閑話 1896(明治29)年立夏:ヲリンピアン・ゲイムス
1896(明治29)年5月14日木曜日、午後8時。
「なるほど……そう仮定して解けばいいのか」
嘉仁親王は、花御殿にある自分の妹・章子内親王の居間にいた。
親王が普段の生活の場を、花御殿から同じ敷地内の東宮御学問所に移してから、間もなく3年が経過しようとしている。しかし、それまでこの花御殿で同居していた章子内親王との交流は、全く途絶えていなかった。月・水・金曜日は剣道を一緒に稽古するし、火曜日と木曜日の夜は、彼女の居間を訪れて、勉強で分からない所を互いに教え合う。もちろん、週末は一つ屋根の下で過ごすし、時には微行で共に外出する。内親王が花御殿に引っ越してきた7年前より、2人の親密さは遥かに増していた。
「うん。こうすれば、この公式が使えるから……」
話しながら、章子内親王は、紙の上に鉛筆を走らせる。うつむいた顔は、切りそろえられた前髪で少し隠されたが、それでも、黒い髪の隙間からは、彼女の美しい顔がちらちらと覗く。そして、彼女が握った鉛筆の先からは、あっという間に数式の列が生まれて、問題の回答が導き出された。
「ざっとこんな感じね」
彼の美しい妹は、数式を書いた紙を180度回転させて親王に示した。
この妹は、ただの妹ではない。聡明で、剣道も得意だが、それに加えて、未来の時代を生きたという前世を持ち、更には未来の医療の知識を有しているという……常識では考えられない存在だった。理数系の知識にも通暁しており、未だ華族女学校の初等中等科に在籍している身でありながら、帝国大学の入学試験で出題されるような難易度の問題も、容易く解いてしまう。今も、親王が御学問所の仲間と、夕食前に1時間ほど掛けて考えて分からなかった算術の問題の解法を、彼女が瞬く間に見つけてしまったところだった。
「ご学友さんたちに説明できそう?いつも言ってるけど、説明できるぐらいに分からないと、ちゃんと理解したってことにはならないよ」
「何とかいけるだろう。……助かった、梨花。ありがとう」
「どういたしまして」
顔を上げると、“梨花”と呼ばれた章子内親王は、親王に向かって微笑んだ。
梨花というのは、内親王の前世の名前である。今は父帝が付けた“章子”という名が本名だけれど、親王はその名より、妹の前世の名前の方が気に入っていた。なぜなら、彼女が笑うと、かの白居易が“長恨歌”で、天界の楊貴妃の気高い美しさを称えるのに使った梨の花――それが優美に蕾を開かせたように思えるからである。だから、前世の名を知ってからは、2人きりの時はもちろん、事情を知る人々の前では、親王はもっぱらこの妹を“梨花”と呼んでいた。事情を知らぬ者たちの前で、うっかり“梨花”と呼んでも怪しまれないようにするため、彼女の雅号を、前世の名と同じ“梨花”にするよう、大山東宮武官長と図ったことすらある。
と、
「兄上、どうしたの?」
愛しい妹が首を傾げた。「何か、私の顔に付いてる?」
「いや……何でもない」
嘉仁親王は小さく笑った。この妹は、色々な意味で見ていて飽きないので、意識していないと、ずっと眺めていたくなってしまう。
「お前のフランス語の課題を見る前に、一息入れるか」
「そうだね。……紅茶、淹れ直す?どうする?」
「このままでいいよ。ありがとう」
少しだけぬるくなった紅茶を、親王は一口飲んだ。妹がこの花御殿にやって来た頃はともかく、自分が御学問所で過ごしている今は、彼女と一つ屋根の下で生活するのは、週末や年末年始だけだ。いずれ、自分が結婚すれば、完全に別居することになるけれど、それまではなるべく、繊細な心を持つこの妹――兄を、己の全てを使って守ろうとするこの愛しい妹の側にいてやりたかった。
