閑話 1898(明治31)年立春:成年式
1898(明治31)年2月11日金曜日、午前7時。
前日夜まで降っていた雪は止み、一面の銀世界の上には青空が広がっていた。
(さて、どうしたものか……)
皇居に向かう馬車の中、歩兵大尉の正装をまとった嘉仁親王は一人、考えていた。
乗った馬車からは、道々の商店の奉祝の飾りつけが見える。沿道にも、嘉仁親王を見送る人々の列が切れ目なく出来ていた。
――修業中の身ですから、俺の成年式のために市民に祝賀を強要することは、絶対にしないでください。役人や各国公使の拝賀も、必要最低限にして欲しいです。削減できる費用は、削減してください。
以前から天皇にも、“梨花会”の閣僚にも、そう伝えていた。それに従って予定が組まれたはずだが、紀元節でもある今日、皇太子成年を祝賀する雰囲気は、市民の間で強く醸成されてしまったようだ。
(仕方がない、自然な祝意ならば受ける。消費が加速して、物価が上昇し過ぎていないかは心配だが……)
それにしても、と嘉仁親王は、再び懸案に思いを馳せる。
今日、きちんと伝えておくべきなのか。
それとも、ここは待って、誕生日に伝えることにすべきなのか。
同居する妹の章子内親王に相談すると、
――え、そ、それ、SNSで流出したら……って、この時代そんなのないか。で、でも、うわぁ……。
と、よく分からないことを言われ、あさっての方向を向かれてしまった。奥手で、なおかつ特殊な魂の遍歴を辿っている彼女には、問いの意味自体が上手く伝わらなかったようだ。
学友たちに尋ねると、“律儀だ”と異口同音に返され、
――自分の思う時でよいのではないか。
と、何とも頼りの無い答えをされた。
しかし、そういうものなのかもしれない。特に、男女の仲というものは。
(……今日会えれば、今日言うか)
嘉仁親王がそう考えを決した時に、馬車は皇居の車寄せに滑り込んだ。
午前9時、皇居・賢所。
黄櫨染御袍をまとった天皇が、土方宮内大臣、徳大寺侍従長などの侍従、有栖川宮威仁親王以下の各親王を従え出御し、外陣に設けられた御座に着御された。続いて、衣冠姿の伊藤枢密院議長兼東宮大夫に先導され、黄丹の色の闕腋袍に、空頂黒幘を被った嘉仁親王が、東宮侍従や東宮武官を従え賢所に入った。階下の握舎には、山縣内閣総理大臣以下の閣僚や貴族院・衆議院の議長などが顔を揃えていた。
掌典長の九条道孝が、嘉仁親王の空頂黒幘を外し、天皇から嘉仁親王に授けられた燕尾纓が付けられた冠を加える。掌典長は掛緒を親王の顎のところで結び、緒の両端を切り落とした。
この瞬間、名実ともに、嘉仁親王は、成年の仲間入りを果たした。
装束を、成年のものである黄丹の縫腋袍に変え、嘉仁親王は皇霊殿、神殿を拝礼する。拝礼を終えて歩兵大尉の正装に戻り、宮殿に移動して天皇皇后との朝見の儀を終えた嘉仁親王が、宮殿の一室に戻ってくると、
「あ、兄上」
部屋の中には、嘉仁親王のすぐ下の妹である章子内親王がいた。彼女は公式の場に出る必要は無いのだが、昨年亡くなったメクレンブルク公の来日以来、毎年恒例となった家族写真の撮影を今日行うため、後から参内して来たのである。
「お疲れ様。……今朝と同じ服なのに、一段とカッコ良くなった」
「そうか」
嘉仁親王は頷いた。空色の地に白い梨の花。一番のお気に入りの着物を纏い、群青色の女袴を付けた章子内親王は、相も変わらず美しい。そんな彼女の周りには、常宮昌子内親王・周宮房子内親王・富美宮允子内親王が立っている。1歳9か月の泰宮聡子内親王と、昨年9月に生まれたばかりの貞宮多喜子内親王は、まだ小さいので、輔導主任の楫取素彦夫妻の腕の中に抱かれていた。
「さ、兄上、写真を撮ろう……ってこら、輝仁さま!お父様のサーベル、引っ張っちゃダメ!」
章子内親王が注意を飛ばしたのは、満3歳になったばかりの満宮輝仁親王である。水兵服姿の輝仁親王は、どうやら、サーベルが気になって仕方がない様子だ。
「ははは、章子、まだ小さいのだから大目に見てやれ」
部屋の奥の椅子に座った天皇が笑みを見せた。威厳を発していた天皇の姿から、慈愛の欠片がポロポロとこぼれ落ちて広がる。
「ですけれど、お父様、小竜景光に何かあったら大変ですってば。それ、文化財なんだから、大事にしないと!」
