ドイツからの縁談(2)
1899(明治32)年7月1日土曜日、午後2時。
ドイツの皇帝・ヴィルヘルム2世の弟、ハインリヒ親王殿下が、花御殿を訪れた。この花御殿を、外国の皇族が訪れるのは、オーストリアの皇位継承者となったフランツ殿下が来訪して以来、6年ぶりである。
(とにかく、落ち着いて話さないとな……)
――あははは!そうか、バレちまったか!
穏やかで、理性的な風貌のハインリヒ殿下と握手を交わしながら、先週の土曜日、6月24日、面談にやって来た勝先生と話した時のことを、私は思い出していた。
――その通りさ。増宮さまがどんな答えを出すか、俺たちで仕組んだんだ。
勝先生は、笑い声を収めると、私に向かって笑顔を向けた。
――皇太子殿下も、この7月で御学問所卒業だ。8日から、ご学友たちと巡航していただいているけど、あれは、卒業試験も兼ねてるんだ。今頃、有栖川宮殿下と大山さんに課題を色々出されて、皆で考えこんでるはずさ。
――ええ?!兄上たち、“卒業旅行だ!”って、すごく楽しみにしてたのに!
――ふふ、この御学問所総裁は、そんな甘かねぇよ。それで、この婚約申し込みが来たもんだから、増宮さまにも、苦手なものと取り組んでもらおうって算段だったんだが……。ご生母の君のことをうっかりしてた。やっぱり、急ごしらえの計略だったから、穴があったな。
そう言って、勝先生は、縮れた白髪に包まれた頭を掻いた。
――バレちまったから話すけど、ドイツ国内では、日本の皇族がドイツに嫁ぐのはいかがなものか、って論が大勢を占めてる。まぁ、世論を操作したんだけどな。それに、ヨーロッパ各国の王室にもそれとなく働きかけて、“いかがなものか”と、ドイツの王室に意見を入れさせてる。だから、あの皇帝も、増宮さまをドイツに嫁がせるなんてことはできねぇさ。今ごろ、皇帝は、自分の言ったことを撤回するのに使う言い訳を探してる最中だ。大概の言い訳は通じるだろうよ。
――相変わらず、すごいですね……。
私はため息をついた。ドイツの世論を動かした上に、ヨーロッパ各国の王室にまで働きかけてしまうとは……。本当に、梨花会の面々は恐ろしい。
――でも、勝先生、……この答え、一生懸命、それこそ誠心誠意考えたけれど、相手に笑われてしまうんじゃないかって、心配なんです。向こうに、“勇敢だ”って褒めたたえられているのに……。
「……以前にも、我が国をご訪問されたとうかがっておりますが、今の我が国の印象はいかがでしょうか?」
最初の挨拶はドイツ語でしたけれど、応接間にハインリヒ殿下を招き入れると、私は会話を日本語に切り替えた。ドイツ語でも何とか話せるだろうけれど、間違ってしまっては大変だから、通訳さんを介してやり取りするのが無難だろう。
「ええ。私がこの国を以前に訪問したのは、今から20年ほど前……ちょうど今のあなたと同じ年ぐらいの頃でした。その頃と比べると、日本は西洋の文明を取り入れ、大きく発展しているように思います。ただ、日本の伝統文化が失われていくようで、少し寂しい気もします」
ハインリヒ殿下は、穏やかな声で話してくれる。皇帝とは違って、安定した人格なのだろうというのが、通訳さんを介しての会話でも分かった。
「あなたのおっしゃる通りだと思います。西洋文化の取り入れるべきは取り入れ、我が国の文化の残すべきところは残す。それが大切だと私も思っています」
そう答えると、
「なるほど、確かにその通りです。その和服のスタイルも、私が昔この国に来た時には一般的ではありませんでした。よくお似合いです」
ハインリヒ殿下は微笑んだ。
「ありがとうございます」
私は軽く頭を下げた。今日は、先方からのリクエストで、和服を着ている。白地に紫と青の紫陽花の模様の着物と、薄紫色の女袴は、ハインリヒ殿下との面会が決まってから、母が縫ってくれたものである。
と、
「ところで、あなたは、天皇陛下から、私の兄が申し出た婚約の話を聞いておられるでしょうか?」
