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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第24章 1898(明治31)年霜降~1899(明治32)年夏至
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昼食会

※地の文のミスを修正しました。(2020年11月9日)

 1898(明治31)年11月13日日曜日、午後1時半。

「あっ……」

 皇居の奥御殿の一室。お母様(おたたさま)と兄、それと異母妹の昌子さま、房子さま、允子さまと昼食を取っていた私は、テーブルの上の小さな砂糖壷を取ろうと手を伸ばして、腕の鈍い痛みに顔をしかめた。

「章子お姉さま、大丈夫?」

 すぐ下の妹の昌子さまが、私のことを心配そうに見つめる。

「章子お姉さま?」

「どうなさったの?」

 昌子さまの声が耳に入った房子さまも允子さまも、同時に私をすがるように見た。

「ああ、……大丈夫だよ、みんな」

 私は笑顔を作って、周りを見回した。「昨日の筋肉痛だから」

「ふふ、昨日の戦い、激しかったですからね」

 笑うお母様(おたたさま)に、

「ええ」

とだけ頷いた私は、角砂糖を一欠片取って、砂糖壷を戻す。また腕に鈍い痛みが走ったけれど、これはしょうがない。

 昨日は、華族女学校(がっこう)の運動会だった。私は、午後に行われたテニスの試合に出場した。事前に中等科全体で予選をやり、準々決勝まで終わらせていて、私も節子さまも準決勝に出場を決めていた。

 そして、昨日行われた準決勝で、私は上級生相手に勝利した。さて、決勝の相手は誰だろうと、隣のコートを見たら、ちょうど節子さまが勝利を収めたところだったのだ。まぁ、私も節子さまも、身体を動かすのは好きだし、テニスも好きだから、当然の結果かもしれない。

「しかし、昨日は本当に大熱戦だったな」

 制服姿の兄が、そう言ってにっこり笑った。

「当然よ。私も節子さまも、“お互いに手加減無しで戦いましょう”って約束して、試合をしたんだから」

 華族女学校(がっこう)でも花御殿でも、天気が良ければ節子さまとテニスをすることが多い。お互いの手の内を知り尽くしているだけに、頭も身体も目一杯使って戦った。その結果、節子さまに僅差で負けてしまったけれど、全く後悔はしていない。

「全力で節子さまと戦えて楽しかったよ。でもさぁ……何で皆、運動会を見に来たの?」

 軽く兄を睨むと、

「お前と節子が出るなら、俺は見に行くしかないではないか。学問所の授業が終わった後、慌てて自転車を走らせたぞ」

兄はニヤリと笑った。

 お母様(おたたさま)は、今日この場には来ていない異母弟妹の、輝仁さまと聡子さまと多喜子さまと一緒に、午前中から運動会に来てくれた。そこまではいい。問題は、テニスの決勝が終わった時、お母様(おたたさま)の隣で、兄が拍手していたことである。まさかと思って周りを見回すと、観客席に、国内にいる梨花会の面々が全員顔を揃え、私と節子さまを熱心に見つめていた。これが私の時代なら、手にスマホやデジタルカメラを持って、写真や動画を撮影していたのだろう。現に、後藤さんは大きなカメラを準備して、コートに立つ私と節子さまにレンズを向けていた。

「まさか、お父様(おもうさま)まで試合を見に来てた、なんてことがあったら、私、ちょっとやだなぁ」

 先月、私とトリノ伯の剣道の試合を変装して見に来た前科があるから、観客席にお父様(おもうさま)が紛れ込んでいた可能性もゼロではない。けれど、残念ながら、今それを本人に確かめることが出来ない。お父様(おもうさま)が、国軍の大演習を親閲するため、今朝、大阪に出発したからである。私も兄と一緒に、新橋停車場にお父様(おもうさま)のお見送りに行った。

「格好とか、全然気に掛けてなかったから、最後、髪のリボンがほどけたの、直す余裕が無かったし……」

 おまけに、試合が終了した直後に、リボンだけではなく、ヘアゴムが切れてしまったのだ。秋風で長い黒髪が広がった瞬間、会場全体がどよめいたのは、私が本当は恐ろしい顔かたちをしていることを、観客たちが認識したからだろう。

