白袴(びゃっこ)隊
※読み仮名ミスを修正しました。(2021年3月10日)
1899(明治32)年3月30日木曜日、午後3時半。
「今日は、暖かいですねぇ……」
華族女学校からの帰り道、使い古したランドセルを背負った私は、付き添って歩いている東宮武官の橘周太大尉に話しかけた。
「ええ。雲一つない、良い天気です。春がやって参りましたな」
橘大尉がにこりと微笑む。永田町の華族女学校まで、梨花会のある日以外は歩いて登下校する私には、いつも侍従さんか、東宮武官が付き添う。今日は剣道の師匠でもある、橘大尉の当番だった。
「殿下……この天気にその傘は、おかしくはないでしょうか?」
橘大尉の言葉に、
「いいえ、これはおしゃれです。お・しゃ・れ!」
紅い傘を持ち直した私は微笑した。梨花会の面々が、物騒なバレンタインプレゼントを贈って来てから1年、傘自体の重さにも慣れ、中身の刀の扱いにも慣れてきた。イメージトレーニングも、室内戦とそれ以外、両方想定してやっている。
ただ、この仕込み傘をもらった当初、心配だったのは、晴れている日に持ち歩くと、周りから少し浮いてしまうのではないか、ということだった。そこで、もらった直後、お母様に相談したところ、
――オシャレだと言い切って、堂々としていたらよろしいのですよ。
お母様にこう答えられてしまった。
――そ、それでいいんですか?
目を丸くしながら聞き返したら、
――オシャレなど人それぞれですし、その緋色の傘は、海老茶の袴にもよく合うではありませんか。
お母様はいたずらっ子のように微笑み、私に優しい視線を向けた。そう言われれば、確かにそうかもしれない。そもそも、この仕込み傘のデザインは、お母様の意見も取り入れて決まったものだから、きっと、私に似合う、ということも考えてくれているはずだ。それから、私は仕込み傘を、雨の日はもちろん、晴れている日も堂々とした態度で持ち歩くようになった。そうしていると、周りの視線も気にならなくなった。
「そう、それでよろしゅうございます」
私の答えを聞いた橘大尉は、ニッコリ笑った。「その態度こそが、この傘を持ち歩く上で、大事なことでございます。是非そのお心がけを、忘れないでいただきたい」
「はい、師匠」
私は頷いた。考えてみれば、橘大尉とは、花御殿に引っ越して以来の付き合いになるから、もう10年も、彼から剣を習っていることになる。容赦はないけれど、熱心に、懇切丁寧に指導をしてくれる彼のお陰で、私の剣は上達したのだと思う。
午後の陽光は、穏やかに大通りを暖めている。行き交う人々や人力車や自転車も、どことなく、のんびりしているように見えた。
「……この天候だと、そろそろ桜も咲くでしょうか、師匠」
橘大尉に話し掛けると、
「でしょうね。早朝の稽古には、物足りない季節になってきました。やはり身を切られるような寒さの中でないと、稽古したという実感が得られませんから」
という、少し怖いセリフが返ってくる。この人はいつでも、自分を厳しい環境下に置こうとすることを忘れないのだ。
(あんまり無理しちゃダメだよ、師匠……)
そう思った時、
「離せ、離せったら!」
横丁の方から、少年の叫び声が小さく聞こえた。
(子供同士のケンカかな?でも、この声、聞いたことがあるような……)
すると、
「ちっ、やかましいお稚児さんだ」
と、少年にしては低い声が、微かに私の耳に届いた。
「!」
橘大尉が足を止めた。
「……殿下、ここで待っていていただけますか?」
「今の叫び声のことですか?」
身体から、僅かに殺気を洩らす橘大尉に、私はこう尋ねた。
「お気付きでしたか」
橘大尉は私に苦笑いを向ける。「様子を見て参りますので、殿下はここで待っていてください」
「師匠、……私も行きます」
「殿下?」
