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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第14章 1893(明治26)年秋分~1894(明治27)年清明
101/797

横須賀

※読み仮名ミスを訂正しました。(2020年4月15日)

 1894(明治27)年4月5日木曜日、午前11時。

(ほへー……)

 私は兄とともに、横須賀港にいた。私たちの前には、軍艦“千代田”が停泊している。

「いかがですか、お2人とも」

 私たちの隣には、軍装をまとった親王殿下がいる。親王殿下は今、この“千代田”の艦長をしていた。ちなみに、私たちの周りには、大山さんと伊藤さん、山本さんもいる。春休みを利用して、兄と一緒に伊藤さんの大磯にある別荘……ではなかった、本邸に滞在することになったのだけれど、大磯に行く途中で横須賀に寄って、軍港を見学しているのだ。

「圧巻ですね、義兄上(あにうえ)

 兄が港内を見渡しながら言った。今日は軍港の見学なので、兄は海兵中尉の軍装だった。一方の私は、海老茶色の女袴に、薄い桃色の着物だ。髪に結んだ紅いリボンは、兄がバレンタインに贈ってくれたものである。

「増宮さまはいかがですか?」

 親王殿下が私に更に問いかける。周りに、“梨花会”ではない人がいないことを確認して、

「前世でもこのぐらいの大きさの船は乗ったことがありますけれど、軍艦は前世では見たことがないから、新鮮ですね」

と私は答えた。

「そうですか、それは良かった」

 親王殿下が満足げに頷くと、

「ちなみに、乗られたのはどのような船だったのですか?」

山本さんが横から会話に入ってきた。

「フェリーですね。旅客と自動車を同時に運べました。まあ、もっと大きな船を見たことがありますけれど」

「大きな船?それは“富士”と同じぐらいでしょうか?」

「“富士”って、今イギリスで建造している軍艦でしたっけ……どのくらいの大きさですか?」

「トン数で言えば、およそ1万3千トン弱ですが……」

「小学校の社会科見学で名古屋港に行った時に見たのは、5万トンぐらいだったかしら」

「はあ……何隻かで合わせて、でしょうか?」

「違います、山本さん。一隻で5万トンです」

「は?!」

 私の答えに、山本さんは目を丸くした。

「そんな時代になるのですか……」

 親王殿下が両腕を組む。「よいですね、5万トンの船ですか。操艦して、大海原を航海してみたいものです」

義兄上(あにうえ)は、本当に海がお好きですね」

 兄が微笑すると、

「それはもちろん、私は海兵大佐ですから」

親王殿下は深く頷いた。「息子の栽仁(たねひと)にも、是非私と同じ道を歩んでもらいたいものですが」

「大兄さまの息子さんって……まだ学習院(がっこう)に上がっていないじゃないですか。流石に将来を決めてしまうのは早すぎませんか?」

 私がツッコむと、

「とは言え、増宮さま、皇族の男子は国軍に入るものと決まっておりますから」

親王殿下が言い聞かせるかのように答えた。

「そうですよね……」

 私は渋々頷いた。どうも、皇族が軍人になるというのが、前世の感覚が抜けきっていなくて慣れない。まあ、皇族なのに医者になろうとしている私の方が、この時代の人たちにとっては、常識を遥かに飛び越えてしまうような存在なのだろうけれど。

