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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第20章 1897(明治30)年大寒~1897(明治30)年処暑
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麦飯論議

 1897(明治30)年3月13日土曜日、午後2時。

 今日は、2ヶ月ぶりの梨花会の日である。

 先月は、お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)が、亡くなった皇太后陛下の柩に付き添って、京都に滞在していたので、梨花会が開催されなかった。もし、有栖川宮殿下がおっしゃっていた人数が御斎場式に参列していたら、京都が大混乱になったと思うけれど、大喪使長官の有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王殿下が、勝先生の説得を受け入れてくれ、参列者が当初の半分未満に絞られたので、京都が混乱に陥ることはなかった。お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)は2月20日に京都から戻り、今日の梨花会にも参加していた。

「しかし、威仁(たけひと)はイギリスには行かないか」

 お父様(おもうさま)が口を開くと、

「兄が東京に戻ってきてから、少し体調を崩しているようで……出来れば、国内にはいたいと思いまして」

と、威仁親王殿下は答え、お父様(おもうさま)に向かって頭を下げた。“イギリスに行く”というのは、6月にあるイギリスのヴィクトリア女王の在位60周年記念式典への参加のことだ。

「え……大兄(おおにい)さま?有栖川宮殿下、医者にはかかってます?」

 心配になった私が思わず尋ねると、

「増宮さま、大丈夫ですよ。高木軍医中将が往診して下さっています」

威仁親王殿下は微笑んだ。高木軍医中将は、国軍医務部のトップだ。彼が診察してくれているのであれば、まず大丈夫だろう。

「大喪の事後処理が落ち着いたら、葉山の別邸で静養すると言っていました。そうそう、育てたカーネーションと牡丹を、増宮さまと皇太子殿下に見せたいと言っていましたね」

「気持ちは非常にありがたいのですが、また蘊蓄話が長くなりそうですね、義兄上(あにうえ)

 兄が苦笑しながら言うと、

「何、増宮さまの城郭の話よりは短く済みましょう」

と親王殿下は澄ました顔で返す。さりげなく、ひどいことを言われた気がするけれど、黙っていることにした。今度、名古屋城の話でも、親王殿下にたっぷり聞かせてやろう。

「となると、イギリスに派遣するのは能久(よしひさ)か」

 お父様(おもうさま)が呟くと、

「おや、先日、イギリス公使に会いましたら、増宮さまにご出席を……などと言っていましたが」

陸奥さんが意味不明なことを言った。

「お断り申し上げます」

 お父様(おもうさま)が口を開く前に、私はピシャリと言った。「陸奥さん、私の時代なら、飛行器でイギリスまで1日かからずに行けますけれど、今の時代だと、片道で1ヶ月以上かかるじゃないですか!そんなに長い期間、お父様(おもうさま)と兄上の側を離れるなんて、私、絶対にお断りです!しかも私、まだ成人してないんですからね!」

「ええ、そうおっしゃると思いましたから、お断りしましたよ」

 私が真剣に怒っているのに、陸奥さんは、私の言葉を軽く受け流し、

「ですが……メクレンブルク公のように、先方から来ていただくのは構わないのでしょう?」

と私に尋ね返した。

「それは構わないけれど……何でそこで、フリードリヒ殿下の名前が出るの?!」

 陸奥さんを睨み付けたけれど、彼はただ黙って微笑むばかりだ。

「兄上も陸奥さんに……」

 文句の一つも言ってほしい、とお願いしようとしたら、兄もこちらを見ながら、微笑を向けている。その視線は、なぜか妙に柔らかかった。気が付くと、列席している全員が私に目を向け、余裕のある笑みを見せている。

「な、何ですか?!私、何か変なことを言いました?!」

 思わず立ち上がり、一同を見渡しながら突っ込むと、

「言うておらんよ、章子」

お父様(おもうさま)が、ニヤニヤ笑いながら言った。「ただ、子供の成長というのは素晴らしいものだ、と思ってな」

(訳の分からないことを……)

