仲直り(1)
1895(明治28)年10月12日土曜日、午後4時35分。
「さて、庭に出てみたはいいけれど……」
白地に紫の矢羽根模様の着物に、海老茶色の女袴を付け、黒い編み上げブーツを履いた私は、軍服を着た大山さんに手を取られて、花御殿の庭にいた。庭、と言っても、花御殿の敷地はとても広いから、隅々まで見て回れば、1時間は優に過ごせる。
「ねぇ、大山さん、私たちが戻ってから、一体何が起こっているの?」
「お分かりにはなりませんか?」
私の有能で経験豊富な臣下は、私の質問に質問で返した。
「分からない。私が怒ったふりをして出て行ったから、今日の梨花会はそれで終了になったという予想はつくけれど……」
私が首を傾げると、
「終わってはいないでしょう」
と大山さんは答えた。
「へ?」
「恐らく、俺たちが出ていき、伊藤さんと原が退出した後でも、原をハワイに派遣するかどうかの話し合いが続いたでしょう。そして、一段落ついたところで、“伊藤さんが戻って来ていない”という話になり、様子を見に、児玉さんたちが花御殿に派遣されたのではないでしょうか」
「はぁ……」
私は曖昧に頷いた。
(てか、その、様子を見に来た人たちを、大山さん、殺気で追い返しちゃったわけか……)
いつか、桂さんが大山さんのことを、“絶対に敵わない上司”と言っていた。そんな立場の人が、本気で殺気をぶつけたならば、いくら“国軍三羽烏”でも逃げ帰るしかないだろう。大山さんのフルパワーの殺気は、本当に恐ろしいものだから。
「で、大兄さまと西園寺さんは、なんで青山御所の方から回って来たの?」
「追い返された児玉さんたちが、警備詰め所にある電話から、皇居に状況を報告したのでしょう。俺が花御殿にいると知って、残された面々が、状況が把握できず混乱した。正面から行けば、また俺に捕まってしまう。ならば、地続きの青山御所の方から花御殿に侵入し、庭の方から梨花さまの様子を窺えばよい……そう考えたのでしょう」
「大山さんが花御殿にいるのは当然じゃない?」
「皇居の玄関にいた職員に、“大山は自宅に戻った”と言うように、言い含めておいたのですよ」
大山さんはクスクス笑った。「派手な喧嘩を演じた2人が、同じ馬車に、普段と同じように乗って帰ったと陸奥どのに知れれば、せっかくの芝居の意味が無くなります」
「確かにそうね」
私も微笑した。
「そして、追い返された若宮殿下と西園寺どのは、青山御所の電話で、皇居に報告を入れたはずです。それを受ければ、次に動くのは、梨花会の残り全員でしょう」
「ぜ、全員……。一体、何をするのよ」
「もちろん、梨花さまがどうなっているか、様子を探るのでしょう。正面から堂々と花御殿を尋ねる組と、青山御所の方から庭伝いに状況を探る組に分かれるでしょうな。恐らく、陛下も面白がって、皆をけしかけていらっしゃる」
「はぁ……」
私はため息をついた。「私の状況を確認して、何になるのよ……。それに、私はここに大山さんとこうしているわけだし」
「ええ、ですから、梨花さまと俺がこうして散歩しているのを見れば、安心して帰っていくでしょう」
「訳が分からないなぁ……」
私は左手を額に当てた。「大山さんは、状況が全部読めてるみたいだから、もう、大山さんに任せる。はぁ、やっぱり私はまだまだ未熟だなぁ……」
すると、大山さんの足が止まった。
「梨花さま」
「ん?」
「俺も、読めていなかったことがありまして……」
大山さんは、私の手を握ったまま、私に身体を向けた。
「読めてなかった?」
「はい。……喧嘩の種が」
そう言うと、大山さんは目を伏せた。とても哀しそうな眼差しだった。
「うん……それは、私も考えが足りなかった」
陸奥さんに原さんの秘密を知られないように、彼の秘密を知る面々で集まりたい。それで、大山さんと喧嘩の真似事をした。あくまで真似事のつもりだったのだけれど、気が付いたら、私は大山さんに“過保護だ”などと、とても失礼なこと……いや、大切な臣下の心を、土足で踏みにじるようなことを言ってしまっていた。
「芝居とはいえ、大切なあなたの心に、傷を付けるようなことを言ってしまって……私、主君として最低だよ。大山さん、本当にごめんなさい。でも、……私は謝罪するけれど、あなたが私を許すかどうかは、あなたの自由だから、私のことを許さなくてもいい」
