母の思い
「お許しください!その儀だけは、ご勘弁を……!」
椅子から飛び降りるように、絨毯の上に平伏した花松権典侍……今生の私の実の母親に、
「なんで?!」
私は更に叫んだ。「母上を、どうして母上と呼んではいけないの?!」
母は、私の問いに答えなかった。
「……私が、お転婆だから?」
私は恐る恐る、母に質問をぶつけた。「二位局の言うように、女子のあるべき姿じゃないから?」
――わらわがお上に手を焼くように、花松どのも、増宮殿下のことでは、さぞご苦労されていることでございましょうなぁ。
私の脳裏には、皇太后陛下が亡くなる直前、二位局がお父様に投げつけた言葉が蘇っていた。二位局は、知っていたのだ。私の実の母親のことを。
「違います!」
母は私に向かって平伏したまま、叫ぶように言った。「増宮さまが、皇后陛下のお子だからです!」
「だから、私に敬語を使わないで!“増宮さま”なんて呼ばないで!」
居ても立っても居られなくなった私は、椅子から立ちあがって、母の前に正座した。
「どうして……」
「わたくしは、増宮さまがお元気であれば、それでようございますもの」
母は平伏したまま言った。そして、
「わたくし、増宮さまの前に産んだ陛下のお子を、亡くしてしまいましたから……」
と呟いた。
「え……」
「御名を、韶子とおっしゃいました」
聞いたことがある。確か、私のすぐ上の姉……お父様の第3皇女だ。
「増宮さまもしきたりに従って、堀河さまのお屋敷に里子に出されましたが、わたくし、安心していたのです。堀河さまはわたくしの従姉を娶っておられて、わたくしもよく知っている方でしたし、それに、堀河さまが、増宮さまのお話を、よく聞かせてくださいまして……」
「爺が……」
爺は侍従としてお父様に仕えていた。母と宮中で会う機会もあったのだろう。母と親戚だったというのは初耳だけれど。
「望外の幸せでございました。増宮さまのご様子が伝え聞けるなんて……」
(そんな……)
母の話を聞きながら、私は茫然とした。実子の様子を伝え聞ける。その程度のことが“望外の幸せ”だなんて……。
「増宮さまが、この花御殿に越される直前でした。わたくし、両陛下に呼び出されたのです。そして、陛下はこうおっしゃいました。“あれは、とても変わった子だ。前世がある、未来に生きた記憶があると言い始めた。半信半疑だったが、どうやら本当のようだ”と」
(?!)
私は目を見開いた。
「じゃ、じゃあ、私の前世のこと……」
「存じております」
母は平伏したまま私に言った。「増宮さまが、未来で、女性の身ながら医者をなさっていたこと。それゆえ、両陛下とも、大変ご心配をされたのです。この時代で、あなた様が未来と同じように生きようとなされば、普通の方以上に周りと衝突される。そして、わたくしの子と知れれば、余計に辛い目に遭われてしまう、と……」
「だから……だから、私がお母様の養子になることを、了承したの?」
「わたくしは、ただ腹を痛めただけでございます。増宮さまは天皇陛下のお子。増宮さまをお守りするためになされた両陛下のご決定に、どうして逆らえましょうや」
「そんな……腹を痛めただけって、今の時代、私の時代以上に、出産のリスクも高いのに……」
何と言っていいか、分からなかった。
なぜ、子供を自分から更に引き離すような決定に、母は文句を言わなかったのだろう。
母は、私のことを、愛してはいないのだろうか。
「なんで……花御殿に勤めることになったの?」
母に質問する私の声は、少し震えていた。
「両陛下のご命令でございます」
「男ばかりの環境だし、私が、“白粉を使うな”と、側に仕える女官の女件として出したから、誰も希望する人がいなくて、仕方なく?」
「いいえ!」
花松さんの声が強くなった。「そのようなことは……!たとえ、どのような条件を出されても、わたくしは両陛下のご了承さえ得られれば、増宮さまのお側に仕える覚悟でした!」
「どのような、って……私が、髪を断髪しろって母上に強要しても?!」
口にしてしまってから、滅茶苦茶なことを言ったと後悔した。この時代の女性で、髪を私の時代のようにショートカットにするなんて……そんなこと、非常識なこととしかとらえられない。
けれど、
「はい!」
母は即答して、
