関西旅行(4)
※セリフミスを修正しました。(2019年8月19日)
※地の文を修正しました。(2021年7月13日)更に地の文を修正しました。(2022年10月22日)
1895(明治28)年4月7日日曜日、午前11時。
「うーん……これが、豊臣秀吉の最後の城からの景色かぁ……」
京都府堀内村にある木幡山。かつて豊臣秀吉が建てた木幡山伏見城の本丸の、天守閣があったと思われるところ、そこに生えている大木の太い枝に、私は跨っていた。地上からは、およそ10mは離れているだろうか。
本当は、石垣や天守台、空堀などの跡を、きちんと確認したかった。けれど、今日はスケジュールがとても詰まっている。まず朝から、京都市内にある薩摩・長州軍、そして旧幕府軍の戦死者を弔っている寺院に参拝し、そこから歴代の天皇皇后のご位牌を祀っている泉涌寺にお参りし、私の今生の祖父である孝明天皇の陵墓に参拝した。そして、更に馬車で南下して、ここにやって来た。この後、鳥羽・伏見の戦いの戦跡を巡って、今日の宿泊先である大阪の第4軍管区の司令部に入って、今日の予定が終わる。はっきり言って、この過密スケジュールの中で、木幡山に登れたのが奇跡である。
鳥羽・伏見の戦いで亡くなった兵士たちを、所属した軍の区別なく慰めたい……お父様にそう言ったのは、1月の私の誕生日の時だけれど、その後、宮内大臣の土方さんから、「せっかく京都に行くのであるから、祖父君の孝明天皇の陵に参拝なさるべきだ」という申し入れがあった。それももっともな話なので、立ち寄り先に付け加えた。また、鳥羽・伏見の戦いも、数日にわたって戦いが行われたため、主な激戦地が何か所かあった。亡くなった兵士たちが合同で葬られている場所も、薩摩・長州軍、そして旧幕府軍ともに、数か所あるということだ。
(もう、木幡山は諦めないといけないかなぁ……)
そう思ってため息をついていたら、更に予定が変わり、泉涌寺を出た後、兄と私が別行動を取ることになった。兄は伏見に駐屯している工兵大隊の視察に行き、私は木幡山に登った後、兄に合流することになった。
――これがギリギリの線だな。本当に、登って下るだけになっちまうから、そこは勘弁してくんな。
勝先生はすまなそうに私に言ったけれど、私としては、前世で立ち入り禁止になっていた区域に入れるだけでもありがたい。勝先生に丁重にお礼を言った。
私は、視覚をフル稼働させて、必死に眼前の景色を脳裏に焼き付けた。南には、東から西に宇治川が流れ、その更に南に、広大な水面が見える。巨椋池だ。私の時代には、既に干拓されていたから、この景色は新鮮だ。
と、
「梨花さま!」
下から、大山さんが私を呼ぶ声がした。
「どちらにいらっしゃいますか?!」
「ごめん!今から降りる!」
地上に向かって怒鳴ってから、私は木の幹を伝って降り始める。飛び降りる方が早いかもしれない、と一瞬考えてしまったけれど、伊藤さんを“史実”で殺した犯人の名前が思い出せるという副産物があっても、私が怪我をしてしまっては本末転倒だ。
「梨花さま」
薄緑色の和服に付いた汚れを手で払っていると、私の非常に有能な臣下が現れた。
「まさか、とは思いますが、木に登っていらっしゃったのですか?」
「そのまさかよ」
紺青の女袴についた汚れを落としながら答えると、大山さんが軽くため息をついた。
「麓に着いた途端に、俺の手を振りほどいて走り出してしまわれたので、どこに向かわれたのか心配したのですよ」
「ちゃんと言ったでしょ、“本丸の天守台の跡を目指すから、ゆっくりついてきて”って。堀や石垣の跡を確認する暇は無いと分かっていたから、せめて天守台からの景色だけでも確認したいと思って」
私が反論すると、
「“本丸の天守台”と言って、それが即座に分かるのは梨花さまだけです」
大山さんは容赦なくツッコミを入れた。「古図面に目を通していましたから、俺は分かりましたが……」
「古図面?!」
私は目を見張った。
「ちょっと、どの古図面よ。私は今回、前世で覚えた図面だけで勝負したのよ。それ、見せてよ、大山さん!」
「お断り申し上げます」
大山さんは冷たく言った。「梨花さまが、これから大阪に着くまで、おとなしくなさるのであれば考えますが」
「おとなしくする!するから見せて!お願い!」
大山さんに最敬礼すると、
「ではまず、麓まで、エスコートさせていただきましょう」
彼はにっこり笑って、私に左手を差し伸べた。
「くっ……」
少し恥ずかしいけれど、木幡山伏見城の古図面のためだ。私は黙って、大山さんの左手を取った。
「恥ずかしいと感じていらっしゃるのですか、梨花さま?」
唇の端に微笑を浮かべながら、我が有能な臣下は、主君を揺さぶりにかかる。
「そ、その通りよ」
私は下を向いた。ここは、淑女らしく堂々としなければいけない所なのだろうけれど、それよりも“恥ずかしい”という気持ちが勝ってしまう。昨日のように、自分から“エスコートして欲しい”なんて、よほどのことが無い限り言えない。
(昨日は、一体何があったんだろう?)
