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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第23章 1898(明治31)年立春~1898(明治31)年寒露
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通過儀礼と血液型

 1898(明治31年)5月7日土曜日、午後2時。

「長きに渡って東京を空けてしまい、誠に申し訳ありませんでした、北里先生」

 花御殿の私の居間。私の前には、久しぶりに見る人が座っていた。大阪の医科研分室で、高峰譲吉先生と一緒に、細菌の大量培養について研究していた石神(いしがみ)(とおる)先生である。

「いや、石神君、よくやってくれた」

 北里先生は、ニコニコ頷きながら、嬉しそうに何度も頷いている。(ドンネル)を落とす気配は微塵も感じられない。

 高峰先生と石神先生は、ペニシリンを作るアオカビを液体培地で大量に培養する方法を確立した。2月の紀元節の直前に完成して、厚生大臣の原さんが、紀元節の日にそれを知らせてくれようとしたのだけれど、私が、兄が節子さまにプロポーズするところを見守ろうとしていたので、私の手元にその知らせが届いたのは、翌日の梨花会の日だった。

――意外だな。奥手な主治医どのが、恋愛に興味を持つとは。

 兄に気配がバレて退散した後、原さんには、散々からかわれてしまったけれど、……まぁ、あれだ。主治医として心配だったのだ。兄のプロポーズが上手く行かなかったら、兄の後々の体調にも影響してしまうのだから。

 ……話が逸れたけれど、培養方法の特許も無事に取得でき、実際に培養にも成功して、石神先生は、今回精製したペニシリンを私に献上しに上京してくれた。今日は医科分科会だし、これから新しいメンバーもやってくる予定だし、ちょうどよいタイミングになった。

「ええと、生産能力ってどのくらいですっけ?」

 私が尋ねると、

「1ヶ月でおよそ20人分です」

と石神先生は嬉しそうに答えた。

「今までの5倍以上ですね」

 三浦先生の顔が綻んだ。柔らかな春の陽気が、彼を中心にして更に広がる。

「増宮さまから伺った話では、未来ではもっと生産能力が上がっているはずだ、とのこと。目下、現在の約10倍にすることを目標として、更なる培養に挑戦しているところです」

「あれ?そうなると、石神先生が東京に戻って大丈夫なんですか?」

 私は意気込む石神先生に聞いた。

「実は、アメリカの製薬会社の研究者たちと合同で、更なる大規模な培養の研究を進めることになりまして、彼らが医科研に来て、高峰先生を手伝ってくれることになったのですよ」

「へえ、アメリカの会社と……」

 私は頷いたけれど、少しだけ不安になった。恐らく、高峰先生と陸奥さんのコネで決まった話だろうけれど、特許権を取られてしまったり、技術をアメリカ側に盗まれてしまったりしないだろうか。

 と、

「ご安心を」

私の隣に座っていた大山さんが、私に耳打ちした。

(おい)が調べて大丈夫だった会社や研究者のみを近づけています」

 大山さんの囁き声に、私は軽く頷いた。一瞬出てしまった表情から、私の疑念を読み取ったのだろうけれど……この非常に有能で経験豊富な臣下には、本当に敵わない。

「アメリカですか。日本とは環境が異なりますから、様々な細菌がいそうですね。きっと、有益な物質を産生する菌も見つかるでしょう」

 ニコニコする森先生に、

「ええ、私も楽しみにしているのです。アメリカの研究者が持ってきてくれた土壌の分析を、早く浅川先生と一緒にしてみたいと……」

石神先生はこう言った。

「ということは、北里先生が、浅川先生の仕事を手伝わなくていいことになるから……」

「ええ、増宮殿下。なので、野口先生には別の研究をしてもらおうと思っているのです」

 私の言葉に、北里先生が自分の言葉をかぶせた。野口さんは、北里先生の破傷風とジフテリアの血清生産の仕事を手伝っていたのだ。

「というと、一体何を?」

「蛇毒の血清についての研究を」

「ああ、それ、いい考えです!」

 私は北里先生にニッコリ笑った。確か、野口さんは“史実”でも、蛇毒の研究をしていたはずだ。それに、私の時代でも、蛇に噛まれたときには、毒素に対する血清が治療に使われることが多々あった。

