変装
※作中日時のずれに伴い、章タイトルを一部変更しました。(2019年11月22日)
※登場人物ミスがあり、一部修正しました。(2019年11月29日)
1897(明治30年)7月30日金曜日、午前10時。
「なるほど」
東京帝国大学医科大学付属病院の外科外来の診察室。私の隣で、自分の左手を見つめながら頷いているのは、野口英世さんだ。
「火傷の痕を切除する。そこに、手首の所を根本にして作成した有茎皮弁を縫着するということですか」
「その通り」
野口さんの前に座った東京帝大医科大学の外科学助教授・近藤次繁先生が應庸に首を縦に振る。彼はまだ30才になったばかりだけど、ヨーロッパへ留学もしており、外科の腕では、今の日本ではトップクラスである。
「それだけでは、手掌の瘢痕切除後の創面は覆えませんから、第2指と第3指の間の皮膚も皮弁として、橈骨側の創面に縫着します」
野口さんの後見人である血脇守之助先生も、熱心に近藤先生の話を聞いている。
「近藤先生、質問してもいいですか?」
私は普段より高い声を作って、軽く手を上げながら質問した。
「なんだね?」
近藤先生は私を見やった。
「組織を取った所……手首の内側とか、指の所とか、皮膚が無くなってしまって、目立ってしまいますけれど、そこはどうするんですか?」
高い声のまま、更に質問すると、
「ほう、女性なのにいい質問だねぇ」
近藤先生は満足げに頷いた。「更に目立たない所から、皮膚を採取して移植するのだよ」
「というと、背中の下部や、太ももからですか?」
「おお、血脇先生の妹さんは優秀だ。女にしておくのがもったいない」
近藤先生の偉そうな言葉を聞きながら、
(典型的な奴だなぁ……)
私は内心、苦笑いを浮かべた。
野口さんは、この秋の医術開業試験の後期試験を受けることを希望している。規定では、後期試験を受けるには、前期試験に合格してから1年半開けないといけない。昨年秋に前期試験に合格した野口さんは、受験はまだできないはずなのだけれど、試験責任者でもある衛生局長の後藤さんに尋ねたら「受験しても構わない」ということだった。だけど、後期試験は実技を含む。野口さんは、幼い頃に左手に大火傷をしていて、左手の指の曲げ伸ばしが制限されている。このままでは実技に必須の打診が出来ないので、左手を更に治療しなければならない。ベルツ先生と三浦先生に、治療が出来る医師について尋ねた所、
――外科学の近藤先生に、一度相談したらよいのではないでしょうか。
と勧められ、野口さんに診察に行ってもらったのが昨年末だ。そして、色々検討してもらった結果、
――私なら手術できます。
と近藤先生が断言したのが、今年の1月末のことだったそうだ。ただ、私が皇太后陛下の喪に服していたので、ベルツ先生と三浦先生に直接会って報告を聞いたのは、3月の半ばを過ぎたあたりだった。そして、野口さんの勉強の進み具合と、後期試験への出願時期を考慮した結果、8月半ばごろに手術をすることになった。
さて、その手術は、有茎皮弁……つまり、血流のある皮膚や皮下組織を移植する方法を使う、ということをベルツ先生たちから聞いた私は、
――可能なら、手術を見学したいです!
と医科分科会の席で希望した。当たり前の話だけれど、転生して以来、手術の見学をしていない。今生でも医師を目指すのだから、この時代の手術の実際を確認しておきたい。そう思って、手術を受ける野口さんにも、手術の見学をする了承を得たのだけれど、東宮亮の牧野さんが猛反対した。
――皇族が手術に立ち会った例などありません!しかも、手術室に入るとは……。
――だけど牧野さん、私、医師になるんだから、手術の実際だって見学しておかないといけないんですよ。
――それはそうですが……増宮殿下はまだ御年14歳、高等学校にも進学しておられないですし、医術開業試験の前期試験も受けていらっしゃらないではないですか。もう2、3年後になってからでも……。
――嫌です!ドイツの最新技術を使った手術だって、ベルツ先生から聞いたんです!次あるのがいつか分からないですから、私、野口さんの手術を見学したいんです!
