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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第23章 1898(明治31)年立春~1898(明治31)年寒露
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米西戦争消滅作戦

 1898(明治31年)2月26日土曜日、午後2時。

「肩の荷が下りたよ……」

 今日は月に一度の、私と兄の学習状況を確認するための勝先生との面談だけど、開口一番、花御殿の応接間の椅子に腰かけた勝先生がこう言った。

「慶喜公のことですか」

 尋ねた兄に、

「ああ、そうですよ。やっと、両陛下と慶喜公が、会えたんですからねぇ」

紺色のフロックコートを着た勝先生は答えて、ハンカチーフで目元を拭った。

 一昨日、2月24日木曜日、徳川慶喜さんが参内した。そして、お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)と共に昼食をとり、帰っていった。

 文章にすれば、100文字にも満たないことだ。けれど、それが実現するまでには、各方面での大変な努力があった。勝先生はもちろんだけれど、威仁親王殿下や三条さんも、宮内大臣の土方さんと一緒に、皇族たちに根回しした。山縣さんをはじめとする梨花会の閣僚たちも、官僚内で燻る反対論を封じ込めたし、陸奥さんや山田さんなど、貴族院議員の梨花会のメンバーや伊藤さんも、名だたる華族たちに根回しをしてくれたのだ。本当は、華頂宮(かちょうのみや)博恭(ひろやす)王殿下が、慶喜さんの娘さん・経子さまと結婚したあとすぐにでも、というペースで話が進んでいたのだけど、皇太后陛下が亡くなったために遅れてしまい、結局、“史実”より約1週間早いこの日に対面となった。

「昨日、慶喜公が、おれん()にお礼にいらしてくれてよ……“尽力してくれて礼を言う”と言ってくださった。ああ、おれも生きていた甲斐があった。ようやっと冥土に……」

「「行かせませんよ」」

 私と兄の声が重なった。

「勝先生って、時々、医者の前で言っちゃいけない台詞を口にしますよね」

 私は勝先生を軽く睨んだ。「ベルツ先生に聞きましたよ。最近、また少し血圧が高いって」

「あ、いや、その……ちゃんと、塩っからいおかずは、家でも減らしてもらってるし、散歩もしてる」

 少し慌てる勝先生に、

「分かってますよ。それに、冬だと、どうしても血圧が上がりやすくなりますからね。降圧薬をなかなか見つけられないのが、本当に申し訳ないですけれど……」

私は苦笑してから頭を下げた。

 残念ながら、新規の薬物を合成する能力は、この時代の日本はまだ低い。そこはドイツやイギリスなど、化学物質の合成に長けている国の後を追うしかないのだけど、血圧を下げる薬は、現時点ではドイツやイギリスでもまだ合成されていない。けれど、植物に含まれる物質で、血圧が下がる作用のあるものを探す方法もある。その考えのもと、牧野富太郎さんを中心とする医科研の薬用植物探索チームは、日本だけではなく、世界中を飛び回っていた。

「身体は労って下さい、勝先生」

 兄が、勝先生に心配そうな視線を向ける。「まだまだ、わたしと梨花を鍛えてもらわなければ」

「そりゃそうなんだけどよ、皇太子殿下はご成人されてから、ずんとご成長されてるし……」

「勝先生らしくもないお言葉です。先生方に比べれば、わたしはまだ未熟者です」

 兄はそう言って苦笑する。先月の紀元節の日に成年式を挙げてから、兄はますます風格が出てきた。

「それに、増宮さまも、“梨花会”の議論についていけてるし」

「勝先生、それ、議論を聞くのに慣れただけです。議論の内容そのものは、理解するのがやっとです」

 勝先生の言葉を、私も否定した。毎週土曜日に、“結核完治後の経過観察”と称して花御殿にやって来る陸奥さんと、私と兄の将棋の相手をするという名目で花御殿に来る原さんとの議論を聞かされはじめて、1年半の月日が経っている。その甲斐あってかどうかはわからないけれど、議論の言葉を追って、内容を整理するのだけは慣れてきた。ただ、整理した内容そのものの意味が分からないことは多々あって、原さんと陸奥さんが花御殿を去った後に、大山さんにこっそり意味を確認している。