思わず大きくなった声を、
「恐れながら、それには及びませぬ」
橘大尉は慌てて潜めた。
「師匠、私もここで待ちたいのは山々なんですけど……子供の声に聞き覚えがあって」
「聞き覚え?」
首を傾げた橘大尉の耳元に口を近付けると、
「北白川宮の輝久殿下の声にそっくりで……」
私はこう囁いた。
北白川宮輝久王殿下。北白川宮の当主・能久親王殿下の息子である。能久親王殿下には、子供がたくさんいるので、兄弟の何番目なのか正確にはわからないのだけど、久邇宮家の鳩彦王殿下と稔彦王殿下、有栖川宮家の栽仁王殿下と同じ、学習院初等科の5年生だというのは覚えている。なぜそれを把握しているのかと言えば、今年のお正月にも、北白川宮家の成久王殿下以下、総計7人のちびっ子殿下たちが、大挙して挨拶にやって来たからである。
「そうですか」
橘大尉の眉が曇った。「もし悲鳴の主が輝久王殿下で、誰かに襲われているとするならば、由々しき事態です」
「ええ、状況によっては、応援を呼ばないと。花御殿の門まで使い走りするぐらいなら、私にもできますから」
ここから2、3分も歩けば、花御殿の門に着く。門の所には皇宮警察の人が何人かいるから、私と橘大尉の手に負えない事態なら、その人たちをここまで連れてくる選択肢はある。
「確かに……。それに、残念ながら、私は輝久王殿下に拝謁したことがありませんので、襲われているのが誰なのか確かめるのは、殿下にしかできないのです」
橘大尉が少しうつむく。
「申し訳ありませんが、殿下、御同道いただけますか?」
「了解です、師匠」
私が答えると、橘大尉は頷いた。声のした方に走り始めた彼を、私も追った。
表通りから、少し道を逸れたところにある袋小路。東京の真ん中でも、人気の無いところはあるものである。袋小路の入り口、家の外塀に立て掛けられた箒の陰に、動くものがあった。猿轡を噛まされ、手拭いで手と足を縛られて地面に転がされた輝久王殿下だ。その側には、兄と同い年ぐらいの、白い袴を付けた男子学生が立っていて、辺りを警戒している。更にその奥、行き止まりの壁の側に、彼と同年代の男子学生が2人、こちらに背を向けて立っている。彼らは、地面にへたり込んでいる、1人の少年を見下ろしていた。
(栽仁殿下だ……!)
「へへ……転がしてる奴より、こっちの方が好みだな」
奥にいる、向かって右側の学生が獣のような声で呟いたセリフが、微かに私の耳に届く。彼は紺色の無地の着物に、白い袴を付けていた。
「俺もだ。幸運だな。可愛い稚児が2人も捕まるなんて」
そう言って笑う左の学生も、白い袴を付けている。間違いない。この連中、去年から街に出没して美少年を襲っている不良学生集団・“白袴隊”だ。花御殿や皇居に近い麹町区でも事件を起こしたと聞いて、「そんな訳がないだろう」と思っていたのだけれど……どうやら本当だったらしい。
「師匠、手前の縛られてる子が輝久殿下で、奥の襲われそうになってる子が栽仁殿下です」
仕込み傘の柄に右手を掛け、私は橘大尉に囁いた。「お付きの人、いないのかな?ってか、早く助けないと犯されちゃう!」
私の声に、橘大尉は一瞬目を見張ったけれど、すぐに冷静な表情に戻った。
「あの3人以外に、仲間はいないようです。……殿下、大変申し訳ないのですが、手を貸していただいてよろしいでしょうか。私と殿下なら、奴等を制圧できます」
橘大尉は、もちろん私より戦いの経験が豊富だ。その彼がそう言うなら、間違いないだろう。ただ、私も仕込み傘を、橘大尉も軍刀を携えていると言っても、相手はこちらより人数が多いから、作戦を間違えばこちらがやられる。油断は禁物だ。
「まず、輝久殿下の側の奴をさっさと無力化して、それで奥の2人を倒す、という段取りですかね」
そう小声で提案すると、