「あら、増宮さんがそんなことを言うなんて」
紅の大礼服をまとった皇后が、そう言って微笑した。「“刀を見続けるのは辛い”とおっしゃっていたのに」
「お母様、それと、刀を残すこととは別です。刀はお城と一緒で、残すべき伝統文化なんですから」
「困った奴だ。刀と城を一緒にするとはな」
くすくす笑う天皇に、
「章子は城を最近見ていないから、ストレスがたまっているのかもしれません」
と嘉仁親王も苦笑しながら返した。妹の事情を知らぬ楫取夫妻がいる故、珍しく、“梨花”という呼び名は使わなかった。
「うーん、確かにそれは否定できないかも。去年は名古屋城に泊まれたけれど、お城を見る気分じゃなかった。ちゃんとお城の跡に行ったの、一昨年の1月の忍城が最後だもん」
章子内親王は、真顔で嘉仁親王に返答した。「参内すれば、江戸城の石垣は見られるけれど、それだけじゃ足りない……足りないよぉ、兄上……」
「明宮さん、伊藤どのと大山どのに、言っておいてあげてくださいね。増宮さんが、お城を見たくてうずうずしていると」
微笑を含んだ皇后の声に、
「かしこまりました、お母様」
と嘉仁親王は一礼した。春には、御料牧場に章子内親王と出向く予定だ。その時に、馬で佐倉城と本佐倉城に行けるだろうか。
「じゃ、皆、さっさと写真を撮るよ!並んで並んで!」
章子内親王の号令一下、天皇の子供たちは天皇と皇后を中心にして集まり、集合写真に収まった。
嘉仁親王が、宮中での祝いの宴に出席し、伊藤枢密院議長兼東宮大夫、大山東宮武官長とともに花御殿に戻ったのは、午後3時半のことだった。
「写真を撮るぞ」
自らの居間に入ると、先に花御殿に戻っていた章子内親王を呼び寄せ、伊藤議長と大山武官長とともに、4人で写真に収まる。更に、章子内親王と2人だけの写真を、侍従に何枚か撮らせた。
「うーん、節子さまが来るといいんだけれど」
章子内親王が呟いた瞬間、別の侍従が現れ、嘉仁親王の婚約者である、九条節子の来訪を告げた。
「じゃあ、私、部屋に戻ってる」
撮影のために椅子に座っていた章子内親王が立ち上がり、一瞬だけ妙な目配せをした。
(ん……?)
「では、わしも退出しましょうか」
「ですな」
廊下に控えていた伊藤議長と大山武官長も、まるで申し合わせたかのように、足早にその場を去っていく。
(どうも妙だが)
嘉仁親王がそう思っていると、九条節子が入ってきた。桃色の地に白い小さな花を散らした着物に、海老茶色の女袴を付け、薄桃色の羽織を上から着ていた。
「嘉仁さま、本日はご成年式、まことにおめでとう存じます」
「節子」
祝いの言葉を述べる節子を手で招いて、先ほどまで妹が座っていた椅子に座るように指示する。まだ残っていた侍従に、彼女との写真を何枚か撮らせると、人払いを頼んだ。
(これで……2人きりにはなった訳だが……)
さて、どう切り出そうか、と思った瞬間、嘉仁親王の鋭敏な感覚をざわつかせるものがあった。
(誰かいる)
1人……いや、3人いる。隣の部屋から、この部屋の中の様子を伺っているようだ。
(全く……先程のは、これだったか……)
確かに、相談してはいた。恐らく、大山武官長や伊藤議長……そのほか、秘密を知る閣僚たちに煽られた結果だろう。目を背けるのではなく、行く末を見届けようとするのは、今生の初恋で受けた心の傷が、少しずつ癒えている証拠と言ってもいい。
(喜ばしいことではあるが……そう簡単に、覗き見られはしないぞ、梨花)
嘉仁親王は、黙って九条節子を手招きした。声をあげて答えようとする彼女を手振りで制し、身を寄せた彼女にそっと耳打ちする。目を丸くする九条節子に微笑すると、嘉仁親王は静かに立ち上がり、軍用外套を、音を立てぬよう用心して着込んだ。
そして、廊下に面した障子を引いた嘉仁親王は、愛しい婚約者の手を掴むと、全力で駆け始めた。
「しまった……!」
嘉仁親王の居間の隣室。襖のそばに身を屈めながら舌打ちしたのは、枢密院議長兼東宮大夫兼増宮輔導主任の伊藤博文だった。
「この動きは、感付かれたか……」
「だから言ったじゃないですか!」
彼の後ろで小さな抗議の声をあげたのは、増宮章子内親王だ。
「あなたたちだけならともかく、私がいたら、絶対に兄上に気付かれる、って!兄上、私より勘が鋭いんだから、こんな多人数の気配に気づくなんて朝飯前よ!」
