朝鮮異変
※日付ミスを訂正しました。(2020年9月8日)
※名称ミスを訂正しました。(2020年12月10日)
1897(明治30)年6月23日水曜日、午後5時。
「急に2人とも“梨花会”で呼び出されたって、一体どういうことだと思う、兄上?」
皇居の中を、お父様の侍従さんに従って歩きながら、私は隣を歩く兄に囁いた。
「さぁ……よほどの事件が起こったのだろうが、見当もつかないな」
制服を着た兄は、やはり小声で答えながら首を捻った。少し髪が乱れているのは、剣道の稽古をしているのを打ち切って、慌てて支度をしたからだろう。私も、慌てて着替えたから、頭のリボンが解けかけているのに気が付かず、馬車の中で兄にリボンを結び直されてしまった。
(一体何が……)
考えていたら、いつの間にか、会議室に到着していた。会議室には、松方さんと高橋さん、西園寺さん、後藤さんが先着していて、私たちの姿を見ると立ち上がって頭を下げた。
「大蔵大臣、今日はこれから、ここで会議をするということか?」
兄の問いに、
「と思われます」
松方さんは首を縦に振った。「わしも急に呼び出されたので、何が起こったかわからないのです」
「はぁ……」
「ところで、殿下がた、牧野君の働きぶりはいかがですかな?」
松方さんは、拍子抜けしたように頷いた私と兄にこう尋ねた。
「最初、すごく戸惑わせてしまったけど、今は……普通に業務をこなしてるよね、兄上?」
「ああ。花御殿に縛り付けるのが申し訳ないくらい、業務を順調にこなしているな」
牧野さんは5月の頭から、花御殿に常駐し始めた。最初の数日は、慣れない業務もさることながら、私と兄の暮らしぶりにとても戸惑っていたようで、私が剣道で、兄のご学友さんたちを叩きのめしていると聞けば、“し、新聞紙上での噂と信じていたのですが……内親王殿下が剣道をなさるとは……”と顔面蒼白になり、兄と私が微行で、買い物に出たり、相撲見物をしたりしていると聞けば、“やけに下情をご存じでいらっしゃると思えば……”と、満月のように眼を真ん丸くしていた。他にも、私が“将来は医師になる”と公言していたり、花御殿に原さんや陸奥さんをはじめとする“梨花会”の面々、更にはベルツ先生、三浦先生、北里先生、森先生など、今の日本で著名な医師がしょっちゅう出入りしたり、私と兄の暮らしぶりが、彼の予想以上に質素だったり……牧野さんにとっては、花御殿で営まれている私と兄の生活そのものが、とても衝撃的なものだったらしい。
――増宮殿下は“新しい女子の手本”と言われておりますが、私の娘も、増宮殿下のように育ってしまうのでしょうか……。
大山さんの前で、牧野さんはこう言って深いため息をついたそうで、それを苦笑しながら報告してくれた大山さんに、
――私は、この時代の常識からかけ離れた存在だから、あまり気にするなって牧野さんに言ってあげて。
私も苦笑しながら伝えた。
そんな一幕はあったけれど、牧野さんはあっという間に業務に慣れ、伊藤さんが花御殿でしていた業務は完璧にこなすようになっていた。
「単なる“二代目”ではなくて、ちゃんとした実力のある人なんだな、と思います」
私が松方さんにそう言うと、「そうでしょう、そうでしょう」と彼は嬉しそうに頷いた。
「伸熊……ではなかった、牧野君は、読書と囲碁が趣味でしてな」
うっかり牧野さんを幼名で呼んでしまった松方さんは、厳めしい顔を慌てて作った。
「読書と囲碁ですか?」
「大久保公も囲碁がお好きだった。それに似たのでしょうな」
「ほう」
兄が頷いた。「わたしも学問所ではたまに囲碁を打つが、いつも負けてしまうな。牧野に教えてもらおうか」
「私は将棋で手一杯だなぁ。……そうだ、松方さん、牧野さんって英語は読めますか?」
