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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第17章 1895(明治28)年立秋~1895(明治28)年冬至
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最後の教え(3)

※3話同日更新の3作目です。(2019年9月14日)

 夕食の後、私の居間は戦場になった。

 ここ数日、居間に入り浸っていた兄を追い出して、ミントグリーンのドレスを久々に着てみる。胸周りとウエストは、2月に着た時に一度直してあり、身体にピッタリ合った。だけど、やはりスカート部分の裾が短い。

「どうしましょうか……やっぱり、靴をブーツに変えますか?」

 と言ったら、突然、花松さんが裁縫道具を自分の手元に引き寄せ、ドレスの裾をいじり始めた。

「ちょ、花松さん、何やってるんですか?!」

「裾の縫い目をほどいているんですよ。靴はこのままにしなければ。ドレスにブーツは合いませんもの」

 花松さんは裾から目を離さずに答える。彼女の手元で、ドレスの裾から、布が更に下に伸び始めた。

「仕立てた時に、裾を4寸ほど上げて置いて正解でしたわ。こうしておけば、お身体が大きくなっても、直せば着られます。やはり、1、2度着ただけでおしまいになってしまうのは、もったいないですからね」

 しゃべりながら、花松さんは手元の作業をやめない。あっと言う間に、裾のまつり縫いが全部ほどかれ、ドレスの裾が床に付いた。

「増宮さま、動かないでくださいましね。今から、裾を測りなおして、留針で仮止めしますので。それが終わったら、もう一度まつり縫いをします」

 力強く言う花松さんは、私には、まるで百戦錬磨の軍人のように見えた。

「ええと……私はどうしたらいいでしょうか?」

 恐る恐る聞くと、

「留針を付け終わったら、裾のまつり縫いを手伝っていただこうかしら。何せ、この御殿には、女手がわたくししかおりませんので」

花松さんは留針を手早く準備しながら言った。

「あ、はい、了解です……」

 私だって、華族女学校(がっこう)で、お裁縫を前世以上に習っているから、少しは戦力になるだろう。今夜、2人が早く寝るためにも、私も全力でまつり縫いをすることに決めた。……とはいえ、終わってみれば、花松さんが7割以上をやってしまう結果になったのだけれど。

 火熨斗でドレスの裾の皺を伸ばし終わったころには、夜の10時になっていた。普段なら、お風呂に入る時間だ。

「ほら、増宮さま、片づけはわたくしが致しますから、早く入浴なさってください」

「いいですよ、私も散らかしたし……」

 そう言いながら、散らかった裁縫道具を取りまとめようとすると、

「ダメですよ」

花松さんにピシャリと言われてしまった。

「今の増宮さまのお仕事は、さっさと入浴と寝る支度をなさって、しっかり明日の朝までお休みになることです」

「え……」

「そうでないと、寝不足で肌が荒れてしまうでしょう?明日はお見舞いに行かれるのに」

「そうでした……」

 私は頭を垂れた。ドレスは綺麗に整ったのに、肌が荒れていては、爺に申し訳ない。

「おわかりになったら、さっさと入浴なさってくださいまし」

 手早く裁縫道具を片付ける花松さんに、私は「ありがとうございます」と言って、深々と頭を下げた。

 これで何とかなるだろうか、と思って就寝したのだけれど、翌朝になって、とんでもないミスを犯していたことが発覚した。

「ねぇ、花松さん、このイヤリング……付け方、分かりますか?」

「申し訳ありません、わたくしは……」

 ドレスに着替えて髪をポニーテールに結い、化粧を花松さんにしてもらい、アクセサリーを付けようとした段階で、またしても、イヤリングの付け方が分からず、2人で考え込んでしまったのだ。

