医者の本気(1)
※同日2話投稿の1話目になります。(2019年10月11日)
1896(明治29)年7月18日土曜日、午後4時10分。
「さて、あなたの要求通り、人払いはしました」
私は自分の居間で、椅子に座った陸奥さんと、テーブルを挟んで相対していた。
「私、治療を始めるに当たって、あなたに話したと思いますけれど、結核の治療って、余程の差し障りが無い限り、中断してはいけないんです」
それは、治療の中断により、抗結核薬が効かない耐性結核菌が生じてしまう可能性があるからだ。私が生きていた時代でも、治療を中断した患者さんから耐性結核菌が広がって、集団感染してしまうことがあった。だから、結核の治療薬は、余程のトラブルが無い限り、治療期間中は中断させないように投与するのが、私の生きていた時代では原則だった。
それをきちんと説明して、今まで陸奥さんにはスケジュールに沿った投薬を行っていた。
ところが、昨日、ベルツ先生が診察して、陸奥さんの身体所見に問題ないことを確認し、陸奥さんにシズオカマイシンの筋肉注射をしようとしたところ、陸奥さんが頑として注射を拒否したのだ。
――拒否する理由ですか?それは、明日、殿下にお話しします。いつもの時間には、花御殿に参上しますとお伝えください。
ベルツ先生の再三の説得と質問に対し、陸奥さんはずっとこう言い続けたらしい。
――何度もお話しても、埒が明きませんでした。かくなる上は、殿下に説得していただくしか……。
先ほどから行われていた医科分科会も、陸奥さんをいかにして説得するか、という話題に終始した。そして、結局は、陸奥さんの要求通り、私が陸奥さんの話を聞いた上で、陸奥さんが治療を受けるように説得するしかない、という結論に落ち着いた。ちなみに、大山さんは、12日から出張に出ていて、今日の医科分科会には出席していない。他ならぬ陸奥さんに関係することだったから、是非とも大山さんに相談したかったのだけれど……。
「今まで、陸奥さんの身体に、特に問題は発生していません。私が今診察した所見も、以前と全く変化はありません。ですから、シズオカマイシンの筋肉注射には、特に問題はありません。そこでは、私とベルツ先生の見解は一致しています」
私は一度言葉を切った。陸奥さんは、口を閉じたままだった。
「ですが、あなたの言い分も聞いておかなければならないと思います。現に、あなたも私になら、拒否する理由を話すと、ベルツ先生におっしゃったと聞きました。ですから、その理由を伺いたいです」
私は、陸奥さんを見つめた。陸奥さんは黙ったまま、私を値踏みするかのように眺めている。この部屋に入った最初に、“人払いをしてください”と言ってから、陸奥さんは一言もしゃべっていない。いつも、陸奥さんと私が話をするときは、陸奥さんが会話の主導権を握っているので、全く陸奥さんがしゃべらないというのは、少し意外だし、不気味な感じがする。
「なぜ、注射を拒否するんですか?」
私はダメ押しのつもりで質問した。両腕を組んで、じっと相手の言葉を待つ。こちらからボールは投げた。あとは、向こうがボールを投げ返すのを待つしかない。
(ちょっと変な感じだけれど……こうなりゃ、我慢比べね。陸奥さんが口を開くまで、ずっと待ってやる)
私が心を決めた時、
「なるほど」
陸奥さんがやっと口を開いた。
「この程度では、抜かれませんか」
少し笑みを浮かべている陸奥さんの言葉の意味が、さっぱり分からなかった。ただ、私の質問に対する答えではないことは確かだ。
「陸奥さん、私の質問に答えてください」
私は眉をしかめながら、もう一度促した。
すると、
「……注射を受けてもいいですが、条件があります」
陸奥さんは、突然こう言った。
「条件?」
突然話が進んだので、私は首を傾げた。
「私が条件を飲まないのが、注射を受けない理由ですか?」
「現時点の状況から言えば、その通りととらえてもらってよろしいでしょう」
