日清争わず
1894(明治27)年10月13日土曜日、午後2時過ぎ。
「以上で、朝鮮情勢の報告を終わります」
梨花会の面々が勢ぞろいした皇居の会議室で一礼したのは、外務次官の陸奥さんだ。
「へぇー、思い切ったねぇ、李鴻章は」
勝先生がそう言って、顎髭を右手で扱いた。「おれ、幽閉までで終わると思ってたんだ、興宣大院君は。あっさり処刑されたな」
清の近代化された陸軍は、6月中旬に漢城近くに上陸すると、東学党の軍を掃討しながら全州に進軍し、全州を陥落させた。軍を実際に指揮していた全琫準だけでなく、教主の崔時亨も清軍に捕らえられ、彼らは9月末に処刑された。更に、彼らに反乱をそそのかしたという罪に興宣大院君が問われ、10月5日に処刑された。
“史実”では、日清戦争がこの8月に開戦している。しかし、日清間で秘密同盟が結ばれ、日本が朝鮮から手を引いているというこの時の流れでは、それが無くなった。朝鮮は日本の影響下ではなく、完全に清の影響下に入ったのだ。
「どうやら、清が朝鮮を保護国とするに当たり、不安要素を少しでも取り除いておきたい、と考えたようです」
大山さんが私の隣で、勝先生に向かって言う。
「なるほど。清の朝鮮公使は、袁世凱で変わってないんだろう?」
「その通りです」
勝先生の質問に、陸奥さんが頷いた。「袁世凱は公使館より、朝鮮王宮にいる時間の方が長くなっているようです。朝鮮国王は、完全に袁世凱の言いなりになっているとか……」
(あれ?)
私は首を傾げた。興宣大院君は処刑されたけれど、彼と長年争っていた閔妃は、どうしているのだろう?
「梨花さま?」
大山さんが、私を見つめているのを感じた。「何か、分からないことが?」
「あ、あのね……」
私は、有能な臣下の方を振り向いた。「閔妃は、どうしてるのかなって思って……」
「確かに、閔妃の政治への影響力は低下しつつあります」
陸奥さんが、私の質問を捉えてこう言った。「袁世凱の下には、近代化された清軍の旅団がおります。清軍の場合、およそ5000人の兵力でしょうか」
(やっぱり、兄上から聞いた通りか……)
「袁世凱が、清軍の武力を背景に、閔妃に圧力を掛けているんですか?」
思わず、陸奥さんが答えるより先に口が動いてしまい、私は慌てて右手で口を押えた。
「ほう」
陸奥さんが、少し目を瞠った。「なぜ、そのように思われました?」
「なぜって……漢城の王宮がどの程度の広さで、どんな防衛設備を持っているかは知らないけれど、近代化された兵力5000人なら、その兵力で王宮を制圧するぐらいは出来そうだと思って」
仕方なく、私は右手を机の上に下ろし、陸奥さんの方を向いた。
「それに、今まで政治の実権を握っていた閔妃が、自分の影響力が低下しているのに黙っているのも、何か理由があるのかな……と考えて、導き出されたのが、袁世凱が“変なことをしたら、この軍隊でお前を殺すぞ”って閔妃を脅してる、という答えだったんですけど……」
「気持ちがよいですね、頭の良い方と話すのは」
微笑する陸奥さんに、私は黙って、事務的に頭を下げた。さっさと話を切り上げないと、陸奥さんが追撃してきそうだ。
「ずいぶんと、殿下に警戒されてしまっている」
私を見て、陸奥さんが軽くため息をつきながら呟くと、
「当たり前じゃ、陸奥君。初対面であれだけやりこまれてはな」
伊藤さんが苦笑で返した。
(その通りです)
私はこっそり首を縦に振った。これ以上突っ込んだ質問をされたら、答えられない。今答えたことは、考えたことがあったから、何とかなったけれど……。
と、
「嘉仁」
お父様が兄を呼んだ。
「はっ」
私の向かいに座った兄が、お父様に頭を下げる。
「これからの朝鮮に関しては、何に気を付けなければならないか、お前の意見を申してみよ」
「恐れながら」
兄は頭を軽く下げながら、堂々とした声で答え始めた。「閔妃の動向には、特に注意を払わなければならないかと。今まで政治の実権を握っていたのに、袁世凱に、いや、清にそれを奪われたのは面白くなかろうと思います。何か策をめぐらして、清軍を追い出し、政治の実権を取り戻すことを考え始めるのではないかと」
「ほう、例えばどのようにだ?」
「清の本国に働きかけて、朝鮮の清軍を引き揚げさせるよう働きかける可能性もあります。また、我が国や、列強の軍隊を引き入れることも考えるやもしれません。いずれにしろ、朝鮮をこのまま清の属国としておくためには、閔妃の動きを封じることが肝要かと愚考します。また、大院君の縁者がいれば、そやつが閔妃と同じように、我が国や他国に近づく可能性もあります。それにも注意が必要かと」
