二話⑤
「本当に良いんですか? 相談に乗ってくれただけでなく、こんな所まで……」
「元々この5日間は、互いの親睦を深めるためだろ? だったら、気にする事はねぇよ」
その日の午後、二人は街中のとある場所に赴いた。
大通りに面する木造の店舗。
両脇のショーウィンドウには、煌びやかな衣服が展示された場所だった。
再び昨日とは違う、お忍びの姿で出向いたソフィーは、あくまで親睦を深めるためと言うスヴェンに感謝しつつ、視線を上げた。
久々に来た気がする。
それも当然だ。
あの一件以降、彼女はこの場所を訪れることを避けていた。
「それで、此処が例の場所なのか?」
「はい。街一番の仕立て屋さんです」
ソフィーは頷く。
基本的に貴族は、お抱えの仕立て屋がいる。
刺繍に関する学はそれら仕立て屋から学ぶのだが、リーヴロ家の場合は少し違った。
海に面し、交易が盛んだからだろう。
有力な相手を選出し、必要な時に契約を結ぶ。
此処はその中でもかなりの頻度で選ばれる、平民にも親しまれる物屋だった。
ソフィーは先行して、木製の扉を開く。
同時に扉に備わっていた呼び鈴が小さく鳴り響いた。
「ご、ごめんくだ」
どんな反応をされるのだろう。
扉を開きつつ、顔を覗かせるように中を見渡そうとした。
しかし杞憂だった。
出待ちしていたように、扉の前で待ち構えていた女性が、ソフィーの両手を握り締めたのだ。
そのまま彼女は店内へ引き込まれる。
「ソフィーさま!」
「わっ……!?」
「奥様からお話は伺っております! 本当に、お元気そうで! あぁ! それに背丈も伸びて、一層お美しくなられたご様子!」
「ろ、ロゼッタも、変わりないようで……」
「いえいえ! 私なんて、お褒め頂く歳ではありませんよ! おほほほ!」
青みがかった黒髪短髪の仕立て屋、ロゼッタは口元に手を当てて笑う。
ソフィー自身から遠ざかったというのに、気に病んでいる様子もない。
寧ろ会いたがっていた節すらあり、少しだけ安心する。
調子は変わっていないようだ。
後ろから来たスヴェンは辺りを見回しつつ、掛けていた伊達眼鏡を持ち上げた。
「随分と愉快な方ですね?」
「も、申し遅れました! 私、この仕立て屋を経営するロゼッタ・ロングロウと申します! ヴァンデライト家の次期当主であらせられるスヴェンさまには……!」
「いえ、畏まる必要はありません。今の私は、一介の協力者。貴方と同じ立場ですよ」
「そ、そうでしょうか……?」
「勿論です。力になりたいと思う気持ちは、同じ筈ですから」
ロゼッタは慌てた様子で膝を屈しかねない程だったが、彼は問題ないように振る舞う。
此処に来たのは、そもそもソフィーの助力が目的。
貴族か否かという以前に、互いに協力する間柄なのだから、必要以上に畏まられても困るらしい。
だが彼も仕事フェイスのままである。
横で見ていたソフィーは、ちょっぴりツッコミを入れてみる。
「それを言うなら、スヴェンさんも畏まる必要はないんじゃ……?」
「……痛い所を突くじゃないか」
自覚はあったのか。
スヴェンは困ったような声色をしつつ、仕方なく掛けていた眼鏡を外した。
これで対等という所か。
自己紹介を済ませたソフィー達は、ロゼッタに奥の部屋へ案内される。
商品として売られている品々と、それを仕立てる部屋を経由する。
店内には従業員が何人もいるようで、通り掛かっただけで頭を下げてきた。
元々、立ち寄る話はしていたので、二人の素生は周知の事実だったようだ。
そして小さな会議室に通される。
始めから全てを説明する必要はなかった。
今までの事情も知っているので、ロゼッタは悲しそうな顔をするばかりだった。
「やはり、やるせないです。私がメイドとして勤めていた頃、ソフィーさまとカトレアさまは、本当に仲が良かったというのに……」
「ここまで悪化したのは私が原因です……。本当に、恥ずかしい限りで……」