「ところで、山本閣下、栽仁は元気ですか?」

「お元気ですよ。成久(なるひさ)王殿下や輝久(てるひさ)王殿下、それに鳩彦(やすひこ)王殿下や稔彦(なるひこ)王殿下とも、仲良く遊ばれています」

 親王殿下と山本さんのやり取りを聞いた私は、首を傾げた。

「あの……なんで山本さんが、栽仁殿下のことを知っているんですか?」

 確か、2月の末からつい昨日まで、親王殿下は練習航海に出ていたはずだけれど、それだけでは説明がつかない。疑問に思っていると、

「実は、山本閣下には、栽仁の教育顧問をしていただいているのですよ」

親王殿下がニッコリ笑った。

「は?!」

「ちなみに、桂さんは北白川宮家の、源太郎は久邇宮家の教育顧問を仰せつかっております。どちらも、栽仁王殿下と年の近いお子様たちがいらっしゃいますからね」

 山本さんがそう言って胸を張る。

「な、何でですか?」

 すると、

「原因を作っておきながら、何を言っておられますか」

伊藤さんが顔に苦笑いを浮かべた。

「原因を作った?私が?身に覚えがありませんよ?」

 眉を顰めると、

「バレンタインのお返しの菓子器の意匠を、名古屋城の天守閣にしたお方に言われても、説得力がありませんな」

伊藤さんはそう言って、今度はクスッと笑う。

「何ですか、何か文句でも?」

 バレンタインには、たくさんの人から贈り物をもらってしまったので、お返しをしなければ示しがつかないだろう、と思い、両親と兄、それから“梨花会”の全員とニコライ皇太子に金平糖を贈ることにした。そこに、花松さんが「ただ贈るだけではなく、もう少し工夫が必要ですよ」と忠告してくれたのだ。

――天皇陛下と皇后陛下は、3月の大婚25周年の記念に、蓋に鶴と亀の意匠を付けた銀製の菓子器を配られると聞きました。増宮さまも、それと同じような菓子器を注文されて、その中に金平糖を入れて贈られたらいかがですか?

 そう言われたので、名古屋城の大天守と小天守を模したデザインの銀製菓子器を作ってもらうことにしたのだ。花松さんは、「ニコライ皇太子にも贈るから、日本独特の意匠にするのが一番喜ばれると思います」と言って言いくるめた。

「いいじゃないですか。“史実”では、名古屋城の天守閣は空襲で無くなるんですから、後世にその姿を残しておくんです。それに、菓子器を贈ったのが、前世では名古屋で生まれ育った、城郭マニアの私だというのが、“梨花会”のみんなに分かるじゃないですか」

「それは確かにそうなのですが、増宮さま……」

「今、華族の間では、学習院に通う子弟に、軍人の教育顧問をつけるのが流行しておりまして」

 山本さんが苦笑しながら、伊藤さんの言葉を引き取る。「学習院の生徒の間で、増宮さまの雷名が轟いておりまして……それに生徒どもが怯えておりますので、不甲斐ないと見た親が、“増宮さまに負けるな”と、軍人の教育顧問を付けて鍛えようとしているのですよ」

「らしいな。南部の家にも、東條という怖い教育顧問が付いたとかで、南部が“週末に家に戻りたくない”とこぼしていた。全く……、梨花に怯える方がどうかしていると思うが」

 兄がそう言ってクスリと笑う。

「“剣の腕が立ち、天才的な頭脳と軍才を持ち、おまけに天眼を持つ美貌の女牛若。男であれば立派な大将になるだろう”と……学習院では評判のようですよ」

 親王殿下の言葉に、

「ああ、(たかし)も言っておりましたな」

大山さんも微笑する。高さん、というのは、大山さんのご長男で、学習院の初等科の2年生だ。

「なんですか、そのデマは……」

 私は呆れた。「実物と接したら、そんなのはデマだとわかるでしょうに!はあ、私の時代もそうだったけれど、日本人って、どうして、情報に踊らされやすいのかしら……」

 前世で勉強した知識があるから、多少は頭がよいように見えるだろう。けれど、剣は同年代男子の平均よりは強いとは言え、兄のご学友の毛利さんには負ける。それに、軍才や神通力なんて持ってないし……。