兄が口を閉じると、感嘆の声が一座から漏れた。
「期待以上の回答だ」
お父様の満足そうな声に、
「は……恐れ入ります」
兄は深く頭を下げた。
「あらかじめ考えておったのか」
「考えていたというか……梨花と話し合っていました」
「何?」
お父様が私の方をジロリと見た。
「あ、は、はい!」
カミナリを落とされると直感した私は、反射的に背筋を伸ばした。
「まだ声を掛けておらんぞ、章子」
お父様は、少し呆れたように言った。「まあ、よい。そのまま答えよ。そなた、嘉仁と一緒に、朝鮮情勢について考えておったのか」
「申し訳ございません。未熟な身で、出過ぎた真似を致しました。お許しください」
椅子から立ちあがって、私はお父様に最敬礼した。
「早合点し過ぎだ。謝られてしまっては、褒められぬではないか」
ため息をついたお父様は、兄を、ついでもう一度私を見て、
「考えるのは、日々の学習の、邪魔にならぬ程度にしておけよ。そなたらの本分は学生なのだからな」
と言った。
(た、助かったかな……)
もう一度お父様に礼をして、そっと椅子に腰かける。頭の中では、4日前の夜、兄が私の居間にやって来た時のことを思い出していた。
――今朝の新聞を見たか?興宣大院君が処刑されたな。
兄の算術の宿題と、私の作文の宿題が、予想外に早く終わってしまい、2人でおしゃべりをしている時に、兄が突然こう言った。
――主だった新聞は記事を出していたし、官報の公使館報告にも載ってたから、間違いないよね。
私も頷きながら言った。
――どうなると思う、梨花?
――どうなるってさぁ……すごく曖昧な質問じゃない、兄上?
兄に抗議しながらも、
――まあ、東学党の軍を率いていた人も、東学党の教主も処刑されているから、反乱は完全に終わったよね。
私はこう答えた。
すると、
――いや、まだわからんぞ。興宣大院君が死んでも、その縁者がいるだろう。
兄が深刻な表情で、こんなことを言い始めたのだ。
――確かに……今の朝鮮国王って、興宣大院君の次男って聞いたから、今、生きているかどうかは分からないけど、長男はいるということよね。
――平清盛は、源義朝を討ったが、義朝の子の頼朝・範頼・義経に平家を滅ぼされた。それに、建武の新政が始まった後、北条高時の遺児が擁立されて、反乱を起こしたという故事もある。親を殺された者が、その親を殺した者と、簡単に和睦は結べないだろう。
――ずいぶん古い事例を持ち出すのね、兄上って……。でも、確かに有り得るか。その、興宣大院君の縁者が、日本や列強を頼ったら厄介ね。
――だな。清の、いや、清と我らの目論見が外れるな。
兄は眉をしかめながら頷いた。
――それよりさ、気になるのは閔妃なんだけど……清って、今の朝鮮国王を、完全に支配下に置きたいんでしょ?
私は兄の方に身を乗り出した。
――議長も内府もそう言っていたな。
――閔妃の立場はどうなるの?国王と一緒に、清の支配下に入るの?
――そうではないのか?
――閔妃って、権力を手に入れるためなら、なりふり構わないって伊藤さんから聞いた。閔妃と清の利害が一致してたら大丈夫だろうけれど、一致していなかったら、閔妃と清は、お互いが邪魔になっちゃうんじゃない?
――確かにそうだ。今は、閔妃と清の関係はどうなのだろう?閔妃と清の共通の敵であった東学党は、壊滅してから時間がたつが……。
――東学党が完全に掃討されたのは、8月の中旬だったよね。……そういえば、清軍が漢城から引き揚げたって話を聞かないよ。掃討が出来たのなら、少しぐらい軍隊を引き揚げてもよさそうだけど……。
私が首を傾げると、
――朝鮮には、清の旅団が派遣されていると聞いたな。
兄はそう言って、両腕を組んだ。
――兄上、それ、兵力ってどのくらい?
――清だと5000人ほどだと聞いた。それも朝鮮の軍とは違って、近代化されている。
ここで思い付いたことがあって、私は右の拳で左の掌を打った。
――兄上、わかった。清軍の兵力は、朝鮮にいる袁世凱に必要だから引き揚げないんだよ。
――袁世凱に必要?なぜ必要なのだ?
――閔妃への脅しの手段として。もしかしたら、閔妃は自分自身で権力を握りたいんだけど、“変なことをしたら、この軍隊で殺すぞ”って、袁世凱に脅されてるから、袁世凱の言うことを聞いてるんじゃないかな?