陸奥さんは笑みを崩さずに答えた。
「では、私が条件を飲めば、今日この後、帝大病院に行って注射を受けてくれるということですか?」
「そういうことになります」
陸奥さんの返答に、私はため息をついた。
「初めてですね」
「初めて?」
「医者に理不尽な要求をする患者に会ったのは」
私の時代で言う“モンスター・ペイシェント”という奴だろうか。幸い、前世の私は、そういった患者さんに会う機会がないまま死んだのだけれど、もし、死なずに済んで、ずっと医師として働いていたら、そういう患者さんに会ってしまう可能性もあっただろう。
「何、そんなに理不尽な条件ではないと思いますよ」
陸奥さんは静かに微笑した。
「あなたの視点では理不尽ではなくても、私の視点では理不尽かもしれません。先週、おっしゃってましたよね?あなたの視点と、未来を生きた記憶を持つ私の視点は違う、って……」
私もなるべく、静かな声で答えた。ここで理性を失ってしまえば、陸奥さんの思う壺だ。
「ほう」
陸奥さんが、感心したように頷く。
「よく覚えていらっしゃる」
「記憶力だけはあるんです、私」
「それだけではないと思いますが……」
陸奥さんは苦笑すると、「さて、条件を述べさせていただきましょう、殿下」と言って、私を真正面から見据えた。
「殿下が原殿と共有なさっている秘密……それを教えていただければ、注射を受けて差し上げます」
(……!)
驚きを出さないように気を付けながら、私は陸奥さんの眼を見返した。
「一つ確認しますけれど……」
私は口を開いた。「もし、あなたが思っているような秘密というものが無ければ、どうしますか?“無い”と答えて、あなたが“では、注射を受けない”と言うようでは、耐性菌を作りたくない関係上、私も困るんです」
「それならば、それで構いません。注射を受けます」
陸奥さんは、私の目を見つめたまま答えた。彼の瞳の怪しい煌めきが、私の心の揺らぎにピタリと照準を合わせている。
(鬼火……)
陸奥さんの瞳の光を見て、反射的にそう思った。
「では、もし、秘密があるとすれば、あなたはどうしますか?」
そう尋ねると、
「さぁ、どうしましょうかね……」
陸奥さんは微笑した。瞳の奥の、この世ならぬ炎は変わることなく、私を捉えている。この世に存在しないものを発するとなれば……陸奥さんはまさに妖刀、そのものだ。
(どうしよう……)
陸奥さんのことだ。恐らく、原さんに秘密があること……つまり、彼が“史実”の記憶を持つことを、確信しているに違いない。
となれば、陸奥さんがその秘密をどう扱うか、それが問題になる。
(もし、原さんが山縣さんを操っている、ということまでバレていたら……)
伊藤さんも大山さんも大丈夫だと言っていたけれど、やはり、陸奥さんが山縣さんに、原さんの秘密を話す可能性も考えておかなければならない。もし、そのことを知った山縣さんが、原さんの排除に動き出せば、内務省が機能不全に陥ってしまう。それは、国力を落とす事態につながりかねない。
(私が少なからぬポケットマネーを出して、医科研にまで迷惑を掛けて、森先生までハワイに同行させた結果がこれなんて……)
陸奥さんの治療費は、私が全額負担している。森先生の派遣にかかったお金も負担しているから、4000円から4500円ぐらい……いや、もっとお金がかかっているはずだ。それに、医科研の研究スケジュールも混乱させてしまった。多少医療の研究が遅れても、陸奥さんの治療を優先する方が、結局は国のためになる、そう考えての選択だったけれど……。
(それで助けた陸奥さんが、国力を落とすような真似をするのは……何としてでも避けなくちゃ)
そうなってしまえば、ここまでの努力が全て水の泡になってしまう。何の益も得られずに、このまま終わってしまうなんて……。
(報酬だって、陸奥さんからもらっていないのに……ん?)