「梨花さまのおっしゃる通りですね」

 私の隣に座っている大山さんが微笑して、私の言葉を補足しにかかる。

「ついていけているのは、一度お聞きになった話題だけです。未知の話題ですと、御理解されるのに時間がかかります。まだまだ、梨花さまにはご修行が必要です」

「はは、主君に手厳しい臣下だねぇ、大山さんは」

 勝先生が両腕を組んで笑った。

「いつものことです、勝先生。それに、大山さんは、私が逆立ちしたって敵いっこないんですから、語学以外は」

 私がこう答えると、勝先生が少し首を傾げた。

「語学?てぇと……」

「近頃、梨花のフランス語の成績が上がっているのです」

 兄が苦笑しながら付け加える。「もしかしたら、首席になれるかもしれないな。もし首席になれば、卒業式の時、お母様(おたたさま)の前で答辞を読むことになるが」

「あー、それは勘弁して欲しいなぁ。来賓の母親の前で答辞を読むって、ちょっと恥ずかしいから」

「と言って、勉強の手を抜いたら承知しないぞ」

「当たり前じゃない。フランス語もきちんとマスターして、せめて語学だけでも大山さんに追い付く。それで、一高の医学部に受かってやるんだから」

「その意気や良し、だねぇ」

 勝先生がにやりとする。「主君が臣下に追い付くように頑張るってのは、ちょいと変な話だが、まぁ頑張んなよ、増宮さま」

 勝先生の言葉に、私は黙って頷いた。

 そして、

「期待しておりますよ、梨花さま」

非常に有能で経験豊富な私の臣下は、主君(わたし)に穏やかな微笑みを向けた。


 そこからは、またいつものように、勝先生が、資料を見ながら、私と兄の学習状況を確認していった。この面談のために、御学問所の兄の成績表や講師の先生の短評だけではなく、私の華族女学校での成績表や、担当の先生の短評まで準備されるのだ。華族女学校の先生方には、本当に迷惑をかけてしまっている。

 それが終わると、大体は雑談になる。と言っても、「何を聞いてもいい」と勝先生に言われているので、私も兄も様々な疑問を勝先生にぶつけ、それで設定された面談時間が終わるのが常だった。

「実は、梨花と話し合っても、先日梨花会で言われたことが、よく分からなかったのですが……」

 兄が眉をしかめながら勝先生に尋ねると、

「米西戦争が起こるのを防ぐってことですかい?」

と勝先生が言った。

「はい、発生するのを防ぐ過程は理解できるのですが、それをなぜやらなければならないのか、そこがどうも理解できませんでした」

 兄の言葉に、

「私は、戦争を起こさないようにする過程も、いまいち理解できなくて……」

と私も便乗した。米西戦争は、“史実”で1898年……ちょうど今年に起こった戦争で、結果として、アメリカがスペインに勝った。実は、前世の私はそれ以上の知識が無く、詳しい戦争の経過は、原さんに教えられたのだけれど。