「ところで梨花、昨日の新聞は読んだか?」
親王はカップをソーサーに置くと、妹に問いかけた。
「読んだけど……一体どうしたの?」
「あれに、ギリシャの“ヲリンピアン・ゲイムス”というものが載っていただろう」
古代ギリシャで行われていたオリンピアの祭典を元にしたそうだな、と親王が言おうとした時、
「ああ……あれ、多分、私の時代にもやってた奴かな、と思いながら記事を読んでた」
妹からは意外な答えが返ってきた。
「梨花の時代に……やっていた?」
「私の時代には“オリンピック”って呼んでたけどね。2020年に東京で、第32回目か33回目の夏季オリンピック大会をする予定になってた。4年ごとにやってて、確か第1回は、ギリシャのアテネでやったって聞いたから……年代的にも、その“ヲリンピアン・ゲイムス”が、私の時代で言うオリンピックだと思うんだよね」
妹は、そこで自分の紅茶を飲んで、更に続けた。
「でも、大丈夫かなぁ。2020年の大会、確か、7月末にするって言ってた気がするけど、私の時代の東京って、今の時代より気温がちょっと高いんだ。地球温暖化の影響だと思うけど……世界中から人が集まるのに、熱中症で死人が出ないか心配だなぁ」
妹は両腕を組んで眉をしかめる。その表情にも、笑顔とまた違った美しさがあった。
「今の時期に開催するならば、梨花の心配する事態も起こらないだろうがな」
「だよねぇ。1964年にも東京でオリンピックをやったんだけど、その時は10月に開催されたって、前世の祖父が言ってた」
嘉仁親王の美しい妹はため息をつくと、「伊藤さんがロシアから帰ってきたら、ヲリンピアン・ゲイムスと、私の言うオリンピックが一緒かどうか、きちんと確かめないとな」と呟いた。
「そうだな」
嘉仁親王は、内心ホッとしながら頷く。彼が誇る聡明で美しい妹にも、欠点はいくつかあり、その一つが、好きな物事に夢中になり過ぎると、周りが見えなくなることだった。特に、医療と城郭のことになると、聞き手が誰なのかなど全く考慮せず、話がどんどん専門的になっていくので、止めるのに苦労する。
「……伊藤議長は、そろそろロシアに着くころかな」
答えが返ってくることは期待していなかったが、
「確か、5月の初めにはフランスにいるだろう、って言ってたから、ヨーロッパをロシアに向かって移動中なんじゃないかな」
妹は親王にこう答えた。
「そう言えば、そう言っていたな」
「日本からモスクワまで2か月半……私の時代だったら、飛行器を使えば半日もかからなかったと思うけれど、この時代の時間的な距離は、本当にもどかしいな」
「そうか。俺に言わせれば、お前の時代の移動速度の話は、いつ聞いても速過ぎて信じられないのだが」
嘉仁親王は苦笑した。「自動車が時速100kmで走行する世界など、想像もできない」
「この間、兄上、大兄さまの運転する自動車を、馬で追い抜かしたもんね。私の時代じゃ、そんなこと考えられないよ」
美しい妹は、クスリと笑った。
「この時代じゃ、人が乗った飛行器も、まだ飛ばせていない。機体は、風洞実験を重ねて洗練されてきたけど、内燃機関は設計し直さないとダメかもって、4月に習志野に行った時に田中館先生が言ってたよね……。いつ完成するかな、兄上?」
「さあな。しかし、いずれは発展して、飛行器も空を飛ぶだろう。汽車や自動車の速度も上がるだろうし……」
親王は再び、カップに口を付けた。
「そうなったらそうなったで、色々と考え直さなければならないことが出てくる」
