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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第18章 1896(明治29)年小寒~1896(明治29)年立秋
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閑話 1896(明治29)年立秋:小淘庵(おゆるぎあん)

 1896(明治29)年8月9日、日曜日。

 神奈川県にある大磯町は、鉄道が開通し、駅が開業して以来、政財界の要人が避暑や避寒、海水浴をする目的で、別荘を構えることが多くなっていた。特に、3年前の秋、伊藤博文枢密院議長がこの大磯の地に本宅を構え、本籍を大磯町に移してからは、大磯の別荘の数は増加の一途を辿っている。その別荘群の中の一つ、東海道沿いに建つ山縣有朋内務大臣の別荘・小淘庵(おゆるぎあん)の茶室に、和服姿の2人の男が座っていた。

「どうかな、俊輔」

 障子から夕陽が射し込む茶室で、中身を飲み干した茶碗を畳に置いた客に軽い調子で尋ねたのは、この別荘の主だった。

「ふむ。大変よい。日本に戻ったという実感がようやく湧いた」

 客の伊藤枢密院議長も、やはり軽い調子で答えた。

「そうか。それはよかった」

 山縣内相は、親しい友人の答えに笑みを見せた。茶室の隅の方に置いた蚊取り線香から立ち上る一筋の煙が、ふわりと揺れる。

「なかなか時間が取れずに済まなかったな、狂介」

「何、構わないさ。それに、陛下を葉山に連れ出すのに、一騒動だったからな」

「確かに」

 伊藤枢密院議長が小さく笑い声を漏らす。“8日は梨花会がある”と言って、葉山への行幸を渋る今上を説得し、昨日の葉山への行幸に、見張りも兼ねて供奉したのは、伊藤議長も山縣内相もであった。そのまま、“梨花会”も葉山御用邸でやったから、明日あたりの新聞に“閣僚ほぼ全員、葉山に集結”などと書かれてしまうだろうが、仕方がない。

「きちんと休まれるであろうか、陛下は」

「さぁ……しかし、皇后陛下もおられるし、増宮さまが別邸から見張られる故、大丈夫であろう」

 山縣内相の質問に、伊藤議長が答えた。

「休んでいるかどうか見張る、というのも妙な話だがな」

 山縣内相が苦笑する。

「ところで俊輔、増宮さまで思い出したが、メクレンブルク公について、“史実”の記憶を持っていないか?」

「メクレンブルク公か」

 伊藤議長が両腕を組んだ。「残念ながら、わしの記憶にはないな」

「原君の記憶にもか?」

 山縣内相の言葉に、伊藤議長は息を飲んだ。

「狂介、どうしてそれを……」

 伊藤議長の緊張した声に、

「気が付いたのは、つい最近だが」

山縣内相は答えると微笑した。

「……原君の俳号を知っているか?」

「ああ……やはりそれか」

 伊藤議長の答えに一つ頷くと、

「原君の俳号は“一山(いっさん)”と言うのだ。一つの山、と書いてな」

山縣内相は静かに言った。「“白河以北一山百文”……それから取ったのだろう」

 伊藤議長は黙って頷いた。“白河以北一山百文”……白河の関より北は、山一つ百文の低い価値しかない、という東北地方に対する侮蔑の言葉は、戊辰の役の後、いつの頃からか世間に広まっていた。

「陸奥君も、俳号のことを森先生から聞いて、原君に“史実”の記憶があることに気付いたと言っていたが……お主もだったか、狂介」

「わしは単に、風雅の道に多少心得があったから気付いただけだ。陸奥どのは、鋭い嗅覚があるがゆえ、だろうが」

 山縣内相はまた苦笑した。

「原君の根底には、自分の出身を蔑む薩摩長州への、強烈な敵愾心がある。俳号を知った時、そう思った。その原君と、わしの元で甲斐甲斐しく働く原君とが、どうしても、わしの中で噛み合わなくてな。それで思った訳だ。原君は、暗殺されるまでの“史実”の記憶を、俊輔と同じように、何らかの原因で持ち合わせるようになったのではないか。そして、わしに対する強烈な敵愾心を隠しながら、わしの元で働いているのではないか、とな」

