ヴェーラの来訪
1898(明治31)年11月5日土曜日、午後4時。
「ま、ざっとこんな感じになったわ」
花御殿の私の居間には、久しぶりに見る顔があった。ロシアの皇帝・アレクサンドル2世の殺害に関わり、収監されていたシュリッセリブルク要塞から脱走した上に、ニコライ2世を日本で暗殺しようと企てていた元テロリスト、ヴェーラ・フィグネルである。彼女は現在、“エリーゼ・シュナイダー”という偽名を名乗り、埼玉県の忍町に、レーニンと一緒に住んでいる。……そう言ってしまうと、火をつけた火薬に、更に火薬を追加したようにしか思えないけれど、彼女は、レーニン、こと、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフさんをこき使いながら、忍町での高血圧に関するコホート研究に従事していた。開始から5年が経って、データをまとめて、共同研究者の三浦先生と一緒に、私に持ってきてくれたのである。やはり、脳出血や脳梗塞で亡くなったと思われる人では、生前の血圧が高かった人が多い……という、私が狙っていた通りの結果が出た。
「すごいですね。論文にそのまま使えそうです」
私は、ヴェーラが渡してくれた何枚かの紙に目を通すと、机の上にそれを置いた。「血圧が身体に及ぼす悪影響を、世界で初めて示唆することができます。これは……大きな一歩ですよ」
「ウリヤノフ君が、結果をまとめるのを頑張ってくれましてね」
三浦先生が、ニコニコしながら頷く。今日は、梨花会が予定を1週間早めて行われたので、この時間に都合が付いた医科分科会のメンバーが、三浦先生しかいない。
「最近では、日本語をもっと勉強して、東京帝国大学に入ろうかと考えているようです。教育学を学んで、教師になりたいとか」
(大丈夫かな?)
私は少し考え込んでしまった。日本で共産主義思想が蔓延することが、ではない。ウリヤノフさんの命が、である。一昨年、忍に行った時にも、ヴェーラにこき使われていた様子だった。東京帝大の受験勉強を並行してやったら、彼の身体がもたないのではないのだろうか。
「増宮さま?」
私の隣に座っている大山さんが、私に声を掛けた。今日は私の秘密を知らないヴェーラがいるので、珍しく“梨花さま”と呼ばないようだ。
「何か、ご心配ごとでもおありですか?」
「うーん、ウリヤノフさんが過労死しないか心配で」
大山さんに答えると、
「大丈夫よ、章子。ちゃんと、死なないように手加減してるから、あの下僕」
流暢な日本語で、ヴェーラがこう返した。私のことをいつも“章子”と呼ぶのは、この世にただ2人、お父様とヴェーラだけである。呼び方を直すように頼んでもどうせ聞かないだろうから、そのままにしている。
「げ、下僕って、エリーゼ……」
呆気に取られた私に、
「“坊や”の方がいい?」
ヴェーラは再び、こんなことを言って返す。
「……どっちでもいいです」
私はため息をついた。下僕だろうが坊やだろうが、とにかく、レーニンが変なことをしなければそれでいい。
と、
「それにしても、章子、相変わらずサムライなのねぇ」
ヴェーラが、居間の隅に立て掛けられた竹刀をちらりと見て言った。
「は?」
「イタリアの皇族を、蹴飛ばして倒したって言うじゃない。新聞で評判よ」
「正当な防衛行為です。だって、いきなり相手が抱き付いて来たんですもの」
私はムスッとしながらヴェーラに答えた。「私、レイプ、じゃない、強姦されるかと……」
「章子の輔導主任じゃないから、それはないと思うけど」
ヴェーラが呆れたように言う。「けど、最近新聞に載ってる“反イタリア論”って、章子がイタリアの皇族を蹴飛ばしたのが原因でしょう?忍町でも、“イタリアは滅ぼすべし”なんて言ってる人が出てきたわ。少しは、自分の行動に気を遣ったらどうなの?」
「確かに、エリーゼの言う通りなんだけど……」
煽り立てている新聞も悪いと思う、と反論しようとしたら、横から三浦先生が「お言葉ですが、シュナイダー先生」とヴェーラの偽名を呼んだ。
「当然のことですよ。トリノ伯は増宮さまに剣道の試合に敗れた後、突然抱き付いて、“イタリアで結婚式を挙げよう”と言って、増宮さまに辱めを与えようとしたのです」
(は、辱め……)
三浦先生の思わぬ言葉に、私はうっかり、自分の唾液でむせた。妙な方向に、話が膨らんでしまっている。
「増宮さまが、無礼なトリノ伯に鉄槌を下すのは当然のこと。それに賛成するのは、我が国の国民感情としても至極当然のことです」