「アメリカに留学もしていましたし、イギリスにもいたことがありますから、英語には堪能です」
「じゃあ、私、牧野さんに小説を貸してみます。と言っても、シャーロックホームズものしか持ってないんですけど」
「あの探偵小説ですか」
高橋さんが横から言った。「なかなか面白いらしいと聞きました」
「私の時代でも残ってますからね」
などと話していると、廊下の方が騒がしくなり、イギリスに行っている黒田さんと桂さん以外の残りの“梨花会”の面々が、次々と会議室に入ってきた。最後に伊藤さん、大山さん、陸奥さん、西郷さん、児玉さん、山本さんが同時に現れたのだけれど、なぜか皆、顔が一様に強張っていた。
「どうした、卿ら……。会合を開いていたのか?」
兄が少し眉をしかめながら尋ねると、
「おっしゃる通りでございます」
集団の先頭に立っていた伊藤さんが、兄に頭を下げた。
「何か、容易ならざる事態が出来したのか?」
「流石は皇太子殿下。勘が本当に鋭くていらっしゃる」
伊藤さんが何かを続けて言おうとした瞬間に、一同が弾かれたように素早く動き、各々の椅子の後ろに立った。
「嘉仁も章子も参ったか」
会議室の入り口に、お父様とお母様が立っている。私と兄も、両親に向かって、慌てて深く頭を下げた。
「よい、そなたら、椅子にかけろ」
上座にある椅子に歩み寄ったお父様の声で、私も兄も、梨花会の面々も椅子に座った。
「お父様、一体何が起こったのですか?」
兄の質問に答える代わりに、
「伊藤」
と、お父様は枢密院議長兼内閣総理大臣を促した。
「はっ」
伊藤さんは頭を下げると、「では、列席の皆様方に、改めて申し上げます」と言った。
「さる20日……朝鮮の前国王が暗殺されました」
伊藤さんの言葉に、会議室に先着していた面々が、一斉に顔をひきつらせた。
朝鮮の今の国王は、前国王と、一昨年亡くなった閔妃との間の実子である。
軟禁され、朝鮮国内での権力を取り戻そうと動き始めた閔妃は、袁世凱の手によって毒殺され、表向きには“病死”とされた。しかし、朝鮮国内では彼女が毒殺されたという噂が絶えなかった。袁世凱はその噂を巧みに利用して、今の国王には、“前国王が閔妃を殺した”と囁き、前国王には“今の国王が閔妃を殺した”と吹き込んだ。結果、実の親子でありながら、今の国王と前国王の仲は完全に修復不可能になった。ここまでは私も知っていることだ。
そんな前国王が、3日前に殺害された。
「黒幕は、やっぱり袁世凱ですか?」
私が尋ねると、
「その通りです」
伊藤さんが答えた。
「原因は?やはり、前の国王が、国内での権力を取り戻そうと蠢動したか?」
兄の質問に、
「それも理由の一つですが……」
大山さんが静かに答え始める。「前国王が、今の国王の暗殺計画を練っていたことも発覚したそうです」
「?!」
後藤さんが目を見開いた。
(うわぁ……)
言葉の重みにクラっとして、私はがくりと落ちそうになった頭を、慌てて右手で支えた。“息子が妻を殺した”“父が母を殺した”と憎しみ合った末に、実の息子を殺害しようとするとは……。
(前国王と今の国王の周りにいた連中も、それぞれ煽ったんだろうけれど……こういう時代なのよね、今……)
「前国王は、最初は、国外逃亡を狙っていたようです」
陸奥さんが淡々と言った。「3日前に行われたヴィクトリア女王の在位60周年記念式典に、使節として出席したいと……」
「あ、そうか。あの式典、“君主の出席は断る”って話だったから、“前の君主なら大丈夫”という理屈ですね」
ヴィクトリア女王の在位60周年記念式典には、各国の代表使節の出席は認められたのだけど、君主の出席は断られた。だから、在位50周年記念式典には出席していたヨーロッパ各国の君主たちも、今回は出席していない。