「……その通りだ」

 伊藤議長も、顔に苦笑いを浮かべた。「しかし、なぜ狂介に対する敵愾心と解釈した?」

「“史実”でお主が死んだ後、藩閥の親玉になりそうなのは、わししかいないではないか」

 山縣内相は、少し楽しそうな調子で答えた。「松方どのには、財政の才はあるが、人心収攬が得意と言うわけではない。聞多さんも然りだ。黒田どのも、この時の流れの実績があれば、藩閥の長にはなれようが、“史実”通りに総理を辞職すれば、そんな訳にはいくまい。西郷さんは上に立たないだろうし、大山どのも“史実”のままなら、やはり政治には口を出さずに過ごすだろう。山本も桂も児玉も、藩閥を率いるには貫禄が足りない。市之允も、政治の世界まで手を出すか……となると、残っているのはわししかいない。それに、増宮さまの当初のわしへの反応を見れば、自ずと想像はつく。“史実”では、わしが藩閥の長として原君と対決した、ということがな」

「増宮さまは、“授業”の時、原君と対決した藩閥の長の名前は伏せていたがな」

「お優しさ故か、それとも、わしらに遠慮をしたか……」

「後者だろうな。あの頃の増宮さまは、わしらに気圧されていたからな」

「確かに」

 山縣内相は微かに笑った。今から8年前の夏、当時の輔導主任・堀河侍従の腕に抱かれた、愛らしくて美しいが、どこかおどおどしていた幼い増宮内親王の姿が、脳裏にふっと()ぎる。

「それで……狂介、原君をどうする気だ?」

 伊藤議長の問いに、

「どうもしないさ」

山縣内相は微笑を崩さずに答えた。

「今から思い返せば、原君はわしを操ろうとしていた節がある。だが、わしは原君の望む選択はしたが、それはあくまで、わし自身の意志によるものだ。わしは、今の時の流れに対応して、己を変えなければいけない。そう思ってのことだ。お主もそうだろう?」

 伊藤議長は黙って首を縦に振った。

「だから、原君には何もしない。……このまま知らぬ振りをして、国のために、もっとこき使ってやろうとは思うが」

 山縣内相が言うと、

「お主も人が悪いな」

伊藤議長はニヤリと笑った。

「そうかな。もっと人が悪ければ、原君と対決していただろうよ。だが、あれは、敵に回せば強敵だ」

「“史実”ではそうだったよ。だが、一応原君と同じ側だったわしも、原君には、相当尻を叩かれた」

「そうか。となると、わしはまだ、原君に本気を出されていないのかもしれないな。彼はどこまでも、わしを立てようとする」

「原君に叱咤激励される狂介か……見てみたくもあるな」

 伊藤議長がクスクス笑いだすと、それにつられてか、山縣内相も薄く笑う。

「増宮さまは、原君が“史実”の記憶を持っていることはご存知なのか?」

 笑いを収めると、少し首を傾げながら、山縣内相は伊藤議長に尋ねた。

「ああ。大津事件の直後、大山さんと2人で見抜かれたそうだ。そして、増宮さま自らが原君に取引を持ちかけて、協力を得ることに成功した、と……」

「ほう?」

「“史実”で不治の病にかかられる皇太子殿下の健康を、増宮さまが主治医として守られることと引き換えに、だったかな。御自身が未来の医療知識を持つ医者であることを、取引の材料に使われたようだ」

「流石だな。御聡明であらせられる」

「先日も、原君の秘密を知った陸奥君に、国力を落とす真似をするなら、上医として、陸奥君の政治的生命を断つと仰せになられた。後世、逆賊とも大悪人とも自分がそしられても構わぬから、と」