私は大山さんに身体を向けて、頭を垂れた。今日、何度目の謝罪なのか、……でも、こんな程度では、全然、謝り足りない。
「大山さんの心を、これ以上傷つけたくないんだ。平和な前世を生きた私より、もっと過酷な時代を生きて、たくさん傷を負っている、大切なあなたの心を、これ以上は……」
「梨花さま……」
「どうすれば、あなたの傷は癒えるの?謝り足りないなら、ずっと謝るし、私を殴って気が済むなら、殴ってもらって構わないし……」
「梨花さま!」
厳しい声が耳朶を打ち、私は思わず身を竦めた。
(やっぱり、殴られるかな……)
でも、それで大山さんの気が済むなら、それでいい。それで彼の心が癒されるのなら……。私は覚悟を決めて、衝撃に備えるため、目をきつく瞑った。
ところが。
「そのようなことを、おっしゃいますな……」
拳の代わりに私の頭に降ってきたのは、大山さんの、優しくて、どこか悲しげな言葉だった。
「俺の守るべき、大切な淑女を……もうすでに、俺は梨花さまを言葉で傷つけてしまったというのに、どうして更に傷つけられましょうか」
「ちょっと待って、大山さん」
私は閉じていた目を開けた。「さっきのことなら、私、傷ついてないから。芝居だって分かってたし、大山さんの言うことは一々もっともだったから、傷ついてなんか……」
「いいえ、傷ついておいでです」
私の反論を、大山さんは首を横に振って、静かに否定した。「現に、梨花さまの心が傷つき、ご負担が掛かった結果、梨花さまは、普段は平然と受け流されている原の言葉を、受け流せておりませんでした」
「……」
私は答えることができなかった。
「ご自身をご自身で傷つけること。それは、梨花さまの悪い癖でございます。それゆえ、ご自身で傷を抱えれば事態を解決できると見るや、そうなさろうとしてしまう。今もそうです。……しかし、それでは、俺の心は癒えませぬ」
急に、私の右手から、大山さんの左手が離れた。
「謝るべきは、梨花さまではなく、俺でございます。大切な守るべき淑女のお心を、傷付けてしまったことを……」
その場に片膝をつき、頭を垂れる大山さんの前に、
「やめて、そんなことは……」
私も両膝をついた。
「許してと言いたいのは、私なのに……」
「しかし、お心を傷つけたのは俺です」
「そんなことを言っても、私だってあなたの心を傷つけたのに……」
「ですが……」
(どうしよう……)
どうあっても、大山さんは、“大切な梨花さまを傷つけた”と、自分が私に頭を下げたいようだ。けれど、私は大山さんに頭を下げさせたくない。頭を下げるべきは、大切な臣下の心を傷つけてしまった私なのだから。
(堂々巡りでキリがない……)
「大山さん!」
叫びながら、私は立ち上がった。
「私の手を取って」
「は……?」
「手を取って!それで、その、……え、エスコートしてちょうだい」
私は大山さんから顔を背けながら、右手を前に差し出した。
「話が堂々巡りになってる。これじゃ、前に進めない。仕切り直そう、大山さん。あの木の下に座って話そう。だから」
大山さんが、私の顔を見つめている気配がする。
(は、恥ずかしい……)
身体が熱い。もちろん、顔も熱い。目の奥が少し、ツンとしている感じもある。様々な感情が一気に噴き出して、訳が分からなくて眩暈がしそうだ。
と、差し出した私の右手が、暖かく優しく包まれた。
「ご聡明なご主君の、ご命令であれば」
私の耳に届いた大山さんの声は、優しかったけれど、どこか厳かな調子を帯びている。
「聡明……?私が……?勉強しかできない馬鹿なのに?」
大山さんを見ることが出来なかった。けれど、彼が微かに苦笑したのが、気配で分かった。
「陸奥どのに企みがあるのではないかと、とっさに考えられた。それに今も、話がこじれそうなのを察知されて、解決策を導き出されたではないですか。学問が出来るということは、元々の頭の力はあるということ。ご自身が愚かに見えるのは、実際の世界に、頭が対応しきれていないから。これから、対応できるようにすればいいだけの話です」
大山さんの優しい声が、じわじわと心に沁みていく。その通りだ、と肯定する思いと、いや違う、と否定する思いとが、私の頭の中で争っていた。
「……やはり、今日の梨花さまは、心が傷ついて過敏になっておられるようです」
