35話:歩けば血だらけになるガラスの靴はいらないのです
✦~✦5月18日✦~✦
「わたくしは女官長のメリルと申します。夫はライト子爵でございます。殿下より、アルテ侯爵家のお嬢さまのお世話を申しつかっております」
エメラルド宮に到着するや否やだった。
金髪を巻き上げた恰幅の良い子爵夫人を筆頭に女官たちが現れて、明日の謁見に備えた作法の確認と衣装合わせが始まった。
「けっこうな手土産を頂戴いたしました。お気遣いありがとう存じます」
メリル女官長は先に届けさせた差し入れに触れ、「第二王女さまがお好きでいらしたスイーツでございました。僭越ながら申し上げますと、よくお調べになられましたね」とアウリアを褒めた。
人気スイーツではあるが高級品というわけでもない。
その点を懸念していたが、最終的にはここが王太子の居城である点を鑑みて、サラの助言に従ったのだった。
(差し入れは相手を慮ることで、ただ高級店の菓子であればよいわけではないのですね)
分刻みのスケジュールが用意されていたが、アウリアの歩き方を見た女官長は卒倒しかけた。
「お嬢さまはご存じではいらっしゃらないようですが」
と、女官長は控えめながらも、由々しき問題とばかりにアウリアに教えた。
貴族はみな、デビュタントに向けて徹底的に歩行レッスンを行う。
ダンスレッスンより重要で、謁見の広間を再現した部屋で練習して挑むのだった。
女官長は、アウリアが今夏デビュタントに参加する予定である、と筆頭補佐官レンから聞かされており、歩行指導は予定に組み入れていなかった。
ところがアウリアは、執務室前を早足で通りすぎる専門官のようにキビキビしていて、貴族らしさが感じられないのだった。
アウリアも冷や汗を流した。
急遽、陛下が座る位置まで再現された謁見室が再現され、入口から停止位置までを何度も往復するという歩行レッスンが始まった。
お辞儀は水準に達していたが、顔を上げる角度、微笑むタイミング、声の出し方や抑揚の調整など、細やかに指導が入った。
求められるのは洗練された所作と優雅さ。
大量の本を詰め込んだ鞄を持って、講義に遅れないよう走り切る体力は必要ない。
美しい姿勢を維持する筋力がすべて。
ドレスに見えない二本の足の形すら決まっていて、それが魅せることにつながるのだった。
用意されたドレスと宝飾品を身につけると、緊張度が上がって、歩き方がぎこちなくなる。
ドレスは内臓や骨を破壊するようなウエストを絞る文化は廃れたが、一方でスタイルのごまかしができないので、多くの貴族女性はダイエットに励む。
アウリアは最近こそスイーツをいただく日々だが、学生時代は贅沢なのでほぼ口にしていなかった。
痩せていた身体が少し整ってきたが、ドレス合わせのとき、ウエストのサイズ調整が続くので、女官長が心配そうにした。
「失礼ながら、この日のために無理なダイエットをなさいましたか?」
「いえ。最近は食べすぎなくらいです。問題ありません」
力こぶを作ってみせたら、
「それはけっこうでございます」
と、冷ややかな視線が向けられた。
(けっこうって、どっちの意味なのでしょうか。筋肉は見せなくていい? それとも筋肉があってよろしいですね?)
夜も徹底して歩行レッスンだった。
アウリアも両親が存命のころは、貴族令嬢のしつけを受けていいた。
5歳で陛下に会ったときも、生意気発言はともかく、アウリアのマナーは子どもながらに完璧だったのだ。
10年以上もデュオクロスで自由を謳歌した代償は、こんな形で表れたということだ。
練習を終えたのは20時を過ぎてからだった。
案内されたのは先日通された場所で、王太子妃に内定した方が滞在する部屋だった。
湯浴み専門の女官たちに、温泉のような大きな浴槽で身体をマッサージされ、足のケアを受け、即効性のある軟膏で靴擦れを治した。
一瞬で痛みも傷も消える優れものだった。
(はああ、無駄すぎる。時間の無駄。美を競うコンテストにでも出るのですか!? 歩行レッスンで古語が読めるようになるか! 美しさを磨いて異世界の謎が解けるか!)