「そんな! 元はと言えば、ソフィーさまを貶した方がいけないのです! きっとソフィーさまの才能を妬んだに違いありません! 私は、今でもそう思っております!」
ロゼッタは否定する。
もしかすると、同じような言葉を当時も聞いていたのかもしれない。
何となくだがソフィーはそう思う。
しかし聞き入れるだけの余裕は、あの時なかった。
何も見たくはなかったし、何も聞きたくなかった。
そうする事でしか、自分を守れなかったのだ。
「ありがとう。だから私も、もう一度だけ試してみようと思うんです。恥ずかしくないように……自分で自分を、誇れるようになるためにも」
だからこそソフィーは断言する。
今は違う。
外を恐れてばかりではいられない。
過去を取り戻すために、少しずつでも歩き出す。
彼女はその原動力となった、スヴェンを見る。
いつ見ても大柄な彼は頷き返し、代わって訳を話し始めた。
「そんな訳で、手っ取り早く箔を付けようって話になったんだ。俺が武術でそうしたように、ソフィーの刺繍にも同じことをさせたい。そうすれば妹さんだって、ソフィーの努力を認めてくれるかもしれない」
「成程、それで此処を訪ねたのですね」
「貴方はソフィーに刺繍を教えた人と聞いている。その道に生きる貴方から見て、彼女がどう見えるかを伺いたい」
わざわざロゼッタの仕立て屋に訪れたのは、何も挨拶をしに来ただけではない。
彼女はソフィーにとって、かつて裁縫を教えた師。
一番近くでソフィーの刺繍を見ていた人物でもある。
街一番という実力を持つ者の視点から見て、どれだけの力があるのか。
客観的に確かめるために来たのだ。
ロゼッタは少し考えこみ、一つの案を思い付く。
「そうですね。あれから何年も経っている事ですし……。一度、見せて頂けませんか?」
「それは……私の刺繍を、ですか?」
「はい。今のソフィーさまの才を、見極めさせて頂きます」
多少の落ち着きを取り戻したロゼッタが、そう宣言する。
その静けさには、かつてソフィーを見極めていた頃の、教育係としての顔が見えた。
ソフィーは身の引き締まる思いだった。
刺繍に関するあらゆるものを遠ざけてから、数年が経つ。
針を持ったのもスヴェンと再会してからの話だ。
以前の頃よりも、数段は劣っているかもしれない。
ただ、ここで引き下がる意味はない。
「わ、分かりました。お願いします」
「ありがとうございます。それでは準備を致しますので、お待ちください」
そう言い切ると、ロゼッタは颯爽と部屋から出て行く。
一体、どんな風に試すのだろうか。
以前は抜き打ちの如く、彼女の気分で与えられた課題をこなしたものだが。
今回も同じような雰囲気をソフィーは感じ取っていた。
緊張しないと言えば嘘になる。
僅かだが手に汗も滲む。
すると空気を変えるようにスヴェンが語り掛けてきた。
「それにしても、流石は街一番の仕立て屋だな。揃ってるモンは、俺ん家と大差がねぇ」
「ロゼッタは刺繍だけでなく、裁縫に関することは何でも出来るんです。小さい頃は、本当にお世話になったんですよ」
「彼女が屋敷を離れたのには、理由があるのか?」
「母が進言したんです。あの人は、従者にしておくには勿体ないと。資金を提供して、お店を始められるだけの助力をしたんです」
「そういう事か」
「……? どうしたんですか?」
「通りでソフィー達の事を嬉しそうに、悲しそうに話す訳だと思ってな。やっぱり、見ている人はいたんじゃねぇか」
納得したように彼が頷く。
確かにそうなのかもしれないと思った。
ソフィーは目と耳を塞いでいたが、何もかも全てが敵だった訳ではない。
父や母も、妹だってそうだ。
ソフィーがカトレアとの不和を案じるように、両親は娘との不和を案じていた。
そこに違いはなく、緊張するのは違う気がする。
見えるモノが見えた気がして、彼女はスヴェンに向けて微笑むのだった。
時間を置かず、ロゼッタが戻って来た。