「毒蛇って言うと、マムシとかヤマカガシとかかな?沖縄に行ったらハブだけど」

「お詳しいですね、殿下」

 目を見張るベルツ先生に、

「そりゃあ、山城探索の時には気を付けないといけませんから」

私は胸を張った。山城の跡では、虫はもちろん、毒蛇やクマに出くわす危険もゼロではないのだ。

「なんなら、私、野口さんを手伝ってもいいですよ。毒蛇を警戒しながら歩くのは、前世でも今生でも慣れていますから」

(そのついでに私は、城跡を探索して……)

 4月には、佐倉城と本佐倉城の跡を訪ねることができた。けれど、それだけで満足する私ではない。東京から日帰り出来る範囲に限られるだろうけれど、野口さんが毒蛇を捕まえる場所を城跡に設定すれば、彼の研究を手伝うついでに、定期的に城跡探索が出来るかもしれない。そう思っていると、

「で、殿下、それはいけません!」

北里先生が血相を変えて私に向き直った。

「へ?どうしてですか?」

「どうしてですか、とは……殿下、お忘れですか?昨年の騒動を……」

 北里先生に言われて、私は去年、野口さんが医術開業試験の免許を取った時のことを思い出した。

「……確かに、山の中でセクハラされたら、野口さんがとてもまずいことになりますね」

 私の必殺の回し蹴りを食らった野口さんが、がけ下や空堀の底に転落する可能性もある。打ち所が悪ければ死んでしまうだろう。

「おっしゃる通りです」

 大山さんが私を見ながら苦笑する。「梨花さまのお身体を抱き締めてよいのは、梨花さまが心を預けていらっしゃる方だけですから」

「お、大山さん?!こ、心を、あずけて、って、そん、な……」

 全身が、火を付けられたように一気に熱くなる。そんな私に、一同の視線が集中した。

「もう、大山さん、止めてよ……みんな、私のこと見てるから……」

 うつむいて、大山さんの軍服の袖を引っ張ると、

「いや……いつもお美しいですが、頬を紅くされると、一段と殿下のお美しさが増します」

ベルツ先生が突然こんなことを言った。

「ちょっ?!」

 目を見開くと、森先生や三浦先生、そして石神先生や北里先生までもが、「ええ」「さようですな」などと一斉に頷いた。

「もう……からかうの、やめてくださいよ、みんな……」

 私が顔を思いっきりしかめた時に、「失礼いたします」と障子の外から母の声がした。

「東京帝大の近藤先生がいらしていますが、いかがいたしますか、増宮さま?」

 そう言いながら、障子を少し開いた母に、

「ああ……ここに通してください」

私は何とか答えた。

「あら、皆さんにからかわれてしまったかしら」

 私の顔を覗いた母が、クスリと笑いながら去っていく。

「あの、近藤先生が来たから、みんな、席を詰めてもらっていいですか?」

 何とか真面目な表情を作って、一同を見渡すと、

「かしこまりました」

と、ベルツ先生が一礼した。

「では、こちらも準備をしなければいけませんね、ベルツ先生」

 白い軍服姿の森先生が椅子から立ち上がる。

「ええ、私も手伝いましょうか、森先生」

 北里先生もニヤニヤしながら席を立ち、森先生と連れ立って、私の居間から出て行った。


 5分後。

「一体、何をするつもりなんですか、先生方は……」

 首を傾げた私に、

「何、人が倒れてもいいように、準備を」

深緑色の座布団を4、5枚抱えて居間に戻ってきた森先生は、落ち着き払って答えた。

「ええ、私も、森先生の手伝いを」

 北里先生も、座布団を何枚か抱えている。

「経口補水液は準備して、合図があれば、花松どのに運び入れてもらうようにしております。あと、血圧計も準備しておりますし」

 ベルツ先生も、カバンから血圧計と聴診器を取り出すと、ニッコリ笑う。

「北里先生、一体、何をされるおつもりで……」

 石神先生が恐る恐る尋ねると、

「何、備えあれば患いなし、だよ、石神君」

北里先生が得意げに鼻をうごめかせる。

「だから、何の準備ですか?」

 私がまたため息をついた時、「し、失礼いたします!」と、緊張した声が廊下から聞こえた。

「お……お久しぶりでございます、増宮殿下」

 母に案内された東京帝国大学医科大学の外科学助教授・近藤次繁(つぐしげ)先生が居間に足を踏み入れ、私に最敬礼した。紺色のフロックコートを、ピシッと着こなしている。