「まぁ、ちょいと複雑な話だし、梨花会の時も、間が飛ばされていたからねぇ。じゃあ、順を追って説明しようか。なぁ、大山さん」

「そう致しましょう」

 勝先生の言葉に、大山さんがニッコリ笑った。……これは、説明の最中にも、厳しい質問が飛んでくる予兆だ。私は気を引き締めた。

「まずは、増宮さまに聞きてぇんだが、“史実”の太平洋戦争で、日本はフィリピンを攻めたよな。その時、フィリピンを統治していたのは、どの国だい?」

 勝先生の質問で、私は“史実”の記憶を必死に探った。

「確か、アメリカです」

「そうだな。じゃあ、今、フィリピンを統治しているのは、どこの国か覚えてるかい?」

「ええと……」

 今度は、前世ではなく、今生で習った地理の知識を思い出す。

「スペイン領……だったかな?」

「正解です」

 大山さんが微笑する。

「じゃあ、増宮さま、なんでフィリピンは、スペイン領からアメリカ領になったんだい?」

「うーん、……まさか、米西戦争の結果で、所有権が移った?」

 当てずっぽうで勝先生の問いに答えてみると、

「ええ。伊藤さんの“史実”の記憶によると、フィリピンだけではなく、プエルトリコやグアムなども、米西戦争の結果、アメリカに割譲されたそうです」

大山さんが満足そうに頷いた。

「じゃあ、これを踏まえてだ。今、この時の流れで、スペインとアメリカがドンパチやったら、お2人は、どっちが勝つと思われますか?」

「えー……」

 勝先生の質問で、私の思考は停止してしまった。これが戦国時代の合戦なら予測もできるけれど、近代的な戦争の結果を考えろ、などという問題は、私には難し過ぎる。

 すると、

「アメリカの方が勝ちそうですね」

兄があっさり回答した。

「え?!兄上、何で?私、さっぱりわからないよ?!」

「俺も大雑把に考えただけだがな」

「……では、なぜそう考えたか、聞かせていただきましょう」

「わかった、武官長」

 兄は大山さんに頷くと、自分の推論を述べ始めた。

「まず、戦力だ。海軍力に関しては、スペインよりアメリカの方が上だ。運用の仕方を間違わなければ、アメリカ海軍はスペイン海軍に勝つだろう。陸軍に関しては、兵力や武器は互角と見てよいと思う」

「なるほど、お続けください」

「ただ、主戦場は、アメリカ本土からも近く、長らくスペインからの独立戦争が続いているキューバ近辺になる可能性が高い。当然、キューバのスペイン軍をかき乱すために、アメリカはキューバの独立勢力と結ぶだろう。キューバのスペイン統治は、長く続いている独立戦争のために、ガタガタになっていると聞いている。そこを突けば、キューバのスペイン軍はアメリカ軍に敗北するだろう」

「スペイン全体の資金力も、アメリカには劣るでしょう。アメリカがスペインと戦争しようと思えば、スペインに打ち勝つことが出来ると(おい)も考えます」

 大山さんは大きく首を縦に振った。どうやら、兄は大山さんの満足のいく回答が出来たらしい。

「素晴らしいねぇ。おれも御学問所総裁として、鼻が高いよ」

 勝先生は頷くと、「じゃあ、増宮さまに質問だ」と私に視線を向けた。

「アメリカがスペインに戦争で勝ったら、スペインに何を要求する?」

「そりゃあ、“史実”と同じで、領土だと思います。流石に、スペイン本国をよこせ、という訳にはいかないから、植民地を要求するでしょう。となると、キューバやフィリピンやグアムを、スペインに要求して……」

「すると、フィリピンにアメリカが出張ってくることになる。フィリピンの北には、何がある?」

「フィリピンの北というと……」

 必死にアジアの地図を思い浮かべた私は、答えにたどり着いて思わず目を丸くした。

「台湾だ……」

「その通り。この時の流れでは清国の領土だが、“史実”では、日清戦争に日本が勝利した結果、日本の領土になっていた」

 勝先生がニヤリと笑う。「“史実”では、日本の領土のすぐそばに、アメリカ領があった。しかも、伊藤さんによると、米西戦争で植民地を手に入れたアメリカは、国力を増大し、植民地を拡大していったそうだ。当然、アジアでも、領土や利権を勝ち取ろうとするだろうな」

「勝先生、つまり、将来、アメリカにアジアでの利権漁りをさせないように、アジアでの足場になりうるフィリピンをアメリカの手に渡さないために、米西戦争を起こさせない……ということですか?」

 呆然とする私に、

「その通り、増宮さま。敵の駒を、敵の狙う場所には行かせない、ということになるかねぇ」

と得意げに勝先生は答えた。

(うひゃあ……)

 私は椅子の背にもたれ掛かった。毎度毎度、どうしてこの人たちは、こんなに先を見据えた手を打つことができるのだろうか。

「なるほど、“上兵は謀を伐つ”か」

 兄がポン、と手を打った。「もっとも、クリーブランド大統領の元で、“内なるフロンティアを無くせ”と言いながら、内需の拡大に力を入れているアメリカにとっては、まだ考えもしていないことだろうが……」