 すると、

「そうですね」

大山さんが深く頷きながら相槌を打った。

「ですから(おい)は捨松と一緒に、“増宮さまは武勇には優れておられるけれども、素晴らしい淑女(レディ)だ”と高に言い聞かせております」

「……っ!」

 大山さんを睨んだ私を、彼はじっと見つめた。あのいつもの、優しくて暖かい瞳だ。

(ああ、もう、その目で見られたら……)

「大山さん、恥ずかしいよ、それは……。お転婆だの、女らしくないだの、散々言われているのに……」

「世上でどう言われようと、(おい)にとっては、梨花さまは(おい)が守るべき、立派な淑女(レディ)でございますよ」

 顔を赤くした私に、大山さんが微笑みかける。

「あとは、娘らしいことに慣れていただければ、我が皇室が誇る内親王殿下になられましょう。大山さんの指導の下、是非頑張っていただきたいものですな」

 ニヤリと笑った伊藤さんに、私は言い返せなかった。


 一通り港を見学した後は、横須賀軍港の司令部で昼食となった。

「そう言えば、さっき話に出た“富士”って、第2回議会で成立した予算で建造した軍艦ですよね。いつ日本に来るんですか?」

 食後のお茶まで出て、給仕さんたちを食堂から立ち去らせて人払いをしたところで、私は山本さんに尋ねてみた。

「来年の年末ごろでしょうか」

 山本さんはそう答えて、お茶を一口飲んだ。

「あれ?」

 私は首を傾げた。確か、去年の1月、大磯で伊藤さんから“第2回議会で成立した予算で建造する軍艦が、1894年の春ごろに進水する”と聞いたような記憶がある。

「あの……もしかして、“史実”と同じように、資金不足になって、“富士”の建造が遅れているんですか?」

「いいえ、予定通り進んでおりますが」

「え?でも、予定通りなら、今年の春に進水するって伊藤さんに聞いたから、そろそろ日本に向かって出発していてもおかしくないですよね?」

 すると、

「ああ、わかった」

兄が微笑しながら頷いた。「梨花、お前が勘違いしている。軍艦が進水したというのは、完成したということではないよ」

(はにゃ?)

 私の頭の回転がストップした。

「つまりですね」

 親王殿下が、私を見ながらニヤニヤしている。「船というモノは、進水してから、機関を取り付けたり、船室の工事をしたりするのです。ですから、進水したら完成するというものではありません。様々な工事を終えて竣工して初めて、船が完成したと言えるのですよ、増宮さま」

「は、はあ……そうなんですか……」

 私はとりあえず頷くしかなかった。前世で、船について詳しく勉強したことはないから、そんなことは全然知らなかった。

「じゃあ、お金が足りなくて工事が進んでいない、という訳ではないんですね?」

「それは大丈夫です。むしろ、予算については大分節約できました」

 山本さんが微笑した。「“富士”の建造費は、およそ950万円になりました」

(あれ?)

 戦艦一隻を建造するのに、1000万円かかると聞いたけれど……。

「お安くなりました?」

 山本さんは微笑したまま答えてくれない。何となく、微笑に凄みが漂っているのは気のせいだろうか?周りを見渡すと、伊藤さんも親王殿下もニヤニヤしている。大山さんは、軽くため息をついたように見えるけれど……。

「何か知っているようだな。……というよりは、卿ら、何をやったのだ?」

 兄が一同をジロリと見渡すと、

「実は……」

大山さんが兄に首を垂れた。

「お恥ずかしい次第なのですが、この軍艦発注に関する帳簿等を精査して、関係者を追及したところ、軍艦や兵器の発注費が水増しされ、その差額が、受注企業から国軍の関係した将官に“謝礼”という形で渡っていたことが明らかになりました」

「え……?!」

(それって、不正が行われてたってことだよね?!)