 と、

「あの時の章子お姉さま、とても綺麗でした」

昌子さまが目をキラキラさせながら言った。「平安の昔の、お姫様みたいでした」

 無邪気な笑顔の昌子さまが、私を褒めてくれているのか、それとも慰めてくれているのか、私には判断が付かなかった。

「でもね、平安のお姫様の髪型じゃ、医者の仕事が出来ないからねぇ……」

「そうなの?」

 首を可愛らしく傾げる房子さまに、

「清潔にしなきゃいけないところに、髪の毛が付いちゃう危険があるから、なるべくなら、髪の毛はまとめないとね」

私は穏やかに言った。本当は、髪を切って、ショートカットにしたいけれど、大山さんに切るなと言われているから出来ない。その大山さんは、観戦武官としてお父様(おもうさま)に供奉して大阪入りする予定だったのだけれど、欧州の情勢が騒がしいとかで、山本さんと一緒に東京に残って情報分析をしている。

「でも、髪をまとめるって言っても、日本髪や束髪は、頭が大きく見え過ぎるし、好みじゃないんだよなぁ……」

 ブツブツ呟いていると、

「それを考えるのは、少し早いのではないか?」

兄が苦笑した。「一高に合格してから考えてもよいではないか」

「まぁ、そうなんだけどね」

 既に3年後の受験までの学習計画を立てているから、つい、その先のことも考えたくなってしまうのだ。

明宮(はるのみや)さんの言う通りですよ、増宮さん」

 お母様(おたたさま)もクスリと笑う。「逸る気持ちは分かりますけれど」

「はぁ……」

 何とか頷いた私を見て、「では、私が考えておきましょうか」とお母様(おたたさま)が言った。

「え……?」

「増宮さんが、高等学校に進学した時にする髪型ですよ」

 お母様(おたたさま)は、眉を軽くしかめた私に微笑みを向ける。「増宮さんに全部任せてしまうと、髪を全部切ると主張して、大山どのと伊藤どのを困らせてしまいそうですから」

(よくお分かりで)

 私はお母様(おたたさま)に頭を下げた。

「確かに、議長と武官長を、相当手こずらせそうだ。化粧を初めてさせる時も大変だったからな」

 兄はそう言って、首を何度も縦に振る。

「では、少し私の方で考えておきますね。捨松どのを宮中に呼んで、お茶をいただきながら一緒に考えてみようかしら」

「分かりました……」

 こうなってしまっては、逃げることは出来ない。観念した私は、お母様(おたたさま)に再び一礼した。


 食後のデザートをいただいて、昌子さま、房子さま、允子さまが帰った後、私と兄は別室に移り、お母様(おたたさま)と話を続けていた。

「ところで、お2人とも、松方どのはいかがですか?」

 長椅子の真ん中に座ったお母様(おたたさま)が、私たちに優しく尋ねる。オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝、フランツ・ヨーゼフ一世の在位50周年記念式典に出席するため、輔導主任の伊藤さんは、先月の半ばにウィーンに向けて出発していた。彼の不在中、東宮大夫と私の輔導主任の業務は、大蔵大臣の松方さんが代行している。