「と、とにかく、私を見てる暇があったら、会議を進めて下さい!貨幣法が成立したと言っても、まだまだ話し合わないといけないことがあるんでしょう?!」

「仕方ないな。では本題に入るか」

 私の抗議に、お父様(おもうさま)はようやく頷いてくれた。それを確認して、私は椅子にかけた。

「頬が真っ赤ですよ、梨花さま」

 隣に座っている大山さんがこう言ったけれど、無視することにした。


 私の抗議もあって、議事は順調に進んでいき、議題は、国土調査委員会の調査結果の発表に移っていた。

「なるほど、こうして数字で見ると、米は北で育てちゃいけないってのが、よくわかるな」

 配布された資料に目を通した井上さんが、両腕を組んで言った。

「はい、そうなのです」

 内務省衛生局長兼、国土調査委員会委員長の後藤さんが、眼鏡を上げながら答えた。「しかも、伊藤閣下の“史実”の記憶によれば、1900年代になってから、東北地方で冷害が相次ぐとのこと」

「それだけじゃないです」

 私は軽く右手を挙げた。「五・一五事件の2、3年前……だから、1930年前後だと思いますけれど、そのあたりでも東北で冷害が起こって、恐慌の影響も相まって女子の身売りが相次いだって、私も前世でバイトの時に教えた記憶があります」

「身売りか。悲惨だな、それは」

 兄が眉をしかめた。

「社会不安は民衆の暴発を招きかねません。それに、増宮殿下のおっしゃった、“史実”での軍隊の暴走も起きやすくなってしまうでしょう」

 高橋さんもこう指摘する。「増宮殿下と伊藤閣下の“史実”の記憶と、今の時の流れで発生したことを考え合わせると、自然災害は“史実”で起こった通りに発生する。つまり、天候も余程のことが無い限り、“史実”通りに巡るでしょう」

「ということは、冷害による被害をなるべく抑えなければならない」

 松方さんが重々しい口調で言った。「つまり、東北・北海道地方を重点的に工業地としていき、農業に代わる産業としていくか……」

「松方さん、それはまだ、ちと危険じゃ」

 西郷さんが右手を軽く挙げながら言った。

「工業地にするとなれば、津波が何十年かに一度発生してしまう太平洋側より、日本海側の諸都市が有力になるじゃろう。だが、ロシアと戦端が開かれることになれば、その工業地が艦砲射撃を受けてしまう可能性がある。ほら、増宮さまが言っていた……」

「太平洋戦争の時の、浜松への艦砲射撃ですね」

 これは、前世の祖母に聞いたことがあって知っていた。浜松は、軍事施設や軍事工場が集まっていたため、太平洋戦争末期に何度も空襲を受け、1945年の7月の末に戦艦による砲撃を受けたそうだ。

「そう、それじゃ。それと同じことが日本海側で起こる可能性は、ゼロではないじゃろう」

「制海権をきっちり我が方が押さえていれば、起こらないことではありますが……」

 山本さんが上司である西郷さんに、静かな声で反論する。

「だが、増宮さまの時代のように、レーダーだの飛行器だのが発展していなければ、やはり警戒をかいくぐって艦砲射撃が起こる可能性はある。現に、“史実”の日露戦争では、ウラジオストックのロシア艦隊が、日本海ばかりでなく、津軽海峡を通って太平洋にまで現れて、輸送船を沈めたからな」

 伊藤さんが更にそれに反駁すると、一座は静まり返った。

「すると、東北や北海道地方に工業地を集中させるのは、ロシアとの関係が落ち着いてからの方がよい、ということになりますな」

 咳ばらいをしてから口を開いたのは山縣さんだった。

「候補地の選定ぐらいは始めてもよいでしょうが、実際に工業地を集中させるのも、数年単位で時間が掛かりましょう。ですから、その間のつなぎという意味でも、冷害に強く、主食になりうる作物、特に麦を、東北・北海道地方で育てることを推奨するのがよい、ということになりますが……」

 上司の言葉にこう続けた原さんは、ため息をついた。「そこは問題になりましょうな」

「ええ、原閣下。稲作から麦作への転換に、踏ん切りがつかない農家が多いのです」

 後藤さんも渋い顔をした。「新渡戸(にとべ)先生とも、色々策を考えているのですが」

「農家が、麦を栽培する決心がつかないのは、やっぱり、麦が売れないから、ということでしょうか?」

 私が後藤さんに尋ねてみると、

「はい、その通りです」

彼は頷いた。

「ですよねぇ、私の時代ほど、パン食やパスタも普及してないし……」

「増宮殿下の時代と今の時代では、食に対する考えがかなり異なっていますので、一概には言えませんが、それも原因にはなっています。ただ、今は、国軍でも主食は7割の米と3割の麦になっていますから、麦の販路は徐々に拡大されつつあるのです。しかし、やはり都市の住民は、麦飯ではなく白い米の飯を求めがちです」