何度も何度も牧野さんに訴えたら、彼も何とか妥協してくれた。私が野口さんの手術を見学するのはダメだけれど、術前の説明や、術後の経過を近藤先生の口から聞くのはいい、ということになったのだ。
(だからって、なんで、私は血脇先生の妹のふりをして、手術の説明を聞かないといけないんだろう……)
この日のために借りたカツラの重みに耐えながら、私はため息をつきたいのを我慢していた。
――手術後の経過は、病院を視察なさって、その時にお聞きになればよろしいですが、手術前の説明に殿下がいらっしゃると聞いたら、近藤先生は仰天して、肝心の手術の時に、緊張しすぎて操作に狂いが生じるかもしれません。万が一のことが起こってしまうと大変ですので、殿下は変装なさって、血脇先生の妹の振りをして説明を聞いてください。
牧野さんにこう言われたので、今日の私のいで立ちは、女袴は付けず、濃紺の地に大輪の花火を描いた着物に、薄い水色の帯……。町を歩いている若い女性の格好である。髪型も、もちろんいつものポニーテールではなく、“桃割れ”という髪型の日本髪のカツラを被っていた。
――牧野さん、手術に立ち会ってはいけない、というのは分かる気がしますけれど、皇族が変装するのは許容範囲なんですか?
牧野さんに尋ねたら、
――日本武尊も女装されていますし……それに、先日殿下からお借りしたシャーロックホームズの小説では、ホームズが変装しておりましたな。
と言われた。何か間違っているような気もするけれど、ここが彼なりの妥協点らしいので、指示に従うことにした。
だけど、髪型が、いつも結っているポニーテールのままだと、いかにも女学生という雰囲気になってしまう。どうしようか……と牧野さんに相談したら、話を聞きつけた梨花会の面々が、大挙して花御殿にやって来てしまい、
――日本髪は難しい!ここは束髪で……。
――いや、やはり日本髪だ!
私を寝室の鏡の前に座らせて、激論を繰り広げた。特に熱心だったのは児玉さんと西園寺さんで、牧野さんに用意させた何種類かのカツラを、とっかえひっかえ私の頭に乗せて吟味していた。その結果選ばれたのがこのカツラなのだけれど、頭がいつもより重くて、頷くのに一苦労だ。
「先生、後期試験には間に合いますでしょうか?」
私がカツラの重みに耐えている横では、野口さんが近藤先生に質問している。
「もちろん、間に合うとも」
近藤先生は自信ありげに、大きく頷いた。「そうすれば、君も医術開業試験に合格して、薫さん……と言ったかな?この、血脇先生の妹さんと晴れて結婚できるわけだ」
“薫”というのは、今回変装するに当たって名乗った偽名である。井上さんの名前の“馨”から、音だけ借りた。もちろん、井上さんの許可はもらっている。
「ところで、薫さんは本当にお美しいね」
近藤先生が私を見つめた。色々と勘違いされている気がするけれど、私は恥ずかしそうに、少し顔を下に向けてみた。首と頭が重い。
「髪型を、流行のポニーテールにしたら、増宮殿下と張り合えるんじゃないか?私は写真でしか拝見したことがないが」
近藤先生が血脇先生に話しかけると、
「い、いやぁ……」
血脇先生は曖昧な微笑を浮かべた。まさか、自分の前にいるのが、増宮本人だとは言えない。
「いや、というより、写真の増宮殿下にそっくりだ。この美しい顔形といい……」
「お、恐れ多いことですけれど、“似ている”とよく言われるんです」
私は高い声で答えると、慌てて愛想笑いをした。
「ほう、そうか。増宮殿下も、お美しいのだから、しかるべき婿殿とご結婚されればよいだろうに。女性は家庭に入るべきなのだ。教育など受けてもどうしようもない。増宮殿下は、噂では高等学校への進学を希望されているというが、いやはや、どうかされているのではなかろうか」
私は黙って愛想笑いを浮かべていた。これが、今の時代の普通の感覚なのだ。いつもは家族や梨花会の皆、それに皇居や花御殿の職員さんに、援護射撃をたくさんしてもらっているから、この感覚を意識することは、ほとんどないけれど……。
すると、
「いやぁ、本当に、僕も彼女と結婚できるのが嬉しいんですよ。ああ、祝言の日が楽しみだなぁ」
野口さんが突然、こんなことを言い始めた。
「?!」
血脇先生の顔が一瞬強張る。私も動揺を出さないよう、必死に自分を抑えた。
「ふふ、薫さんとの祝言の時には、私も招待してくれたまえよ、野口君」
「はい、もちろんです、先生」
明るい顔で近藤先生に返事する野口さんに、
「誰が、あんたみたいな放蕩学生と結婚すると言いましたか!」
病院の玄関を出たところで、私は一発平手打ちをお見舞いしたのだった。
8月27日金曜日、午後4時。
私は、東京帝国大学医科大学の附属病院を訪れていた。