「しかも、国軍合同以前から、旧陸軍・旧海軍問わず、です。確定して、黒田閣下や西郷閣下に報告したのは一昨年の初夏……我々が増宮さまに、山縣閣下のお宅でお目にかかった直前でしたか」

 山本さんの言葉に、

「え?!」

私は目を丸くした。そう言えば、山縣さんの家に行った時、先に食堂に入っていた山本さんや黒田さんたちが、何となく厳しい表情をしていたけれど……もしかしたら、その時に、この件を報告していたのか。

「とりあえず、“富士”に関しては関係者を処罰し、過去の不正に関わった無能な将官どもに関しては、予備役に追いやりました。“富士”を建造しているテームズ鉄工所にも厳重注意しまして、見積もりを改めて取り直したところ、約950万円という額になりました。まあ、不正に関わった将官を予備役に回した分、人件費が浮きましたから、相当な国家予算の節約になりましたな」

 更に説明を加えた山本さんは、本当に楽しそうな笑顔を見せた。

「陸軍大臣を務めていた頃から、どうもおかしいと思っておりました。国軍合同で、役職の数も減りましたから、いい人員整理の機会になりましたが、……しかし、本当に許しがたきことです」

 大山さんが下を向いて唇を結んだ。彼の身体から、明らかに怒気が漏れ出ていて、私は思わず身を引いた。

「閣下、大山閣下、その辺で。増宮さまが怯えていらっしゃいます」

 親王殿下の声に、大山さんは慌てて顔を上げ、私の方を向いた。

「失礼いたしました」

「いえ……私こそ、修業が足りなくてごめんなさい。とにかく、大山さんが不正を憎んでいることはよく分かった。私も同じ気持ちだよ」

 頭を下げた大山さんに、私はそう言って微笑を作った。

「大山閣下は、大臣をなさっていた頃から、贈られてきた賄賂の類は、全ての包みに贈り主の名前を書いて応接間に陳列し、その後、贈り主に返送されておられましたからね」

 山本さんが横から付け加える。

「その話を聞いて感心したのだ。賄賂を応接間で他の客人に晒された上で返却されては、贈った主も恥じて、引き下がるほかない」

 伊藤さんが頻りに頷いた。「しかも、今回の将官の人員整理は、“史実”では日清戦争の後になされたものだ。行われた理由は違うがな。更に言えば、増宮さまが以前おっしゃった、ジーメンス事件の温床を破壊したことにもなろう。もちろん、不正や汚職は、常に政治に付きまとうものだから、引き続き取り締まっていかなければならないが」

(ああ……)

 そう言えば、山本さんが“史実”で初めて組閣した時に、内閣を崩壊させた原因になったジーメンス事件は、確か兵器の発注時に、海軍の高官が多額のリベートを受け取ったというものだった。同じような汚職が、明治時代にも行われていたかどうかは知らないけれど……。

「恐ろしいな、卿らは……。今の禍根だけではなく、20年、30年先の禍根まで断ったというのか……とても思い付かぬ」

 話を一通り聞いた兄が、呆然としている。

(確かに……)

 打つ手が、先々によい影響を及ぼしていく。こんな鮮やかな手は、将棋でもなかなか指せない。陸奥さんの言う通り、“梨花会”の皆は、頭の中に政治の将棋盤でも持っているのだろうか。

(あ、あれ……?)

 まただ。この、何かが繋がっているような感覚。一体何なのか、それが何を意味するのか、全く分からない。考察を深める間もなく、

「ところで、増宮さま、壊血病の予防物質の研究ですか、あちらはどうなっておりますか?」

山本さんが私に尋ねたので、私は考えるのを止めなければならなかった。

「ああ、ビタミンC、じゃない、Bですね。……ごめんなさい、上手く行ってないんです」

 私はため息をついた。

 温州ミカンからビタミンBを抽出する実験は、森先生が中心になって行われている。ビタミンB……つまり、“史実”でのビタミンCは、水溶性で破壊されやすく、熱にも弱いということは知識として知っていたけれど、ミカンの水抽出物を投与したニワトリでも、水抽出物の残渣を投与したニワトリでも、壊血病に似た症状が全く現れないという結果が出てしまった。もし、ミカンのビタミンが抽出作業によって破壊されているとするならば、両群のニワトリで壊血病の症状が出てくるはずなのだけれど……解釈不能な結果が出てしまい、今、医科分科会の面々で頭を悩ませているところなのだ。

