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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第17章 1895(明治28)年立秋~1895(明治28)年冬至
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最後の教え(2)

※3話同日更新の2作目です。(2019年9月14日)

 人間の肺は、大気から酸素を取り込み、二酸化炭素を大気に放出する臓器だ。

 大気とガスをやり取りしているのが、“肺胞”と呼ばれる袋のような部分である。人間の肺には、その無数の小さな“肺胞”が存在している。

 けれど、肺胞だけしかないのなら、肺はつぶれてしまう。しっかりした柱や壁が、建物を崩れないよう支えているように、肺胞の周りにもそれを支える“間質”という壁があり、肺という組織を成り立たせている。

「やっぱり、これ、間質性肺炎の可能性が高いですよね……」

 床にへたり込んだ私が恐る恐る、ベルツ先生と三浦先生に尋ねると、

「ええ、経過から考えると、その急性のものが生じた可能性が高いと……」

三浦先生が静かに答えた。

「そう……ですか……」

 私は俯いて、歯を食いしばった。

 細菌やウイルスが原因となる肺炎は、肺胞や、肺胞まで大気を届ける気管支で炎症が起こっている。けれど、間質が炎症を起こす肺炎……間質性肺炎は、細菌やウイルスが原因で生じるものではない。自己免疫疾患や、外部からの化学物質の刺激で発生するし、そして、……今回の爺のように、前触れもなく突然発生するケースもある。

 エックス線写真だけ見ると、感染がきっかけになって起こったARDS――正式には、急性呼吸窮迫症候群――その可能性もあるけれど、発熱が無かったから、それは考えにくい。となると、前々からあった間質性肺炎のどれかが急激に悪化した、もしくは急激に間質性肺炎が発生したという可能性が高い。私の生きていた時代だと、もっと検査をして、どの間質性肺炎が生じているかを確定させるところだけれど、診断に必要なCT検査なんて、この明治時代ではできない。病気の細かい分類に必要な気管支鏡検査や肺生検も、今の技術レベルでは絶対できない。

 だから、現実的に考えると、治療を優先することになる。私が生きていた時代なら、ARDSの可能性を捨てずに抗生物質を投与しつつ、ステロイドの大量投与や免疫抑制薬の投与を検討し、場合によっては気管挿管して、人工呼吸器を使った呼吸補助を考えるのだろうけれど……。

(全部できない……)

 投与可能なステロイドなんて、見つけられていない。もちろん、免疫抑制剤もだ。気管挿管して機械的に人工呼吸をする技術なんてないし、抗生物質は……医科研にペニシリンの在庫があるだろうか?でも、アオカビの大量培養の技術もまだ確立していないから、そんなに在庫はないだろうし、そもそも、間質性肺炎なら抗生物質は効かない。

「考えられるどの病気にしても、私の時代で治療を尽くしても、死亡率は高いです」

 私は床にへたり込んだまま、呟いた。

「しかも、根本的な治療が出来ない……」

「そうですね。殿下の知識があって、ここまで診断はつきました。それすらも奇跡的ですが……」

「三条さんの時みたいには、いかないですね」

 私は、ベルツ先生の方を見た。あの時は、三条さんの基礎体力にも助けられたし、上手く痰の排出も出来て、無気肺を作らなかったからうまくいったけれど、今回の場合は、そもそも痰が出ていないから、排痰なんてしようがない。

「流石に帝大病院で、医師免許を持っていない私が診察をするわけにはいかない。けど、医師免許を持っていても、私が出来るのは、ここまでですね……」

「梨花さま……」

「ベルツ先生、三浦先生……覚悟はしておきます。爺のこと、よろしくお願いします」

 立ち上がって、ベルツ先生と三浦先生に一礼すると、2人は私に最敬礼した。

 皇居に報告に戻るという伊藤さんと分かれ、花御殿に戻る馬車に乗ると、私は大きなため息をついた。

「梨花さま……」

 大山さんが心配そうな眼で私を覗き込み、右手を取る。

「お辛いのですか」

「うん……」

 私は目を伏せて答えた。

「私、前世で物心ついて以来、肉親に死に別れたことがないの」

 正確に言うと、父方の曽祖父は、私が1歳になるかならないかの時に亡くなった。もちろん、そんな昔の記憶なんてないから、私は前世では、父方母方ともに、近しい親族に死に別れたという経験をしないまま成長したことになる。

「爺は、私を今生で一番に受け入れてくれた人だ。それに、兄上と一緒に暮らすまでは一緒に暮らしていたし、“いつでも増宮さまの味方だ”って言ってくれた……だから、爺は私にとって、肉親も同然なの」

 大山さんは黙って、私の言葉を聞いていた。その寂しそうな顔を見て、

(これ以上はいけない……)