今日は正式に“視察”として病院に来ているので、前回のように変装はしておらず、髪型はいつものポニーテールだ。それに紫の矢羽根模様の着物と、海老茶色の女袴と、いつもの女学生スタイルである。
3時から視察を開始した私には、東宮亮の牧野さんだけではなく、大山さんがついて歩いていた。そこまではまだいいけれど、三浦先生の説明を受けながら、内科に入院している患者さんにお見舞いの言葉をかけている間に、気がつけば児玉さんが列に加わっていた。産婦人科の病室を回り終える頃には、陸奥さんと勝先生と西園寺さんが、“最初からいました”という顔をして私に付き添っていた。
「ちょっと!あなたたち、仕事は?」
外科の病室に移動中、呼びもしない付き添い者たちを小声で咎めると、
「陛下に“面白そうだから様子を見てこい”って命じられたんでねぇ」
と勝先生がやはり小声で返した。
「随分無礼なことを、近藤って若造が増宮さまに言ったらしいじゃねぇか。増宮さまが、奴をギャフンと言わせてくれるんじゃねぇか、って楽しみで」
勝先生の言葉に、西園寺さんがにこやかに頷く。
「それにしても、牧野、面白いこと考えついたなぁ」
勝先生が横を歩く牧野さんの左肩をポンと叩くと、牧野さんは、「あ、はぁ……」と戸惑いながら返事をした。
「まさか、大山さんも児玉さんも陸奥さんも、面白そうだから付いてきたの?今、それどころじゃないでしょうに」
私が、隣を歩く大山さんに囁くと、
「朝鮮の前国王の死去の発表も済みましたし、ロシアへの手も打ちましたし、少し落ち着いております」
大山さんは私にこう囁き返す。私の言葉を否定しないということは……本当に、面白そうだからついてきたのだろう。
(全くもう……)
こっそりため息をつきながら、ちらりと背後を見ると、
「私が選んだカツラが、近藤先生に露見することは、万に一つもないでしょう。ふふふ、楽しみですな」
「そうでなくとも楽しみですよ」
児玉さんと陸奥さんが、小さい声で言い合いながら、クスクス笑っている。私は彼らへの注意をあきらめて、病院長の後ろについて黙々と歩みを進めた。
外科の病棟の入り口には、近藤先生が待ち構えていて、私の姿を見ると深々と頭を下げた。先日とはまるで違う態度に、思わず吹き出しそうになったけれど、必死にこらえて、気品ある内親王を精一杯装う。病室を彼の説明を受けながら回り、患者さんにお見舞いの言葉を掛けながら進み、最後に野口さんが入院している個室に着いた。彼が個室に入院しているのは、有茎皮弁の作成という、今の日本では最新の技術による手術を受けたことと、実際に手術が行われるまでに、ベルツ先生が各方面を調整したということが影響しているらしい。個室に入ると、近藤先生は野口さんの側に立って、恭しい態度で、20日に行われた野口さんの手術の状況と、術後の経過を説明し始めた。術前の説明の時を思い出したのか、近藤先生に左腕を取られた野口さんが、必死に笑いをこらえていた。
「有茎皮弁なら、手術の成功率も高くなる。だから、手技は難しいけれど、有茎皮弁を選択したということですね?」
私は何も知らないふりをして、近藤先生に確認した。
「はい、それに今回は、ペニシリンも使わせていただきましたので、成功率は更に高くなるかと」
頭を下げたまま答える近藤先生に、
「傷口からの感染が押さえられて、組織がより生着しやすくなるからですね」
私は穏やかに指摘した。
「その通りでございます。いや、本当に素晴らしい。増宮さまは御聡明で、女子の手本になるような御方だ。これからの女子も、教育を受け、教養を磨くべし……まさにその通りです」
「……先日は、違うことをおっしゃっていましたね」
私は微笑しながら、静かに近藤先生に話しかけた。「女子は家庭に入るべき、教育を受けるなんてもってのほか、増宮はどうかしていると」
「は?」
近藤先生は、私の言葉の意味を取りかねたのか、キョトンとしている。そんな彼に、
「私は、野口さんと結婚なんてしませんよ」
私はキッパリ言い放った。
「え……?」
「余の顔を見忘れ……じゃない、野口さんと一緒に手術の説明を聞いたの、覚えていらっしゃらない?私、血脇守之助の妹の、薫です」
最後のセリフだけ、あの時と同じ高い声で言って、私は満面の笑みを近藤先生に向ける。
「ひ、ヒイイイッ?!」
近藤先生は目を丸くしながら叫び、床にへたり込んだ。
その光景を見た野口さんは、涙をこぼしながら大笑いする。私についてきた”梨花会”の面々も、一斉にニヤリと笑う。
そして、牧野さんも、普段の謹厳実直な表情を、ほんの少しだけ崩していたのだった。
「いや、最高でしたな。近藤先生のあのうろたえよう」
8月27日金曜日、夕方。