「兄上、“じょうへい”は何とかって、何かのことわざ?」

 尋ねると、

「孫子の一節ですよ」

と大山さんが答えた。「そう言えば、皇太子殿下は三島先生と一緒に、孫子を読んでおられましたね」

「うん、時代にそぐわないところもあると思ったが、非常にためになる」

「三島先生と……ってことは、漢文かぁ……」

 私はため息をついた。「漢文はパス。しかも、孫子って軍略書だよね?兄上は軍人でもあるから、役に立つかもしれないけれど、私は医者になるから……」

「あれ?お好きな城郭巡りにも、役に立つと思うけどねぇ、孫子は」

 勝先生が苦笑する。「甲陽軍鑑は、お読みになったことがあるっておっしゃってたような気がするが」

「はい、でも、甲陽軍鑑だけでお腹いっぱいです。甲陽軍鑑も、前世で現代語訳を何とか読み切った程度で、原文を読んだわけじゃないです」

 正確に言うと、孫子を読もうかと、前世で考えたことはあったのだ。でも、勉強とバイトで忙しくて、手を出す気力が無かった。

 ふと、大山さんの視線を首筋に感じた。嫌な予感がして、

「そうだ、伊藤さんの話だと、“史実”の米西戦争は、アメリカが世論を煽って、一方的に仕掛けた戦争だったんですよね。だから、世論を煽るきっかけになった、“メイン”という軍艦の爆発を起こさせない、という話でしたけれど、あれはうまくいったんですか?」

私は勝先生に向き直り、機関銃のように言葉を発した。

「ああ、上手くいったようだぜ。“メイン”は伊藤さんによると、キューバに派遣されている最中に爆発したってことだが、そもそも、キューバにアメリカの軍艦が派遣されてない。一昨年の大統領選挙で、世論を操作して、クリーブランド大統領を当選させてよかったぜ。あの大統領は、アメリカが領土を拡大することに否定的だからな」

 勝先生の言葉に、私はほっと胸を撫で下ろした。ハバナ湾でのアメリカ軍艦・“メイン”の爆発……原さんによると、スペインの調査では石炭の自然発火が原因とされたけれど、アメリカの調査では、機雷に触れたことが原因とされた。その機雷がスペインが設置したものだとされ、米西戦争の宣戦布告の理由として政治的に利用されたのだそうだ。

「で、でも勝先生、戦争が起こらないことで、進まないこともありますよね?」

 私は更に勝先生に確認した。ここで、言葉を途切れさせてはならないのだ。可能なら、臣下(ターゲット)も、関係の無い会話に巻き込まなければ。

「私は医者だから、戦争が起こらなくて、人が理不尽な死に方をしないのは大歓迎です。でも、戦争が起こらないと、進まないこともあるかもしれないと思うんです。例えば、キューバやフィリピンの独立は、米西戦争がある方が進みやすくなるんじゃないか、という気がします。あと、戦争の戦術も、実際に戦争が起こらないと進歩しないんじゃないかと思うんです。ほら、“史実”の米西戦争の時には、日本からも観戦武官が派遣されたし……」

「海兵の秋山と、砲兵の柴だな。伊藤さんから聞いた」

 勝先生は頷いた。「心配しなくても、“史実”の日清・日露、それから第一次世界大戦の作戦で増宮さまが覚えていたことは、参謀本部の連中に伝えてある。秋山は、米西戦争を観戦して、“史実”での旅順港閉塞作戦を思い付いたんじゃないかって伊藤さんは言ってたけど、そもそも、同じことがこの時の流れで起きるとは限らねぇ。船を何隻か沈めるだけで閉塞できる港なんて、そうそうありゃしねぇし、あったとしても、予定通りの場所で船を沈めるなんて芸当は難しいぜ。それにさ、増宮さま……」

 勝先生は一度言葉を切ると、私に笑いかけた。「増宮さまの言う通り、戦争が起これば、戦術や技術の革新が起こりやすくなる。もし、米西戦争が起こっちまったら、折角、増宮さまと伊藤さんが伝えてくれた第一次世界大戦までの進んだ戦術に、この時の流れの戦術が追い付いちまう危険が出てくる。だから、こっちが持ってる戦術を、多少なりとも優位のままに保たせておくためにも、戦争は起こらない方がいいんだ」

「なるほど……」

 私は頷いた。同じことでも、解釈の仕方が違うのは、やはり経験の差があるからだろうか。多角的にモノを見ることに関して、私はまだまだ修業をする必要があるようだ。

 すると、

「それに、米西戦争が起こらずとも、キューバとフィリピンは、遠からずスペインが独立を認める可能性が高いです」

私の横から、大山さんがこんなことを言った。

「どういうこと、大山さん?!」

 作戦の成功を確信したけれど、それは表情に出さないように注意して、私は驚きで目を見開いたように装った。

「先ほど、皇太子殿下もおっしゃっておられましたが……キューバのスペイン統治は、長く続いている独立戦争のために、資金や兵力を失って、上手くいっておりません。フィリピンでは、まだ目立った独立抗争は起こっておりませんが、もしフィリピンでも同様の動きが起これば、フィリピンのスペイン統治も上手く行かなくなり、多額の負債を発生させるでしょう。本国の財政にまで、植民地統治の失政が大きく響けば、スペイン本国でも、キューバとフィリピンの独立を認める動きが出て参ります」

