喧嘩
※地の文を一部修正しました。(2019年9月1日)
1895(明治28)年10月12日土曜日、午後2時20分。
「まさか、この時の流れでも、この日に事が起こるとはな……」
お父様とお母様も参加する定例の“梨花会”の席上、伊藤さんがそう言って、顎髭を撫でた。
10月9日に、朝鮮で閔妃が8日に毒殺されたという極秘情報が入った。実は、“史実”でも、閔妃はこの日に殺されたらしい。9日に一報を受けた時、それを伊藤さんに聞かされ、本当に驚いてしまった。
「無論、袁世凱が、李鴻章殿の意を受けてやったこと。まだ死去は公にはされておりません。恐らく、急な病死とでもするために、今は隠蔽工作をしているのでしょう」
書類を持った陸奥さんは、淡々と報告する。
「陸奥次官。閔妃は何をやらかそうとしたのだ?権力を奪回するために、袁世凱を追い払おうとしたのか?」
眉を顰めながら尋ねた兄に、
「大筋では、皇太子殿下のおっしゃる通りでございます」
陸奥さんは恭しく一礼した。
「閔妃は政権内での権力奪回を狙い、朝鮮の役人を金銭で買収し始め、密かに兵力も蓄え始めました。それを察知した袁世凱が、機先を制して閔妃を毒殺したとのこと」
(なるほどね……)
恐らく、袁世凱が買収している、閔妃お気に入りの祈祷師も、袁世凱に情報を流したのだろう。その祈祷師が、閔妃毒殺に直接関わった可能性もある。
「他の勢力……特にロシアと閔妃が結びついている気配はないですな?」
山縣さんの質問に、
「ご心配なく、山縣さん。それを閔妃が考える前に、袁世凱が事を済ませました」
私の隣に座った大山さんは静かに答える。そして、私に視線を向けた。
「何ですか、大山さん」
ものすごく嫌な予感がする。けれど、それは顔に出さないように頑張りながら、私は大山さんに微笑を向けた。
「ほう、余裕がおありになるようですね。では、これから俺が出す問題も、簡単に答えられるでしょう。……これから朝鮮問題は、何に気を付けて処理すればよろしいですか?」
(やっぱり……)
直感が当たったのはいいけれど、問題に対する答えは、全く思い浮かばない。とりあえず両腕を組んで、考えているポーズは取っていると、
「梨花さまが袁世凱の立場にいるとして、今が戦国時代ならば、どう対応されますか?」
大山さんが更に私に尋ねた。
(戦国時代なら……)
「朝鮮の宮廷を完全に掌握するためには、気を付けないといけないのは前国王の扱い。今までの不満分子が前国王の下に集まってしまったら、烏合の衆とはいえ、袁世凱でも手を焼くかもしれない。だけど、いきなり前国王を殺してしまったら、今の国王だって反発するだろうし、不満分子が余計結束してしまうかもしれない。そのためにはまず、前国王の所に、人を集まらせないこと。古典的な手だけれど、前国王を酒と女にでも溺れさせて、人望を地に堕としてもいいかも。溺れなかったら、中央情報院も協力して、前国王の悪評を朝鮮中に流せばいい」
「ぶ、物騒なことをおっしゃるのですね」
末席にいる高橋さんが、緊張した声で言う。何となく、額に脂汗がにじんでいるのは気のせいだろうか。
「ああ、ごめんなさい。大山さんが“戦国時代”って言うから、つい」
私は高橋さんに頭を下げた。本当は更に、流す噂の具体的な内容まで言おうとしたのだけれど、やめておくことにした。流石に、12歳の女子が平然と言ってのける内容ではない。
「梨花さま、他に気を付けることはありますか?」
「あとは諸外国……特にロシア」
私は大山さんに向き直った。「清の軍隊は、次第に近代化が進んでいる。この夏には、清の4つの艦隊も再編されて、指揮系統も一本化された。だからロシアがもし、日本海側で南進したいとなれば、食指を伸ばすのは、隙が無くなりつつある清と日本より、ごたごたしていると思われる朝鮮。前国王やその他の不満分子が、ロシアと結びつかないかは注意しないといけない。あとは……確かロシア国内にも、“国内政策に目を向けるべき”みたいな論をまき散らして、ある程度の予防線は張っているんでしたっけ、伊藤さん?」
「さようでございます」
伊藤さんが満足そうに頷いた。
「なるほど、増宮さまには、こうやって火をつけたらいいのですな」
ニヤリと笑った西園寺さんは、意味が分からないことを言っている。
「しかし、こりゃぁ、難しくなったねぇ」
勝先生が頭を掻いた。「朝鮮の動きが、予想よりちょいと早い。青木だけじゃ捌ききれねぇかもしれないな。小次郎に、今年の冬もハワイに行ってもらうか、それとも日本に残ってもらうか……」
