閑話 1898(明治31年)寒露:竹馬の友
1898(明治31)年10月22日土曜日、午後6時半。
「何だ、これは……」
東京市麻布区新網町にある、厚生次官・後藤新平の自宅。応接間の壁に掛かった絵を見て言葉を失ったのは、本日の客である斎藤実国軍大臣官房長だった。
「これか」
幼馴染の質問に、後藤次官は得意気に答えた。「これこそが、何を隠そう、ドイツの皇帝陛下が増宮殿下に贈られた絵だよ」
「はぁ……あの、“世界の諸国民よ、美しい日本の女神を守れ”という奴か?」
ようやく斎藤官房長が答えると、「その通りだ」と、後藤次官は何度も嬉しそうに頷いた。
「恐れ多くも、増宮殿下から直々にいただいたのだ。それ以来、毎日これに祈りを捧げてから出勤している」
後藤次官はそう言うと、絵の中の天照大神に向かって拝礼し、柏手を打つ。天照大神は美しい少女の姿をしているが、見る者が見れば、今上の第4皇女・増宮章子内親王に似ていた。
「全く……。この頃の情勢には、どうも付いて行けぬな」
「おいおい、国軍大臣官房長がそれでどうするのだ。いや、今は児玉閣下が外遊中だから、大臣官房長兼参謀本部長事務取扱か」
「いや、俺には少し荷が重いよ、新平。なぜ俺が、官房長や、参謀本部長を仰せつかるのか……さっぱり分からないのだ」
「何を言う、“国軍の麒麟児”が」
後藤次官は苦笑した。「西郷閣下も児玉閣下も山本閣下も、実のことを誉めておられる。竹馬の友として、我輩も誇らしいのだ」
そう言った途端、後藤次官の妻の和子が応接間に入ってきて、料理を数品机に置いた。
「ビールは1ダース準備しましたが、足りますかしら、斎藤さま?」
「お気遣いありがとうございます、奥様」
幼馴染の細君に一礼して、
「……どうせ、新平は飲まないのだろう?」
と、斎藤官房長は尋ねる。
「ああ。我輩は茶でいい。帰朝して以来、増宮殿下に、禁酒と禁煙を誓っているからな」
「そうか」
斎藤官房長はビール瓶を右手で掴んだ。
「実、注ごうか?」
「やめておけ、新平。俺の飲みっぷりでは、注ぐ手が追い付かん。1人でやらせてもらうよ」
そう言うと、斎藤官房長は手酌でビールを飲み始めた。
「しかし、“情勢に付いていけない”とは、どういうことなのだ、実」
後藤次官がそう尋ねたのは、斎藤官房長があっという間にビールを3瓶飲み干した時だった。
「あ……すまん。もしや、我輩は聞いてはいけない話だったか?」
うつむいた後藤次官に、
「別に構わないさ」
斎藤官房長は微笑した。「次官の中でも、お前と、山本閣下と、農商務省の高橋閣下には相談しても構わんと、児玉閣下と西郷閣下と大山閣下には言われている」
「ああ、そうなのか。……無論、我輩、今日話したことは秘密にしておく」
大山東宮武官長の名前が出たということは、中央情報院も絡んだ話なのだろう。秘密を漏らして、国家を窮地に追い込む真似はしたくない。そう思った後藤次官は、情報の秘匿をしっかりと請け負う。それを確認した斎藤官房長は、「最近、入ってきた情報だが」と口を開いた。
「……オーストリア国内で、イタリアに対する強硬論が、急速に盛り上がっているらしいのだ」
「イタリアとオーストリアと言えば、ドイツとともに同盟を組んでいるではないか」
後藤次官は声を潜めた。「ドイツではどうなのだ?」
「ドイツでも、オーストリアの強硬論に同調する者が出始めているそうだ。しかも、オーストリアの強硬論を聞いた皇帝が、“同盟破棄も辞さない”と発言したらしい。12月初めに行われる、オーストリアの皇帝陛下の在位50周年記念式典の時に、同盟存続について話し合うと言い始めているとか……。おまけに、ロシアでも“オスマン帝国と結んでイタリアに攻め込む”という論が、皇帝の口から出たそうだ」