すると、
「おや、梨花さまは気になりませんか?」
と、伊藤議長の隣に身を屈めていた大山武官長が微笑んだ。「節子さまは、将来皇太子殿下を支えられる大切なお方……御二人の仲は、皇太子殿下のご体調に大きく影響するはず」
「そ、それはそうだけど……」
章子内親王は、苦虫を噛み潰したような表情になった。世間では“美少女”と騒がれる彼女だが、しかめた顔も、平生とはまた別の美しさを放っている。そんな美しく、愛らしい主君に、
「もし、これで、皇太子殿下と節子さまが仲違いされるようなことになれば、皇太子殿下のご体調が勝れなくなるやもしれません。それは、皇太子殿下の主治医として、看過できぬことかと思いますが……」
大山武官長はそっと囁く。
「だ、だけど、それで、二人っきりの会話を聞くなんてこと……プライバシーに関わる……」
「しかし、御二人の仲が上手く行かぬことは、東宮大夫としても一大事ですぞ。きちんと確認をしなければ」
「伊藤さん、それ、私の時代だとあんまり通用しない論理だよ?」
「とおっしゃいますが、増宮さま……顔を紅くしておられますぞ」
自らの輔導主任の指摘に、章子内親王の、ほんのり紅く染まっていた頬が、色を急激に濃くした。
「い、いや、それは……」
「ご心配でもあるし……興味もおありなのでしょう?」
「う、うう……」
輔導主任の問いに、進退窮まった章子内親王は、彼女の信頼する臣下の左肩に顔を埋めた。
「おやおや、素直になられればよろしいのに」
あやすように主君の身体を抱き締める大山武官長に、
「と、とても、まともには、言えない……あ、兄上が、プロポーズする所を、見たい、だ、なんて……」
ふるふると身体を震わせながら章子内親王は答える。
「やれやれ、相変わらず奥手でいらっしゃる」
伊藤議長が肩をすくめた時、廊下に足音が響き、
「ああ、ここにいたか、主治医どの」
障子が開いて、原敬厚生大臣が入って来た。
「探したぞ。居間にいないから、花松どのに聞いたら、皇太子殿下の部屋の方にいらっしゃると……折角、主治医どのが喜びそうな報告をしに来てやったというのに」
「わ、私が喜びそうな……?」
ゆっくりと頭を上げた章子内親王の顔を見て、
「おい、一体どうした、主治医どの。顔が赤いが、風邪でも引いたのか?」
原厚生相は首を傾げた。
「さっさと治せ。皇太子殿下にうつしでもしたら承知しないぞ」
腕を組む原厚生相に、
「原君」
伊藤議長が苦笑しながら声を掛けた。
「今日を期して、皇太子殿下が節子さまに、改めて求婚されるらしいと聞いてな。それでこの3人で、ご首尾を見届けようとしていたわけだ」
「ああ、なるほど。……道理で」
原厚生相は、章子内親王の顔を見ながら深く頷いた。
「道理で、ってどういうことですか」
章子内親王の声を無視して、
「すると、今、皇太子殿下と節子さまに行きあったのは……」
原厚生相は再び軽く首を傾げた。「大方、主治医どのの気配がばれて、皇太子殿下と節子さまが逃れられた、ということか」
「その通りなのですが、原どの、皇太子殿下は今どちらに?」
主君の身体を抱き締めたまま、大山武官長が原厚生相に尋ねる。
「さぁ。ただ、玄関の方に向かわれていた」
「玄関……となると、庭か」
伊藤議長がニヤリと笑う。「よいですなぁ。一面の銀世界の中で求婚ですか」
「い、一面の、銀世界で、きゅ……」
伊藤議長の言葉を聞いた章子内親王の頬が、再び紅く染まった。
「あああ……どうしよう?どうしよう、大山さん……」
再び左肩に顔を埋めた、美しくて奥手な主君の頭を撫でながら、
「それは、主治医として、見届けるしかありませんよ、梨花さま」
大山武官長は優しく勧める。
「この大山もお供しますゆえ」
「わたしも行くぞ」
原厚生相も力強く言った。「皇太子殿下と節子さま……上手くいってもらわなければ困るのだよ」
「そ、そうだけど……」
「ほら、さっさと立て、主治医どの!伊藤さんも大山閣下も、急がねば、皇太子殿下たちを見失ってしまいます!」
意気込む原厚生相に
「原君は相変わらず、尻を叩くのう」
伊藤議長が苦笑いを向けた。
嘉仁親王と九条節子は、花御殿の玄関を出ると、花御殿の庭園に足を踏み出していた。
