水面(みなも)の底に
母の涙をぬぐったハンカチーフを右手で握ったまま応接間に入ると、黒いフロックコートを着た陸奥さんの後ろに、同じく黒いフロックコート姿の山縣さんが立っていた。大山さんと伊藤さんもいる。山縣さんは、何故か目を真っ赤に泣き腫らしていた。
「一体何があったんですか?外務大臣と内務大臣が一緒に来るなんて……まさか、ロシアか朝鮮が絡んで、戦争でも起こりましたか?」
母が一同にお茶を出してくれるや否や、陸奥さんに問うと、「増宮さま」と大山さんが私を呼んだ。どうやら、大山さんは、母が私の前世のことを知っていることを把握してないようだ。
「メクレンブルク公から、お手紙が最後に届いたのは、日曜日で間違いないですか?」
「そうよ。どうせ、あなたはもう、手紙に目を通してしまっているのだろうけれど」
19日の日曜日、花御殿にやって来た早蕨さんが渡してくれた文箱の中身は、やはり、フリードリヒ殿下からの手紙だった。乗り組みを命じられた水雷艇での訓練のことが書いてあった。
「で、それがどうしたの、大山さん?」
尋ねると、
「ドイツ公使から、火急の知らせが電信で届きました」
口を開いたのは大山さんではなく、陸奥さんだった。表情に、珍しく憂鬱な色が見えている。
「まさか……世界大戦でも起こったんですか?」
あの皇帝なら、やりかねない。けれど、今の世界情勢、どこか世界大戦の火種になりそうな場所はあっただろうか?必死に記憶を探ろうとすると、
「違います」
陸奥さんがかぶりを振り、
「殿下……メクレンブルク公が、亡くなられました」
と告げた。
「は……?」
私の横で、母が息を飲む気配がした。
「ちょっと待ってください、陸奥さん。確か、フリードリヒ殿下って、私より10歳ぐらい年上なだけですよね?病気で、ですか?」
「いいえ、事故です」
陸奥さんは目を伏せて私に答えた。「乗り組まれていた水雷艇が、エルベ川河口近く、北海に面したクックスハーフェンの港で、22日朝に嵐のために横転し、沈没したそうです。必死に捜索をしているが、公が見つからない、と……」
「それ、どう考えても、絶望的ですね……」
私は大きく息を吐いた。
「で、それしきのことで、なんで、みんなでやって来るんですか?」
一同を見渡しながら尋ねると、
「当たり前でしょう」
伊藤さんが呆れたように言った。「増宮さまが恋されていたお相手が、亡くなられたのですぞ!この結末をわしが知っていれば、あらゆる手段を使って、公を水雷艇勤務から外したのに……」
「伊藤さん、私は恋なんてしてません」
「増宮さま!」
大山さんが珍しく、声を荒げた。「何を言っておられるのですか!あんなに恋焦がれて、メクレンブルク公と文のやり取りをされていたのに……」
「大山さんこそ、何を言っているの?」
私は眉をしかめた。
「恋焦がれる?大山さん、それはあなたの思い違いよ。私は、恋なんてしてない」
「お待ちください、増宮さま」
山縣さんが私を強い目で見た。
「昨年の、梅雨の頃だったと思いますが、“手紙”という題で和歌を詠んでいただいたかと思います」
「確かに、そんなことがありましたね」
頷いた私に、
「遠くにいる人を思いながら手紙を書いている……という内容の歌だったかと思います。その、“遠くにいる人”というのは、公のことを指していたのではございませんでしたか?」
山縣さんは微かに震える声で尋ねた。
「うーん、和歌にするネタが、どうしてもなかったから、確かにフリードリヒ殿下のことをちょっと考えていましたけれど……」
和歌を詠むのは、いつも苦労する。月に1、2度、山縣さんが題を出してくれて、それに従って歌を何首か詠むのだけれど、なかなか思い付かないし、言葉を整えるのが大変なのだ。その“手紙”という題を出されたときは、何をどう詠んだらいいのか本当に分からなくて、仕方なく、フリードリヒ殿下のことを考えながら和歌を詠んだ記憶がある。
「あの歌からは、公を慕っておられる気持ちがにじみ出ておりました。それでも、公に恋してはおられないとおっしゃるのですか、増宮さま?」
「待て、狂介、それはどんな歌なのだ?教えてくれ!」
横からこんなことを言う伊藤さんを、
「だから、断ると言っただろう。他に漏らすわけにはいかぬ」
山縣さんは軽く睨み付けた。
「全く……なんで皆、私に恋をさせたがるんですか?」
私は大きなため息をついた。「フリードリヒ殿下は、ただの文通相手です。何回か、書簡はやり取りしたけれど、人となりをきちんと把握できたわけではありません。それに、あの人は、王族と言ってもドイツの人です。皇室典範で定められている以上、あの人と私が、結婚なんてできる訳がないし……」
(あれ……?)