「そうするよりないでしょう。奥の2人が、迎撃の体制を整える前に、手前の奴を沈めましょう」
橘大尉が賛成してくれる。
「師匠、思いっきりやっちゃっていいですか?もちろん、殺さないようにしますけれど」
「無論です。では、行きましょうか」
私と橘大尉は、なるべく殺気を出さないように、たまたま通りかかったようなふりをして、まず、手前の学生に近寄る。私たちの存在に気が付いた手前の学生が、奥にいる連中に注意を促そうと、こちらから顔を背けた瞬間、私は全速力で学生に駆け寄り、無言で左の脇腹に飛び蹴りを食らわせた。
「……!」
トリノ伯を沈めた時とは違い、今日は編み上げブーツを履いている。蹴りの威力が上がっているせいか、私の渾身の一撃を食らった学生は、無言で地面に倒れ込んで動かなくなった。
「な、なんだ……?」
「軍人と……女?」
手前の学生が倒れた音で、奥の2人の学生がこちらを振り返る。
「おい、女を倒して逃げるぞ!」
「承知!」
2人は、私の方に向かって突進してきた。軍服を着た軍人より、桃色の着物に海老茶色の女袴を付けた私の方が倒せると見たのだろう。私は仕込み傘から刀を抜くと、まず襲い掛かってきた右側の学生の腹部を、左手に持った仕込み傘の鞘……要するに、普通の傘の部分だけど、それで思いっきり突いた。うずくまった所を、だめ押しで蹴飛ばして地面に転がす。
「こ、こいつ!」
もう一人の学生が、私に向かってくる。そいつの右手には、短刀があった。私は咄嗟に、顔面に傘を投げつけた。相手の視界を奪った所で、右手を蹴り飛ばす。短刀が手から離れたのを確認すると、持っている刀の切っ先を、喉元に突き付けた。
「さて、私の弟分に手を出したんだから、それ相応に報いをくれてあげなくちゃねぇ……」
睨み付けると、先程までの勢いはどこへやら、学生はジリジリと後ろに下がっていく。すかさず、橘大尉が当て身を食らわせて、学生を地面に転がすと、持っていた長い紐で、後ろ手に縛り上げた。
「申し訳ありませんでした。しかし、お見事です」
学生を縛り終えて一礼する橘大尉に、「ありがとうございます」と答えると、私は座り込んでいた栽仁殿下に近づき、笑顔を向けた。
「大丈夫だった?」
すると、栽仁殿下の顔が歪んだ。
「姉宮さまぁ……」
「よしよし、こっちにおいで」
手を掴んで身体を引き寄せると、栽仁殿下をぎゅっと抱き締め、頭を優しく撫でる。突然、見知らぬ男たちに乱暴をされそうになったのだ。とても怖かったに違いない。
「もう大丈夫だからね」
声を掛けると、私の胸に顔を埋めた栽仁殿下は、無言で頷いた。両肩が少し震えているのは、もしかしたら泣いているのかもしれない。
「増宮殿下」
橘大尉が私を呼んだ。「申し訳ありませんが、殿下方を連れて、ご帰宅いただけますか。あとは私が片付けておきます」
「了解。輝久殿下の拘束を解いて、応援も要請します」
「では、そちらもお願いいたします。さ、お早く」
私は頷くと、栽仁殿下を促して、まず拘束されたままの輝久殿下の元へと向かった。
輝久殿下の拘束を解くと、私は仕込み傘を小脇に挟み、2人の手を引いて花御殿に戻った。皇宮警察の人たちに状況を説明して、橘大尉の応援に行くように依頼した後、母に3人分のお茶とお茶菓子を居間に持ってくるよう頼んだ。居間に入ると、2人の着衣と身体をチェックする。幸い、栽仁殿下も輝久殿下も、少し打撲はあったけれど、それ以上の外傷は無かった。
「さて……ちょっと疑問に思うことがあったから、確認したいんだけど」
母が、チョコレートの載ったお皿、暖かいコーヒーとミルクを居間のテーブルに置いてくれた後、私は2人を椅子に座らせて、こう尋ねた。
「あなたたち、お付きの人はどうしたの?」
すると、栽仁殿下と輝久殿下は顔を見合わせた。
(ん……?)