「……そういう状況だから、私たちもお手上げになってしまっているんです。だから、ビタミンの抽出は後回しにして、冷凍庫を船に備え付けてもらって、冷凍ミカンを常備してもらった方がいいかもしれない。確か、業務で使う、製氷用の冷凍庫なら、この時代でもあるのよね?それを軍艦に備え付けてもらうとか……」

 去年の夏、本当に暑い時に、冷房用の大きな氷の柱を、花御殿の自室に備え付けてもらったことがあった。夏場に氷があるのが不思議で、花松さんに聞いてみたら、業務用の製氷ならこの時代でもできることが分かったのだ。

「冷凍船自体はあると聞いたことはありますが……」

「ああでも山本さん、軍艦に冷凍庫なんて備え付けたら、もしかしたら積載量オーバーになって船が沈んじゃったり、復元性が悪くなったりするかもしれないし、そもそも今の冷凍技術ってどのくらい進んでいるのか……ミカンだけじゃなくて、色々な野菜も冷凍出来たらそれに越したことはないし……いやでも、冷凍庫を付けるお金のことを考えたら、もしかしたらビタミン抽出を頑張って進めた方がいいかもしれないし、冷凍庫が無理なら冷蔵庫……」

 両腕を組んでブツブツ呟いていると、

「梨花」

「梨花さま」

兄と大山さんが同時に私を呼んだ。

「え?あ、はい」

「落ち着け。気持ちは分かるが、だんだんお前の言っていることが“まにあ”になっているぞ。義兄上(あにうえ)も議長も国軍次官もついていけておらんし、俺も分からん」

「あ……」

 私は周囲に目を配った。確かに、親王殿下も伊藤さんも山本さんも、あっけにとられたような表情で私を見つめている。

「ごめんなさい、私、つい夢中になってしまって」

 慌てて頭を下げると、

「いえ……とにかく、増宮さまが、国軍の糧食について並々ならぬ関心をお寄せくださっているのは分かりました」

山本さんが少しほっとしたような表情になった。

「ここ半月ほど、医科分科会で激論を交わしておられましたからね。(おい)が口をはさむ隙が、全くありませんでした」

 大山さんも苦笑する。「しかし梨花さま、先日から話を聞いていて思ったのですが、そのビタミン、破壊されやすいのであれば、花御殿ではなく、医科研で動物実験をされる方がよろしいのでは?今は、医科研でビタミンの抽出をして、それを花御殿に持ち込んでいらっしゃるでしょう」

「確かにそうね……」

 医科研は、花御殿から2kmぐらい離れた麹町区富士見町、陸軍軍医学校の跡地にある。確かに、ビタミンが移動中に分解されてしまう可能性もゼロではない。

「だけど、医科研だと、ニワトリを使った実験は出来ないから、他の動物を使うしかないな……モルモットとかハツカネズミとか」

「確かに、確実に、壊血病を起こす動物を探される方がよろしいとは思います」

「?」

 首を傾げた私に、

「梨花さま、梨花さまの時代で言う“ビタミンC”は、玄米には含まれているのですか?」

大山さんはこう質問した。

「多分含まれないと思うけれど……」

「そうですか。それならば、脚気実験の時に既に、ニワトリに壊血病が起こっていてもおかしくないと思いますが、それはどう説明すればよろしいのでしょうか。確か、梨花さまは、“ビタミンは、生物にとってなくてはならない微量物質だが、生物の種類によって、ビタミンである物質とそうでない物質が違う”とおっしゃっていたように記憶しておりますが……」