「そうだね。あと、情報の伝達速度も変わるだろうから、それも考慮していかないといけないんだよねぇ……ああ、面倒くさい」
そう言って、大きなため息をついた妹を、
「こら、そういうことを言うものではない」
嘉仁親王は軽く叩くふりをした。
「お前は俺を、上医として守ってくれるのだろう。技術が進めば、またそれも考慮して、政治や外交や軍事のことも考えていかなければいけない。でなければ、上医としての務めが果たせないのではないか?」
「分かってる」
美しい妹は、またため息をつきながら答えた。
「技術が進むことで、得るものも、失うものもある。技術が進めば、今まで保有していた兵器が役に立たない可能性も出てくる。医療技術が発展して、国民の平均寿命が延びれば、それに対応した新しい医療制度を考えないといけない。情報網が発展すれば、またそれに対応した諜報システムを構築しないといけない……面倒くさいけど、一個一個、考えていかないといけないのよね、兄上?」
「……よくできた」
嘉仁親王は口許を綻ばせた。
最近、妹は少しずつ、政治や外交に関することを考え始めている。どうも、大山東宮武官長が、彼女に様々な設問を仕掛けているようだ。身近にいるからか、妹が自分に助けを求めることも多い。その度に、色々なことを調べたり、御学問所の仲間と話し合ったりして予備知識を蓄え、妹と議論していた。
(上手いことを考えるものだな、武官長も)
愛しい妹が全幅の信頼を置き、心を許している、非常に有能で、経験豊富な臣下。表向きには東宮武官長であるが、実のところは中央情報院という、公にはされていない諜報機関を束ねる実力者である。
(梨花に問いを投げ掛ければ、梨花自身だけではなく、その相談に答えようとする俺や、俺が学問所で相談する友までも鍛えられるだろう……そこまで見越しているな、武官長は)
そう思うからこそ、妹の質問には、全力で答えることにしている。将来、自分も、立派な皇太子に、そして帝にならなければいけない。今から修業に励み、将来、為政者として、きちんとした影響力を持つこと。その影響力を行使することが、将来、女性に対する偏見や差別と闘うことになるであろう、愛しい妹を守ることにつながる。嘉仁親王はそう考えていた。
と、
「そういえば、交通機関が発展すると、人間、動かなくなるわよね」
妹が眉根に皺を寄せた。
「ん?」
嘉仁親王が軽く首を傾げると、
「ええと、例えば、鉄道が発展すれば、今まで歩いたり、馬を使って行っていたりしたところを鉄道で行くわけだから、人間が運動する量は減るでしょ」
妹は更にこう続けた。
「……そうだな」
彼女が何を言いたいのか、さっぱり分からなかったが、とりあえず親王は頷いておく。
「あまりに運動の量が減ると、2型糖尿病とか脂質異常症とか高血圧とか、いわゆる“生活習慣病”が発生しやすくなる。私の時代では、その手の病気に罹ってる人が本当に多かったの。もちろん、食生活の欧米化も原因になるけど……」
そう言って両腕を組んだ妹は、突然目を輝かせた。
「そうだ。第1回のオリンピックも開催されたことだし、オリンピック出場を目指して、国民の体力増強を図るとでも銘打って、今から全国民に運動を奨励すればいいのよ。もちろん、ゆるーい感じでするのでも構わないけれど、野球やテニスや、水泳にボート、マラソンとか駅伝とか、競技者の目標になるような大会も作ろうよ。そうしたら、“史実”より早く、日本人のメダリストが生まれるかもしれない。それにほら、運動すると、急性効果としてはブドウ糖や脂肪酸の利用が促進されて血糖値が下がるし、慢性効果としてはインスリン抵抗性が改善されるし……」
(血糖……?いんすりん……ていこうせい?)