思わぬ胸の痛みに、口の動きが止まってしまった。
「増宮さま?」
異変を感じたのか、大山さんが私に視線を向ける。
「大丈夫、大山さん、私は」
慌てて呼吸を整えて、
「だから、恋なんて……」
気を取り直し、喋り出そうとした口は、胸のざわめきと、先ほどより強い痛みに耐えきれず、また動きを止めてしまった。
(なんで……?)
たかが、遠くにいる文通相手が、不慮の事故で亡くなっただけなのだ。私が医者になることを、“応援する”と言ってくれ、誕生日プレゼントのジュエリーボックスに手紙を忍ばせ、数回、手紙のやり取りをしただけの相手が。
(なのに、何で、心がこんなに、痛い……?)
不意に、私の右手から何かが離れ、次の瞬間、柔らかいものが、私の頬にそっと押し付けられた。
「母上……?」
「なっ……?!増宮さま、いつそれを……!」
大山さんの驚きの声と同時に、
「涙を、流されていました」
私のハンカチーフを持った母が、寂しげに言った。
「ただの文通相手……そう割り切ろうとされるのも結構ですが、それは、ご自身のお気持ちに、嘘をついておられるだけです。先ほどの、わたくしのように」
「気持ちに、ウソを……?」
「ええ、公を慕うお気持ちに」
私の問いに、母は静かに頷いた。
「公へのお手紙を書きながら、夢見るような瞳をされたり、ため息をつかれたりなさっていたではありませんか」
「は、母上!私が、フリードリヒ殿下に手紙を書くところを見てたの?!」
「声を掛けても、障子を開けて覗いても、全く気が付かれないで、手紙を書くのに夢中になっておられましたから……」
母は悪戯っぽく微笑した。
「公の人となりを知りたい。今、公の側にいることは叶わないけれど、もし側にいられて、親しく言葉を交わせたなら、ずっとそばにいられたならば……そう思いながら、公にお手紙を書かれていたのでしょう?」
「……!」
(そうだ……)
そう思いながら、フリードリヒ殿下への手紙を書いていた。
もっと、彼と話せたなら。
もっと、彼のことを知れたら。
もっと、彼の側にいることができたら。
この手紙を受け取ったら、どんな反応をするだろうかと、胸をワクワクさせた。
ドイツと日本との距離の遠さと、私の時代のように発展していない今の通信技術に、もどかしさを覚えたこともあった。
(それで、亡くなっただろう、って、知った今は……)
「母上……恋は、恋というものは、こんなに痛くて、苦しいものなの?」
膨れ上がっていく心の痛みに耐えながら、母に尋ねると、
「痛い時もありますし、苦しい時もあるでしょう」
母は少し、辛そうに微笑した。「けれど、胸をときめかせる時も、幸せに浸れる時もあります。人が恋をするのは、古今東西、変わることはありません。それゆえ人は、万葉の昔から、恋する喜びと苦しみを、歌や物語にしているのです。それは、今も変わりません」
「多分……私の時代もそうだ。私はずっと、目を背けていたけれど」
私は母に頷いた。心の痛みが、否応なしに、私の声を湿らせていく。
「だから……少しは分かります。章子さんが、この恋で味わったお気持ちが」
「章子、さん……?」
あの陸奥さんが、驚きの声を上げたけれど、
「母上……」
私は無視して、母を呼んだ。
「何でしょう」
「抱きついて……いいかな?」
こぼれ落ちそうになる涙を、やっとの思いで堪えながら聞くと、母は無言で頷いた。私は一歩母の方に近づいて、母の右肩に顎を乗せ、母の身体に、しがみつくように抱きついた。
「母上……、泣いて、いい?」
「どうぞ、気の済むまで泣いてください、章子さん」
母の返事を聞き終わるやいなや、堰を切ったように、眼から涙が溢れだした。
母は、幼い子供のように泣きじゃくる私の頭を、ただ黙って、優しく撫で続けてくれた。
こうして、今生ただ一度の恋……いや、私の今生の初恋は、遥かヨーロッパ、北海の水面の底に消えたのだった。
胸躍るようなときめきの残像と、2人の母親の愛を心に残して。