「その通りです。もちろん、目的が丸わかりでしたので、袁世凱が阻止しましたが」
「全くじゃ。逃亡された挙げ句、“史実”のハーグ密使事件のように、“清の支配は無効だ”などと式典で訴えられたら最悪ですからな」
伊藤さんが渋い顔で言う。そう言えば、“史実”のハーグ密使事件は1907(明治40)年だから、伊藤さんが韓国統監だった時に起こったことになる。
「それが5月の初めのこと。念のため、記念式典で、朝鮮の使節に妙な騒ぎを起こされないよう、我が国と清の在イギリス公使にも連絡し、黒田さんと桂にも連絡をしました。無論、式典に出席する予定の、張之洞どのにも。実際に、朝鮮の使節が妙な行動をしそうになっていたということで、監視下に置いて行動を阻止していると、5日前に中央情報院から連絡がありました」
「その最中に今回の、国王暗殺未遂事件です。暗殺の決行予定日は21日……恐らく、国王暗殺に成功したら、ロンドンの朝鮮使節団に直ちに打電し、使節団が祝典に集まった各国の大物政治家たちの前で、騒ぎ立てるつもりだったのでしょう。“我が国は清に不当に支配されている。しかし、清が傀儡とする国王は殺した。これからは前国王の時代だ”と」
伊藤さんの言葉を引き取るように児玉さんが発言した。
「現在の所、前国王の死や前国王一派の拘束などは、朝鮮の国民にはもちろん、海外にも伏せることはできているとのこと。李鴻章どのや袁世凱がこの報を密かに我が国に送ってくれたのは、我が国が清の同盟国なればこそ、です。我が国も情報の秘匿に全力で当たります。ロンドンの黒田閣下や桂さんにも、その旨は打電し、協力を依頼しました」
山本さんが、児玉さんの言葉に更に付け加えて一礼する。
私は大きく息を吐いた。流石は伊藤さんだ。前国王の考えそうなことを、“史実”も参考にして予測し、ハーグ密使事件のようなことを起こさせまいとして、手を打ったのだろう。その策が、見事に決まったわけだ。……暗殺計画自体は、予想外だった可能性があるけれど、構築しておいた体制が、それへの対応も可能にした。
「特にロシアには、今の段階では秘匿しておかないとまずいでしょうね」
山田さんが渋い顔で指摘する。
「そっか、アレクセーエフ!」
私は思わず叫んでしまった。ロシア太平洋艦隊の提督。好戦的な彼が朝鮮に起こった事件を知れば、“朝鮮を攻める好機”と騒ぐに違いない。
「アレクセーエフは、この3月に黒海艦隊に配置換えになったから、そっちは気にしなくていいだろうよ、増宮さま」
勝先生が冷静に言って、少し笑う。「流石に、黒海から朝鮮には手が届かねぇさ」
(あ……)
そう言えば、陸奥さんと原さんが、私の居間で議論していた時に言っていたような気もする。“主治医どの、聞いていたのか?”と、後で原さんにドヤ顔で突っ込まれそうだ。私は肩を落とした。
「けど、戦争を起こさせないようにしねぇといけないのは確かだ。うちの海防にも穴があるって分かったしな」
「三景艦のことですな」
勝先生の言葉に、西郷さんがそう返した。去年12月に黄海で行われた日清の合同対抗演習で、巡洋艦の“松島”・“厳島”・“橋立”が搭載している主砲に、問題があることが露呈してしまった。船体に対して主砲が大き過ぎるので、砲身を旋回すると船体が傾斜し過ぎる。また、主砲を発射すると、反動で船の進路にまで影響が出るという、戦闘に支障をきたす欠陥が演習でもろに出てしまったそうだ。砲を取り替えようにも、軍艦の重心が移動してしまうので、そう簡単にはいかないらしい。大きな砲をいかに扱うかは、今後の船体設計の課題になった。その他にも、日清両軍ともに、いくつか課題が見つかったらしいけれど、詳しくは聞いていない。
