仮病
※誤字を修正しました。(2023年2月10日)
1897(明治30)年12月7日火曜日、午前10時。
「あら、章子さん、退屈そうですね」
花御殿の私の居間に入るなりこう言った母に、
「だってさぁ、母上……」
私はむすっとした表情を崩さずに返した。
「私、元気なんだよ?病気になんてかかってないのに、花御殿に引きこもれって……」
「節子さまや昌子さま達に、学校でお会いになれないのがお辛いのでしょう?」
「それもあるし、建前上“インフルエンザ罹患”だから、外に出られないのが……」
今日、フランスの旧王族……7月王政で国王になっていたルイ=フィリップ1世の御血縁の方が、お父様を表敬しに皇居を訪問する。この時期のフランスは、7月王政が倒れて第2共和政になり、さらにそれがナポレオン三世の第2帝政に取って代わられ、その帝政が倒れて共和政になっている。その方は、私にも面会を希望していたようだけれど、先月の梨花会で話し合われた結果、私は“急にインフルエンザに罹患した”ということにして、先方に会うのは遠慮することになった。私は別に会っても会わなくても、どちらでもよかったのだけれど、山縣さんが、
――増宮さまの話によれば、“史実”のフランスでは、今後王政や帝政は敷かれないと……。我が国とフランスの旧王族が関わりを持ちすぎれば、フランス国内の政治の争いに首を突っ込まざるを得なくなってしまう。その結果、増宮さまの身に危害が及べば、元も子もありません!
と力説したし、大山さんも、
――今の梨花さまには、会うのはちと酷かと。
と指摘したからである。我が有能な臣下の意見が……特に、私に関する彼の意見が間違っていたことはほとんどない。素直に従うのが無難だ。
9月の末のあの日に受けた衝撃は、少しずつ和らいでは来たけれど、ふとした拍子に思い出してしまうこともあり、そのたびに、私の胸をざわつかせ、時には心をきつく締め付ける。もし、そのフランスの旧王族に、私がフリードリヒ殿下の面影を見出してしまったら……。
「どうしたのですか、章子さん?」
母が私の顔を覗き込んでいるのに気が付いて、私はハッとした。
「は、母上……」
「そのお顔は……ああ、フリードリヒ殿下のことを、思い出されていたのですね……」
私は黙って頷いた。
「やはり、そうでしたか」
「どうしても、ね……。今、外国の男の人に会うのは、やっぱり避ける方がいいみたい」
「わたくしもそう思います。大山さまのおっしゃったこと、当たっておりましたね」
「そうだね。……ねぇ、母上」
ふと思い付いて、私は母を見た。
「なんですか?」
「もし、私が内親王じゃなかったとしたら、……将来、恋は出来るかな?」
「さぁ、いつになるかは存じませんが……」
母は顔に苦笑いを浮かべると、
「内親王殿下であろうとなかろうと、きっと、いつの間にか、恋をなさるのだと思いますよ」
と優しく私に言った。
「そう?でも、前回の恋から、今回恋が出来るまで、……前世で12歳の時に失恋して、そのまま24歳で死んで、それで今14歳だから……24引く12足す14で、26年かかったんだよ?」
すると、母は吹き出した。
「は、母上?」
母の態度に戸惑っていると、
「ごめんなさい、章子さん……少し、独特な計算の仕方でしたから、つい」
母は努力しながら笑いを収め、
「ですが、前回の恋と、今回の恋では、なさった後の状況が違いますわ」
と言って、ニッコリ笑った。
「どういうこと、母上?」
「皇后陛下から伺いましたが……前世で恋されたときは、恋が破れた後、誰にもそのことをお話にならなかったのでしょう?」
「うん、そうだね」
今となっては、誰かに話しておくべきだったと思うけれど、あの時の私は、自分で自分を縛り付け、心を固く閉ざしてしまった。
「ですが、今回は、恋が破れたことを、わたくしにも、大山さまにも、皇太子殿下にもお話になっておりますわ。もちろん、両陛下も、閣僚の皆さま方も、章子さんが話そうと思えば、お話を聞いてくださるでしょう」
私は首を縦に振った。親王殿下や西郷さんや西園寺さんのように、多少からかいそうな人はいるし、原さんは少し手厳しい言葉を返してくると思うけれど、確かに母の言う通り、私の話は聞いてくれるように思う。
「ですから、わたくし、それについては余り心配しておりませんの。必ず、春はやってくると」
「そう……」
母の言葉が、じんわりと心に沁みていく。愛情を注いでくれる人も、私に心を向け、見守ってくれる人も、私の周りに何人もいる。それが、嫌というほど実感できた。
(幸せなことだな……)
「ねぇ、母上」
「なんですか、章子さん?」
「平日の昼間に花御殿にいるなんて滅多にないし、今日は大山さんがいないから、母上と2人で、この部屋でお昼ごはんが食べたい」
そう提案すると、
「あら、それはいいですね」
と母はクスリと笑った。
「……よろしいですよ。では、それまでは章子さんはお勉強ですね」
「はぁい」