ハインリヒ殿下は、私に本題をぶつけた。
「はい。私と、あなたの甥御さんとのご婚約を……と父からは聞きました」
私は、目を伏せた。少し、胸が痛い。けれど、落ち着いて、今の正直な気持ちを、ハインリヒ殿下に伝えなければならない。
「その通りです。あなたには申し訳ありませんが、正直、私は戸惑っています」
ハインリヒ殿下は、首を横に振りながら言った。「兄の気まぐれだと思いますが……日本と我がドイツでは、文化がまるで違います。あなたが我が国になじめるか、とても不安なのです」
「はい、私もそう思います。それに、……私、ドイツには、どうしても行けない理由があります」
私はこう言うと、扇子を握る手に力を込め、大きく息を吐いた。
「どうしても行けない理由、ですか?」
ハインリヒ殿下の言葉に、私は頷いて、
「殿下は、……メクレンブルク・シュヴェリーン大公国の、フリードリヒ・ヴィルヘルム殿下のことを御存じでしょうか?一昨年、事故で亡くなられましたが……」
と尋ねた。
「はい。同じ海軍にいましたから、よく知っています。あなたのことも、彼から聞いたことがあります。前途有望な青年を亡くしてしまいました」
(そうなんだ……)
フリードリヒ殿下のことを、ハインリヒ殿下から聞きたいと思った。けれど、それは話の本筋ではない。キリキリと痛む心をなだめながら、やっと私は口を開いた。
「私……フリードリヒ殿下に、恋をしていました。彼が日本に来て、その後手紙をくれて……気が付いたら、恋していました。この生涯で、初めての恋です。でも、恋をしていたと気が付いたのは、彼が、亡くなった時でした」
ハインリヒ殿下は、黙って私の話を聞いていた。
「多分、今、ドイツに行ったら、私、フリードリヒ殿下のことを、ずっと、探してしまいます。もう、生きていないのだと、分かっていても、探してしまいます。殿下の甥御さんと結婚しても、私は、甥御さんの中に、フリードリヒ殿下の面影を、探してしまって……甥御さんを本当に愛することは、できないんです。甥御さんに、それは、とても、申し訳ないから……」
心の痛みが急速に増し、口が動かなくなってしまった。私は、袂からハンカチーフを取り出して、溢れ出した涙を吸わせた。頭が熱くて、心が痛くて、脳みそが動かない。全てドイツ語で話そうとしなくて、本当に良かったと思ったけれど、後から後から流れ出る涙が、日本語を口にすることも阻んでいた。
「ごめん、なさい……見苦しい真似を、してしまって」
深呼吸を何回か繰り返し、ようやく言葉を出すことができた。
「あなたのお兄様が、私のことを勇敢だと、褒めてくださったと、聞きました。それなのに、こんな情けないことを、言ってしまって……」
「いいえ、そんなことはありません」
ハインリヒ殿下は、哀しそうな瞳を私に向けた。「フリードリヒは本当に、職務に忠実な、よい青年でした。あなたのことも、聡明で美しいと言っていました。……許されるのであれば、あなたともう一度会いたいと……結婚出来ればいいのだが、と漏らしたこともあります」
「……!」
(そんな……)
目を見開いた私に、ハインリヒ殿下の穏やかな声が、淡々と降ってきた。
「彼ほど誠実な青年は、なかなかおりません。そんなフリードリヒに恋をしていたあなたが、私の甥の中に、フリードリヒの面影を追ってしまうという気持ちは、とてもよく分かります。……あなたに、ドイツに来ていただくのは、とても残酷なことです。兄には、そう伝えておきます。そして、私からも申し添えます。我が王室に、あなたを迎えることは止めて欲しい、と」
「ありがとう、ございます……」
私はハインリヒ殿下に向かって、深々と頭を下げた。
(そう、だったんだ……)
涙が、瞼からとめどなく流れ出る。けれど、それを拭う気力は、私には残されていなかった。
「……よく、頑張りましたね」
ハインリヒ殿下が、花御殿から去った後。殿下を見送る時までずっと泣いていた私を、母が私の居間まで連れ帰り、優しく抱き締めてくれた。