去年11月から始まった抗結核薬の2剤併用療法の臨床試験は、10月末で終了する。全例ともに順調な経過で、症状は明らかに改善している。これで今月末のエックス線検査で、病巣の再発が見られなければ、リファンピシンとシズオカマイシンの2剤併用療法は、本格的に治療に使える。早速陸奥さんにも使いたいし、本人もそれを希望していた。
問題は、陸奥さんが手掛けている、ハワイ王国問題の件だった。今は陸奥さんや大山さんの工作もあり、アメリカ国内のハワイ併合論もすっかり鳴りを潜め、ハワイは国家財政の再建に向けて、砂糖だけではなく、コーヒーやパイナップル、キナの木などの栽培や、その加工に力を入れ始めた。アメリカ国内の世論工作をするために、アメリカの大手新聞社やタブロイド紙数社を、気づかれない形で買収したり、株の過半を取得して、経営権を日本の息のかかった人間に移譲したりした、というのを聞いた時には、ただただ驚くしかなかったけれど……。
――皇室財産も使わせていただきましたし、意外と安く買えましたなぁ。
そう嘯く我が臣下の微笑みが、あれほど怖く思えたことはない。
それはともかく、ハワイの担当者の仕事としては、現国王・リリウオカラニ女王陛下が取り組んでいる憲法改正の仕事を助けたり、ハワイの財政状況をチェックしたりなど、業務が多岐にわたる。更に、アメリカに対する世論工作も行うので、それをすべてこなせるのは陸奥さんしかいない、というのが梨花会内での一致した見方だ。リリウオカラニ女王陛下も、陸奥さんが冬になるとハワイにやって来るのを、心強く思っているそうだ。だから、本当は日本国内で結核の治療をしてもらいたいところ、森先生に、薬剤を持って陸奥さんに同行してもらい、結核の治療をハワイで始める……ということになったのだ。
「増宮さま、小次郎は日本に残ってもらってもいいんだろう?結核の治療としては」
「そりゃあ、その方が経過観察しやすいからありがたいですけれど、勝先生……ハワイの件が出来るのは陸奥さんしかいないっていうのは、私も分かってますよ?」
森先生が今年の春から始めた、モルモットでの壊血病発症実験は成功を収めた。動物モデルが確立したので、あとは、その動物モデルを使いながら、私の時代で言うビタミンCを見つければいい。本当は森先生にはそちらに注力して欲しいのだけれど、事情が事情なので、森先生が陸奥さんに同行している間、その実験は、ベルツ先生が指導する東京帝大の学生たちが行う手はずを整えた。
と、
「増宮殿下」
陸奥さんが微笑した。
「案ずるには及びません。ハワイの件ができるのは、僕以外にもおります」
「へ?」
首を傾げた私の視線の先で、陸奥さんは、とある人物を見つめた。
「原殿」
「え?」
キョトンとする原さんに、
「僕の代わりに、ハワイのこと、頼まれていただけませんか」
陸奥さんは言った。
(え、ええええええええ?!)
心の中で叫んだのは、多分私だけではない。会議室の空気が、いっぺんに変わってしまったのが分かった。
「む、陸奥どの……それは、本気でおっしゃっておられるのですか?!」
原さんは、目をこれ以上ないほどに見開いていた。
「もちろんですよ、原殿」
陸奥さんは原さんから目を逸らさずに言った。
「あなたは内務省の膨大な業務を見事にこなしている。おまけに、元々は我が外務省にいた方ではないですか」
「い、いや、確かにそうですが……」
原さんは相当動揺している。うまくお芝居はしているようだ。
(確かに……原さんならできる)
“史実”の記憶を、そして、内務大臣を何度も務め、更には総理大臣まで上り詰めたという経験を持つ原さんならば。
けれど、今の原さんは、“内務省の異才”と言われて、実績を上げつつあるけれど、まだ内務次官に過ぎない。
(それに……今の時点で原さんが日本からいなくなる、というのは……)
手元の紙に鉛筆を走らす私の視線の先で、
「し、……しばし待ってくれ、陸奥どの!」
原さんの上司である山縣さんが、椅子から立ち上がった。
「正直なことを言うと、わしは、原君なしでは仕事が立ち行かん。原君は本当によく、わしを助けてくれる。原君を次官に推薦してくれたという一事だけでも、聞多さんには、感謝してもしきれないのだ」
「内務省だけじゃない。原が関係する省庁の間を、上手く調整してくれているから、農商務省もそうだし、他の省庁の業務もうまく回っている面がある。貞子のことは、あれの身勝手で、本当に申し訳なかった、原」
井上さんも山縣さんを援護射撃しつつ、原さんに深々と頭を下げる。
「い、いや、井上閣下、そのような……」
原さんは更に動揺して、井上さんに丁寧にお辞儀を返している。大山さんはそれを見ながら、手元の紙に文章を書き付ける。