「わたくし、増宮さまがお元気であれば、それでようございますもの」
静かに付け加えた。
「ごめん、母上……試すようなことを、言ってしまった……」
私は、両肩を落とした。
(そうか……)
愛してくれているのだ。
しきたりがあるから、母であると名乗り出られない。
それでも、愛してくれているのだ。私のことを。
(そうじゃなかったら、フランツ殿下に手にキスされて倒れた時、あんなにボロボロ泣かないよね……)
“お元気であればようございます”という私が、突然気を失ってしまったのだ。母にとっては、天地がひっくり返るほどの衝撃だったのだろう。
そして、一向に女性らしくならない私のことを、心配してくれてもいたのだ。
“化粧はいやだ”“アクセサリーは嫌い”と常日頃公言し、野外活動服を着て男装もしてしまうこともあった私を、それとなくたしなめていたのは母だ。だから、化粧が嫌いな私に、何とか化粧をさせようという、伊藤さんたちの計略にも協力し、捨松さんから型紙を借りて、ディバイデッド・スカートも作ってくれたのだろう。
「ありがとう、今まで……」
私は、母に頭を下げた。
「きっと、今まで、私のことで、悪口を言われたこともあったよね」
「そんな……」
「二位局は言ったよ。“わらわがお上に手を焼くように、花松どのも、増宮殿下のことでは、さぞご苦労されていることでございましょうなぁ”って」
「そんなことは!」
母が、少しだけ頭を上げた。「わたくしは、増宮さまのことで、苦労などは全く……」
「だから、名前で呼んでよ!」
私は叩きつけるように言った。「私の前世のこと、知ってるんでしょ?だから、この状況に、私が全然納得できてないってこと、分かってよ!」
母は、眼を見開いて私を見つめていた。
「私の前世は平民だ。前世の両親は、2人とも忙しかったけれど、それでも同じ家に住んで、毎日顔を合わせていた。親が出稼ぎに出るとか、長期に入院するとか、子供を虐待してしまうとか、よっぽどの事情が無い限り、小さい子は親と同居するのが普通なんだよ。しきたりと言われればそれまでだし、私も最初はお父様とお母様が恐れ多くて、同居しなくてよかったって思ったけれど、でも、今は、寂しいと感じるんだ」
言葉が溢れ出て止まらない。そんな私から、母はずっと目を逸らさなかった。
「お母様は、私に愛情を注いでくれている。本当に、母親として。そのことには感謝してる。でも、私がお母様の養子になったせいで、母上が泣いてるとしたら、私は納得できない!」
「泣いてなど……泣いてなどおりませぬ!」
母は、大きく首を左右に振った。
「わたくしは……」
「泣いてる!」
私は、袂から素早くハンカチーフを取り出して、
「泣いてたから……」
透明な雫の光る母の眦に、それをあてがった。
「増宮さま……」
「だから、名前で呼んで、私のこと!」
私は叫んだ。「二人きりの時だけでいいから、抱き締めてよ!“章子”って呼んでよ、母上!」
「ふ、み……」
「増宮さま」
母の微かな声が、廊下からの侍従さんの呼びかけにかき消された。
「どうしました?」
今の会話を、侍従さんに聞かれてしまっただろうか。動揺を見せないよう、なるべく声を落ち着けながら問いかけると、
「陸奥閣下が、火急の知らせがあるとのことで、おいでになっておりますが……」
と、障子越しに侍従さんは答えた。
「陸奥さんが?」
私に緊急の知らせで、陸奥さんがわざわざ花御殿に来るとは、一体何があったのだろうか。
(まさか、ロシアが朝鮮に攻め込んだとか……でも、ウィッテさんがロシア国内は上手く抑えてくれたって、この間の梨花会でも言ってたし……)
気持ちが高ぶったためか、考えが余り進まない。とにかく、心を落ち着けて、陸奥さんの話を聞くしかないだろう。
「ごめん。私、行ってくる」
私が立ち上がると、
「では、わたくしも、お茶を……」
と花松さんも身体を起こす。
「いいよ、母上。お茶なら私が出す」
「でも、火急の知らせなのでしょう?お茶を準備なさる暇がありましたら、一刻でも早くお聞きになるべきですわ」
私は大きく息を吐いた。
「わかった。じゃあ、お茶はお願いしていいですか、母上?」
「……はい」
母はニッコリ笑って、頷いた。
私が今までに見た母の笑顔の中で、一番柔らかい笑顔だった。