「とんでもないことになってきたな」
幼馴染の言葉に、妻の手料理をつついていた後藤次官の箸が止まった。オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝、フランツ・ヨーゼフ一世の在位50周年記念式典には、閑院宮載仁親王が、今上の名代として9月半ばに出発している。ヨーロッパ諸国を歴訪する予定の載仁親王に、児玉参謀本部長も随行していた。また、つい先日、伊藤枢密院議長が、全権大使としてウィーンに向かって出発している。
「一体、原因はなんだ?」
「それが、どうも腑に落ちない」
斎藤官房長は、ビールを注ぐ手を休めた。「直接の原因は、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公が、イタリアのトリノ伯を糾弾し始めたことだ」
フランツ・フェルディナント大公は、フランツ・ヨーゼフ1世の甥で、5年前に来日している。父親が2年前に亡くなったため、オーストリアの皇位継承者に認定されていた。
「フランツ大公の主張にオーストリアの世論が反応し、更にドイツの皇帝が同調しそうになっている、という、まぁここまでは分かる。ロシアの皇帝が、この情勢に乗じて、ヨーロッパで不凍港を手に入れようと思いつく……それもわかる。だが、大元の、フランツ大公の強硬論が出てきた原因が、増宮さまだというのだ」
斎藤官房長はため息をついた。「先日、増宮さまがトリノ伯と剣道の試合をされて、抱き付いたトリノ伯を蹴り飛ばされただろう。その時のトリノ伯の振る舞いがよろしくないと、大公はそう主張して気勢を上げているらしいが……」
「大公がそう主張されるのは、当たり前の話ではないか」
後藤次官は、考え込む幼馴染に、不思議そうな視線を向けた。「我輩もその場にいたが、まさか試合に負けた後に、トリノ伯が増宮殿下に急に抱き付くとは思ってもいなかったぞ。しかも、後から聞けば、トリノ伯はずうずうしくも、“イタリアに一緒に行って結婚式を挙げよう”などと、増宮殿下にイタリア語で言っていたそうだ。断じて許せん!」
語っているうちに興奮したのか、後藤次官は机を左の拳でドンと叩いた。妻の手料理が入った何枚かの皿と、何本かのビール瓶が、一瞬ほんの僅かに宙に浮く。
「は、はぁ……」
斎藤官房長は、幼馴染の言葉に、何とか相槌を打つことが出来た。
「天皇陛下も、あの場で、“朕の娘に何をする!”と、トリノ伯を咎められた。あの無礼で粗野な男が、恐れ多くも増宮殿下に近づくなど、絶対にあってはならん!」
「ほ、本当だったのか、陛下が微行で試合をご覧になったというのは……。その情報の真偽が分からなかったゆえ、あの場にいたという新平に、今日そのことを確認できればと思っていたのだが……」
表情を強張らせた斎藤官房長に、
「ああ、本当のことだ。この耳でハッキリと聞いたぞ。列席された閣下方も、“イタリアに宣戦布告するか……”などと口走っておられた」
両頬を紅潮させた後藤次官は答えた。
「アジアの我が国と、遠く離れたヨーロッパとアフリカに領地があるイタリアと戦争するなど……、閣下方は世界大戦でもしたいのか?」
斎藤官房長は頭を抱えた。「作戦を考える国軍の身にもなってくれ。世界大戦など、まっぴらごめんだぞ」
「おい、参謀本部長事務取扱が、そんなことでどうするのだ!オーストリア、ドイツ、そしてロシアとオスマン帝国。もちろん、イギリスと清も我が国に味方して、増宮殿下への無礼に及んだイタリアに鉄槌を加えるだろう!実、お前は世界情勢が見えていないのか?!」