「……“結婚式を挙げよう”って相手が言ってたのは、後から知りましたし、抱き付かれただけで、それ以上のことはされませんでしたけど」
何とか咳を収めながら、私は三浦先生のセリフに訂正を加える。「どっちにしろ、相手の了承も取らずに、いきなり抱き付いてくる人、結婚相手としては願い下げです」
「ふーん」
私を見ながら、ヴェーラは少し考え込んでいるようだったけれど、
「……じゃあ、どんな人なら結婚相手として許容できるの?」
……突然、真正面からこんな問いを投げかけてきた。
「……?!」
返す言葉を見つけられないでいると、
「どのような方がよろしいのですか?」
囁き声の奇襲が飛んでくる。隣に座った、我が有能な臣下である。
「ちょ……っ!た、馬鹿っ!」
大山さんを、思いっきりひっぱたこうとしたけれど、振り上げた右手は、彼にがっしりと掴まれてしまった。
「よい機会ですから、是非お聞かせいただきたく思います、増宮さま」
私の非常に有能で経験豊富な臣下は、私の右手を掴んだまま微笑している。その瞳から放たれる、優しくて暖かい光が、熱で回転を止めてしまった私の頭を、正しい方向に導いて、思考を深める手助けをしてくれる。結婚相手として、どんな男性を望むのか、前世でも今生でも、ちゃんと考えたことは無かったけれど……。
「包容力が、あるというか……」
口にした途端、身体中が一気に熱くなる。再び止まってしまった頭の回転を、大山さんの瞳を縋るように見つめて、心を落ち着けてから、何とか再開させる。
「心を、預けられるというか……」
「聞こえないわよ」
無情にも、ヴェーラの声が居間に響く。「もっと大きな声で言ってよ」
「だからっ」
私はヴェーラの方を向いた。「し、信頼できる人よ!顔なんて、どうでもいい!私が信頼出来て、私が医者になるのを、反対しない人ならっ!」
「ふーん……」
ヴェーラが私をニヤニヤしながら見ている。「顔が真っ赤よ」
(こ、この野郎っ……)
ヴェーラを睨み付けた瞬間、急に身体が傾いて、軍服の布地に頬が触れた。
「よく頑張られました、増宮さま」
私の身体を抱き寄せ、頭を撫でてくれる大山さんに、
「だったら、大山さんも、エリーゼの質問に乗らないでよぉ……」
顔をうつむかせながら私は抗議した。
「相変わらず奥手ねぇ。だからと言って、章子の輔導主任みたいにはなってほしくないけれど」
「これでも、ご成長されましたよ。結婚なさるお相手の理想像を、きちんと考えることができるようになりましたから」
大山さんの答えに、ヴェーラは肩を竦めると、「そう言えば、章子」と私を呼んだ。
「あなた、本当に医者になるつもりなの?」
「なりますよ。3年後の9月には、女学校を卒業した女子が、高等学校に進学できることが正式に決まりましたから、第一高等学校の医学部の入学試験を受ける予定です」
私は、大山さんの左肩から顔を上げた。
高等学校への女子の進学については、西園寺さんが文部次官だったころから、教育界に許容するよう働きかけていたけれど、大隈さんが文部大臣になってから、その動きが更に加速した。そして、明治34年の9月から、入学試験に合格すれば、女学校を卒業した女子が、高等学校に進学できることが正式に決まったのが、この9月末だった。ちなみに、大隈さんが創立に関わっている東京専門学校も、明治34年の9月から、女学校の卒業生を受け入れることにしたそうだ。
「へぇ……第一高等学校なんて、試験が難しそうじゃない?」
「そうですね。入試の過去問題を確認したんですけど、華族女学校の授業だけだと、少し足りない部分があるみたいなんです」
ヴェーラの質問にこう答えると、彼女は目を丸くした。
「章子……試験まであと2年以上あるのに、もう受験の準備を始めたの?!」
「入学試験に、どの程度の学力が必要なのかは、確認しておかないといけないから」
私はヴェーラに説明し始めた。「同じ量の勉強をするのでも、期間が長い方が、1回1回の勉強量が少なくて済みます。どうしても、勉強以外にやることがたくさんあるから、上手く負担を分散させないといけないんです」
なので、入学試験に向けての学習計画は立てて、それに基づいて受験用の勉強を始めた。こんなことが出来るのは、前世で大学入試を経験済みだからかもしれない。
「賢い方法だと思います」