「あの、もしかして、……お付きの人、置いてきたの?」
すると、
「……まいてきた」
輝久殿下が答えた。
「まいた……?」
私が首を傾げると、
「2人で一緒に歩いてたんだけど、お付きがちょっと目を離した隙に、走り出してまいたんだ」
栽仁殿下はこう言う。状況がうまく把握できなかったので、2人に根掘り葉掘り聞いていくと、次のようなことがわかった。
栽仁殿下も輝久殿下も、学習院への登下校の時は、お付きの職員がしっかりついている。けれど、2人ともそれが窮屈で、「何とかして、お付きの職員なしで街に出掛けてみたい」と思っていたそうだ。確かに、栽仁殿下は、昨年の夏、葉山の別邸から私がいた葉山御用邸の別邸まで、1人で来たこともあったから、それが余計に“1人で歩きたい”という思いを強くしたのかもしれない。
そして今日、栽仁殿下は北白川宮家のお屋敷に、学校帰りに遊びにいく約束をしていた。授業が終わり、輝仁殿下と栽仁殿下が、お付きの職員さんと一緒に学習院を出たところ、たまたま、職員さんたちの目が離れたのだそうだ。
――逃げてみようぜ。
どちらがそう言い出したのかは分からない。ただ、もう1人も即座に賛成し、輝久殿下も栽仁殿下も走り出して、見事に職員さんから逃げることに成功した。
けれど、自由を味わっていたのも束の間、どこを歩いているのか、2人とも分からなくなってしまった。そこで、通りかかった学生3人組に道を尋ねたのだけど、それが不運の始まりだった。2人は言葉巧みに彼らに物陰に連れ込まれ、短刀を見せられながら「抵抗すればこれで殺す」と脅されてしまった。そして、輝久殿下は拘束されてしまい、栽仁殿下に毒牙が及ぶ寸前に、私と橘大尉が駆け付けたという訳である。
「なるほどね……」
私は両腕を組んだ。
「冒険したいって気持ちは分かるな。すごくよく分かる」
私も、お付きの人なしで出掛けてみたい、1人で街を歩いてみたい、という気持ちはある。前世では、何でも1人でやっていたから、その思いは、彼ら2人より強いかもしれない。だけど……。
「でもね、冒険するんなら、身を守る術をしっかり持ってなきゃいけない。だって、私達、何の因果か、皇族に生まれついた身だから、自分の身に何かあったら、自分だけじゃなくて、周りにもすごく影響が出ちゃうんだ」
そう思うから、この時代の皇族としては破天荒なことをたくさんしている私も、自分1人で出歩くことはしない。私に万が一のことがあれば、大山さんや兄や母、お父様やお母様など、私の大切な人たち、そして、私を大切に思ってくれている人たちを悲しませてしまうからだ。
「だから私、万が一、自分の身に危険が及んでも、ある程度対応出来るように、剣道をやってるんだ。もちろん、“女なのに剣をするなんて”って言う人はいるよ?でも、お父様の命令だし、私が傷付けられて、大切な人を悲しませたくないし、それに、今回みたいに、誰かを守ることもできるしね」
栽仁殿下と輝久殿下は、私の言葉を黙って聞いている。
と、
「増宮殿下、失礼致します」
障子の外から、橘大尉の声がした。椅子から立って障子を開けると、橘大尉が廊下に跪いていた。
「ああ、師匠、ありがとうございました」
私は身を屈めて、橘大尉にお礼を言った。
「暴漢は無事に、皇宮警察に引き渡しました。やはり奴ら、ここ最近東京を騒がせていた、白袴隊の一員だったようです」
「やっぱりそうでしたか。皇居や花御殿の近くに出たとは聞いたけれど……本当だとは思わなかったわ」
「警視庁には、取り締まりの強化を要請しました」
「ならいいですけれど……それより師匠、よく紐なんて持ってましたね」
「万が一に備えて、携帯していたのですよ。花御殿に配属されてから、捕縛術も学びまして。……奴ら、増宮殿下が立ち去られた後、“女が襲ってくるとは思わなかった。あんなお転婆な女など、嫁に行けぬだろう”などとほざいておりましたから、きつく縛り付けてやりました」
(そうなんだよなぁ……)
橘大尉のセリフに、私はため息をついた。白袴隊の連中をどつき倒してやりたいけれど、“あんなお転婆、嫁に行けぬ”というのも、この時代では真理に近い言葉なのだ。
「あの、師匠……お願いしたいことがあるんですけれど」
私は両膝を床についた。「私が今日、師匠と一緒に奴等を捕まえたこと、他の人には内緒にしてほしいんです」
「内密に、ですか?殿下の歴とした武勇伝となるでしょうに」
不思議そうな目で私を見る橘大尉に、