と私は思った。大山さんだって、今まで何人もの肉親に死に別れているはずだ。特に、慕っていた従兄を、自分の手で討たなければならなかったなどという経験……その辛さに比べれば、私が爺に死に別れるという辛さは、まだ楽な方に違いない。私は慌てて口を閉じ、馬車の窓の外に視線を投げた。

 頭の中には、どうしても、物心ついて以来、爺と過ごした日々のことが駆け巡る。

――増宮さまができることを、おやりになればいいのです。

 いつか、爺は、私にこう言った。

 けれど、医者としての私が、爺に出来ることは、今はもう無い。

(悔しい……)

 私は歯を食いしばった。


 その後数日は、単調に過ぎて行った。

 華族女学校(がっこう)は冬休みなので、朝起きて、一日の勉学のスケジュールを淡々とこなす。昼頃に花松さんが東京帝大病院に行き、私の代わりに爺を見舞い、夕方に戻って来るので、そこで彼女の話を聞く。

 ただ、いつもとは違うのは、兄が始終私の側にいることだった。御学問所も冬休みに入り、ずっと花御殿にいる兄は、朝食を取り終わると私の居間にやって来て、自分の勉強をする。竹刀の素振りをする時も、昼食の後も、夕食の後も、ずっと私の側にいる。花松さんから爺の容態について報告を聞く時も、兄は私の隣に座っていた。

「何で兄上、今日は私の部屋に入り浸ってるの?」

 25日の午後、兄に尋ねたら、

「お前の監視も兼ねている」

フランス語の本から顔を上げた兄は、私の方を見てほほ笑んだ。

「監視……?」

「お前が、堀河侍従の見舞いに飛び出していかないように、見張っていてくれと……伊藤議長に頼まれたからな」

「爺は帝大病院だから、お見舞いに行くのは人目についちゃって、無理だよ。それは分かってる」

 私はため息をつきながら答えた。内親王という今生の身分が、気軽にお見舞いに行くことを阻んでいる。公式に外に出掛けてしまうと、警備やら何やらで大騒ぎになってしまう。微行(おしのび)の時も、私が気にならないように、だけどきっちり、警備の人が付いてくれているのだ。彼らに迷惑を掛ける訳にはいかない。

「残念だけど、なるようにしかならない。見舞いに行けるとしても、あと1回……覚悟はしてる」

 なるべくなら、その日が来て欲しくはない。そのお見舞いは、ただのお見舞いではなく、爺に最後の別れをする、という意味合いが含まれてしまうからだ。

「そうか」

 兄は頷いて、そのままじっと私を見つめていた。

「何よ、兄上、私の顔に何かついてる?」

 眉をしかめながら尋ねると、

「梨花」

急に兄が真面目な顔になった。

「堀河侍従のことで辛ければ……俺に言ってくれていいのだぞ?」

 兄は優しくて、頼もしい瞳で私をじっと見ている。それで私は、兄がずっと私の側にいる意味を悟った。

「ありがと、兄上、側にいてくれて。今は爺のことを話す気分ではないけれど、……話す気分になったら、聞いてもらっていい?」

「もちろんだ。いくらでも聞いてやる。俺はお前の兄なのだからな」

 兄はそう言って微笑した。

 それからは、気が向くと、ぽつりぽつり、爺と過ごした頃のことを兄に話した。兄は黙って私の話を聞いてくれたけれど、

「お前、俺に話していないことがあるだろう」

と、29日の夜に私に言った。

「話していない?」

 首を傾げると、

「何もできぬと……自分を責めていることだ」

兄は寂しげにほほ笑んだ。

「……何で分かったの?」

「聞いていれば、言葉の端々に現れている。医師としての自分が、堀河侍従に何もしてやれぬと、己を責める気持ちが」

「そう……」

 私はため息をついた。「ごめんね。それは、医者が相手じゃないと共感できない話だと思ったから、兄上には伏せていた」

「そうか。それは確かに、医科分科会の面々が聞く方がよかろう。しかし、昨日は土曜日だったが、北里先生やベルツ先生が来なかったな……」

「年末年始だから、医科分科会はお休みだよ」

「なるほど……では、武官長に話してはどうなのだ?いつも医科分科会に参加しているだろう」

 兄にそう提案されて、

「大山さんは……」

私は口ごもった。

「どうした?」

「大山さんだからこそ、話せないというか……」

「なぜ、武官長だと話せぬ?お前は、武官長に心を許しているのに」

「……肉親に死に別れる、という経験については、大山さんが、私よりもっと過酷な経験をしているからよ」

 私は言葉を選びながら兄に答えた。

「……西南の役のことか」

「慕っていた肉親を討つ以上に、過酷な経験がある?」

 そう言って、私は少し兄を睨んだ。

「それを考えると、爺に死に別れようとする私の辛さなんて、屁みたいなものだと思って。それに、爺のことを嘆き悲しむ私を見て、大山さんが万が一、西南戦争で、西郷隆盛さんに死に別れたことを思い出したら……、って思うと、ね。もう、彼の心には傷を負わせたくないの。大切な臣下だから」