広い芝生の庭園は、昨夜降った雪が積もり、広大な白い鏡のようになっている。その上を、2列の足跡が、並んで印されていく。
「この辺りなら、よいか」
庭園の真ん中で、嘉仁親王は足を止めた。
「節子、寒くないか?」
そう尋ねると、手を繋いだ婚約者は、大きく首を横に振った。
嘉仁親王は、息を大きく吸った。呼吸を整える。鼓動が速くなっているのは、雪の上を歩いたせいだけではないだろう。
「……節子」
「はい、嘉仁さま」
九条節子は、傍らに立つ未来の夫を見た。凛々しく美しい顔が、嘉仁親王に向けられる。
「去年の、俺の誕生日のことを覚えているか?」
九条節子は黙って頷いた。
「俺と章子は、お母様の子ではないと聞かされて、俺は辛かった。今では、俺は母上とお母様の子なのだと、何とか受け入れられるが……俺は、自分の子には、俺と章子が味わったのと、同じ思いはさせたくない」
「……」
凛々しい婚約者は、少し眦を伏せた。
(さて、どう言ったものか……)
一瞬の躊躇。
(よし……)
嘉仁親王が口を開こうとした瞬間、彼の鋭敏な感覚に、再び引っ掛かるものがあった。
「こらぁ、梨花!」
婚約者から視線を外し、大音声をあげると、庭の端の方で、気配が騒がしくなった。
――だから言ったでしょ、兄上相手じゃバレるって!
――それは、増宮さまが悪うございます。わしらは上手くやっておりました!
風に乗って、愛しい妹と、伊藤議長の声が流れてくる。
「貴様ら、邪魔をするな!」
再び怒鳴ると、
――これはいけません、退散しましょう。
――ええ、大山閣下!
大山武官長と原厚生相の声が遠くに聞こえ、4人の気配が去っていった。
(原大臣もか……全く……)
嘉仁親王がため息をつくと、
「りか……?」
九条節子が首を傾げた。
「嘉仁さま、“りか”って、章子お姉さまのこと?」
(あ……)
しくじってしまった。この婚約者に、妹の前世のことを伝えるのは、結婚してからと決まっていたのに。怒りに任せて、つい、普段の呼び名を使ってしまった。
「……ああ。梨の花と書いて、りか、と読ませる。章子の秘密の雅号だ」
「まぁ、素敵」
「夫婦になったら訳は話すが、秘密の雅号だから、節子、章子の前で絶対使うなよ。雅号があること自体も、他人に漏らすな」
これで納得してくれるだろうか。一抹の不安は、彼女の笑顔で消え去った。
「……節子」
もう一度、心を決めて、嘉仁親王は口を開いた。
「何でしょうか」
「先ほども言ったが、俺は、俺と章子が味わったのと同じ思いを、俺の子供には味わってほしくない」
「だけど、……嘉仁さま」
嘉仁親王の凛々しい婚約者は、また少し、眦を伏せる。
「嘉仁さまの子を残すことは、とても大事なことです。だから、私、もし子供が産めなかったら……」
「産めるよ。必ず産める」
嘉仁親王は微笑した。伊藤議長からは、“史実”では、彼女が、少なくとも3人の子を産んだと聞いている。だから問題はないはずだ。
「それに、輝仁がいるではないか。何も心配することはない、節子」
「嘉仁さま……」
「もちろん、俺と節子の子が生まれるなら、それはとても嬉しい。だが、たとえ子が産まれなくても、俺の妻はお前だけだ」
つなぐ手に、少しだけ力を籠めると、嘉仁親王は婚約者の目をじっと見つめた。
「節子……妻として、お前だけを一生愛すると誓う」
ほほ笑むと、
「私も……嘉仁さまを……一生……」
九条節子も、嘉仁親王の目を見つめ返した。
不意に、握った婚約者の手が、冷えているのに嘉仁親王は気づいた。慌てて手を離し、着ていた軍用外套のボタンを外す。外し終わると、婚約者の華奢な身体を前から抱き締めて、外套の布地で彼女を包み込んだ。
「手が冷えていた。……こうすれば、少しは暖かいだろう」
「はい……」
「綺麗な雪だな」
「そう、です、ね……」
晴れ渡る空は次第に茜色に染まり、夕陽が作り出した影が雪の上に描き出されている。外套にくるまった2人は、太陽が地平線に隠れようとするまで、互いの体温を感じながら、銀色の庭園に立ち尽くしていた。
※聡子内親王の養育主任は林友幸さんなのですが、同じく林さんが養育主任であった輝仁親王が拙作では生存しているため、多喜子内親王の養育主任である楫取夫妻を養育主任に設定しました。