 後藤さんは私に答えて、大きく肩を落とした。

「え、うそ?麦飯、あんなにおいしいのに?!」

 私が思わずそう言うと、場が少しざわついた。陸奥さんの顔は少しひきつっているようだし、何か話そうとしていた高橋さんは、身体ごと動きを止めてしまっている。

「ま、増宮さま……麦飯を召し上がったことが?」

 恐る恐る口を開いた西園寺さんに、

「前世でも、食べたことはあるし……今、ほとんどの日は、毎食麦飯ですよ?お米が7割、麦が3割の割合で」

こう答えると、「な、なんやて……」と彼は眼を丸くした。

「そんな粗末なもんを……。確かに、陛下の小さいころのご生活も、割と質素やったと思いますけど、わざわざそれを真似せんでも……」

「真似をしているわけではないぞ、文部次官」

 兄が西園寺さんに向かってほほ笑んだ。「わたしも、ほとんど毎日麦飯だが、それは美味いからだよ。特に、とろろ汁をかけて食べると絶品だ」

「そう、とろろをおだしでちょっと伸ばして、お醤油を少しだけ混ぜて、麦飯の上にかけて食べるんです!毎週土曜日の夕食に出てくるのが、私、楽しみで!」

「そう言えば、今日も土曜日だから、帰ったら食べられるな。ふふ」

 私と兄の会話を聞いていた西園寺さんは、目を丸くしたまま、全く反応できないでいるようだった。

「あー、知らなかったか、西園寺。東宮御学問所の食事も、毎食麦飯だ」

 勝先生がニヤリと笑うと、

「うちの従義(じゅうぎ)も、最初たまげておったなぁ。“皇太子殿下が麦飯を平気で召し上がっている”と」

西郷さんも笑みを含みながら言う。

「あ、でも、西園寺さん、私たちの食べている麦飯の麦って、ちょっと特殊な加工をしてあるんです」

 思考が止まっている西園寺さんをフォローしようと思って、私はこう言ってみた。

「特殊な……加工?」

「梨花さま」

 大山さんが私の方を向いて微笑した。「もう、特殊ではなくなっているではないですか」

「ええ。国軍の兵士たちには、好評をもって迎えられておりますよ、増宮殿下」

 桂さんの言葉に、

「そう、押麦(おしむぎ)ですね」

私は頷いた。

 脚気の原因についての討論会に私が出たのは、もう6年も前のことだけれど、その頃、花御殿の料理人さんに無理を言って、麦飯を作ってもらったことがあった。ところが、出来上がったそれをよく見ると、私の時代に見かけた麦飯とは少し違った。入っていた麦の粒に、黒い筋が入っていなかったのだ。そのことを原さんに言ってみたら、

――なるほど、恐らく、先日主治医どのが食べた麦飯の麦は、挽割(ひきわり)麦だ。だが、主治医どのの時代は、押麦に変わっていたのだろう。

と言われた。麦の粒を臼で挽いたものを“挽割麦”、熱を加えてローラーで圧力を加えたものを“押麦”というのだ……と、その時に原さんに教えられた。そうやって加工をしないと、麦の粒はお米と一緒に炊くことが出来ないのだそうだ。

――そう言えば、押麦が出て来たのも、日露戦争の直前だったな。大正の御代には圧延機が開発されて……その圧延機、産技研で開発させてもいいかもしれん。

 原さんがそう言い始め、私が思い付いたということにして、押麦を作る機械を産技研に開発してもらった。それが4年前のことだ。押麦の風味は挽き割った麦より良く、お米と一緒に炊けるので、花御殿の料理人さんたちの評判も上々だった。それ以来、花御殿での主食は、特別な御神事がある日や、人を招いた食事会を開く時でなければ、全て押麦を使った麦飯にしてもらっている。兄も私を真似て主食を麦飯に切り替え、御学問所の食事でも毎食麦飯を出していた。