目線を合わせると、私と母は同時に笑みを零した。
12月7日火曜日、午後4時。
母とお昼ごはんを食べて、竹刀の素振りをしてから、また居間で勉強していると、侍従さんが来客を告げた。
「増宮さま」
呼びかけながら、居間の障子を引き開けたのは山田さんだった。
「仮病で引きこもって、無聊を託っているのではないかと思いまして、参上させていただきました」
「ああ、ありがとうございます」
私は開いていた医学雑誌を閉じて、山田司法大臣……いや、貴族院議員の山田さんに笑みを向けた。椅子を勧めると、彼は一礼して、私の向かいの椅子に座った。
「貴族院の議事は終わったんですか?」
「ええ、先ほど」
山田さんが頷くと同時に、母が2人分のお茶をお盆に載せて居間に入り、山田さんと私にお茶を出してくれた。
「やはり、議員の仕事だけに集中できると、気が楽ですね」
そう言って、山田さんはお茶を啜った。
去る11月1日に、衆議院議員の総選挙が行われた。これは黒田さんがイギリスに出発する前からの方針で、前回と変わらず、与党の立憲改進党が過半数を獲得したのだけれど、
――そろそろ、全体的な人材の育成にも力を入れなければなりません。イギリス訪問の成功を花道として、衆議院の総選挙が終わったら、総理大臣を辞めようと思います。
と黒田さんが9月の梨花会で発言したのだ。
そして、11月22日、黒田さんは在任日数3494日をもって内閣総理大臣を辞し、第3代内閣総理大臣には山縣さんが就任した。
それと同時に、当然、内閣の陣容も変わった。
まず、12月1日から発足した厚生省の大臣には、内務次官の原さんが就任した。厚生次官はもちろん、後藤さんだ。
山縣さんが総理大臣になったことで空位になった内務大臣には、黒田さんが就いた。
また、衆目を集めたのは、逓信次官に、与党・立憲改進党所属の衆議院議員である、尾崎行雄さんが就任したことである。この時の流れでは、次官への初の衆議院議員採用となった。ちなみに、逓信大臣は、逓信次官だった前島密さんが繰り上がり、逓信大臣だった大隈さんは、榎本さんの後任の文部大臣になっている。
外務省の人事にも変動があった。陸奥さんが外務大臣を辞任し、後任の外務大臣に林董さんが、外務次官に小村寿太郎さんが就任したのだ。
更に、山田さんも司法大臣を辞任している。
この人事には、実は、様々な思惑が潜んでいた。
「はぁ、それにしても、貴族院の現状を変えていくために、現職の大臣が2人辞任するなんて、思ってもみませんでした」
私がため息をつくと、山田さんはクスリと笑った。
帝国議会は貴族院と衆議院からなる……というのは、流石に私も覚えていた。ただ、当初、“史実”の貴族院がどのような役割を期待されていたか、ということについては、正確には知らなかったのだ。
――衆議院には、必ず政党勢力が勃興し、民主主義が支配する。それに対抗するために、貴族院を作ろうと考えておりましたが……。
私が“授業”をした時、確か伊藤さんはこんなことを言っていた。つまり、“史実”では、衆議院の力を抑え込む目的で、貴族院を作ろうとしていたのだ。
ところが、私の話した“史実”の内容や、私の時代の選挙制度の話……これは大まかなことしか話せなかったけれど、様々なことを聞いて、“梨花会”の面々の考えが変わったらしい。特に、伊藤さんが“史実”で立憲政友会という政党を作ったというのが、衝撃を与えたようだ。
――衆議院を完全に無視することはできない。無視すれば、かえって政治の停滞を招く。
――かと言って、未熟な状態で、第一党の党首が政権を取っても、すぐに内閣が瓦解しましょうな。吾輩が“史実”で板垣どのと作るという内閣のように。
――となれば、わしらの手で、徐々に政党を育てていくしかない。イギリスのような2大政党制に収束させ、どちらの政党も、大臣・総理となる実力のある人間を10名程度抱え、政権が交代すれば、すぐに内閣を構成できるような……。
“梨花会”の面々が“授業”の直後、こんなことを話し合っていた気がする。私は眠くて最後まで話を聞けず、気が付いたら爺の家の布団の中だったのだけれど……。
「司法大臣として、やらなければいけない仕事は終えました。清浦君は優秀だ。十分に大臣としてやっていけるでしょう。あとは、貴族院の仕組みを、立憲改進党の貴族院代表として、陸奥どのとともに作っていかなければ」
山田さんはこう言って微笑する。“史実”では、“貴族院に政党は立ち入らせない”という不文律があったらしいけれど、この時の流れではそんなものはない。特に、伯爵議員でもある山田さんが、立憲改進党に入党し、立憲改進党に心を寄せる貴族院議員を糾合してからは、貴族院議員の中でも、政党に所属する流れが出てきた。