不意に、寂しそうに微笑する大山さんの顔が視界に飛び込み、私は目を丸くした。それ以上の反応が出来ないでいると、大山さんは空いた右手でポケットを探り、ハンカチーフを取り出すと、「失礼いたします」と言って、私の眼の下を拭った。
「涙を流しておいででしたので」
(あ……)
その言葉で、両の眦が、熱くなっているのに気が付いた。
(そう……なんだ……)
私は、大山さんにお芝居とは言え罵倒されて、その言葉で傷ついてしまったのか。大山さんのために、認めたくは……絶対に認めたくはなかったけれど……。
「ごめん……ありがとう……」
悔しいけれど、私の目から涙が一滴、また一滴とこぼれ落ちる。そのたびに、大山さんが傷を塞ぐかのような優しい手つきで、ハンカチーフに涙を吸わせた。
「座ろう、か……」
ハンカチーフで吸える涙がようやく無くなり、私は大山さんにエスコートされて、花御殿の庭の一角にある、欅の木の根元にやって来た。
「ちょっと待って、汚れるから……」
私は袂から自分のハンカチーフを取り出すと、なるべく平らになっている場所を選んで地面に広げた。
「小さくて申し訳ないけど、半分ずつ座ろうか」
私はハンカチーフの左半分にお尻を乗せると、空いている右半分を指し示した。
「俺のを広げますが……」
おずおずと申し出る大山さんに、
「そのハンカチーフは、私が泣いたから使っちゃったでしょ?」
と私は言って、少しだけ笑ってみた。
「だからお願い、私の隣に座って」
大山さんは周りを見ながら、少し考え込んでいたようだったけれど、
「では、お言葉に甘えて」
と言って、私の隣に並んで腰を下ろした。自然、私の右腕と大山さんの左腕が、密着するような形になる。
「……大きくなられましたね」
「そうだね。あなたと初めて会った時は、私、あなたに抱っこされたもんね」
私は微笑んだ。あの7年前の“授業”の時、かわるがわる私を抱っこした面々の中に、大山さんもいた。
「お母様よりは、背が大きくなったけれど……前世と同じ身長までは伸びないだろうなあ。150㎝を超えたら御の字だけれど」
そう言うと、
「中身も、成長されておられますよ」
と大山さんが優しい声で言った。
「それ、あんまり実感がないんだよねぇ……」
私はため息をついた。「大山さんが言うなら、その通りなんだろうと思うけれど……さっき強がってしまったみたいに、“前世を合わせたら36歳”では、絶対にないよ……」
「そうなると、捨松よりも年上になってしまいますな」
大山さんがクスリと笑う。
「うん、そんなに大人びては、絶対にない、私……」
むしろ、今のこの12歳の身体の方が、しっくり来ることがある。
(それだけ、私が子供だってことだよな……)
「というよりは、大人の部分と、子供の部分を合わせ持っておられるのでしょう」
大山さんが微笑む。「俺も、悪戯は好きですし」
「だからって、児玉さんたちに、本気で殺気をぶつけちゃうのは、やりすぎだと思うよ?」
呆れながら言うと、大山さんはまたクスクス笑った。
「それにしても、大人の部分と子供の部分かぁ……。多分、私の子供の部分は、あれだな、その……」
言い淀んでしまって、顔をうつむかせると、
「梨花さま、手を取ってもよろしいですか?」
と大山さんが優しく尋ねた。黙って首を縦に振ると、
「失礼いたします」
と声がして、私の右手がそっと包まれる。優しくて、暖かくて、大きな手だ。
「恐れながら……子供の部分、とおっしゃるのは、恋愛について、ということでしょうか?」
大山さんの声に、私は頷いた。
「私、あの、前世の失恋以来、女性らしいことは一切排除していたから、恋愛なんてものも、前世では考えたことがなくて……」
過去の経験と感情を手繰り寄せながら、キリキリと痛む心を、少しずつ、言葉に変換していく。
「今は、強がって、自分から話題に出すこともあるけれど……でも、本当は、考えたくもなくて、ずっと、目を背けていたくて……」
「それはやはり、過去に受けた傷が痛くて、ということでしょうか」
「多分、そう……。心が、12歳のあの日で、成長を止めてしまっているんだと思う」
私は大きなため息をついた。
「あなたは、何てくだらないことで、心に傷を負っているんだ、って思うでしょうけど……」
「そんなことはありませんよ」
大山さんが静かに言った。
「俺も、捨松に惚れた時は、本当に苦しみました。思いが破れていれば、もっと苦しんだに違いありません」