三浦先生がニッコリ笑う。「女学校の現在の学習進度ですと、高等学校の入学試験にうまく対応できない可能性があります。その差を数か月で埋めるのは大変です。今からコツコツと、学習を進めておくのがよいのではないかと」
「本当は、勉強以外のことに費やす時間を、全部受験勉強に回したいんですけどね。“それはダメ”って、お母様に言われちゃいました」
私が苦笑すると、
「それは、皇后陛下が正しいと思うわよ」
ヴェーラが私に冷たい視線を投げた。「章子、あなた皇族なんだから、教養ってやつも身につけておかないと、馬鹿にされるわよ。日本だと、ええと……何になるのかしら」
「音楽と書道とお裁縫と家政学、それから和歌に茶の湯に生け花に、西洋式の舞踊かな?一応、ピアノと書道は続けています。お裁縫と家政学は、華族女学校でも習いますから、だいぶ縫い物は上手くなりましたよ」
和歌は山縣さんが、総理大臣の業務の合間を縫って教えてくれる。山縣さんには、「総理の仕事が忙しかったら、他の人に代わってもらってください」と言っているのだけれど、彼は「増宮さまの和歌を拝見するのが、わしの心の慰めになりますので」と不思議なことを言いながら、私の和歌を添削していた。茶の湯と生け花は、もう1年経てば、華族女学校でも希望者に教える、ということなのだけれど、授業があるのが土曜日の午後なので、医科分科会や梨花会、勝先生の面談とぶつかってしまう。だから、どうしようか考えているところだ。
「まぁ、日本の伝統文化に由来するものは、章子が逃げようとしても、教えたい人が山ほどやって来るでしょうね」
「……それは否定できません」
私はため息をついた。もし山縣さんが、私が茶の湯の先生を探している、と聞いたら、自ら先生になると言ってくるような気がしてならない。彼には茶の湯の心得があるそうなのだ。ちなみに、井上さんも茶の湯に造詣が深いと聞いた。
「それで、舞踏はどうするの、章子?」
「習い始めましたよ。習い始めるまでが大変でしたけれど」
これも、先生が決まるのにひと悶着あったのだ。この9月から、兄と2人で西洋式舞踏の練習を始めることになったのだけれど、井上さんと大山さんと陸奥さんと威仁親王殿下が、なぜか舞踏の教師の座を争った。それぞれが「鹿鳴館を作ったのはこの俺だ」「それなら、“鹿鳴館の華”と呼ばれた、うちの捨松のステップを梨花さまに」「いや、“鹿鳴館の華”なら、僕の亮子も負けてはいない」「外遊で鍛えた私の舞踏を、是非お2人に伝授したい」などと主張して、話し合いでも決着しなかったので、お父様が仲裁に入り、親王殿下に舞踏を習うことが決まった。月に1、2回ほど、親王殿下の家に兄と一緒にお邪魔して、親王殿下と慰子妃殿下に舞踏のレッスンを受けている。
「舞踏の件は残念でした。捨松も、増宮さまが我が家においでになるのを楽しみにしていたのに」
大山さんが、冗談めかした口調でこう言って、軽くため息をつく。
「その様子だと、大山サンも、章子に舞踏を教えようとしたのね」
ヴェーラが顔をしかめた。「呆れた。あなたたち、章子のことをとことん可愛がりたいのね」
「シュナイダー先生、増宮さまのみならず、大山閣下にもぞんざいな言葉づかいを……増宮さまはお許しになっておられますから、注意はしておりませんでしたが、流石に大山閣下相手には……」
目を少し怒らせる三浦先生に、
「よいのですよ。エリーゼとは昔からの知り合いですから」
と大山さんは穏やかに返す。その横で、
(いや、いつも皆、なかなか手厳しいんだけど……)
私はこっそりため息をついていた。梨花会の面々が、私に甘い言葉ばかり掛ける訳ではない。手厳しい言葉や、私を考えさせる言葉もたくさん投げてくる。でも、その方がいい。その厳しい言葉の裏に、私を成長させたい、上医にしたいという皆の思いが、ふとした折に感じられるから、私も可能な限り頑張らなければいけないと思うのだ。
「増宮さま?」
大山さんが私を呼んだ。「いかがなさいましたか?」
「そうね……」
私は少し考え込んで、口を開いた。
「皆に飽きられないようにしないといけないな、って思って」
「そう思われているのであれば、大丈夫でございますよ」
大山さんは微笑むと、私の右耳に口を近づけた。
「それに、梨花さまは、俺の大切な方でございますから」
その囁き声で、心が少し軽くなった気がした。
※まぁ、身につけるべき“教養”に関しては、色々突っ込めば絵画などもあるのですが、挙げていくとキリがないので、今回はこの辺で。