「!」

 思わず私は立ち上がった。

 ビタミンA……“史実”のビタミンB1の実験をしていた時は、ニワトリでもビタミンB1を抜いたエサで脚気を起こすことができた。それは、ビタミンB1が、人間でもニワトリでもやっている、酸素を使った糖代謝に関わる物質で、それを人間もニワトリも、十分に合成できないからだ。けれど、コラーゲンの形成に関わるビタミンB、つまり“史実”のビタミンCは……。

「コラーゲンの形成は、ニワトリだってしているはずだけれど、玄米だけでニワトリを育てた時、壊血病の症状は起こしていなかった……もしかして、ニワトリってビタミンCを外部から摂取しなくても生きていける生物……つまり、ビタミンCを合成できる?!」

(うう……私のバカっ!)

「梨花?」

 頭を抱えた私に、兄がずいっと近寄る。

「兄上、ごめん、ちょっと自分の馬鹿さ加減を呪いたいから、このままほっといて……」

 思いっきり顔をしかめながら私は答えた。

 迂闊だった。玄米にビタミンCが含まれていないことに思い至って、きちんと考えればわかることだったのに、無駄な実験をしてしまった。

「ああ、もっともっと、医学のことを勉強してから死ぬんだった。政治や経済のこともだけど……」

「それでも構わないと、以前了介どんも言っていたではないですか」

 大山さんが優しい声で言う。「ニワトリでは壊血病の実験はできないと分かっただけ、よいではありませんか」

「そうだけれど……でも、知識のある分野で失敗してしまったから、悔しくて……どうしたら、あなたたちみたいな鮮やかな手が打てるんだろうって……」

「何事もご経験でございます」

 大山さんが微笑した。「原どのも以前言っていましたが、“地に足を付けて考えること”……ご存じの未来の知識をこの世に還元するだけではなく、ご自身の頭で、新しいことをしっかり考えなければいけない時期になったというだけですよ」

 大山さんはまた、優しくて暖かい視線を私に送る。

「時間はまだあるのです。千里の道も一歩から。それをお忘れなきようにお願いいたします」

 大山さんの瞳の光が、騒めき、跳ね上がった私の心を優しくなだめ、あるべき地平にそっと着地させる。その心に、彼の言葉が、じわりと響いていった。

「そうだね……そういうことか。はあ、本当に未熟だな、私は」

 苦笑いを浮かべて、ため息をついた私の頭を、

「ふふ……俺も梨花も、まだまだのようだな」

兄が優しく撫でた。


※栽仁王殿下の学習院初等科の入学年が実際とは違っていますが、拙作では1894(明治28)年9月入学という設定で書かせていただきます。ご了承下さい。


※ジーメンス事件は「シーメンス事件」とも呼ばれますが、拙作では「ジーメンス事件」と呼称させていただきます。なお、この時代に兵器発注に関して不正があったというのはフィクションのつもりですが、賄賂がかなりあったのは本当のようです。大山さんのエピソードは『大山元帥』(西村文則著)から引っ張りました。


※冷凍運搬船は、1880年代には出現しており、この時代でも商業用の製氷機はあるようです。ただ、家庭用の冷凍庫はまだ出現していないと思われます。なお、日本海軍で冷凍庫が備え付けられたのは1902年に建造された“三笠”が初めてのようです。(「戦前の舶用補機械発達史(その1甲板機械その他)*」日本舶用機関学会誌.第21巻第6号)


※実際のビタミンCは、合成できない動物は人間などごく一部で、ニワトリは作中でも触れたように、自分でビタミンCを合成できます。流石に章子さんがここまで知識として持っているのか疑問に思い、こういう展開としました。

ちなみに、実際には、最終的に同定されたのは、牛の副腎、そしてパプリカでの実験によりますが、ここまで章子さんは知らないはず。さて、「森先生は」この世界線でビタミンC、じゃない、ビタミンBを発見できるのでしょうか?


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