「井上さんの言うことはもっともじゃ」
大隈さんも大きな声で言った。「“内務省に原あり”。その代理を務められる人間は、容易に見つからんよ」
「大隈閣下のおっしゃる通りです」
後藤さんも末席で手を挙げる。
「陸奥閣下には本当に申し訳ないですが、我輩では、まだ内務次官を務めるには力不足。特に、政界や官界における人脈、となりますと……」
「官界での人脈は、君にもかなりあると思うが、意気軒昂な君自身でも、“自分には無理”、と考えるか……」
山田さんがため息をつきながら苦笑する。
と、動きを止めた私の手から鉛筆が離れて、床に落ちた。
「拾いましょう」
大山さんが椅子を動かして身を屈める。
「いいよ、私がやる」
私も椅子をずらして、足元に転がった鉛筆を拾おうとすると、
「いえ、俺が致します。梨花さまはそのままで、淑女なのですから」
と大山さんが言った。
「ちょっと、大山さん」
私は眉をしかめた。
「このぐらいは自分でやる。こんなことで、人の手を煩わせるわけにはいかない。手術をしていて、清潔野から手を下ろせない時じゃないんだから、私がやるよ」
手術中、万が一清潔野からモノが落ちたら、それは術者ではなくて、控えている別の人が、清潔野に触れないように気を付けながら拾う。落ちたのが手術道具なら、新しい清潔な道具を出す。それが私の時代の手術のルールだ。
「いいえ、俺が致します」
私の抗議にも関わらず、大山さんは、同じ言葉を繰り返した。
「あのね、大山さん。それは過保護よ」
私は声を尖らせた。
「私だって、あなたと初めて会った時の、5才の身体じゃない。12才まで成長したの。背丈だってお母様を超えた。もうそろそろ、一人前の大人にならなきゃ」
すると、
「ほう、思い上がられておられますな、梨花さま」
こんなことを言いながら、大山さんが立ち上がった。
「お、思い上がってるですって……?!」
私も立ち上がると、大山さんを睨んだ。
「あなた、主君に対して、“思い上がってる”って言葉は何よ。その、上から目線は、臣下としてどうなのよ!」
「臣下として?」
大山さんが私をジロリと見る。
「そうよっ。大体あなた、いつも偉そう。いくら私が年下だからって、それは臣下が取る態度じゃないでしょ?!私だって、前世の年齢を足したら、今はもう、36才なんだからねっ」
「ま、増宮さま?」
激昂する私に、山縣さんが、怯えたような視線を送る。
すると、
「36ですと?ご冗談を」
大山さんが鼻で笑った。
「や、弥助どん?!」
「そりゃ、言い過ぎじゃろ!」
黒田さんと西郷さんが、慌てて大山さんを止めに入ったけれど、
「いいえ、言わせていただきます」
大山さんは固い表情で、二人を振り返らずに言った。
「梨花さまは未熟も未熟、未熟過ぎて話になりません。精神も未熟、知略も未熟、医学も未熟でござりますれば、これでは上医になど、到底なれませんでしょう」
「なんですって……!」
私は大山さんを睨み付けた。
「武官長!」
兄が鋭い声を発する。「梨花を侮辱するとは……」
「待て、嘉仁」
今にも立ち上がろうとした兄を、上座からお父様が制した。「章子にも非がある。大体……」
「ふざけんじゃないわよ!」
私は周りの様子を完全に無視して、大山さんにありったけの声を叩きつけた。
「あ、あなた、主君である私のことをそんな風に思いながら、私に仕えてたの……?淑女だのなんだの、散々おだてておきながら?ゆ、許せないっ!」
私は椅子を、乱暴に机に押し込んだ。
「増宮殿下、少し、落ち着かれたら……」
陸奥さんが困惑する前で、
「ほう、淑女?こんな乱暴でお転婆な娘子がですか?そんな風だから、婿候補が逃げていくのですよ。少しは、我々の苦労も察してもらいたいものですな」
大山さんは私を、ニヤニヤしながら煽り立てる。
「いいもん、結婚なんてしなくたって!そうしたら私、一生、お父様と兄上を守れるから、それでいいもんっ!」
私はクルリと一同に背を向けた。
「帰るっ!」
「章子!」
「帰ります!」
お父様の叱責の声に負けないぐらいの大声を張り上げた私に、
「増宮さま!」
椅子から立ち上がった伊藤さんが追いすがろうとする。
「伊藤さん、無用です。あんな娘、放っておきましょう」
その前に大山さんが立ちふさがって、私に近づこうとする伊藤さんを身体で押さえている。
「私だって、大山さんのことなんか、知らないっ!」
私は大山さんをもう一度睨み付けると、部屋の戸口を飛び出して、車寄せに向かって走った。
※さて、やらかしちまった(?)君臣コンビ、どうなりますことやら。
作者の予想以上にドタバタ展開になりそうな次回に続く……?