「経営が上手く行かず、本国に多額の負債を与えてしまう植民地なら、持っていても意味が無い、独立させてしまおう、という論か」

 兄がクスリと笑った。「そのように、卿らがスペインの世論を操ってしまうのだろう?そして、列強の国々でも、“フィリピンとキューバは、購入をしても利益を産まない”という話を広めるのか」

 兄の問いに、大山さんは黙ってほほ笑むだけだった。……どうやら、大山さんは、兄の指摘したことを本当にやろうとしているようだ。

「で、でも、フィリピンの独立運動って、“史実”だと、もう起こってたような……」

 1896年に、フィリピンで武力を伴う独立運動が発生し、米西戦争に乗じて独立を宣言したけれど、最終的にアメリカに鎮圧されてしまった。そう原さんが言っていたけれど……。

 すると、

「ああ、それなら、独立運動の指導者のホセ・リサールどのを、今密かに日本に招いておりまして、フィリピン各地の独立運動組織と連絡も密にしております」

大山さんの口から、更にとんでもない言葉が飛び出した。

「ほ、ホセ・リサールって、確か伊藤さんが言ってた……」

「ええ、“史実”では、一昨年処刑されてしまったのですが、伊藤さんに話を聞いたので、一昨年の春に、日本に招いております。そろそろ、フィリピンで平和的な独立運動を始めて、スペインでの世論を操作しようというところでして」

 私は思わず机に突っ伏した。この臣下は……この非常に有能で、経験豊富な臣下は、一体どこまで先を読んで手を打っているのだろうか。

(でも……今回は私の勝ち、かな?)

 見せないようにした顔を緩めていると、

「ところで梨花さま」

大山さんが私を呼んだので、私は必死に真面目な顔を作り、机から頭を上げた。

「何?」

「4月の初めには、御料牧場に行くことになっておりますね」

「あ、うん、そうだね」

 私は頷いた。大山さんの言う通り、4月の初めに、華族女学校(がっこう)の春休みを利用して、御料牧場で何日か過ごすことになっている。去年、成田まで鉄道が開業したので、東京から汽車に乗って行くことになるだろう。

「皇太子殿下から、梨花さまの鬱憤がたまっていると聞きましたので、牧場の滞在中、佐倉城と、本佐倉城の跡にも出向く予定に致しました」

 大山さんの言葉に、私は背筋をピンと伸ばした。

「ほ、ほんとに?!あの曲輪や土塁の跡が見られるの?!」

「ええ」

 大山さんは笑顔で頷き、

「ただし、孫子を読んでいただいたら、です」

……笑顔を崩さず、こう付け加えた。

(そ、そう来たか……)

 私は頭をがくりと垂れた。

 「孫子を読め」と大山さんに言われそうな気がしたので、必死に話題を関係ない方に誘導した。大山さんもその話題に乗って来たから、作戦が成功したと思ったのだけれど……。

「あっはっはっは!」

 勝先生が心底楽しそうに笑う。兄も必死に笑いをこらえていた。

「お見通しだねぇ、大山さんは。まだまだ、増宮さまには超えられないって訳だ」

 大山さんは、笑顔を崩さず、私をじっと見つめている。その優しくて暖かい瞳は、“まだまだですよ、梨花さま”と私に語りかけている。どうやら、私はいつものように、大山さんの(てのひら)から飛び出せなかったようだ。

「安心しろ、梨花」

 私と大山さんを交互に見ていた兄が、私に視線を止めた。「孫子はそんなに長い文章ではない。一万字はないだろう。俺が教えてやるから、観念して読め」

「はぁ……しょうがないな。わかった、兄上」

 渋々頷いた私の頭を、兄がクスクス笑いながら撫でた。

※実際には、この年の2月9日に、宮内大臣は土方久元さんから田中光顕さんに交代しています。(前章で書くべきでしたが……)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 人物がとても生き生きとしていて描写も良いおかげか現実感がとても感じられます。 [気になる点] >医科研の薬用植物探索チームは、日本だけではなく、世界中を飛び回っていた。 何故わざわざそんな…
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