さらに、衆議院選挙で第1党になれなかった責任を取り、立憲自由党党首の板垣退助さんは党首を辞め、政治の世界から引退した。彼の代わりに、立憲自由党内の支持を集めて党首になったのは、貴族院の男爵議員である陸奥さんだ。陸奥さんはもちろん、所属する貴族院でも、立憲自由党の党員を増やしている。その中には、文部次官を辞任し、貴族院の副議長に任命された西園寺さんも入っていた。また、枢密院議長の伊藤さんも、立憲自由党の人材育成を密かにバックアップしている。
「でも、二大政党制に否定的な人たちも、貴族院にはまだまだいるんですよね」
「ええ。だからこそ、二大政党制でも上手く行く、という実績を積み重ねて、頭の固い議員方を懐柔していかなければなりません。道のりは遠いですよ」
「それだけじゃなくて、与党は大隈・井上・山田で、野党は陸奥・西園寺・伊藤で、人材の育成と立憲政治の成熟に務める。二党間で議論は行うが、大事な所は舵を誤らないように、梨花会で調整する……本当、思い付かない話ですよ」
私がため息をつくと、
「何をおっしゃる。“野党に御下賜金”という増宮さまの発想も、なかなか思い付くことではありませんよ」
と山田さんは言う。
「そ、それはほら、私の時代でも、汚職事件とかありましたから……」
私はしどろもどろになりながら、山田さんに答えた。
政治をするには、お金がかかる。これは原さんが、私と大山さんしかいない席でよく言っていることだ。例えば、選挙運動に使うお金もそうだし、政党を作るとなれば、人件費や施設費もかさむ。このままでは、普通選挙制になっても、財力がある人だけが政治の世界で活動できる、という図式が出来上がってしまう。
もちろん、議員になることが出来れば、年棒がもらえるのだけれど、野党の、しかも落選した議員候補は、金欠にあえぐことになってしまう。そんな人たちは、賄賂を受け取ってしまいやすいだろう。
そこで、“野党第一党に、衆議院議員選挙で敗北した選挙区数に応じて、御下賜金を”と提案してみた。
――そのお金を、落選した候補を養う資金に使ってもらうの。“立憲政治の成熟のために、政策をよく勉強しろ”みたいな勅語をつけて。選挙で勝った政党は、政治献金をたくさんもらうけど、野党はその献金も少なくなるでしょ?資金難で、お金を得るために、野党の政策が変な方向に走ったらいやだし。
大山さんに冗談半分で言ってみたら、“それは使えるかもしれません”と彼が言い始めた。それが梨花会に持ち込まれ、最終的に、衆議院の総選挙が、前回の総選挙から3年以上経過してから行われた場合、野党第1党に御下賜金が渡されることが決まった。それに従い、11月末に、立憲自由党に6万2000円の御下賜金が渡されている。
「御下賜金が渡されたことで、立憲自由党の諸君は張り切っています。“陛下は我々の奮起を期待しておられるのだ”と。陸奥さんの指示もあったようですが、現役議員だけではなく、落選した候補たちも、捲土重来を期して、政策の勉強に励んでいるようです。御下賜金ですから、下手に遊興に使う訳にもいきませんからね。我々も負けてはいられません」
山田さんがニッコリと笑う。どうやら、御下賜金は、良い効果を生み出しているようである。
「……ところで、御退屈ではないかと思いまして、今日は増宮さまに、これを持って参りました」
山田さんはそう言って、カバンの中から書類を取り出した。
「なんですか、これ?」
首を傾げると、
「憲法の全文です」
山田さんは厳かな調子で答えた。
「け、憲法……?」
「ええ、以前から、“法律は苦手だ”とおっしゃっておられましたので、暇を持て余していらっしゃるこの機会に是非講義を、と思いまして」
「あー、いや、山田さん、私、読まなきゃいけない医学雑誌が結構たまってて……」
私は必死に、苦手なモノから逃げる準備にかかった。
「孫文先生の、日本住血吸虫発見の報告が、“ドイツ医事週報”に載ったんです。それから、ヴェーラのコホート研究の途中経過の報告も上がってきているし、読まないといけないものがたくさん……」
すると、テーブルの上の私の右手を、山田さんががっちり掴み、
「大丈夫です」
満面の笑顔でこう言った。手を振りほどこうにも、山田さんの握力が強すぎて叶わない。流石、維新の頃は優秀な武官として鳴らした山田さんである。
「安心してください。易しく講義いたしますから、増宮さま」
(の、Nooooooooっ!)
顔をひきつらせた私の手を、放すまいと強く握りながら、山田さんは滔々と憲法について講義をし始め、それは、仮病で引きこもっている間の4日間、毎日繰り返されたのであった。
※明治30年12月7日に明治天皇に面会したフランスの旧王族は「コント、ドウ殿下」と「プランツ、ピエール、ドルレアン殿下」と名が残っています。作者も調べましたが、該当者を特定することが出来ませんでした。三笠 陣さま、調査していただきまして本当にありがとうございました。
※さて、超異例の長期政権となった黒田内閣ですが、ここに大団円を迎えました。山縣内閣の陣容の細部については、またおいおい触れる機会もあるかと思いますが、ひとまずはここまでで。