大山さんに手を引かれて木幡山を下りながら、私は内心で首を傾げていた。内国博の会場で、兄にネックレスを付けてもらってから、皆の態度がおかしくて、私も心と身体がふわふわしていた。その状態の時だ、大山さんに“エスコートして欲しい”とお願いし、なおかつ、自分のことを“梨花”と呼んでしまったのは。心身ともに、負担は全く感じなかったけれど……。
(うう……今思い返すと、ちょっと恥ずかしい……)
また私がうつむいた時、
「梨花さま、何か考え込んでおいでですが、いかがなさいましたか?」
大山さんが私に問うた。
「昨日のあの状態は、一体何だったんだろう、って思って」
私は素直に、考えていた疑問を口にした。「心と身体がふわふわして、あなたに“エスコートして欲しい”なんて言ってしまうし、皆も急に私にへりくだるし……辛くはなかったけど、よくわからない」
すると、
「俺なりに、仮説はあります」
大山さんは言った。「しかし、材料が少ないのです。梨花さま流で言えば、“nが少な過ぎる”という状況でしょうか。ですから、話すのは時期尚早かと」
「確かに、ああなったのは、昨日で3回目だし……」
「しかも、俺が直接関わったのは1回だけですから、nが1になります」
「流石に、“この際、nが少なくても許容できる”というあなたたちでも、n=1だと無理か」
私は苦笑した。言葉につられて、別の課題を思い出してしまったけれど、それは明日相談することだ。
「それにしても、久しぶりに山に登って木登りもしたけれど、やっぱりこの靴はいいわね」
私は、足元を指さした。今はいつもの編み上げブーツではなく、特注して作ってもらったゴム底布靴だ。布は黒く染めた帆布で、スニーカーのように靴紐を結んで使う。ゴム底には、滑り止めに役立つかと思って、波のように模様を刻んでもらった。私が生きていた時代の靴なら、スパイクを打ったり、もっと複雑な模様を靴底に刻んだりするのだろうけれど、今日のような活動程度だと、これで十分だ。
「なぜその靴を持っていかれるのかと不思議に思っておりましたが、木幡山に登るためでしたか……」
「他に?」
私はため息をつく大山さんを一瞥すると、
「馬車に戻ったら、いつものブーツに履き替えるよ。ここからは、きちんとしたいからね」
と言った。
「ですね」
大山さんは微笑んだ。「戦いの経過については、大丈夫ですか?」
「だと思う。あなたからも、勝先生からも話を聞いたし」
大山さんは鳥羽・伏見の戦いに、薩摩藩の一員として参加している。当事者たる彼からも戦況の推移について話は聞いたけれど、不公平になってはいけないと思い、勝先生からも話を聞いた。
「だけど、射程が300mを超える武器の話をされてしまうと、頭が混乱するのよね」
戦国時代の火縄銃は、確か有効射程は100mぐらいだったと思う。辛うじて、鳥羽・伏見の戦いは戦況が理解できたけれど、近代戦は、距離感が狂ってしまって、戦況の理解が全く出来なくなるのだ。だから、原さんから日清戦争や日露戦争、第一次世界大戦の詳しい話を聞いた時は、本当に辛かった。
「それは、軍事方面でのご修業が必要でしょう」
大山さんはにっこり笑う。
「それねぇ……名古屋からの車中で、桂さんにも言われたけれど、いくら女らしくないと言っても、私は男じゃないから無理だよ」
私が軽く唇を尖らせると、
「梨花さま」
私の手を引く大山さんの足が止まった。
「いつか、申し上げましたでしょう。ご自身を傷つける、という形であっても、梨花さまを傷つけたくはない、と」
大山さんが私の目を覗き込んだ。「伊藤さんと桂さんに聞きましたよ。京都までの車中、ご自身を言葉で傷つけられたと……」
(そんなつもり、ないけどなぁ……)
私に言い聞かせるように話す大山さんの目を、じっと見つめてみたけれど、やっぱり彼の優しくて暖かい瞳は揺るがない。この睨めっこは、どう考えても、我が有能な臣下の勝ちだ。