「だって、この件が世間に広まったら、間違いなくお嫁に行けなくなっちゃうし……」
私はうつむきながら答えた。昨年には、正当防衛とはいえ、トリノ伯を回し蹴りでノックアウトしてしまった。更に、こんな話が広まってしまったら、同年代の男子は確実にドン引きするだろう。
「そうでしょうか……?」
「それに、師匠、皇族が白袴隊に襲われたって公表するのも、ちょっと問題になるでしょ?」
更にこう付け加えると、
「それは、確かにそうです」
首を傾げていた橘大尉は、ようやく納得したように頷いてくれた。
「だから、この件は、あらゆる方面に内密にお願いします。関わった人たちにも、その旨、伝えておいてください」
「承知しました」
橘大尉が素直に頭を下げてくれたのを確認すると、「あなたたちもよ」と、私はチョコレートを食べている栽仁殿下と輝久殿下に呼びかけた。
「あなたたちも、今日あったことは内密にしてね。あなたたちは、2人で示し合わせて、お付きの職員さんを振り切って、私の所に遊びに来た。遊びに来る途中、特に事故も事件も無かった。いいね?」
すると、
「なんで?!」
「姉宮さま、すごくカッコよかったのに!」
栽仁殿下も輝久殿下も、明らかに不満そうな表情になった。
「あのねぇ」
私は立ち上がって、ため息をついた。「私が暴漢を倒した話を聞いたら、あなたたちのお父様が怯えて、気を失って倒れるわ」
輝久殿下のお父様・能久親王殿下は、以前、大阪で叩きのめしかけたことがある。それ以来、トラウマを植え付けてしまったようで、ごくたまに宮中ですれ違うと、明らかに能久親王殿下の顔が引きつるのだ。
「僕の父上は、別に大丈夫だと思うけど……」
栽仁殿下の反論を、
「父上が大丈夫でも、母上が大丈夫じゃないかもしれない。そうしたら、私、栽仁殿下の父上と母上に、舞踏が習えなくなっちゃう」
私は目を怒らせて封じ、
「それにね、余りに“強い”って言われると、私がお嫁に行けなくなっちゃうから、今日のことは内緒!いい?」
こう言って、2人を睨み付けた。
「「……」」
揃って唇を尖らせる栽仁殿下と輝久殿下に、
「内緒と言ったら、内緒!……お願いだから、本当に!」
私は必死に頼みこんだ。
「はぁい……」
「わかったよ、姉宮さま……」
栽仁殿下も輝久殿下も、渋々頷いた。どうやら、要求はのみ込ませたようだ。
「よし!じゃあ、このチョコレート、あなたたち2人で食べていいよ。私はいらないから」
ニッコリ笑って勧めると、
「えー、姉宮さまも食べたらいいのに」
と、輝久殿下が言う。
「私はもう、成長期は終わったし、それに……バレンタインの時に、お菓子をたくさん見すぎたから、しばらくお菓子はいらないかな……」
今年のバレンタインは、梨花会のメンバーのそれぞれが、思い思いの物を贈るスタイルに逆戻りした。やはりお菓子を贈ってくれる人が多く、しばらく、食べたくもないお菓子を、少しずつだけれど食べる日々が続いた。その分、スタイルを維持しなくてはいけないと思い、剣道の稽古と、仕込み傘使用時のイメージトレーニングに熱心に励んだ結果、栽仁殿下と輝久殿下を助けられたのは良かったけれど……。
すると、
「僕、姉宮さまと、チョコレートを分けて食べたいなぁ」
栽仁殿下が目を輝かせながらこう言った。
「きっと、姉宮さまと分けて食べたら、もっと美味しいんだよ」
「いや、それはそうかもしれないけれど、カロリーが……その……」
頭を抱えた私に、
「俺も、姉宮さまと一緒に食べたい」
輝久殿下が追い打ちを掛ける。
「う、うーん……」
(1個くらい食べないと、失礼かな……、でも、カロリー……、だけど、チョコレート、食べたいし……うーん……)
子犬のように目を輝かせながら、私をじっと見つめる凛々しい少年たち。礼儀と食欲とカロリーの狭間で、チョコレートのお皿に手を出すべきか迷う私。傾きかけた陽光が、そんな私たちを暖かく包んでいた。
そして、この時、既に運命はゆっくりと動き始めていたのだけれど、チョコレートに手を出すべきか否か、真剣に悩んでいた私には、それを知る術もなかったのである。
※この白袴隊、実際にこの年代に東京都内に出没しておりました。ちなみに、明治32年10月には、有楽町で美少年を巡って総計40名以上の学生が集結して危うく大乱闘になりそうなところ、警察が駆けつけて事なきを得たということもあったそうです。(「新聞集成明治編年史」より)