訳が分からず、頭の回転が一時止まってしまった親王をよそに、
「血圧も下がるし、脂質異常症も改善するし、筋萎縮や骨粗鬆症の予防にも有効だし……」
彼の美しい妹は、頬を紅潮させて力説を続けた。
「そうだ、忍のコホート研究に、運動習慣の有無について項目を付け加えてもらおう!ええと、そうなると、運動量をどう評価するか考えないといけないから……」
「梨花!」
嘉仁親王は慌てて叫んだ。ここで妹を止めないと、医学の専門的な話が延々と続く。そう直感したのだ。
「は、はい」
瞬時に姿勢を正して、椅子に座り直した妹に、
「休憩は終わりだ。お前のフランス語の課題を見てやる」
嘉仁親王は少し厳しい声で告げた。
「えー……」
妹は唇を尖らし、不満げな表情になる。
「えー、ではない。お前、フランス語は苦手のようだから、その分、基礎からしっかりやらねばな」
理数系には才能を発揮するこの妹も、言語を扱うことは、親王より長けているという訳ではない。仮名遣いや文法が、この4月に新しくなり、常用漢字が制定されるまでは、彼女の作文の仮名遣いや文法を、親王が時々添削してやっていた。また、漢文は、返り点や送り仮名が無ければ読み下すことは出来ない。更に、フランス語は、“前世では全くやっていない”ということで、妹は苦手意識を持っているようだった。
(それでも、英語は出来るし、ドイツ語の読み書きも出来るのだから、訓練すれば、フランス語も出来るようになるはずだ)
そう親王は思うが、
「混乱するのよ……英語とドイツ語とごちゃ混ぜになっちゃうの。しかも最近、陸奥さんが英語で話し掛けてくることがあって、頭の中で余計に混乱するの……。全く、なんで陸奥さん、毎週来るかな。しかも土曜日に」
美しい妹は、泣き言を言うばかりだ。
「仮名遣いと文法と漢字が私の時代のものに近付いたから、作文は本当に楽になったけど……むう、英語に加えてドイツ語もフランス語もマスターする、じゃない、身に付けるなんて無理だよ。4か国語を自在に操るなんて、出来る人、いるわけが……」
「武官長は出来るな」
親王が冷静に指摘すると、妹はガックリと頭を下げた。
「武官長に聞いたが……、お前は、武官長にふさわしい主君になりたいのだろう?それに、上医を目指すなら、西欧の上流階級の共通語たるフランス語は、身に付けておかねばな」
静かに言い聞かせる親王の声に、
「わかったよ。はぁ……仕方ないなぁ」
頬を膨らませながら妹は答え、フランス語の教科書を開いた。
美しいアクセサリーを身に付ければ、場合によっては、普段の美しさが更に増し、周囲を圧倒する気品と威厳をもその身に備えさせる妹だけれど、平生は、前世で死んだ24という年齢より下、今の身体の年齢相応の、少女のような言動を見せることが多い。前世で心に傷を受け、心の一部を固く閉ざしてしまったからだろう……それは、親王を始め、妹の事情を知る者全員の、一致した意見だった。
(しかし、少しずつ、傷が癒されて、心が成長して来たようだ。ふふ、本当に、初心で奥手な妹だが……)
「ちょっと、兄上?」
気が付くと、愛しい妹が、心配そうな表情で、親王の顔を覗き込んでいた。
「どうしたの?ぼーっとしちゃって。気分でも悪い?」
「いや……」
嘉仁親王は、首を横に振り、
「お前は相変わらず可愛いと思ってな」
と言って、ニヤリと笑ってみた。
「もう……兄上の馬鹿」
妹は、顔をプイと背けた。
その美しい横顔が、微かに赤みを帯びているのを見て取って、
(本当に飽きぬな、梨花は……)
嘉仁親王は、また顔をほころばせたのだった。
※一身上の都合により、投稿日時点で、感想・レビューは受付を停止しております。ご了承いただければ幸いです。
※今回の元ネタの一つは、1896年5月13日の読売新聞の記事です。「ヲリンピアン・ゲイムス」……第1回夏季オリンピックアテネ大会が、この年の4月6日から開催されました。
※実は、東京の気温は明治時代に比べると上昇しているそうです(地学雑誌「東京における江戸時代以降の気候変動」を参照しました)。拙作の世界線ではどうなることやら。