「あ、お久しぶりです、近藤先生。昨年の夏は驚かせてしまって、申し訳ありませんでした」

 私は椅子から立ち、軽く頭を下げた。

「た、たた大変恐縮でございます」

 近藤先生は少しだけ上げた頭を、また私に向かって深々と下げた。

「増宮殿下、今日新しく医科分科会に加わる医師、というのは、近藤先生のことですか?」

 石神先生が私に質問する。

「はい、そうです」

 私は頷いた。昨年の野口先生の手術の時は、彼の態度に少しだけムカついたので、後で変装の正体をバラしてビビらせてやったけれど、彼の手術の腕は確かだ。なので、ベルツ先生たちと相談して、医科分科会に加えることにしたのである。

「せ、浅学菲才の身ながら、末席に加えていただき、誠にありがとうございます。まさか、今まで我が国がなした数々の医学上の重要な発見が、増宮殿下がお持ちの未来の知識から生まれたものだとは露知らず、大変失礼を致しました……」

 近藤先生が緊張したまま、こう言った。

(あれ?)

「あの、近藤先生、“未来の知識から”……ってことは、もしかして、私に前世があるの、ご存知でしたか?」

 近藤先生の言葉に引っかかった私が首を傾げると、

「あ、はい、その通りでございます」

近藤先生は一礼した。

(え……?!)

 私の前世が、今から約120年後の未来に生きていた人間であることは、ごく限られた人間しか知らない事実だ。まさか、誰かから近藤先生に漏れたのだろうか。

(と言っても、梨花会と医科分科会、それに産技研の先生たちも含めると、結構な数の人間が、私の前世のことを知ってるからなぁ……誰から漏れたか探るのは、物凄く大変かも……)

 などと考えていると、

「実は、あらかじめ、近藤先生に伝えておいたのですよ」

三浦先生が、のんびりと答えた。

「え?」

「近藤先生が、野口先生の手術の時に、増宮さまに手ひどくやられた話を聞きまして」

 問い返す私に、三浦先生は、春風のような微笑を湛えながら言った。「このまま、花御殿で増宮さまのことを明かされてしまったら、近藤先生が、私のように倒れてしまうのではないかと思ったのです」

「あ、そういうことですか……」

 私はホッとした。流石、三浦先生だ。確かに、近藤先生が花御殿で倒れてしまったら騒動になる。

 一方、

「「「……」」」

森先生と北里先生とベルツ先生は、明らかに不満そうな表情になった。大山さんは、その3人を見ながら、クスクス笑っている。

「三浦君、余計なことを……」

 森先生が少し唇を尖らせた。

「せっかく、近藤君が倒れても大丈夫なように、万全の準備をしていたというのに」

 北里先生が座布団を抱えたまま、頬を膨らませる。

「それで、人の家の座布団を持ち出していたんですか、先生方……」

「ええ、増宮殿下のことを明かされて驚くのは、医科分科会の通過儀礼のようなものですから」

 ベルツ先生が大真面目に頷いたので、私は大きなため息をついた。

「先生方、残念がってないで、話し合いをしましょう」

 私は近藤先生に空いている椅子を勧めると、自分も椅子に座った。

「外科の先生にせっかく来ていただいたから、今日は外科手術の問題点について話し合えればいいかな、と思うんですけれど、皆さん、いかがですか?」

 私が一同を見渡すと、医科分科会の前からのメンバーは一斉に頷き、

「ああ、実にありがたいことでございます!」

近藤先生は感激の面持ちで叫んだ。「実は、増宮殿下のことを知ってから、是非、それを聞いてみたいと願っていたのです!」

「では、早速ですけれど、今の外科手術の問題点って、一体どんなことですか?」

「大きな手術に分類されるもの……例えば、胃がんの手術の死亡率が高いことです」

 先ほどとは一転、深刻な表情を浮かべた近藤先生に、

「ああ、なるほど」

三浦先生も頷いた。

「私は昨年、胃がんの手術を、日本で初めて成功させました。しかし、症例を重ねていますが、胃がんの手術は死亡率が高いのです。手術した患者の3、4割は、退院できずに死んでいきます」

「そんなに?!」

 私は目を見開いた。私の時代、胃がんの手術でこんなに死亡率が高いことは絶対にない。

(手術の方法が違うのかな?)