「業務は、滞りなくされていると思います」

「ええ、私もそう思います」

 お母様(おたたさま)を挟んで長椅子に座った私たちは、当たり障りの無い答えを返した。

「あらあら、正直におっしゃっても大丈夫ですのに」

 私たちの様子に、不自然さを感じたのだろう。お母様(おたたさま)はそう言って苦笑した。「人払いもしていますよ」

「そうなんですけど……」

 お母様(おたたさま)の言葉に、私はうつむいた。

お父様(おもうさま)の思し召しや、伊藤議長の思いに、その……反してしまうようなことを、言ってしまいかねないので……」

 兄も、苦虫を噛み潰したような表情になる。

「大丈夫ですよ。私の胸にしまっておきますから」

 お母様(おたたさま)の声に、私と兄は顔を見合わせた。

「言っちゃう?」

「言って……しまうか」

 お母様(おたたさま)越しに、兄と小声で言い交わすと、すぐ横でお母様(おたたさま)が微笑する気配が感じられた。

「そのご様子ですと、松方どのは、なかなかに手厳しいようですね」

 お母様(おたたさま)の言葉に、

「ええ、とっても!」

「はい、かなり……」

私と兄は同時に反応した。

「財政と経済は国の要というのは、わかるんです、すごくよくわかるんです!だけど、あんなにたくさん話されると、頭が破裂しそうになるんです!」

 私が半ば泣きそうになりながら、お母様(おたたさま)に訴えると、

「俺も……一応、学問所で、経済学の話を聞いたから、辛うじて松方大臣の話についていけるようなもので……」

兄もこう言いながらため息をついた。

 伊藤さんがウィーンに旅立ってから、松方さんは毎週日曜日の午前中、花御殿にやってくるようになった。そして、私と兄に、経済や財政のことを、眼を輝かせながら、とても嬉しそうに講義するのだ。確かに、松方さんは、私が小さい頃から、「いずれ殿下に、経済のことをお教えせねば」と言っていたし、今回、彼が輔導主任代理になったのも、「良い機会だから、経済と財政のことを教えてやれ」という、お父様(おもうさま)の鶴の一声があったからだ。だから、その期待には応えなければならない、そう思うのだけれど……。

「児玉さんに、孫子の話を聞いてたから、戦争をするにも、経済と財政に対する影響を考えないといけないし、経済や財政が戦争を支配することもある、というのは分かるんですけれど……」

「そう、戦争には金がかかる。敵国に、資本を使わせて消耗させるのも、また戦争の策の一つ。それに限らず、自国の民を富ませる手段として、経済と財政のことは学ばねばならない。それは重々承知しているのです。しかし……」

「やっぱ、理解するのはすごく大変だよ、ねぇ、兄上……」

「梨花の言う通りだな……」

 2人一緒に肩を落とすと、

「あらあら」

お母様(おたたさま)が苦笑した。

「でも、兄上は、後で御学問所の皆と一緒に、分からないところを高橋さんに聞いてるんでしょ?それで大分わかるようになった、って言ってたじゃない」

 私は少し頬を膨らました。御学問所で、兄とご学友さんたちに経済学を講義しているのは、農商務次官の高橋是清さんである。週に1、2回、御学問所に彼が現れるので、兄はその時に高橋さんを質問攻めにして、松方さんの話の疑問点を解消しているそうだ。

「お前も、武官長に説明を受けて、何とか疑問点を解決しているそうではないか」

「うん、そうなんだけど、……何で医療のことが絡むと、経済や財政のことがある程度わかるようになるのか、自分でも不思議なんだよね……」

 私の時代では、医療費が国家予算の中でかなりの割合を占めている。それはどうしてなのか、そして、医療費はどうやって決まっているのかなどなど……問われるままに大山さんに答え、「では、それを踏まえて考えるといかがですか?」と、彼に財政や経済の質問を投げかけられると、不思議と松方さんの講義の内容とつながって、松方さんの講義の内容が理解できてしまうのだ。

 すると、お母様(おたたさま)がニッコリ笑った。

「なるほど、明宮さんも増宮さんも、それぞれのやり方で、苦手なものと取り組んでいらっしゃるのですね。とても素晴らしいことです」

 私も兄もハッとして、自然にお母様(おたたさま)に頭を垂れる。

「その御経験はきっと、今後も明宮さんと増宮さんを助けてくれますよ。財政や経済の知識を得られる、ということだけではありません。困難な物事に立ち向かうことは、人をより成長させるものです」

 微笑みを、私と兄に交互に向けるお母様(おたたさま)に、

(敵わないなぁ……)

と私は思った。お母様(おたたさま)は、他人のことを悪く言ったり、他人に怒ったりすることは絶対にない。そして、どんな物事でも、良い面を見逃さないので、真正面からはもちろんだけれど、思わぬ方向から人を褒める。今まで、その視点に、その言葉に、何度も救われているのだ。

「ふう、では、頑張らなければなりませんね」

 兄がそう言って苦笑した。「立派な皇太子に、立派な帝になるために」

「そうだね、兄上。私も、立派な上医になるために、松方さんの話、頑張って理解しないとね」

 兄と視線を交わすと、

「それがよろしゅうございますね」

お母様(おたたさま)が微笑した。何もかもを包み込む、とても暖かい微笑みだった。

※実際には、この年の華族女学校の運動会は11月19日に行われました。

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