「そうか……梨花は優しいな」

 兄が私に身体を近づけ、頭を優しく撫でた。

「しかしな、武官長とお前の普段の交わりから見て、お前が己を責めて、悲しみや辛さを無理に堪えるのを見る方が、武官長の心に傷が付く……俺はそう思う」

――(おい)を癒そうとなさってご自身を傷つけられれば、(おい)もまた傷つきます。

 10月の梨花会の後で、欅の木の下で大山さんに言われた言葉が、頭の中に蘇る。

「……」

 黙ったまま兄を見ると、兄は微笑んで、一つ頷いた。

「だから、今度武官長に会ったら、お前の思いの丈を吐き出してごらん」

「うん……」

 私は首を縦に振った。


「……恐れながら、お願いの儀があり、参上いたしました」

 12月30日の夕方、花松さんと一緒に私の居間に現れたのは、爺の息子の護麿さんだった。私より10歳くらい年上で、爺の屋敷に住んでいた頃は、時々顔を合わせていた。

「何でしょうか」

 花松さんから毎日聞いていた病状から、予想はつく。その予想が外れる、ほんのわずかな可能性を期待しながら尋ねたけれど、

「父に、お別れをしていただきたく……」

護麿さんの口からは、やはり予想と違わぬセリフが出た。

「やっぱり、ダメですか……」

「ここ2、3日がヤマだろうと、ベルツ先生が」

 覚悟はしていたけれど、その言葉を聞くと、やはり辛かった。

「わかりました。とにかく、爺の所に行きます」

 頷くと、護麿さんは「ありがとうございます」と言って、私に最敬礼した。

「それにあたりまして、一つお願いがありまして……」

 彼の言葉に首を傾げると、

「最期に、増宮さまのドレス姿が見たいとおっしゃったんです」

花松さんが、沈痛な表情で告げた。

「ドレスを着た増宮さま、その姿を見てから死にたいと」

「そう……」

 爺も、自分の死を覚悟しているのか。そう思った瞬間、涙が瞼から溢れ出た。

(私、医者なのに……何もできない……)

 辛さやら悲しみやら自責の念やらが、一気に身体を駆け上がる。その身体が、不意に力強く抱き締められた。

「梨花」

 椅子に座った私を、床に膝で立って抱き締めた兄は、私の耳元で囁いた。

「辛いのか」

 兄の小さな声に、私は頷いた。

「私……私、爺に、何もできない……」

「そうかもしれないな、医師としては」

 兄は私を抱き締めたまま、耳元で囁き続ける。

「だがな、梨花。堀河侍従に育てられた娘として、お前にはやれることが、まだあるよ」

「え……?」

「堀河侍従の望みをかなえろ。ドレスを着て見舞いに行けばいい」

 兄は私の耳元から口を離し、私の顔を見てにこりと笑った。

「“できることをすればいい”……堀河侍従は、お前にそう教えたと言ったではないか。堀河侍従に育てられた娘として、今のお前に出来ることは、ドレスを着て、堀河侍従の見舞いに行き、堀河侍従にお前のドレス姿を見せることだ」

「……!」

――増宮さまは、天皇陛下の血を受け継がれた方でございます。それゆえ、やらなければいけないことや、できるのにできないことも、多々ありましょう。ですが、あなた様の意思で、できることもあるはずでございますよ。貴賤の差があれども、人の生き方とは、そういうものでございます。……それができないというお子に、増宮さまをお育て申し上げた覚えはございませんよ?

 いつか、爺が私に言った。

(爺に育てられた私なら……私の意思で、出来ることをしなきゃいけない……)

「……わかった。ありがとう、兄上」

 私は兄の左肩をそっと叩くと、椅子から立ち上がった。

「花松さん。お母様(おたたさま)に作ってもらったドレス……2月に着たのが最後だけど、身体が入りますか?」

「さぁ……入るでしょうけれど、背丈があの時から伸びていらっしゃいますから、スカートの丈が合わないかもしれません」

「とにかく、一度試着してみましょう。スカートの丈だけの問題なら、靴の高さを低いものに変えれば何とかなるかも。あと、アクセサリーも用意してください」

「かしこまりました。もし、着丈が合わないようでしたら、大至急、どなたかにドレスを借りましょう」

「頼みます、花松さん。余り時間がありません。明日には帝大病院に行けるように、手配をお願いします」

 私に向かって、花松さんと護麿さんが最敬礼をする。

「それでよい」

 いつの間にか立ち上がっていた兄が、私の頭を優しく撫でた。

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