「うん……」
母の左肩に顔を埋めながら、私は何とか口を開いた。「もうすぐ、フリードリヒ殿下が亡くなってから、2年が経つのに、まだ、昨日のことのように思い出してしまう。殿下が亡くなったって、知らされた日のこと……」
あの時も、私は母に抱きついて泣きじゃくった。時が経ち、次第に痛みが癒えたように思っていたけれど、それは単に、日常の出来事に紛れて、本当は心が痛いのに、“痛くない”と錯覚していただけなのかもしれないし、恋で受けた心の痛手から、眼を背けていただけなのかもしれない。
(だって、母上と一緒に答えを考えた時も、勝先生に答えを伝えた時も、そして、今も……痛いもん、心が……)
「私、やっぱり、あの時から、心の成長が止まってしまったのかな。前世で、恋した後みたいに……」
すると、
「そんなことはありませんよ」
母はこう言った。「もし、本当に止まってしまっていたら、章子さん、トリノ伯にはお会いになっていなかったでしょ?」
「うん、まぁ……あれは、“会った”って言うよりは、手合わせしただけだし、おまけに、相手がセクハラ野郎だったし……」
トリノ伯をノックアウトしたことや、その後の騒動を思い出して、私は軽くため息をついた。日本国内ではあの後、なぜか“反イタリア論”が新聞で盛んに唱えられたけれど、イタリアが、一連の騒動の詫びとして駆逐艦を1隻、日本に無償贈呈すると発表されてから、反イタリア論は沈静化した。
「それに、本当に、心が成長していなければ、ほら、皇太子殿下の“ぷろぽおず”ですか?あれを見守ることもなかったのではないですか?」
クスリと笑う母に、
「あ、あれは、兄上の妹として、兄上と節子さまが上手く行くかどうか、心配だっただけで、その……恋愛や結婚に、興味があるとか、そんなんじゃない……」
たちまち頭が熱くなって、母の肩に、顔をきつく押し付ける。そんな私を、母は優しく撫でてくれた。
「恋で受けた痛みというものは、癒えたと思っても、時々は蘇ってくるものですわ。でも、わたくし、章子さんは、きっと立ち上がれると思っていますの。恋で受けた痛手を本当に癒して、心から愛せる方とめぐりあって、恋することはきっとできると」
「そ、そうかな、母上?もし、そんな人がいても、私、そんなに……」
美人でもないし、お転婆だし……、と言おうとした私の口の動きが、止まってしまった。
――俺の誇りの、愛しい姫君だよ。
――恐れ多くも、梨花さまは内親王であらせられ、なおかつ、俺の大切な、守るべき美しい淑女なのですから、それにふさわしく、ご自身の身体と心を扱っていただきたく思います。
頭の中に、兄と大山さんの言葉が蘇る。私の大切な兄と、私の大切な臣下。私を大切に思ってくれる、私の大切な人だ。
「どうなさったの、章子さん?」
私に問いかける母に、
「……止められたの。言葉で自分を傷つけようとして、兄上と大山さんに」
私は軽いため息をつきながら答えて、顔に苦笑いを浮かべた。
「そうですか」
母が微笑む気配がした。「……章子さんにとって、皇太子殿下と、大山どのに出会えたのは、とても幸せなことですね」
「母上と、お父様とお母様に出会えたこともだよ」
私が付け加えると、
「ふふ……ありがとうございます」
母はまた、私の頭を撫でてくれた。
「いつか……章子さんの側に、もうお一方、大切な方が……大切な御夫君が、立たれればよろしいですね」
「そうだね……」
一高に進学して、医師免許を取りたい。そして、国を医す上医として、兄を守りたい。そう願ってはいるけれど、医者になることを反対しない、信頼できる男性と結婚出来ればいいなあと、この瞬間だけは、少し夢見てしまったのだった。
※御学問所卒業は、以前“節子さまとのご婚儀(1900年)まで”と書いていたのですが、結局このタイミングになりました。申し訳ありません。ご学友さんたちの進路も、いずれ書かないといけませんね。