「ご自身を、大切になさってください」
大山さんは静かに私に言った。
「恐れ多くも、梨花さまは内親王であらせられ、なおかつ、俺の大切な、守るべき美しい淑女なのですから、それにふさわしく、ご自身の身体と心を扱っていただきたく思います」
「か、身体と……心?!」
激しく動揺する私に、
「昨日は、お出来になっていたではありませんか」
大山さんは優しい声で話しかける。
「い、いや、昨日出来てたって言われても……ちょっと何言ってるか分からないんだけど……」
思考が止まってしまった私の前で、
「やれやれ。将来、nを増やせる人間が、他にも出来るといいのですが」
大山さんはまたため息をついて、苦笑した。
「さあ、エスコート致します。早く行かなければ、皇太子殿下もお待ちでしょうから」
「はい……」
頬を膨らませた私は、大山さんに手を引かれながら、木幡山を下りた。
「遅いぞ」
伏見の工兵大隊の駐屯地。馬車から降りると、歩兵大尉の軍服を着た兄が、苦笑しながら私を迎えた。
「ごめん、兄上。木に登ってたら遅くなった」
頭を下げると、兄は声をあげて笑った。
「やはりか。大方、天守台からの景色を見ていたのだろう。お前は小さいころから、木登りが得意だった」
「流石兄上、分かっていらっしゃる」
私が頷くと、
「さて、本陣の跡に行くぞ。少し、時間が押しているようだ」
と言って、兄は私の右手を掴んだ。その声で、私は真面目な顔になり、兄と並んで歩いた。
伏見の工兵大隊の駐屯地。元々は、伏見奉行所が置かれていた場所だ。そして――鳥羽・伏見の戦いで、旧幕府軍の陣が置かれ、近隣にある御香宮からの薩摩軍の砲撃で、炎上した場所である。
「最初に戦端が開かれたのは、これから行く小枝橋のあたりで、その銃声をきっかけに、この辺の戦闘も始まったんだっけ」
旧幕府軍の本陣が置かれたあたりで、兄と一緒に戦死者に祈りを捧げた後、駐屯地の本部で昼食を取りながら、私は兄と大山さんに確認した。伊藤さんもこの場にいるけれど、桂さんは、第4軍管区司令官の北白川宮殿下に会いに行くということで、昨日の夕方に、先に大阪に出立していた。
「確か、そうだったな」
兄が頷きながら言った。「だが、仕掛けはその前から、始まっていたのだったな」
「そうだったよねぇ……」
私は、勝先生が私と兄に話してくれたことを思い出した。
慶応3年、西暦で言う1867年の10月、薩摩藩と長州藩に倒幕の密勅が下されたことを知った徳川慶喜さんは、彼らの機先を制し、政権を朝廷に返上した。政権が自分の手になければ、薩長は幕府を討つ大義名分を失うし、政権を返上された朝廷が、政権の扱いに困って、最終的には自分に泣きついてくるだろう、という読みもあったという。一方、薩摩・長州の人間を中心とした倒幕強硬派は、あくまで徳川家の勢力を排除することを狙っていた。京都でじりじりと政治的駆け引きが続く中、12月下旬、江戸の芝赤羽橋で、庄内藩の屯所が砲撃された。犯人は、倒幕の密勅が下された頃、武力による倒幕を狙い、薩摩藩が集めていた壮士たちだった。そして、江戸城の二の丸も失火により炎上した。
――大西郷が江戸に集めた壮士どもを、大久保あたりが操ったんだろうとは思うが……後から考えると、奴らの挑発に、江戸の留守居役たちが乗っちまったのがすべての始まり、だねぇ……。
勝先生が遠い目をしながら、こう語っていた。
その「挑発」に乗ってしまった江戸城の留守居役たちは、薩摩藩邸を焼き討ちにする。時に1867(慶応3)年12月25日。その一報が、慶喜さんのいる大阪城にもたらされると、大阪城内では「薩摩討つべし」の論が高まり、それを抑えきれなくなった徳川慶喜さんは、翌年元日、「倒薩表」を発して、薩摩藩の武力排除に動き出した。
だが……それは、討幕強硬派の計画通りだった。
「このあたりです。戦端が開かれたのは」