「で、でも、上手くいったじゃない」
私は、ぷぃっと左側を向いた。
「そ、それに、あなたと捨松さんの馴れ初めを聞いて、私、その……」
(あああ……)
無駄に身体が熱い。心臓がどきどきする。
「その、何でしょうか、梨花さま?」
大山さんが、じっと私を見つめている。あの恋の一方の当事者が、今、私の隣に座っていて、私の手を握っている……その事実に私は気づかされ、身体がますます熱くなるのを感じた。
「だ、だから、そ、その……す、素敵な、恋だなって……、そう、思って……」
もうこれ以上は、口が動かない。口を半開きにしたまま、固まってしまった私の頭を、大山さんが開いた右手で優しく撫でた。
「ふふ、とてもお可愛らしい……。頬どころか、耳まで真っ赤にされて」
「た、馬鹿……恥ずかしいから、言わないで……」
余りに動揺して、前世でもめったに使わなかった名古屋弁が出てしまった。
「ちょ、ちょっともう、だめ……医者だから、その先のことだって全部知ってるのに、何か、恋ってだけで、もう……」
伊藤さんのせいだ。春の関西旅行の時に、大山さんと捨松さんの馴れ初めを彼に聞かなかったら、こんなことにはならなかったのに……。
「ですが、素敵、と思ってくださるのですか、俺と捨松のことを」
私はやっとの思いで頷いた。
すると、
「梨花さま、俺の目を、見てくださいませんか」
大山さんはこう言った。
「ひゃいっ?!」
変な返事をしてしまった私に、
「俺の目を、見てくださいませんか」
大山さんは、また繰り返して言った。
とても、人の目なんて直視できる精神状態ではない。けれど、私の大切な臣下の要望には、応えなければならない。私は、ゆっくりと首を右に回した。大山さんは、いつもと変わらない、優しくて暖かい瞳で、私を覗き込んでいた。
「梨花さま……梨花さまの心は、少しずつ成長されております」
私の目を、その瞳で捉えると、大山さんは口を開いた。
「本当に成長が止まっていて、恋愛から目を背けていたいなら、俺と捨松のことを“素敵”と思ってくださることもないでしょう。……俗に、“灯台下暗し”と申します。自分の心は、自分に一番身近にあるものゆえ、かえって分からぬことも多かろうと思います。俺の目には、梨花さまの心が、少しずつ、ご成長されているように映ります」
――精神も未熟、知略も未熟、医学も未熟でござりますれば……。
さっき、わざと言い争った時の大山さんのセリフが、頭の中に蘇る。それが嘘なのだと、お芝居なのだとは、分かっているけれど……。
「私は、未熟ではないの……?」
思わず口に出してしまった言葉を、大山さんは首を横に振って否定した。
「未熟な部分もあるかもしれません。ですが、裏を返せば、成長の伸びしろがあるということです」
大山さんは、私に言い聞かせるように言った。「それに……ご自身も辛い状況でいらっしゃるのに、俺を傷つけまいと……それを第一に考えられる。お優しい。とてもお優しい方です。ですが梨花さま、俺を癒そうとなさってご自身を傷つけられれば、俺もまた傷つきます。梨花さまの傷が癒されれば、俺もまた癒されます。俺は梨花さまの、臣下でありますゆえ」
大山さんの視線が、私の身体を貫いている。暖かくて優しいその瞳が、どこか悲しげな色を帯びた。それは、私が傷付いて、そのせいで、大山さんも傷付いたからだ……。私はそれを、突然理解した。
「そっか……」
私は苦笑した。「ありがとう、大山さん。私のことを大切に思ってくれて」
「梨花さま」
「私、頑張る。自分を傷つけないように頑張る。それで、いつか……、いつかきっと、大切なあなたに相応しい主君になる。だから、頑張るよ」
微笑すると、大山さんは、
「わかりました」
と頷いて、笑顔を見せてくれた。
「俺も、助力させていただきます、梨花さま」
「ありがとう。大山さんの助力が、一番効くわ」
急に、胸のつかえがとれた気がする。ほっと息をつくと、
「やっと、本当に笑っていただけました」
大山さんがこう言った。
「今日は今まで、お笑いになっても、ずっと顔が強張っておられたのです」
「そうか、それだけ、無理してたんだね、私は……」
私が小さく呟くと、
「ところで、梨花さま。……この機会に、一つ確認しておきたいことがあります」
大山さんは急に表情を改めた。