――なるほど。それは理屈が通るな。……梨花の言うことが正しいとすると、閔妃が権力を己のものにするためにしようとすることは、清の本国に、朝鮮の清軍を引き揚げさせるよう働きかけることだな。それがだめなら、我が国や列強に媚を売って、自分の意のままになる兵力を、何とかして増やそうとするかもしれない。
――私たちが持っている情報は、多分限られているから、このまま結論付けるのは危険だけど……可能性は考えておいて損はないよね。
そんなことを話していたら、私が入浴する時間になったので、兄は御学問所に戻ったのだけど……まさか、私たちが考えていたことが、お父様の期待以上の回答になるなんて、思ってもみなかった。
と、
「なるほど、朝鮮を題材に、洞察の訓練をされておられましたか」
隣にいる大山さんが、小さな声で言った。
「大山さん?あなた、伊藤さんのようなことを……」
政治には知識だけではなく、経験と洞察が必要になる……その話を伊藤さんと大磯でしたのは、大山さんが用事で大磯にいなかった時だ。私は大山さんに囁きながら、眉をしかめた。
「輔導主任とは、教育方針を共有しておかなければなりませんからね」
私の視線を物ともせず、大山さんはそう言ってほほ笑む。どうやら、大磯で伊藤さんと話した内容は、伊藤さん経由で、私の非常に有能な臣下に伝えられたらしい。
「……しかし、首謀者が処刑されても、閔妃の打倒を叫んで立ち上がった農民たちは、今のままでは、また反乱を起こしましょう。閔妃に、何の罰も下されたわけではないのですから」
「?!」
私は目を見開いた。そのことは、兄と話し合った時、全く考慮に入れていなかった。
「梨花さまが袁世凱の立場におられるとすれば、ここからいかがなさいますか?」
思考が止まってしまった私に、大山さんはニッコリ笑いかけると、私の耳元に口を近づけて、「後でお答えを、聞かせてくださいませ」と囁いた。
「もっとも、俺にお答えを聞かせていただくまでに、袁世凱の方で、答えを出してしまうかもしれませんが……」
(ちっくしょー……)
こう言われてしまっては、必死に考えざるを得ない。
(北里先生と緒方先生の論文、この週末に読もうと思ってたのに……)
ペスト菌についての論文が載るというので、イギリスの医学雑誌をわざわざ注文して手に入れたのだ。けれど、それを読むのは当分先になってしまいそうだ。私は盛大にため息をついた。
席上の話題は、朝鮮の情勢から、国内のこと……特に、発生が今月の22日に迫った庄内地震に移っていた。
「地震よりも、火事の被害が大きかった記憶があるな。特に酒田町は、8割方焼けてしまったはずじゃ」
“史実”の記憶を持つ伊藤さんがこう言った。
(あー……日本海側って、大火になることが多いって聞いたことがあるなあ……)
伊藤さんと原さんから聞いた庄内地震の発生時刻は、午後5時35分。夕食の準備をしている時間帯だから、火災も発生する危険は高い。
「あそこが“史実”通り焼けちまうとまずいな。酒田には、西回り航路で発展した、徳川時代以来の豪商が集まってる」
勝先生が腕を組んで眉をしかめると、
「確かに、あの資金力は、可能な限り温存しておきたいですね」
井上さんが頷いた。
すると、
「既に、手は打ってあります」
児玉さんがニヤリと笑った。
「手を打った……というと、人死にを極力出さぬような手を、ということか、源太郎」
山田さんが確認する。
「確かに、6月の東京地震は、“臨時の避難訓練”ってことであらかじめ人を避難させておいたから、“史実”より人的な被害は少なくて済んだけどよ」
勝先生は厳しい表情のまま口を動かす。「同じ理由を続いては使えねぇぜ。再来年だって、明治三陸地震と陸羽地震が東北で起こるじゃねえか。その時に不審がられて、こっちの避難命令に住民が従ってくれなかったら、人死にが増える」
「それで、今回は少し変わった手法を取ることにしたのですよ」
児玉さんがいたずらっ子のような笑みを浮かべながら、その“手法”とやらを説明してくれたのだけれど、私にはどうしても、それでうまくいくとは思えなかった。
「ごめんなさい、児玉さん。それ、本当に上手く行くんですか?確かに、あの辺に多い、というのは、私も前世で城郭巡りをした時に、聞いたことはありますけれど……」
恐る恐る手を挙げた私に、
「実際に、山形・秋田の両県には、凄まじい速度で話が広がっておりますよ」
児玉さんは自信たっぷりに答えた。
「いや、百歩譲って、話が広がっているのは無理やり理解するとして、そんな話、信じてくれますかね?」
「増宮さまならば、お信じにはならないでしょう。今よりはるかに文明が進んだ時代で、お過ごしになられた方ですから。ですが、この時代では、そのような類のことも、本気で信じる者が多数いるのですよ」