「……ご成長されたな」

 山縣内相が破顔した。「増宮さまにそのお覚悟があるならば、この国は安泰だろうよ。わしも、一介の武弁として、全力でお守りするが」

「ああ。時には非情な決断を下す覚悟。本当にご成長遊ばされた。輔導主任として、これほど嬉しいことはないな」

 伊藤議長は、満面の笑みで頷くと、

「しかし、そのお心を支える誰かを探さねばならん。あのままでは、上医となられて国政に携わる時に、お心が壊れてしまう」

と、眉を曇らせた。

「それに、メクレンブルク公がよいかもしれないと思ってな」

 山縣内相は微笑みながら言った。

「先日、増宮さまの和歌を拝見したら、ほのかな慕情が、行間から垣間見えた。もっとも、増宮さまご自身は、自分が公に恋心を抱いていると、頑としてお認めにはならない。もしかしたら、ご自身が恋しているとも気づいておられないかもしれぬ」

「公は10才ほど、増宮さまより年上だったか。公にその気があれば、増宮さまの婿として、日本に招く手はあるな。ちなみに狂介、どれ程の人間がそのことを知っている?メクレンブルク公から、先月増宮さまに手紙が届いたという話は、大山さんから聞いたが」

 そう言いながら、伊藤議長はやや前のめりの姿勢になった。

「梨花会の面々は、全員知っているよ。両陛下もだ。皇太子殿下もご存知だが、増宮さまは、皇太子殿下がメクレンブルク公を嫌われていると思い込んでいて、メクレンブルク公のことを、皇太子殿下から必死に隠そうとされている。……全く隠せていないのだが」

「ふふ……お可愛らしいな。本当に初心で奥手で……これは、前世の一件ゆえかな、狂介?」

「前世の一件が無くても、恋というものに対して、もともとそういうお考えだったのかもしれぬ」

 山縣内相は少しだけため息を漏らしたが、

「だが、次第にお心の傷が、癒えてきたのだろうよ。でなければ、増宮さまは、恋心を抱かれはしないだろう」

と言って、目を細めた。

「しかし狂介、メクレンブルク公がいけなかった場合も考えなければならないぞ。日本とドイツは、“史実”の第一次世界大戦では敵味方に分かれておるし、やはり国内でも、婿候補は探しておくべきだ」

 伊藤議長は真面目な顔を、山縣内相に更に少し近づけた。「今回の外遊の際、伏見宮殿下に伺ったが、邦芳王殿下は皇族ではなく、華族から妃殿下を迎えることを強く希望されておられて、内々に妃殿下探しを始められたそうだ」

「む……確か、恒久王殿下も、増宮さまに怯えている。となると、国内の婿候補は、本当に年下ばかりになってしまうな」

「守正王殿下も、邦彦王殿下も、多嘉王殿下も、わしらが増宮さまの婿候補の選定を始めたと知った瞬間、“すでに婚約者がいる”と言い始めた。全く、不甲斐ない奴らばかりじゃ」

 伊藤議長が大きなため息をつく。

「となると、年下になってしまうが……」

「構わん。年下でも、人物が優秀ならば、増宮さまの婿になる資格は十分だ。それに、今から鍛えれば、たとえ増宮さまと結婚しなくても、将来皇室を支える藩屏になる。わしと桂が、芳之王殿下と正雄王殿下を、きちっと北白川宮家の籍に入れた甲斐もあると言う物よ。流れ込んだ“史実”の記憶に感謝せねばな」

 山縣内相の言葉に、伊藤議長がニヤリと笑いながら返す。

「なるほど、鉄は熱いうちに打て、だな」

「今から増宮さまの素晴らしさを、きちんと教えて差し上げねば。まぁ……内親王でありながら、医師免許を取るのを目指すなど、この時代の最先端を遥かに飛び越えていらっしゃるから、そこをどう伝えるかだがな」

