第十九話「生きる記憶、遥か君へ」
──焼けた空気が、肺を蝕んでいた。
夜空は血のように赤く染まり、天へと立ちのぼる黒煙が星を覆い隠していく。
爆音とともに軋む鉄。
風に乗って舞う火の粉が、炭のように舞い落ち、皮膚に突き刺さる。
あらゆるものが音を立てて崩れていった。
木造の建物が、まるで呻き声をあげるように軋んで倒れ、人々の悲鳴が、夜の空に吸い込まれて消えていく。
その中を──城は走っていた。
靴底が何かを踏み砕いた。
それが瓦か、ガラスか、もはや区別もつかない。
肺は焼けるように痛み、顔に熱風がまとわりつく。
だが彼は立ち止まらなかった。
「雪乃……どこだ……!」
叫ぶ声も、炎に呑まれる。
すでに店は見るも無惨に焼け落ちていた。
──いない。
その先…次の先…歪んで見える路地。
火の粉が舞い、瓦屋根や柱が黒い炭のように焼け落ちる影──
「雪乃ッ!!……」
倒壊した家屋が身体の上にのしかかり、瓦礫と柱に押しつぶされるように横たわっていた。
煤に染まった頬、赤く焼けただれた腕。
微かに動く胸元だけが、命の残り火を示していた。
「雪乃ッ!雪乃ッ!……しっかりしろ!……」
城は、声がかすれるほどの勢いで駆け寄った。
焼けた床板に膝をついた瞬間、皮膚が焦げる音がした。
それでも構わなかった。
震える手で、炭化した木材を一つずつ剥ぎ取っていく。
──火が熱いのではない。
恐怖が、焦りが、何よりも彼女の死の淵が、心を焼いていた。
「大丈夫……おれがいる……いま、助けるから……!」
指が裂け、血が滴る。
火の粉が顔を焼き、衣服が溶けていく。
痛みなど、もはや遠いものだった。
「……いいの……もう、いいよ……」
焼けた唇の隙間から、雪乃がかぼそく呟いた。
「あなたが、生きててくれる……それで、いいの……」
「ふざけるな……バカか……!」
城は喉の奥から絞り出すように叫んだ。
「おれ……ここにいるだろ……だから、生きててくれよ……たのむよ…」
その言葉が祈りのように空へ昇っていく。
──そのとき。
「城ッ……!」
黒い影の制服が駆け込んできた。
泉沢だった。
「雪乃ちゃん!もう、平気や!安心せえ…城ッ! 交代や! お前、顔も手も……もう限界やろ!」
「…まだだあ……雪…乃……生きてるから……!!」
「手ェ……骨、見えとるやんけ! お前が死んだら意味あらへんのや! 分かっとんのか…!」
それでも、城は瓦礫を離さなかった。
「雪乃…が……雪…乃が……目の前で…死ぬ…なんて……絶対に……イヤだあ……!!」
苦悶の中、雪乃がかすかに笑った。
「……ほんとに……変わらないね、バカみたいに……まっすぐで……」
そのとき──
雪乃の胸元で、割れた黒い板が、青白く点滅を始めた。
【──……い、き……て……しろ……】
割れた画面から、ノイズまじりの声が漏れた。
【……う……こえ……わたし……ま……だ──】
【か……か…か………おる──】
{Recording……}
{── Complete}
{Transferring………………}
{── Complete}
ユキノシロの声。
傷ついた記憶が、燃え落ちる街で最後の記録を刻もうとしていた。
──この瞬間を…
──この命が見た光景を…
城は、息を呑み、雪乃を抱き上げた。
その身体は、焼けた鉄よりも熱かった。
「雪乃……おい……!」
手の中にある彼女の身体が、ゆっくりと沈んでいくような感覚に襲われる。
二人は、泉沢の手を借りて、近くの臨時医療施設へと運び込まれた。
だが──そこもまた、地獄だった。
廊下にまで運び込まれた遺体。
怒鳴り声、嗚咽、血の匂い。
医者はおろか、看護婦も足りず、薬も尽きかけていた。
死者の名を呼ぶ声と、生き残った者の無言だけが充満していた。
「誰か! 手当てを、この子を──!」
泉沢の絶叫が、無数の声にかき消されていく。
その横で、雪乃の呼吸は、ひとつ、またひとつと浅くなっていった。
黒い板はもう何も映さなかった。
だがその割れた画面の奥で、うっすらと──青い薄いわずかな光だけが、微々たる希望を残し、まだ瞬いていた。
──記録…──バックアップして送信……──エラー…失敗しました…──再度実行…──エラー…失敗しました…──形式を変えて再度実行…──完了しました…
そのころ、楓は川辺をさまよっていた。
「……雪乃……雪乃……!」
火に照らされた川面は赤く、そこにはもう橋もなかった。
人々は互いに押し合い、誰かの名前を呼び、誰かを踏みつけて進んでいた。
(守るべきもののために、醜くなるのが人間か。)
(守るべきものを失って、叫ぶのが人間か。)
楓は、血と泥にまみれて走った。
スマートウォッチは、もうすでに沈黙していた。
それでも──楓は祈った。
「……どうか、どこかで……生きていてくれ……」
夜明け前の東京。
空はまだ、赤く燃え続けていた。
To be continued…