「私の時代でも、信じる人は信じますけれどね……。私が、そういう話は一切信じないし、全く怖がらないだけで」
輪廻転生も、そういう類の話に入るのだろうけれど、自分の身に起こってしまった事実だから、これは受け入れるしかない。
(だけどこれ……志を持って入定した方々を、こんな風に使ってしまっていいんだろうか……)
そんなことを考えていると、
「勇気があるな。流石俺の妹だ」
兄が私を見てほほ笑んだ。
「勇気がある訳じゃないよ、兄上。ただ、怖い話や幽霊を信じたら、病院でも働けないし、城跡巡りもできないからさ」
私は兄に本気で反論した。
「そういうものなのか、梨花?」
「そうよ。あと、古戦場も巡れなくなるわね。兄上、……まさか怖いの?」
「なめるな。怖くないに決まっている」
兄が少々、ムキになった。「こう見えても軍人の端くれ、その程度のことが怖くて、お前と節子を守れるか!」
「ごめん、兄上。……ちょっとやり過ぎた」
私を睨み付ける兄に頭を下げると、
「懐かしいですな」
西園寺さんがクスクス笑った。「ご一新よりもっと昔の頃の、陛下を見るようで」
「公望!」
お父様が叫んだ。何となく、顔が赤くなっているのは気のせいだろうか。そんなお父様を見やったお母様が小さく笑う。西園寺さんは「失礼しました」と優雅にお父様に一礼した。
「だけど、これ、全員が全員、そんな話を信じちゃった所に、地震が起こったら、後世で伝説になりますね……」
「恐らくそうなるでしょう」
西園寺さんにつられてクスクス笑っていた児玉さんは、笑い声を収めると私に答えた。
「はあ……志を持って入定した方々には、本当に申し訳ないけれど、人命を助けるためだから許してもらいましょう。それはそうと、ちゃんと、救援体制も整えているんですよね?」
「もちろん。発災当日は、酒田町・鶴岡町を中心とした山形県には第2軍管区の、秋田県南部には第7軍管区の兵力が“翌日から対抗演習を行う”と称して展開します。対抗演習に参加させるために、国軍の医務局だけではなく、赤十字社にも医師の派遣を命じているところです」
西郷さんが言う。現時点では、軍管区は日本全国で8つある。伊藤さんと原さんによると、“史実”の“師管”という区分と考え方は似ているそうだけれど、その数や、どの県がどの軍管区に所属するかなどは、“史実”と違っているということだ。ちなみに、山形県は第2軍管区に、秋田県は第7軍管区に属している。
「舞鶴からも軍艦を救援で派遣しますが……例の揚陸船を初めて運用する予定です」
山本さんの言葉に、一同からどよめきが漏れる。舞鶴は、ここ数年で、軍港としての整備が進んでいる場所だ。
(あれか……)
2年前のお正月に、山本さんが“開発を検討している”と言った、艦首が陸に向かって倒れる上陸用舟艇……本当に形になってしまったらしい。
「ある程度は、秘匿しておいた方がよかろう」
「無論です、山縣閣下。今は皇帝陛下の病が篤いゆえ、極東に気を向けるどころではないようですが、ロシアに知られれば、面倒なことになるかもしれません。他にも、大山閣下や松方閣下と協議して、ロシアに対する策は巡らせておりますが……」
山本さんは、山縣さんに向かって一礼する。
(ロシアねえ……)
日清の間で秘密同盟が組まれ、日清戦争が起こらないこの状況で、日本と清の仮想敵国はロシアになる。ロシアの皇帝・アレクサンドル3世は、今年の初めから腎臓病を患っているけれど、いよいよ病状が重篤になってきた、という話を、一昨日大山さんから聞いた。もちろん、透析なんてできない時代だから、恐らくこの病が、皇帝陛下の命を奪うことになるのだろう。アレクサンドル3世の後は、ニコライ皇太子が継ぐことになる。
(仮想敵国は、仮想敵国のままで終わってほしいな。大体、戦争になると、けが人や病人が増えて、医療関係者の仕事が増えるんだから。日本の自主独立を侵されず、世界の平和が続くのが一番、なんだけど……)
でも、仮想敵国という言葉から、“仮想”が取れる可能性だってある。それは戦国時代なら当たり前のことだし……そして、今生でも、前世でもそうだ。
(そうなっちゃっても、出来ることをやらなきゃ。兄上のためにも、お父様のためにも、……国を医すためにも)
「梨花さま?」
隣から呼びかけられて、私は大山さんの方を振り向いた。
「何か考えておいでですか?」
少し心配そうな表情を浮かべる彼に向かって、
「そうね。結論としては、“出来ることをやらなきゃ”ってことになった」
私は微笑んだ。
※さて、児玉さんがどんな噂を振りまいたか……答えは閑話で。




