりと進路は様々だ。

 まず、国軍の高等教育機関に進学するメンバーは、今言った従義さん、それから徳川さんと南部さんの3人。徳川さんは歩兵士官学校に、南部さんは騎兵士官学校に進学する。もちろん、兄のご学友だからと言って特別扱いされることはなく、3人とも入学試験を受け、実力で勝ち取った合格である。

 また、毛利さん……じゃない、八郎(はちろう)さんは、こちらも入試を受けた結果、一高への入学が決まった。なぜ彼を“八郎さん”と呼ぶようになったかと言うと、つい先日、貴族院副議長の西園寺さんの養子になったからである。ちなみに、西園寺さんのところには、養子を取る話がいくつかあったのだけれど、八郎さんを養子として選んだ決め手は、“剣道が増宮さまより強いから”……と、先ほどの梨花会の席で、西園寺さん本人から、クスクス笑いながら言われた。

 そして、ご学友さんの最後の一人、甘露寺さんは、宮内省に就職した。数年前から、腕の立つ宮内省の職員や女官さんは、お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)、そして皇族の護衛も兼ねるようになった。そのため、選考試験の科目には、武道の実技が追加されている。剣道の級位を持っている甘露寺さんも、その実技試験をクリアして宮内省に就職した。

(だけど、最後まで、ご学友さんたち、私に怯えたままだったなぁ……)

 そう思ってまたため息をつくと、

「そういうことになるが、……梨花、皆のことが気になるのか?」

兄が突然、こんなことを私に尋ねた。

「そりゃあね。私に怯えてはいても、兄上にとっては、大事な仲間たちだから」

 答えると、

「そうだ、それは確かにそうだ」

と兄が苦笑した。

「巡航も、皆で協力し合えたから乗り越えられたようなものだ。学問所で一緒に過ごした皆は、俺のまことの心を打ち明けられる、かけがえのない仲間だよ」

(あ……)

――俺のまことの心を打ち明けられるのは、お前と節子だけだというのに……。

 何年前になるだろうか。私の前世のことを兄が知った直後、御料牧場で、2人きりで馬上で言葉を交わした時……。兄は寂しそうな口調で、こう言った。

(だけど今は、信頼できるご学友さんたちがいて、それから、節子さまという、かけがえのない婚約者もいて……)

 と、

「お前はどうなのだ?」

兄が急に真面目な顔になった。

「へ?」

「お前は、親しい者はいるのか?」

「え、ちょ、し、親しいって、兄上……す、す、好きな人がいるかどうか、って話?!」

 顔を真っ赤にしながら聞き返すと、

「まぁ、お前が心を預けられる、武官長以外の男、となれば、当然、恋している男ということになろうな」

兄はニヤリと笑った。

「う、うーん……」

 今、そんな人が私にいるのだろうか?いや、もしかしたら、フリードリヒ殿下に知らず知らずのうちに恋していた時のように、私が自覚しないまま、誰かに恋してしまっている可能性があるのかもしれない。必死に考えていると、

「そうか……」

兄は寂しげに笑った。

「その様子では、夫君になりえる、心を預けられる男は、まだ梨花の前には現れていないようだ」

「ふ、ふくん……」

 頭が熱い。胸のどこかから、ひりひりした痛みが意識に流れ出す。脳の回転が完全に止まってしまった時、

「梨花、手を貸せ」

いつの間にか、私の隣に座った兄が、私の左手を取っていた。

「やはり、恋愛ごとの話は避けたいか」

「そ、それもあるんだけど……」

 うつむいた私は、ようやくのことで言葉を口にした。

「フリードリヒ殿下のこと……どうしても、思い出しちゃうんだ」

「そうか……」

 兄が私の手を握る力が、少し強くなる。それに励まされて、私は口を開いた。

「だってさぁ……、ハインリヒ殿下に聞いたんだけど、生前、私と結婚できればいい、って言ってたらしいんだよ、フリードリヒ殿下……」

「ほう。巡航から帰った後、梨花の母上にも話は聞いたが、そのようなことは言っていなかったな」

「うん、母上には言えなかったよ。でもさ、フリードリヒ殿下がそんなことを言ってたって、知っちゃったから、私……」

 恥ずかしいのか、辛いのか……熱さと痛みで、私の口の動きが止まってしまった。

 すると、

「やれやれ、メクレンブルク公は罪作りな男だ」

すぐそばで兄の苦笑する気配がして、次の瞬間、兄の右手が私の頭を優しく撫でた。

「この愛しい妹の心を、こうも思い煩わせるとは。公に文句を言おうにも、幽明の境を隔てているから言えぬな」

「ねぇ、兄上……」

 涙が瞼から溢れてくるのを感じながら、私は尋ねた。

「もし、……もしだよ?私に万が一、お婿さんが見つかったとして、……フリードリヒ殿下は、その人と私が結婚するのを、許してくれると思う?」

「もちろん許すだろうさ」

 兄は即座に答えた。「自分が梨花を幸せにできなかった故、その婿に、その役目を果たしてもらおうと思うのではないか?」

「そう……?」

「そうだろうよ。俺がメクレンブルク公ならそう思う」

 首を傾げる私に、兄は力強く断言した。

「そっか……」

 私は大きく、息を吐いた。兄がそう言うなら、本当にそうなのかもしれない。

 不意に、私の頭を撫でていた手が私の背中に回された。あっと言う間に、私の身体は兄の腕の中に納まっていた。

「梨花……気が済むまで泣いていいぞ」

 兄の囁き声に、

「ありがとう……」

とだけ呟いて、私は兄の肩に顔を押し付け、涙の流れるままに任せていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 違和感があったので確認したんですが、国際「標準軌」の事を「広軌」と呼んでいたんですね
[気になる点] どういう、了見で どういう、料簡、なんだww
[一言] ある意味、一番きれいで、一番消えない疵となった初恋ですね。
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