「しかも、女性初の高等学校進学者になる可能性もある訳だ」

 山縣内相は微笑した。「今、西園寺どのが、必死で関係者を説得しているがね」

「明治34年の9月から、女学校の卒業者・卒業見込み者が高等学校の入学試験に合格すれば、高等学校に進学できる、か……」

 伊藤議長は両腕を組んで、またニヤリと笑う。「明治34年の9月。増宮さまが華族女学校を卒業されるのが、明治34年の7月だ。増宮さまなら、高等学校の入学試験に合格できるだろう。そうすれば、高等学校の医学部で、医師免許を取得して卒業できるわけだな」

「なかなかに、厳しい道ではあろうな。増宮さまの生きられた時代と、今とでは、女性に対する風当たりも違うだろう。だがな、俊輔、わしは一介の武弁として、増宮さまを何としてでもお守りする」

「それはわしもじゃ。輔導主任としての責任があるからな」

「そのためにも、わしらも、増宮さまのおっしゃるように、出来ることをしなければならないな。幸い、三陸地震は、避難が上手く行ったから、死者も数百人にとどまったが、これから陸羽地震がある」

 山縣内相は眉を顰めた。

「あれは、横手盆地とその周辺で被害が大きかったように記憶している。……しかし、あの噂を本当に広めるつもりか、児玉は。その……巨大な妖怪、だったか?」

「だいだらぼっち、という奴か。横手盆地にそのような言い伝えがあるからと、後藤に入れ知恵されたらしいが、なぜ後藤はそれを知ったのか……」

「国土調査委員会の調査の一環だろう。そろそろ調査結果をまとめられそうだという話だったが」

 伊藤議長はそう言って肩をすくめた。

「庄内地震の即身仏の方は、幸い、あの後、即身仏が祀られる寺院の崇敬が高まった、という結果だけで終わったが……」

「中央情報院の手際のよいのには驚くが、逆に、妙な噂を外国の工作員に広められないよう、こちらも注意していく必要があるな。大山さんならば大丈夫だろうが」

「その他にも、博恭王殿下のご結婚に、貨幣法の公布に、来年は貴族院議員選挙もあるし、ヴィクトリア女王陛下の在位60周年記念式典もある。ロシアの動向にも注意していかなければならないし……。まだまだわしらの前には、やることがたくさんあるな、俊輔」

 大きく息を吐くと、山縣内相は、昔なじみの友人に微笑みかけた。

「ああ。だが、“史実”より余程良い。増宮さまがいらっしゃるというその一点だけでも、この伊藤にとってはありがたいよ、狂介」

 伊藤議長もそう言って、表情を緩め、

「ところで、増宮さまの詠まれた和歌、というのは、一体どのようなものだったのだ?」

と、親しい友人に尋ねた。

「おい、お主、漢詩の方が得意ではなかったのか?増宮さまは、手紙も盗み見られるゆえ、せめて和歌だけは、わしとの間の秘密にしておきたいと仰せになったというのに」

 山縣内相が眉を顰める。

「よい歌なら、人口に膾炙すべきであろう。そう思わんかね?」

「それはそうかもしれないが……」

「それに、増宮さまが隠しておられても、どうせ、大山さんには知られてしまうのだ」

「た、確かにそうだが……しかし、これで他人に知られてしまったと増宮さまが知れば、また増宮さまのお心が傷付くではないか……」

 初代内閣総理大臣にして、現在の枢密院議長・伊藤博文。

 歩兵大将でもありながら、内閣制度の創設とともに初代内務大臣に就任した山縣有朋。

 後世、2人はともに名政治家と称えられることになるのだが、増宮内親王の和歌を巡る、政治の世界からかけ離れた、ある意味子供じみた2人の攻防戦は、辺りが夕闇にすっぽり包まれるまで終わらなかったのだった。

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