そしてソフィーの前に、何の柄もない真っ白なハンカチと一緒に、木製の箱が置かれる。
ハンカチに関してはごく普通のものだ。
ただ、横の箱だけは勝手が違う。
スヴェンは疑問を抱いていなかったが、当のソフィーはその箱に覚えがあり、目を見開いた。
「ではこちらの道具を使って、ハンカチに縫って頂きます。題材は自由で構いません」
「それは……!」
「あの時、ソフィーさまが手放したものです。奥様がもしもの時が来たらと、私に預けていたのです」
思わず箱を開けてみると、そこにあったのは懐かしい道具の数々だった。
刺繍をするために、ソフィー自身が集めた専用の道具たち。
最早自分には必要ないと思い、全て部屋の外に出してしまったものだ。
「まだ、残っていたなんて……」
見間違えもしない。
過去に切り捨ててしまったものが、こうして目の前にある。
ソフィーはそこから針が収まる小箱を手に取った。
蓋を開け、何度も見た針の一式を見ただけで、久しい感覚が呼び起こされる。
まるで昔に戻って来たようだった。
「尻込みする必要はないさ。俺に見せた時と同じように縫えば良い」
「は、はい!」
「ま~だ緊張気味か? それとも昨日みたいに、人に酔ったのか?」
「よ!? よよ、酔ってないです! 昨日の今日でそんな……そんなに私、弱くないですよっ?」
「冗談だよ冗談。少しは力を抜こうな?」
平然とした態度でスヴェンが言う。
臆していた所にコレである。
確かに昔のようではあるが、違う所もある。
ソフィーは恥ずかしくなって、僅かに俯いた。
「やっぱり、ズルいです」
「どの辺が?」
「な、何でもないです! ぬ、縫います! やります!」
深掘りすると、別の意味で臆してしまいそうだ。
勢いのまま、ソフィーは臨むことにした。
相手はハンカチ、縫った経験はある。
先ずは型取りから始めるため、真っ新な用紙を準備した。
スヴェンはそれを近くで興味深そうに眺めている。
そんな中でロゼッタは微笑ましそうにしていたが、どちらもその様子に気付くことはなかった。
型を取って、道を辿るように縫っていく。
手に馴染むのは、以前から使い慣れていた自前の道具だからだろうか。
確かにそれもあるのだろうが、心持ちが軽い。
他人の目を気にしながら、怯えるように縫う必要もない。
今だけは滑らかに指を滑らせる。
四方全てに刺繍していては、流石に時間が掛かり過ぎる。
一角だけを重視して仕上げるつもりだった。
シャトルを用い、形を整え、縫い合わせる。
そうして暫しの時間が経ち、彼女は針から糸を抜いた。
「これで、何とか。レース状にしてみました」
ソフィーは息を吐く。
真っ白なハンカチと同色の糸を使い、一角にレースを縫い付けた。
大小ある花が寄り添う様を表現したものだ。
そこそこの満足感が、彼女を満たす。
同時にスヴェンが完成したハンカチの様子を眺める。
彼はいつの間にか、見よう見まねで刺繍を試していたらしい。
その大きな手に、店で借り受けただろう道具が握られている。
「早ぇなぁ。もう出来たのか?」
「はい。と言うか、何だか凄いですね、それ……」
「任せろ。渾身の作だ」
そう言って彼は刺繍枠を持ち上げる。
何やらよく分からないモノが縫われているが、あえて聞かないでおく。
取り敢えずは完成したハンカチを、ロゼッタに見せてみた。
「ロゼッタ、どうですか?」
問題は彼女がコレを見てどう思うか。
問いを投げながらも、ソフィーは目を逸らしていた。
試験を受けるような感覚だ。
ロゼッタがゆっくりとハンカチを手に取り、鑑定していく。
体感時間では、酷く長く感じられた。
やってしまったのかと、恐る恐る視線を上げる。
するとロゼッタは目を輝かせていた。
「短時間で、ここまでの物が出来るなんて……」
「え……?」
「ソフィーさま! やはり衰えてはいませんでしたね! お見事です!」
その様子は、昔のままだった。
真っ直ぐに、かつての教え子を見ていた。