鴨川に架かる小枝橋。工兵大隊の駐屯地を馬車で出た私と兄は、大山さんの案内でその橋のたもとに降り立った。
1868(慶応4)年1月3日、午後5時ごろ。旧幕府軍と薩摩軍のにらみ合うこの小枝橋付近で、戦闘の火蓋が切られた。にらみ合いにしびれを切らした旧幕府軍が、正面から強行突破しようとしたところ、薩摩軍が発砲したのだ。海上では既に前日の2日、兵庫沖で旧幕府軍と薩摩軍の海戦が行われていたけれど、この薩摩軍の発砲で、陸上での戊辰の戦いが本格的に始まった。強行突破しようとした旧幕府軍は、大混乱に陥り敗走した。
「ここは、旧幕府軍も、警戒して進むべきだったと思うが」
「それもそうだけど、何とかして戦端を開かないで欲しかったなあ……甘いのは百も承知だけど」
私はため息をついた。
もしあの当時の倒幕強硬派が、その考えを転換できていたら……根底に流れる「幕府憎し」の思いを捨てられていたら……また違った、血の流れない未来があったかもしれない。けれどあくまでそれは、仮定の話だ。私はお父様の子として、お父様を大切に思いながらも、それぞれの正義に殉じざるを得なかった兵士たちの御魂にお礼を申し上げ、安らかに眠れるように祈るしかない。
花を手向けて祈りを捧げ、近隣にある戦死者の墓地をお参りしながら更に南下して、下鳥羽の、旧幕府軍が急造の陣地を作ったあたりで馬車を降り、また兄とともに祈りを捧げる。ここでは4日に戦闘が行われ、幕府軍は後退を余儀なくされた。
そして、その4日に、決定的な事態が京都で発生していた。仁和寺宮嘉彰親王……小松宮親王殿下のことだけれど、彼が征討大将軍に任じられ、錦の御旗と節刀を下賜されたのだ。この瞬間、薩摩・長州藩と旧幕府軍の「私闘」であった戦いは、「官軍と賊軍の戦い」に変わった。自分たちを“官軍”に、旧幕府軍を“賊軍”にして、大義名分を手にすること……それこそが、倒幕強硬派が最終的に狙っていたことだったのだ。
「俺が突撃を命じたのは、このあたりです」
下鳥羽の更に南、鳥羽街道沿いにある富ノ森。ここでは5日に戦闘が行われた。両軍間で銃撃戦が行われ、戦いは膠着状態に陥ろうとしていた。その流れを変えたのは、砲兵隊を指揮していた大山さんの突撃命令だった。それに他の隊が続き、旧幕府軍は勢いに押されて、更に後退した。時をほぼ同じくして、伏見の南に展開していた旧幕府軍も、壮絶な死闘の末、後退を余儀なくされていた。
(そこに……“錦の御旗”が止めを刺したわけか……)
京都から鳥羽街道を南下し、淀方面に進軍した小松宮親王殿下の部隊には、錦の御旗が翻っていた。薩摩・長州軍との戦いは「私闘」だと考えていた旧幕府軍にとって、薩摩・長州軍が“官軍”になり、それに逆らうことは“賊軍”となることだと知らしめるこの錦の御旗は、絶望のシンボルのように思えただろう。
「滅茶苦茶動揺したんだろうな、旧幕府軍の人たちは……」
富ノ森、ついで、宇治川沿いで激戦が行われた千両松で祈りを捧げ、淀城跡に着いた私は、ため息をついた。
薩摩・長州の軍に錦の御旗が立てられたことを知った淀城の守備隊の面々は、退却する旧幕府軍の入城を拒んだ。時の淀藩主・稲葉正邦さんは、当時幕府の老中で江戸に滞在していた。当然、老中の藩の城であるから、旧幕府側と思われていたのだけど、守備隊が“賊軍になってはいけない”という考えの下、独断で旧幕府軍を入城させなかったのだ。淀に入場できなかった旧幕府軍は、南の橋本に退いた。更に、翌6日には、淀の南、山崎を守備する津藩が、薩摩・長州軍に寝返り、同日夜、大阪城にいた慶喜さんは、軍艦で江戸に戻った。
「それはそうだ。元々、慶喜公は水戸藩の出だろう。水戸藩は我が皇室を尊ぶ心が強かったと聞いている。当然、慶喜公の中にも、その意識はあっただろうな」
兄がこう指摘する。
「その意識を利用したわけか……」