 また、押麦を見た西郷さんや児玉さんも、“これなら軍の糧食として使える”と太鼓判を押してくれ、一昨年、国軍の主食用麦に押麦が採用されたのだった。

「はぁ……」

 私の説明を聞いた西園寺さんは呆然としていた。「信じられないです。まさか、増宮さまがそんなものを召し上がっているとは」

「私の時代では“健康にいい”って持て囃される傾向もあるけれど、今の時代だと、麦の方がお米より安いから“お金がないときに食べるもの”って感覚になりますよね」

 本当は、麦飯だけではなく、他の食べ物も、前世で食べ慣れていた物に近づけてみたい。それから、味噌煮込みうどんなど、前世の故郷の味も再現してみたいのだ。私が使えるような台所があればいいのだけれど、花御殿の台所は、七輪や、薪を使うかまどが現役だ。七輪やかまどの火力の調整の仕方など分からないから、調理に手が出せないのだ。

(まぁ、火力調整の問題が解決できても、だしも、自分で昆布や鰹節から取るところから始めないといけないんだよね。流石にそこまでは、前世でもやったことがなかったからなぁ……産技研に、だしの顆粒とか、うまみ成分の研究をしてもらう方がいいかな?)

 そんなことを考えていると、西園寺さんはため息をついて、

「なるほど、時代は変わるものですな」

と呟いた。「常宮(つねのみや)さまと周宮(かねのみや)さまが、御殿で料理のお稽古を始められたと聞いた時は、本当に驚きましたが……まぁ、それも時代なのでしょうね……」

「驚かせてごめんなさい、西園寺さん。でも私、単純に、麦飯が好きなだけなんです。脚気の予防にもなるし」

 と、

「それです!」

後藤さんが突然叫んだ。

「へ?」

 首を傾げた私に、

「増宮殿下、殿下と皇太子殿下が麦飯を召し上がっているお話、使わせてもらってもよろしいですか?」

後藤さんは鼻息を荒げながら言った。

「はぁ、いいですけど……兄上は?」

「俺も構わないが……衛生局長、一体どうするのだ?」

 兄の問いに、

「は、麦の消費を促進するために、宣伝に使わせていただこうと思いまして」

後藤さんは最敬礼して答えた。

「面白そうだ。大山閣下、中央情報院も一枚噛んでよろしいですか?」

 身を乗り出しながら尋ねる児玉さんに、

「児玉さんは、本当にイタズラが好きですな。まぁ、構わないでしょう」

大山さんが穏やかに答えた。

「はぁ……」

(兄上はともかく、私が麦飯を食べてることが、宣伝に使えるのかなぁ?)

 私はとても疑問に思ったのだけれど、それは心の中に留めておくことにした。

※戦前の東北の冷害と言えば、1931(昭和6)年のものが有名かと思いますが、1902(明治35)年、1905(明治38)年、1906(明治39)年にもあったそうです。(近藤純正「最近150年間の東北地方における米収量(作況指数)と夏の平均気温との関係」の表より)


※麦飯……と言っても、原さんの言う通り、今の麦飯によく使われる押麦が開発されたのが1902(明治35)年、押麦用の圧延機が開発されたのが1913(大正2)年です。(小松忠五郎商店 編「乾物類之栞」より)なので、明治20年代の麦飯は、一度麦を煮てからお米と一緒に炊いたものか、挽割麦をお米と一緒に炊いたものかのどちらかだと思われます。という訳で、押麦を投入しました。

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― 新着の感想 ―
[一言] そもそも大麦なのか小麦なのかが不明なのでなんとも言いにくいのですが。 米と併せて炊くのは大麦でパスタやパンに用いるのは小麦ですが、増宮は知らなかったのか、忘れていたのでしょうか(笑)。
[一言] 1897(明治30)年と言えば、麦飯論議よりも電力論議が! https://www.fepc.or.jp/enterprise/rekishi/meiji/index.html それ以前から…
[一言] 梨花様の…  皆さん、面白がってからかってると後で、しっぺ返しがありますよ?  米は北で育てちゃいけない 本当にそうなんですけどねえ(溜息)。日本人の米への拘りって、生半可なものじゃないから…
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