 そう思って、近藤先生に手術の方法を詳しく聞いてみたけれど、私の時代の、開腹しての胃がんの手術の方法とほとんど変わりが無かった。

「おかしいですねぇ……。ちなみに、手術が上手くいかない患者さんって、何が原因で亡くなるんでしょうか?」

 私は近藤先生に更に尋ねてみた。

「一番は、やはり出血でしょうか」

 近藤先生は顔をうつむかせた。「胃の周辺には血管が多数あります。それらを傷つけないように細心の注意を払っても、やはり幾ばくかの出血はあります。それに体が耐えきれず、血圧が下がってしまって亡くなってしまうのです」

「なるほど……」

 両腕を組んで、少し考えこむ。そして、あることに思い至った。

「あの、近藤先生、手術の時やその後に、点滴や輸血ってやってますか?」

「は……点滴や輸血、ですか?」

 近藤先生だけではなく、三浦先生や森先生も首を傾げた。

「輸血は、確か失敗も多かったのではないですか?」

 北里先生の質問に、

「その通りです、北里君。アメリカの南北戦争や、普仏戦争で試みられたと聞きましたが……」

ベルツ先生が答えた。

「輸血で失敗が出るのは、血液型が合っていないからです」

 私が言うと、また全員が首を傾げた。

「あー、そうか、まだ血液型、発見されてないから……。ええとですね、人間の赤血球の膜には、眼に見えない何種類かの物質が付いています。それは人によって違います」

 本当は、膜の上にある抗原と、それに応じて形成される抗体によって血液型が分類されるのだけれど、なるべく簡単な言葉を選んで私は話し始めた。「その物質の種類が合った血液が輸血された場合は、輸血された人に副作用は起こりませんけれど、合わない血液を輸血された場合は、副作用が起こってしまうんです。私の時代では、その分類方法が何種類も分かっていました」

 私は一度言葉を切って、一同を見渡した。

「いつかは血液型のことを、誰かに研究してもらわないといけないと思っていたんですけれど、今がその時、みたいですね……」

 胃がんだけではない。大腸がんやその他のがん、そして心臓や肺、脳の手術……細心の注意を払ったとしても、あらゆる手術は、出血の危険と隣り合わせにある。万が一、大量に出血しても、回復できる方法があるということは、手術の最終的な成功率を高め、手術の技術の発展につながるだろう。もちろん、戦争や災害で大けがをして、大出血した時も、輸血ができれば救命率は上がるだろう。肝炎ウイルスなど、血液を介して感染する病原体への対策は考えていかなければいけないけれど……。

「近藤先生、あなたの手術をより安全なものにするためにも、血液型と輸血の件、研究してもらえないでしょうか?」

 私の言葉に、近藤先生は力強く頷いた。

※正確には、胃がん手術の死亡率は、参考文献(梶谷鐶「胃がんの外科と私」(「加仁」第17号))によると、もう少し後年、1900年に入った直後に3、4割ぐらいだったようですが……それ以上資料が検索できなかったので流用しました。ご了承ください。

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[気になる点] 母に案内された東京帝国大学医科大学の外科学助教授・近藤次繁つぐしげ先生が居間に足を踏み入れ、私に最敬礼した。紺色のフロックコートを、ピシッと着こなしている。 最敬礼をされる人がいる部…
[気になる点] >毒蛇って言うと、マムシとかヤマカガシとかかな ヤマカガシが毒蛇だと分かったのは結構最近で、この時代だと普通の蛇だと思われていたはずですけど、誰もそこに突っ込んでいないですね。
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