「状況が見えていないのはお前の方だ、新平。実際にそんな規模で戦いが起こってみろ。参加した各国は、戦費を、イタリアの植民地を取り上げ、イタリアに多額の賠償金を負わせることで賄おうとする。例え短期間で戦いが終わったとしても、イタリアの経済に大打撃を与える。そうすれば、イタリア各地で暴動が発生するだろう。その中から過激な思想を持つ者が生まれて政権を奪取し、その過激な思想でもって世界を侵略し始めればどうなるか……」
「?!」
幼馴染の反論に、今度は後藤次官が頭を抱えた。背筋に冷水を浴びせられたような心持ちがする。確かに、増宮内親王に聞かされた“史実”では、第一次世界大戦後、イタリアに訪れたインフレーションにより、労働者の暴動が発生し、それを鎮めようとする地主たちと結託する形で、ムッソリーニという人間が台頭して政権を握ったのだ。そして、国際社会で孤立を深めた彼は、次第にドイツや日本と近づき、日独伊三国同盟を結成し……。
(第二次世界大戦へと進んでいき、我が国が敗北する!それが、この時の流れでも起こってしまいかねないということか……)
斎藤官房長は、“梨花会”には加わっていないから、“史実”のことはもちろん知らない。しかし、世界大戦が発生してしまった場合の未来の予測を、自分の専門の海兵のことではなく、政治と経済の方面から見事にやってのけた。
「いや、確かに実の言う通りだ。……頭に血が上って、我輩、少し周りが見えなくなっていたようだ。感謝するぞ」
後藤次官は素直に頭を下げた。
「分かってくれたのならよい。確かに、西郷閣下も山本閣下も、トリノ伯に怒っておられたが、イタリアの国王陛下の詫び電報が届いて矛を納められたのは、やはり新平と同様に、冷静に計算されたのだろう。日本国内で、反イタリア論が盛り上がっているのは、どうにかする方がいいと思うが、後で大山閣下に相談するか……」
そう言いながらビールをコップに何度も注ぎ、立て続けに飲み干す斎藤官房長に、
(正しく、“国軍の麒麟児”だ。米国駐在でぐんと力量を増して……我輩も負けていられぬな)
と後藤次官は思った。生まれ年は、自分が1年上だ。同じ町内で生まれ育った、まさに“竹馬の友”とも呼ぶべきこの幼馴染とは、互いに切磋琢磨し、ほぼ同じ頃に共に上京した。自分は医者、相手は軍人と、歩む道こそ違えてしまったけれど、優秀な幼馴染が中央で、自分の近いところで働いているというのは、後藤次官にとっては、とても心強いことだった。
「知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを……か」
齊藤官房長は再びコップに手を伸ばし、中身のビールを一気に飲み干した。
「ん?」
「何でもない。ただ、同じ夢でも、下らなくても平和な夢の方がいいと思っただけだ」
齊藤官房長はそう言いながら、新しいビールの瓶に手を伸ばす。「だが、俺は増宮さまのことをよく知らぬ。だから、フェルディナント大公が、なぜそこまで増宮さまに夢中になるか、今一つ分からないのだ」
斎藤官房長は、コップの中身を瞬く間に空にした。「ニコライ陛下も、増宮さまに無礼を働いたトリノ伯を許しておけない、と発言したらしい。はぁ……一体どういうわけなのか」
すると、
「では、この我輩が、たっぷり教えてやろう!」
後藤次官は力強く答えた。
「は?」
「増宮殿下が、いかに愛らしくてお美しく、ご聡明でお優しく、剣にも優れ、医学の道にもご造詣が深いかを!」
そう言うと、後藤次官は機関銃のように、増宮内親王を称える言葉を吐き出し始め、斎藤官房長はその後2時間、ビールをコップに注ぐ機会を完全に失ったのだった。