アウリア、孤高の叫びは辛うじて胸の中にしまわれた。
寝室は上の階だった。
部屋の中にこれまた芸術的な階段があって、サラが廊下を走っていた。
その様子にアウリアはホッとして、今日初めて笑った。
「どうしたの?」
「ピオニーが退屈しておりましたので、かくれんぼをしていたのですが、申し訳ありません。こちらの部屋から脱走したようです」
今日の練習にはサラもピオニーもおよびではなく、自由に過ごしてもらっていた。
「ん……ひょっとして、殿下の居城なので、竜になって飛んでいったかもしれません。心配いらないと思います」
「竜の姿で飛び回って、騒ぎにならなければよいのですが」
「殿下が何とかするはずです。少しは困ればいいのです!」
「……アウリアさま、お疲れですね」
「はい」
アウリアは脱力し、サラにも休むように言った。
寝室はバルコニーがあり、池の庭が一望できるようになっていた。
テーブルには一口サイズのお菓子とワインが用意されていた。
「うわ~カレア産の白ワイン!」
王家直轄領カレア領はワインの産地。
芳醇な香りから癖のあるワインまで。広大な領地で取り扱うぶとうの品種は古代から王家が引き継いだもので、すごく味わい深い。
中でも白ワインはフルーティーな感じで、飲みやすい。
バルコニーへ出ると、月が、煌々と輝いていた。
ヒスイ山脈の峰々を遠景に、ぽっかり浮かぶ月の丸さに驚く。
満月夜。
庭には銀紫の小ぶりな蓮の花が池一面に浮いて、それは神秘的で美しい光景だった。
アウリアはテラスにあるテーブルにワインを運び、長椅子に身を横たえた。
優雅な気分で、ワインをグラスに注ぐ。
「ふふ、リゾート気分」
(楽しまなければ損なのです)
ワインをごくごく水のように呑みながら、壮大な池庭を眺めた。
パールシア王国貴族の好みは、芸術的に刈り込まれたトピアリーや、整然と並ぶ幾何学的な花壇。自然をも支配しようとする造形美。
目の前の庭も、生け垣中央に大きく配置された長方形の池を挟んでのシンメトリー。
──と、夜風がアウリアの前を吹き抜けていった。
次の瞬間、アウリアの前にユリアスがふっと出現した。
「きゃ……(もごもご)」
悲鳴を上げそうになったとたん、頭に乗った小さな竜の翼が口元を覆った。
「きゅう⤴きゅっきゅるぅ⤴」
ご機嫌なチビ竜の鳴き声がして、アウリアはワイングラスを置いて、じゃれあった。
「悪戯っ子め~」
「静かにいたせ」
「何が静かにいたせなのです! ここは女性の寝所ですよ!」
ユリアスは知らん顔で、ワインボトルを見て面食らう。
ほぼ空だった。
アウリアは二本目に手を伸ばしたが、ズルッと滑った。
すでに酔いが回り出していたが、月が一つに見えているので大丈夫だと判断した。
(お兄さまが言っていたのです。酔うと月が二つに分裂すると)
「ひどいのです!」
「いきなりだな」
「陛下&公爵家の対策ができていないのですよ」
「アンド? いやまあ、そう気負うことでもあるまい」
ユリアスの神に愛されたような美麗な顔を見て、アウリアはキレた。
チビ竜はユリアスの頭の上だし、自分は筋肉痛で足がぴくぴくしている。
「世界最高峰の能天気なお坊ちゃんめ」
ユリアスがぎょっとした。
目を丸くしてアウリアを見る。
「何が良かったなああああですか! こっちは、釈明が大変、ひっく、すよ。駆け落ちは、お兄さまがわたしを王太子妃にしようと画策したものではないって、アルテ兄妹は腹黒ではないと証明しなければ、爵位を剥奪されて、お兄さまが守ってきた家が、おとり潰しっす、ひっく」