「数々の品を目にした私には分かります! 貴方の刺繍は、ただの教養などと片付けられるものではありません! 貴族の方々が身に着ける品と比べても、遜色はないでしょう!」
「そ、そうですか?」
「勿論です! 私が嘘をつくとお思いですか?」
思わず首を振る。
例え相手が目上の人物であろうと、体裁だけのためにロゼッタは嘘をつかない。
それはかつて彼女から学んだソフィー自身が、よく知っている。
つまり、自分の刺繍が認められた。
自分自身の存在が、認められたことに他ならない。
温かい気持ちを覚えると、そこからスヴェンが付け加えていく。
「つまり、店に出しても問題がない位に、良く出来てるって訳だな?」
「その通りで御座います!」
ロゼッタは強く頷く。
流石にそれは言い過ぎな気もする。
あくまで思うままに縫っただけで、最近の流行など一切関係がない。
商品として出すものと、今のそれとでは話が違う筈だ。
ロゼッタからハンカチを受け取ったスヴェンは、僅かに目を細める。
眩しいのか、何なのかは分からない。
すると不意に、彼は提言した。
「じゃあ、出すか」
「えっ? 何を……?」
「コイツを店に出そうぜ」
「はい……って、ええっ!?」
反射的に大きな声を出してしまう。
久しぶりにこれだけの声量を出した気がする。
だが恥ずかしがる余裕はない。
彼はロゼッタに、例のハンカチを返した。
「店長、手伝ってくれるか?」
「お嬢様のためならば! 空きのスペースを作っておきます!」
水を得た魚のように、彼女は飛び出していった。
いやちょっと、とソフィーは慌て出す。
どんどん話が進んでいく。
ただ自分の刺繍を見てもらうために縫っただけなのだが。
混乱して、傍にいたスヴェンを呼び止める。
「ま、まま、待って下さい! 出すって、も、もしかして、コレを商品として売りに出すんですか!?」
「そんな驚くモンか……?」
「驚きますよ! いきなりそんな……!」
「な~に、こういうのは当たって砕けりゃ良いんだよ」
「く、砕け……?」
「待てよ、砕けちゃ駄目だな。こういう場合は、当たって吹き飛ばす、か。ブッ飛ばす気分で行こうぜ」
「……当たって飛ばすなんて言葉、聞いたことないんですけど?」
「真面目かよ? こういうのは気分だ、気分」
あくまで彼は陽気な態度を崩さない。
元気づけるように振る舞い、一呼吸入れてから腕を組んだ。
「別に初っ端から、ソフィーが縫ったなんて広める気はねぇよ。あくまで、店の商品の一つとして出すんだ。これも妹さんと仲直りする一歩だと思えば良い」
「そ、そうかもですけど……」
「店長のお墨付きも貰ったんだ。先ずはそれを信じてみようぜ」
「……本当に大丈夫でしょうか?」
「ソフィーが勇気を振り絞って縫ったんだ。悪い訳がねぇだろ?」
さも当然のように言う。
ロゼッタはソフィーの刺繍を高く評価した。
それが建前だとは思っていない。
ほのかに灯った胸の内は本物だ。
そして目の前で右往左往していても仕方がない話ではある。
今はその勢いのまま、進んでみても良いのかもしれない。
ブッ飛ばす勢いで、彼女は慌てていた心を落ち着かせていく。
するとスヴェンはもう一枚、同じようなハンカチを取り出した。
「そんな訳で、ついでにもう一枚縫わないか。俺のはまだ縫い終わってねぇし、中途半端なんだ。今度はどっちが早く終わるか、競争しようじゃないか」
「きょ、競争って、もうそれ終わりかけですよね?」
「さっきの早さを見たら、これで五分五分だろう? もし俺が負けたら、この店の好きな服を贈呈しようじゃないか?」
更に話が進んでいく。
しかし、此処まで来たら出来るところまでやってみても良いだろう。
仕方なくソフィーは頷き、もう一度だけ席に座った。
気兼ねはない。
思うままに、お互いに傍にいる感覚の中で縫い始める。
結局、ソフィーの方が早く終わってしまい、スヴェンは彼女好みの服を買い足す羽目になるのだった。