……もしかしたら、ここを突く手はあるのかもしれない。
それに相手は、自分は私の患者であると、先週も自称していたのだから……。
「……秘密があるかどうか、教えてあげてもいいですよ」
私は椅子に座り直し、背筋を伸ばした。「ただし、私に報酬を払ってくれたら、です」
「ほう……?」
陸奥さんの眼が、すっと細くなった。この世ならぬ炎が鋭くなり、私の喉元に狙いを定めている。
「だってそうでしょう?あなたの今までの治療費は、私が負担しているんですもの。それなのに、私は患者のあなたから報酬をもらっていません。私は聖人君子ではないですから、きちんと報酬をいただかなければ、これ以上は動きません」
「……何がお望みですか、殿下?」
私は、妖刀の切っ先を向け、私を切り刻もうとする陸奥さんを、真正面から見据えた。ここは上級医……いや、教授や病院長といったお歴々の医者のような態度を取らなければ、陸奥さんに負けてしまう。
「……あなたの政治的な生命。あなたの頭の中の、政治を動かす盤と駒」
「?!」
陸奥さんの眼が大きくなった。
「殿下……?」
「だって、保証が欲しいんですもの」
私は、口調も顔色も変えないように注意しながら、言葉を続けた。「病気が治ったあなたが、私と原さんに秘密があるかどうかを知って、そのことを、国力を落とすことに使わない、という保証が。そうでなければ、私はこれ以上動かない。報酬をもらっていないんですから」
「なるほど……」
陸奥さんはニヤリとした。「確認させていただきたい事項が、いくつかありますが、殿下。もし僕が、今のお話を断れば、一体どうなるでしょうか?」
「あなたは“史実”通り、結核で死ぬことになります。そして、後世まで、“人殺し”とそしられることになるでしょうね」
私は冷たい声で返答した。「あなたが治療を中断すれば、抗結核薬に耐性がある結核菌を、生み出すきっかけになってしまいます。その結核菌が広がれば、今現在ある薬では、完治させる方法がありません。あなたは、耐性結核菌に感染して死んでいく人たちと、その家族から、“人殺し”と責められます。未来永劫に。それは、歴史がどう進んだって、覆しようのない科学的な事実として、あなたを墓場まで追いかけて傷つけるでしょう」
「では、僕が殿下の提案を受け入れたとしましょう。すると、どうなるのでしょうか?」
「あなたが、国力を落とすようなことをしなければ、私はなにもしません」
「ほう?」
陸奥さんは、少し楽しそうな調子で相槌を打つ。
「けれど、あなたが国力を落とすような真似をするならば……“梨花会”の中の不和を招き、その結果国力を落として、最終的に兄上の憂患を深くするというのであれば、私は、兄上の主治医として……上医として、あなたの政治的な生命も、あなたの頭の中の、政治を動かす盤と駒も、全部綺麗に、跡形もなく壊します!」
「なんと……」
陸奥さんは、忍び笑いを漏らした。「医者ですのに、命を壊すとおっしゃいますか……」
「勘違いしないでください。私が医者でなかったら、あなたの本当の命を取ると言っていました」
私は陸奥さんの挑発に乗らないように、慎重に言葉を選んだ。
「医者は病気を治して、人を健康にするのが仕事です。身体の中に病巣があるならば、それを排除しなければいけません。国の中にある病巣があなたの政治的な生命だとしたら、私は躊躇なくそれを排除します。後世、逆賊だの大悪人だの、何とそしられても私は構いません。国のために、兄上のために、最善と思われることを全力でするまでです」
陸奥さんが妖刀を構えているならば、医者である私が持つことを許される刃物は、病巣を切除するためのメスと何種類かの剪刀……ハサミだけだ。妖刀と比べれば、余りに非力だ。けれど、必要であるならば、何と責められようとも、それを全力で振るう。兄を守るために。
私は陸奥さんから視線を動かさなかった。怪しい光を帯びた陸奥さんの瞳も、微動だにしない。
「ふ……」
陸奥さんが、ふっと口元を緩めた瞬間、
「待て……!」
突然、居間の障子が勢いよく開けられた。