「確認しておけばよかった……。まさか、こんなところに罠があったなんて」

「でも、2月には付けましたよね……。あの時は、どうなさったのでしたっけ?」

 大山さんに付けてもらったのだ、と答えようとしたとき、「章子、入るぞ」と声がして、兄が障子を開けて居間に入ってきた。

「あ、兄上!ちょうどよかった」

「どうした?」

 鏡台のある寝室に入ってきた兄に、

「イヤリングの付け方って知ってる?」

私は一縷の望みをかけて尋ねてみた。

 けれど、

「いや……」

やはり兄は首を横に振ったので、私はがっくりと肩を落とした。

「メクレンブルク公が来た時には、付けていたではないか」

「そうなんだけど……あの時は大山さんに付けてもらったから……」

「なら、武官長を呼べばいいだろう」

「……って兄上、流石に今日は大晦日だから、大山さん、非番じゃないかな?!」

 また、大山さんの休日を台無しにするわけにはいかない。思わず立ち上がってしまうと、

「今朝見かけたぞ。連れてこようか」

と兄は言い、私が声を掛ける間も無く、足音も軽やかに、私の部屋を出て行った。

「やはり、今日は勤務だった。お前の馬車に、陪乗する予定だったそうだ」

 数分後、そう言いながら戻ってきた兄の後ろには、軍服姿の大山さんがいた。25日以来、兄がずっと私の側に入り浸っていたので、大山さんに顔を合わせる機会がなかった。

「大山さん、大変……大変申し訳ないんだけれど、イヤリングの付け方を教えて欲しいの」

 大山さんに最敬礼すると、

「まず、お座りください」

彼が苦笑しながら言った。「イヤリングは(おい)が付けます」

「いや、付け方さえ教えてくれたら、私が付けるから……」

 淑女(レディ)としては、アクセサリーは自分でつけられなければいけないだろう。そう思って反論したけれど、

(おい)が付けます」

私の有能で経験豊富な臣下は、有無を言わさぬ調子で再度言った。

「あっ、はい……」

 気圧された私は、へたり込むように鏡台の前に座った。大山さんは身をかがめると、鏡台に置いてあったビロードのケースから、真珠のイヤリングを取り出し、私の左耳に、手と口とを近づけた。

「また、(おい)の大切な美しい方を、御名の通りに美しく飾れるのですね」

(え……)

 大山さんの指と、イヤリングの金具とが耳朶に触れ、優しい囁きが私の聴覚に流し込まれた。びっくりして、鏡の中の大山さんを見ると、それに気づいた彼が、鏡の中の私に向かってほほ笑んだ。

(おい)はとても幸せでございます、梨花さま」

 私の大切な臣下の指は、今度は右の耳朶に移り、手早く、だけど慎重に、真珠のイヤリングを取り付けていく。指が離れ、両方の耳朶に真珠が淡く輝くのを確認した大山さんは、また鏡の中の私に向かって微笑を向ける。

 その瞬間、私の心の奥に、優しい光が灯されたような感じがした。じわじわと光は大きさを増していき、私の心と身体をゆっくりと満たしていく。

(あ、あれ……?)

 戸惑っていると、

「武官長」

兄が言った。「ネックレスはわたしが付ける」

「かしこまりました」

「え?」

 大山さんの身体が私から離れるや否や、兄が私に身体を寄せる。既に兄の手には、4月に御木本さんから献上された真珠のネックレスがあった。

「やはり美しいな、お前は」

 兄が、ネックレスを私の首元に回しながら囁く。

「お前は俺の誇りだ。愛しいお前をこうして美しく飾れるのは、本当に嬉しい」

(あ……)

 首元に微かな重みがかかった。その刹那、心が静かに宙に浮き、暖かくて優しい何かに包まれる。

「まぁ……」

 私を見つめていた花松さんが、開いた口を右手で押さえた後、慌てて平伏した。

「どうしたの、花松さん」

 視線を投げながら微笑すると、

「いえ……とても、とても気品があって、お似合いになっておられますので……」

花松さんは平伏したまま答えた。

「ほう……nが増えましたか」

 そう言って微笑する大山さんに、

「大山さん、早く行きましょう。時間が無いから」

私は静かに言った。「また、ふわふわしている。だけど、そう長く続かないと思う。爺のことを思うと……」

「そうか」

 兄が私の身体を抱き寄せた。「行っておいで、梨花。堀河侍従に育てられた娘として、できることをしてこい」

 兄の囁きに、私は黙って頷いた。


 1895(明治28)年12月31日火曜日、午前9時30分。

 大山さんにエスコートされた私は、馬車に乗り込み、東京帝大病院に向かっていた。

「大山さん」

 ずっと手を握ってくれている大山さんの方を振り返らずに、私は声を掛けた。

「何でしょう、梨花さま」

「あなたには申し訳ないけれど、泣くのは後にさせてもらう」

 前を見つめたまま、私は言った。

「は……?」

 大山さんが首を傾げた気配がする。それに構わず、私は口を開いた。

「爺のことを考えると、やっぱり辛い。別れること自体も辛い。それに、医師としての自分が何も出来ないと、自分を責める気持ちもすごく強い。本当は、泣きたくてどうしようもない」

