第四十二話「撃たずの空、還らぬ命」
──1944年12月。
北風が滑走路を吹き抜け、空気に死の匂いが滲んでいた。
悠木 薫中尉は、またひとりの教え子を見送ったばかりだった。
出撃直前、まっすぐに敬礼をしてみせた少年の瞳。
その笑顔が、網膜の奥に焼きついたまま消えなかった。
──彼はもう、戻らない。
(これで何人目だ……?)
ふと振り返った格納庫の影。
そこには、かつての教え子たちが、亡霊のように佇んでいる気がした。
軍は、薫を「栄光の教官」と称していた。
だが、それは裏を返せば、“死への案内人”という異名でもあった。
その日の午後、命令が下る。
「本日、君には偵察任務を与える」
特攻隊の編成に同行し、敵艦隊に空から侵入し戦況を把握する──
“特攻”ではない。
だがそれは、生還を意味しない。
「……了解しました」
短く応えた薫の視線が、冬空を仰ぐ。
どこまでも、空は青かった。
プロペラの回転音が高まり、機体の振動が腹に響いた瞬間──
不意に、脳内に衝撃が走る。
視界が揺れ、音が逆流する。
──それは、“誰かの記憶”だった。
いや、違う。
富神 楓──
戦争を拒み、空を飛び続けた男の、記憶だ。
空、轟音、爆炎。
混線する無線。
割れた風防から吹き込む血の匂い。
楓の視点で見る空は、あまりにも荒々しく、冷たい。
仲間たちの機体が、ひとつ、またひとつ──
火を噴き、海に、雲に、吸い込まれていく。
「くそっ……!」
無線越しの絶叫。
「母ちゃん、見ててくれ──!」
「天皇陛下、万歳──!!」
そのすべてが、楓の耳を貫いた。
だが、彼の指は、機銃の引き金にかからない。
敵機の背後を完璧にとらえながら──
彼は一発も、弾を撃たなかった。
「……オレは、戦争しに来たんじゃねぇ。殺しに来たんじゃ、ねぇんだよ」
言葉というより、呪いのように吐き出された声。
それでも楓は、仲間たちを守るために敵を引きつけ、翻弄し、囮となって飛んだ。
撃たずに──戦う。
その異端の美学の果てに、楓は翼を裂かれ、煙を曳きながら、奇跡の帰還を果たす。
機体は瓦礫のように崩れかけていた。
その中で、楓の頬に、一筋の涙だけが伝っていた。
──そして今、空を飛ぶ悠木 薫は、そのすべてを“体感”していた。
「楓……オマエ……」
操縦桿を握る手が、無意識に震える。
(なぜ……なぜ、撃たなかった? あの状況で、なぜ……!)
怒りではない。
混乱でも、否定でもない。
ただただ──魂を揺さぶられていた。
機体が雲間を抜ける。
薄い青が、涙のように滲む。
「……オレには…オマエのように、飛べないよ」
そう呟いた薫の胸に、ぽつりと何かが落ちてきた。
それは──静かな確信だった。
──「薫、それは違う。オレはずっと……あの空が好きなだけさ…みんなに見せてやりたかっただけなんだ」
戦うためでもなく、殺すためでもなく。
あの、何もない空──
遥か、青い空──
「ありがとうな、楓……オマエは、全部、見せてくれたよ」
“戦わずに、闘った青年”の記憶を。
“撃たなかった勇気”を。
“誰も殺さずに、生き延びた”絶望の空を──。
悠木 薫は、操縦桿を握り直した。
(……もう、誰も死なせたくない)
風防を開けると、冷たい冬風が頬を撫でた。
それは、もう失った教え子たちの手のように、どこまでも優しかった。
空は、今日も、青かった。
だがその青は、もう“死地”ではなかった。
薫にとって──いま初めて、“生の空”になったのだ。
To be continued…