慶喜さんが、戦いの最中、なぜ大阪城から逃亡したのか、前世で歴史を学んだときは、よく分からなかった。けれど、今なら、少しは理解できる。尊皇の志を持つ慶喜さんは、敵軍に翻ってしまった錦の御旗に、「自分が朝敵になってしまった」と、絶望の淵に叩き落とされてしまったのではないだろうか。
「大久保さんや、それから岩倉さんあたりが、本当にそれを狙って錦の御旗を持ち出したのか、確かめる方法はないし、慶喜さんにその当時の心境を聞いても、きっと話してくれないだろうね」
慶喜さんは、今、静岡で隠棲している。謹慎はとっくに解かれているのだけれど、静岡に住み続けているのは、彼なりの考えがあるからだろう。
すると、
「いずれは、上京されましょう」
私の隣に立っている伊藤さんが、ポツリと言った。
「へ?」
「慶喜公ですよ」
伊藤さんは、私に身体を向けた。「“史実”でも、慶喜公は東京に転居しています。明治30年ごろの話だったかと思いますが。“史実”では、わしも何度か、東京でお目にかかりましたし、公爵にもなられております」
「ええと、公爵って……“おおやけ”って書く方?」
「さようでございます。あの方は、実に偉い方です」
深く頷く伊藤さんに、私は「はぁ……」と返すことしかできなかった。
(ちょっと意外だなぁ……)
伊藤さんは長州藩の出身だ。だから、幕府に対して恨みを持っているのだろうと思っていた。
「“信じられない”と思われているようですね」
私の顔をちらっと見た大山さんが微笑する。
「いや、だって、伊藤さんって長州藩出身だし、あなただって薩摩の出身だし、旧幕府に対して恨みを持ってるんじゃ……」
大山さんに答えていると、
「それならば、勝先生と一緒に仕事をしておりませんよ」
横から、伊藤さんがこう言って微笑した。「“上下心を一にして”……それは、今度こそやらなければいけないことですからな」
「確かにその通りだ」
兄が両腕を組んだ。「だが、争いで敗れた者が、その境地に達するのは容易ではないぞ」
「そうだよね。親しい人の命や、自分の財産や地位や名誉を、理不尽に奪われたら、心に傷が残るよね……」
原さんのことが、ふっと頭を過る。彼は、父とも叔父とも慕っていた人を、戊辰の戦いで理不尽に奪われ、故郷ごと“逆賊”の汚名を着せられた。今は“史実”での宿敵である山縣さんともうまくやっているようだけれど、実際の所、彼の心の傷は、まだ癒えてはいないだろう。
そして、心の傷、ということで言えば、大山さんも負っているはずなのだ。討伐軍の中にいた山縣さんと山田さんにも、総理大臣の黒田さんにも、国軍大臣の西郷さんにも、心の傷を作った西南戦争だけれど、一番深い心の傷を負ったのは、慕っていた従兄の西郷隆盛さんを、自分の手で討たなければならなかった大山さんだと思う。その時の彼の気持ちは、恐らく私には、完全に理解することはできないだろう。
「人が理不尽な理由で、心に傷を負う世の中は、いやだな……」
私は呟いた。「傷も治さないといけない。でも、本当は、そんな傷を作らないようにするのが一番なんだ」
「ああ」
兄が頷いた。「……だから、“上医”になりたいのだろう、梨花?」
「そうだね。だから私、“上医”になって、兄上を助けたいんだろうね」
私が兄に微笑むと、兄も微笑んで、私の頭を優しく撫でてくれた。
※靴の下りは、国立国会図書館ホームページ内「本の万華鏡」ページ「第2回 洋靴―足元からの文明開化」を参考にしました。いわゆる「ゴム底布靴」も、アメリカで1870年ごろより生産が始まっていたそうです。猟に使う靴などは、どうやら明治中期でも、靴底に鋲が打ってあったようですが、それ以外の靴の底がどうなっていたかは分かりませんでした……。まあ、このぐらいなら明治中期の技術レベルで製作可能かなと思い投入しました。
※なお、鳥羽伏見の戦いについては、「維新史」「復古記」「戦況図解 戊辰戦争」等を参考にしつつ、話を作るために解釈を違えたところもあると思います。ご了承いただければ幸いです。