 大山さんは、黙って私の言葉を聞いていた。

「でも、私は爺に育てられた娘として、爺にこの姿を見てもらわないといけない。今泣いてしまうと、お化粧が崩れてしまうから、淑女(レディ)としてはいただけない状態になる。爺に会うまでは、頑張って耐えたいから……」

 私は、握った大山さんの手に、力を込めた。

「この手を握っていて欲しい」

「……御意に」

 大山さんが、手を握り返した。「そういうお考えならば、(おい)も耐えましょう」

「ありがとう」

 私は大山さんに、軽く頭を下げた。

「あなたにはいつも、苦労ばかりかけてしまう……早く、あなたに相応しい主君にならないといけないのに」

 そう言った瞬間、馬車は帝大病院の玄関の前に止まった。大山さんが先に馬車から降り、私が降りるのを助けてくれる。大山さんの手に縋るようにして私は馬車を降り、彼にエスコートされて歩いた。

 年末だから、病院も入院患者が減り、普段よりも静かだ。その静寂の中、一歩一歩、爺の病室に近づくと、ふわふわした身体と心を、様々な感情が襲い、地面に縫い付けようとした。そのたびに、私は大山さんの大きくて暖かい手を握って、浮力を取り戻した。

 爺は、個室のベッドに寝かされ、ゴム製のマスクを付けて酸素を吸っていた。側には、護麿さんとベルツ先生が沈痛な面持ちで控えている。

「爺、来たよ」

 枕もとで声を掛けると、目を閉じていた爺が、瞼をうっすら開けた。マスクの下でくぐもった声がして、掛布団から出た爺の右手が、酸素のチューブが接続されたマスクに伸ばされようとする。

「外したいの?」

 尋ねると、爺は頷いた。

「大山さん、……手を離してもらっていいかな?」

 大山さんは、一瞬ためらったようだったけれど、私の右手を離し、私に身を寄せると、後ろから両肩をしっかりと掴んだ。その温もりを感じながら、私は、爺の口を覆うゴムマスクを少し持ち上げた。

「増宮さま……」

 荒い息の下から、爺の声がはっきり聞こえた。

「爺」

 宙に持ち上がった爺の右手を、私は掴んだ。

「おいでいただいて、ありがとう、ございます……」

 爺の言葉は、途切れ途切れだった。私は、一言たりとも聞き逃すまいと、爺の口元と自分の聴覚に意識を集中した。

「本当は、皇太子殿下が、ご結婚されたら、増宮さまに、お渡しするものが、ありましたが……息子に託します」

「お(でぇ)さん」

 護麿さんが一歩、身体を近づける。

「わかった」

 握りしめた爺の手は、まだ温かかった。温かいけれど、遅くとも数日後には……。

 思わず目を伏せた瞬間、

「増宮さま」

また爺が、咳とともに私を呼んだ。

「どうしたの?」

 尋ねると、

「笑顔を……笑顔を、見せてください」

爺はこう言った。

「!」

 襲い掛かる辛さと悲しみと、そして、医師として何もできない私自身に対する怒りが、心の中で一気に勢力を増し、私の身体と心を地に叩きつけようとする。

 けれど、呑み込まれるすんでのところで、

――堀河侍従に育てられた娘として、できることをしてこい。

兄の声が、脳裏に蘇った。

(そうだ……)

 両肩にかかる、私の大切な臣下の手。その温もりと、首元を彩る真珠の冷たさを感じながら、ゆっくりと息を吸い込み、なるべく、心を落ち着けるように努める。私は淑女(レディ)として、爺に育てられた娘として、出来ることをしなければならない。

「こう?」

 私は爺の顔を見つめながら、ゆっくりとほほ笑んだ。

 すると、

「ああ……」

爺も微笑んだ。

 そして、

「増宮さま、出来ることが、ありましたね……」

こう言った。

(あ……)

「何も出来ないと、責められていたでしょう、ご自分を……爺には、わかります」

 荒い呼吸と咳をしながら、爺は一生懸命、言葉を紡いでいく。こんな苦しい状況下でも、この人は、……この爺は、私を教え導くことを考えるのか。様々な感情が身体を駆け巡る中、返事もできず、私はただ、爺を見つめることしか出来なかった。