花御殿の私の居間で、児玉さんは冷やした麦湯を一口飲むと、クスクス笑い始めた。ちなみに、牧野さんは、帝大病院を出たところで、“一緒に陛下の所に報告に行くぞ”と勝先生に皇居に連れて行かれたので、私の居間にいるのは、大山さんと児玉さんと西園寺さんと陸奥さんである。
「傑作でしたな」
大山さんも、児玉さんの言葉で先ほどの光景を思い出したのか、また笑顔になった。「まさか、悪口を本人の前で言っていたとは……よい薬になったでしょう」
「近藤先生の反応が、この時代の普通の感覚だと思うよ、大山さん?」
そう言いながら、私は麦湯の入った湯飲みに手を伸ばした。「皇太后陛下に最後の面会に行った時にも、二位局に散々言われた。私の姿は、女のあるべき姿ではない、内親王が手に職を持つなんて、もってのほかだって」
「それは、文部次官としては聞き捨てなりませんな」
西園寺さんが言った。「もう少しで、女子の高等学校進学も認められる時代……二位局さまには、認識を少し改めていただかなければいけませんね」
「西園寺さんの認識も、別の所で、改める方がいいと思いますよ?文部次官が花街に出入りするって、教育に悪いじゃない」
西園寺さんにツッコミを入れると、
「もうすぐで、文部次官もお役御免になるかもしれませんがね」
彼は聞き捨てならないことを言い始めた。
「どういうことですか?」
「実はですね、僕に厚生大臣を、という話があるのですよ」
西園寺さんは微笑した。「もちろん、衛生行政については何もわからないので、有能な次官に好き勝手やってもらって、責任を取るだけにしようかと思いますがね」
(うわぁ……)
私はため息をついた。“何もわからない”、とあっさり白状するのもすごいけれど、“有能な次官に好き勝手やってもらって責任を取るだけにする”というセリフは、なかなか言えるものではない。
(すごい度量だなぁ……)
感心していると、
「ただ、なかなか難しいでしょう、様々なことを考えていかなければなりませんから」
児玉さんが両腕を組んで、軽くため息をついた。「そろそろ、政党の人材の登用も考えていかなければいけないでしょう。まずは、与党の尾崎さんと犬養さんあたり……」
「2人とも、凄く弁は立つんですよね」
「だが、弁が立っても、大臣、総理としての能力があるかはまた別問題……適切に成長させなければいけませんね」
陸奥さんが指摘する。「立憲自由党の星君や岡崎君、松田君もだ。いずれ僕が党を掌握すれば、彼らを鍛えられますが、まだ、板垣さんが辞めると言わない。いい加減、立憲自由党をこの手で奪ってしまおうかと考えてしまうこともあります。ねぇ、西園寺さん」
「まだ少し早いですよ、貴族院議員の陸奥先生」
西園寺さんが苦笑する。陸奥さんは昨年、男爵になっていて、この7月の貴族院議員選挙で、男爵議員の一人として見事に当選していた。
(だから、やりかねないんだよねぇ、立憲自由党の乗っ取り……)
私はため息をついた。今の日本では、女子は選挙に立候補することも、投票することもできない。内親王という身分があっても、貴族院議員にはなれないのだ。
(いずれは、男女平等の普通選挙が実現できればいいけれど……。まだまだ先の話だから、私がどうこうできることではないな)
そう思っていると、視線が私に飛んできた。大山さんと陸奥さんだ。
「今、“自分にはどうにも出来ない話だ”と思われましたね?」
「……相変わらず鋭いですね、陸奥さん」
私は肩を竦めた。「私は女子ですから、議員にはなれません。私の時代では、男女平等に普通選挙権が与えられていたけれど、それは日本の敗戦の後で決まったことですから、今生で私が生きている間に、実現できるかどうか……」
すると、
「何をおっしゃる。それこそ、殿下のご活躍次第だというのに」
陸奥さんが悪戯っぽく笑った。「最初に会った時に申し上げたような記憶もありますが、内親王の身でありながら医師を目指す……殿下の目指される生き方は、“旧来の陋習”に真っ向から立ち向かうもの。殿下の歩まれる道、その後ろから、女子の新しい生き方が芽生えてくるでしょう。なにせ、殿下は、陛下のご長女なのですから」
(あ……)
そうか。お父様の実質的な長女……その立場は、私が望もうと望むまいと、周りに影響を及ぼすのだ。
「……どうせなら、私の置かれたこの立場、世の中にとってより良い方向になるように、使いたいものですね」
苦笑しながら言うと、
「そうですね。梨花さまなら、きっとお出来になります」
大山さんが私を見つめながら言って、微笑した。
いつもの、優しくて暖かい瞳だった。
※野口さんの左手の手術については、「野口英世の左手の「わが国初の有茎皮弁移植術」」(日本医史学雑誌)を参照しました。