「そんなことはさせない」
「どうやって? 魔力で人の噂を吹き飛ばせますか? 結界でも張って耳を塞ぎますか? 脅迫して黙らせっくっひ」
「アウリア、怒っているのか?」
アウリアはしゃっくりを止めるためにも、二本目のワインのコルクを抜いた。
「きゅぅ?」
ピオニーがアウリアの肩に乗った。
「あら、居心地の悪いっ、わたしの肩に乗らなくてもいいっすひっく」
「キュゥゥゥゥ」
アウリアはぶつぶつ言った。
「お兄さまだけが悪者になるのです。王太子とレティシア嬢の結婚が既定路線の人たちからすれば、レティシア嬢を責めたら、完全に王太子との婚姻が潰れてしまうので、責めることができないっひっく」
「アウリア」
「考えをまとめているのです。邪魔しないでください。ここは、わたしに与えられた宿泊用のお部屋で、殿下の部屋ではないのっす」
「わかった」
「ドレイヴェン公爵夫妻だって、あの単細胞だって、レティシア嬢を守るためなら何でもするはず。お兄さまを貶めてわたしを罵倒すればいい──」
ユリアスはアウリアを刺激しないように見守ったが、彼女の不安はわかっていた。
アウリアからすればモグラ邸での楽園生活を奪われた挙げ句、兄から託されたレティシア嬢の命を守るために頑張っているはずが、その両親から攻撃されかねない上に、新たな王太子妃候補としてユリアスに指名されている。
心配してユリアスもやってきたのだ。
アウリアはワインボトルをラッパ飲みすると、バルコニーの手すりに背を預けた。
満月の光のような金の髪を風に揺らしながら、室内シューズを脱ぎ捨てて、ふらふらしている。
「アウリア、座れ。誰にもそなたを責めさせはせぬ。アルテ侯の人柄の良さは、社交界では知れわたっている」
「たんぽぽ侯爵~」
ユリアスは吐息をつき、アウリアの前に膝をつく。
「なに?」
「足」
アウリアは、ふふ、と笑いながらユリアスの膝に足をのせると、脱げた室内シューズを履かせた。
「冷えてるぞ」
「ガラスの靴なんていらないのです。そんな、歩けば割れてしまうような靴なんて。破片で血だらけになるのです」
「ガラス?」
ユリアスが顔を振り上げると、アウリアは池に顔を向けた。
「蓮があるなんて、素敵なお庭です」
「そうか。その蓮はオレが持ち込んだものだ」
「東の国から?」
「よく知ってるな。東の国の花だと」
「わたしを誰だと思っているのです?」
「そうだな」
アウリアの目が満月になったり三日月になったりして、ユリアスを退屈させなかった。
ユリアスは少年のころ、交易を始めたばかりの東の国で、泥水のたまりに咲く一輪の月光蓮に心を奪われた。
そこで見た月光蓮を母に贈るために持ち帰ったが、王妃はそれを見ることはなかった。
夜に輝く月光蓮は、一日の大半を眠って過ごす王妃には愛でることさえ難しかったのだ
蓮は、虚しさとともにこの庭に移された。
ユリアスが来ることのない場所だと思っていたからだ。
当初は古代式の噴水があったため、蓮を咲かせる場所がなかった。
ユリアスは噴水を移動させて、素朴な池の庭園にするよう命じたが、張り切った宮廷造園師が手を加えた結果、ユリアスが見た蓮の美しさが消えてしまった。
ふいに、バルコニーの手すりにアウリアが立った。
「な、何をしている!?」
ユリアスはほんの少し物思いに沈んだだけだった。
酔ったアウリアから目を離してはいけなかったのだ。
視界から、アウリアが消えた。