「まさに、玲瓏……増宮さまの、美しい笑顔を思い出に、爺はあの世に、旅立てます」

「爺っ」

 もう限界だった。私は両手で、爺の右手を握りしめた。

「私……私、爺に育てられて、幸せだった。本当にありがとう、爺」

 声が震えるまでに収められたのが、むしろ上出来だ。涙だけは流さないように、それだけは気を付けながら、私は爺に、今までのお礼を伝えた。

「爺も……増宮さまを、お育て申し上げて、よかった。これからも、出来ることを、おやりになって、立派な、医師に……上医に、おなりあそばせ」

 爺の呼吸回数は、先ほどより明らかに増えていた。多分、酸素マスクを口元からずらしておくのは、これ以上は無理だ。

「わかったっ」

 叫ぶように答えながら、首を縦に振る。それを見て、爺の視線は、私を後ろから支えている大山さんに移った。

「大山どの……」

「はい」

「伊藤どのとともに、増宮さまを……梨花さまを、頼みます」

「承知いたしました」

 大山さんが頭を下げる。それと同時に、

「増宮殿下、これ以上は……」

ベルツ先生が声を掛けた。私は黙って立ち上がり、護麿さんとベルツ先生に丁寧に一礼すると、不調法にならないように気を付けながら、病室を出た。廊下に足をつくや否や、可能な限り優雅に、可能な限り速く足を運ぶ。

「梨花さま?」

 後ろから、大山さんの戸惑う声が聞こえる。それを無視して、私はひたすら歩いた。

 今ここで泣いてしまったら、爺に泣き声が聞こえてしまう。それは淑女(レディ)としては、少しいただけない。せめて、爺の記憶の中では、最後まで、淑女(レディ)な私でいたいから、泣くのは馬車の中に入ってからだ。私はドレスのスカート部分を両脇から支えながら、必死に歩いた。

 病院の玄関を出た瞬間、うっかりドレスの裾を踏んでしまった。地面に盛大に叩きつけられようとした身体の動きが、突然止まった。

「梨花さま」

 後ろから私の両肩をしっかり掴んだ大山さんは、ため息をつきながら、私の身体を起こした。

「急がれると、転びますよ」

「だ、だけど……もう私、限界でっ……」

 私はこみ上げる感情を必死に抑えながら言った。「でも、泣く声は、聞かれたくないの……爺に泣き声が聞こえたら、爺の中の私が、……爺の中の淑女(レディ)な私が、台無しになっちゃう……」

 すると、私の身体が、地面に垂直なまま、突然回転した。脚がもつれて倒れそうになるところを、大山さんに抱き寄せられ、身体ごとがっしりと支えられる。

「ほら」

 右肩に顔をうずめる格好になった私の頭を、大山さんが優しく撫でた。

「こうすれば、多少は声が出ても、聞こえないでしょう」

「大山さん……」

 言ったそばから、涙がじわりと湧き上がる。

「ありがとう。……手間がかかる主君で、ごめん」

「それを承知の上で、仕えておりますから」

 大山さんは私の頭を撫でながら、優しい声で答えた。

 大晦日の寒空は、雲ひとつない冬晴れだった。その下で、北風に吹かれながら涙を流す私を、大山さんはあやすように抱き締め続けてくれた。


 1896(明治29)年1月3日未明。

 

 爺は、亡くなった。

 満59歳だった。

※一身上の都合により、投稿日時点で、感想・レビューは受付を停止しております。ご了承いただければ幸いです。


※“おでぇさん”は諸家・堂上家で父親を指す言葉です。(「御所ことば語彙の調査研究」より)「椿の局の記」でも使われていましたので、そちらを採用しました。


※実際の堀河さんの死因は、可能な限り調べましたが、分かりませんでした。病状の経過・病名等に関しては、架空のものであることをお断りさせていただきます。なお、実際には逝去の日付は1月2日です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 爺、満足して天に召さたでしょうか。実在の方に対して変ですが、合掌。
[一言] 堀河侍従に最後の命令をしてみるのも良かったかもしれません。 「堀河侍従に内親王章子が命ずる。時が巡りて次の世に於いても私の爺となり私を導きなさい」
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