「幸い、軍艦建造に関しては、伊藤さんの話と合わせると、“史実”より約2年早く進んでいます。“富士”も“八島”も日本に回航されました。清の艦隊の協力を得られることを考えれば、ロシア艦隊を各個撃破すれば、ロシアと戦争状態に陥った場合も、十分に戦うことが出来る」
「ですが、西郷さん。それは“明治36、7年の時点ならば”という但し書きがつきますな」
山縣さんが、今日初めて口を開いた。眉を微かにしかめている。「根拠地になるような日本海に面した港湾を、万が一ロシアに与えてしまえば、ロシアは“史実”と同じように、ウラジオストックとその港湾、両方に艦隊を整備するでしょう。それは我が国と清にとって脅威になる……」
「清は“史実”の日清の戦の後のように、列強に蚕食されている状況ではない。となれば、ロシアの狙いどころは朝鮮……此度の一件で、ロシアが変な大義名分を担ぎ出して朝鮮に攻め込んだら、えらいことになるねぇ」
三条さんがのんびりとした口調で、的確に脅威を指摘する。
「だからこそ、それを起こせないように、今できる最善の手を打つのですよ」
伊藤さんが、声を出さずに笑った。「“史実”と同じ轍を踏ませはしない」
伊藤さんの身体から流れ出る凄みに、私は背筋を正された。それは、列席の全員が、感じた思いだっただろう。伊藤さんは笑みを崩さない。そこには、強い決意が滲み出ていた。“史実”の悲劇を……日露戦争を、そしてその先にある日中戦争や太平洋戦争を、この時の流れで繰り返させはしないという、伊藤さんの切なる思いが。
どんな選択をしたとしても、その先には、姿や性質を変えた悲劇が待ち構えているのかもしれない。
(でも、それでも、ベストを尽くす。私も……出来ることをする)
一同と同じく、私も伊藤さんに向かって、一つ頷いた。
「梨花さま」
会議が終わるや否や、大山さんが私に声をかけた。
「一つお願いがあります」
「何?」
「梨花さまのお側にいたいのは山々なのですが、恐らく、この1、2ヶ月……了介どんが日本に戻る辺りまで、俺は花御殿を空けることが多くなると思います」
すまなそうに言う大山さんに、
「分かってる。大事な時期だもんね」
私は微笑んでみせた。朝鮮やロシアの動静に、注意を払わなければいけない時期だ。諜報機関のトップでもある大山さんが忙しくなるのは、当然のことである。
「寂しいけれど、仕方ないな。くれぐれも、無理し過ぎて身体を壊さないようにね。あなたはこの国にとっても、私にとっても大切な人なんだから」
「お優しいお言葉を、ありがとうございます」
大山さんは私に向かって一礼した。
「あなたになるべく心配を掛けないように、私も牧野さんの言うことを聞いて、大人しくしてるよ」
そう言うと、
「いえ、逆です」
大山さんは首を横に振った。「むしろ、大いに牧野さんを困らせて下さい」
「あの、大山さん?一体、どういうことなの?」
少し首を傾げながら尋ねた私に、
「牧野さんの強みは、“守る”こと……どのような分野でも、一度作り上げられたものを的確に運用することに、非常に能力を発揮できる。俺はそう見ています」
大山さんは楽しそうに言った。「ですが、新しい状況に対応する、新しく何かを作り上げるという経験はまだ少ないようです。“攻める”ことを覚えて、もう一皮二皮剥けると、良き政治家になりましょうな」
「はぁ……」
私はため息をついた。こんな時に、大山さんのイタズラ好きが出てしまったのだろうか。
「武官長」
いつの間にか、兄が私の側に来ていて、ニヤリと笑った。「わたしも、それに一枚噛む方がよいかな?」
「もちろんでございます。ご学友の方々も巻き込んで、是非とも大いに困らせていただきとうごさいます」
ニヤニヤする大山さんと兄を、
「……まぁ、牧野さんがストレスで倒れないように、手加減はするね」
私は呆れながら眺めていたのだった。




