二話③
声のした方向を見ると、見知らぬ黒髪の少女が辺りを見回していた。
観光客だろうか。
通りすがる人々へ手当たり次第に声を掛けている。
明らかに誰かを探している。
スヴェンもズレかけた伊達眼鏡をかけ直し、目を凝らした。
「どうしたんだ?」
「誰かを、探しているみたいですね。困っているみたいですし……行ってみますか?」
「ん~そうだな。バレない程度に、行ってみるか」
お忍びという中で、必要以上に人と関わっては正体が明るみになる。
それこそ衆目を集めてしまう。
それでも自分より年下の子が困っているなら、放ってはおけない。
彼が意を汲んだのを見て、ソフィーは近づいていく。
何回か深呼吸を繰り返しながら、慌てる少女に声を掛けた。
「……どうかしましたか?」
「あ、あの! 弟を探していて! これ位の背の、同じ髪の色をしてるんですけど! 見ていませんか!?」
「い、いえ、私は見ていませんね。スヴェ……貴方はどうですか?」
一瞬だけ言い淀み、スヴェンの方を振り返る。
少女が探しているのは、自身よりも幼い弟のようだ。
この人混みで、はぐれてしまったのだろう。
見覚えはあるかと問うと、彼は既に他人行儀モードに入っていた。
眼鏡をクイッと持ち上げ、知的そうな態度で接する。
「私も知りませんね。もしや、迷子ですか?」
「は、はい! ちょっと色々あって……どうしよう……!」
誰だこの人、というツッコミは呑み込む。
何やら少女からは、罪悪感のようなものが見え隠れしていた。
何があったのかは分からないが、とにかく街の中を一人で探すのは無理がある。
ソフィーは安心させるため、優しい声で案内する。
「近くに駐在所があるので、先ずはそこに行ってみませんか? もしかしたら、何か分かるかも」
「わ、分かりました……」
ここは都心でもあるので、衛兵が集まる駐在所は当然存在する。
迷子や落とし物といったものも対処している筈だ。
或いは既に少女の弟も、そこに辿り着いているかもしれない。
助言すると、少女は落ち着きを取り戻し、どうにか頷いてくれた。
そういう訳でソフィー達は、駐在所へと向かった。
彼女が二人の正体に気付いた様子はない。
ひたすらに親切な人達に出会えたと、安堵するだけだった。
少しだけ話を聞くと、どうやら少女はお使いの最中に、弟と喧嘩をしてしまったらしい。
そして走り出してしまった弟を追いかけたが、人混みに押し返されて見失ってしまったようだ。
何となくだが、ソフィーは妹のカトレアを思い出す。
対してスヴェンは不思議そうに、顎に手を触れるだけだった。
話をしていると、十分程度で駐在所に辿り着く。
石造りの堅牢さは変わっていない。
中には衛兵達が、書類のようなものに目を通している。
慌しそうには見えない。
ソフィーは帽子で目元を隠しつつ、少女を連れて立ち入り、迷子になった子供がいないかを尋ねた。
衛兵は何かに気付いたように三人を見たが、暫くして難しそうな顔で唸った。
「10歳くらいの男の子……今のところ、此処には何の情報も来ていませんね~」
「そう、ですか」
彼らの元にも迷子の連絡は来ていない。
そして話をして終わりという訳ではない。
巡回している衛兵達に情報を共有するそうだ。
これで直に彼女の弟も見つかる筈だ。
しかし少女は居ても立ってもいられないようだった。
自分が何も出来ない事が歯痒いのか。
今にも外に飛び出していきそうな雰囲気すらある。
「も、もう一度、私も探しに行って……!」
「落ち着いて。貴方まで迷子になったら大変でしょう? ここは衛兵の方々に任せましょう?」
ソフィーはどうにか少女を落ち着かせる。
迷子の弟ほどではないが、彼女もまだ大人ではない。
地理に詳しくない者が街に出ても、余計に迷うだけだ。
自分自身がかつて、そうなりかけたからこそ忠告する。
彼女もそれを理解したようだった。
迷いながらも衛兵たちの下で待つことにする。
すると様子を窺っていたスヴェンが、外の方を眺める。
何か気になる事があるのかと思い近づいてみると、彼は不意に呟いた。
「ちょっと食い過ぎたし、軽く動く位なら問題ないか」
「もしかして……?」
「俺も探しに行こう。大体の容姿は見当がついたからな。流石に迷うって程の歳でもねぇし」
「それなら、私も行きます」
「良いのか? 歩き疲れただろうし、俺が勝手に言い出した事だぜ?」
「良いんです。それに私も、気になりますから」
「食い過ぎたのが?」
「ち、違います……! 迷子になった子の方が、です……!」
「あ~、そっちか! コイツは一本取られたな!」
誰も取っていないが。
しかし、してやられたように笑うスヴェンを見て、何も言えなくなってしまう。
本当にズルい人だ。
そんな風に真っ直ぐな笑顔を向けられると、どうしようもない。
ソフィーは仕方なく視線を下す。
確かに引きこもりのお蔭で運動は久しくなったが、太ってはいない。
いない筈だ。
腰の辺りを確かめつつ、彼女はコホンと咳払いをする。
そして街の地図を広げたスヴェンと共に、迷子の探索へ向かった。
街の中は相変わらず人通りが多い。
昼は過ぎたのでピークではないものの、大通りにもなると馬車も通るので、幼子には危険だ。
それに子供を見かけても、家族連ればかり。
今のところ、一人ぼっちの子の姿は見当たらない。
仮に喧嘩をして姉から逃げているのであれば、人の少ない場所へ向かったかもしれない。
自分と同じように人目のつかない所へ。
そう結論付けたソフィーは、大通りを離れて居住区の方角へと向かう。
同じ歩調で歩くスヴェンが、地図と実際の光景を見比べながら呟く。
「しっかし、姉弟で喧嘩とは随分ヤンチャだな」
「スヴェンさんは、その……喧嘩はしないんですか?」
「アルとか? ないなぁ。内緒で菓子を食べた~とか、そう言うのがある位だな」
「え……今まで一度もないんですか? 本当に?」
「怒らないって言うか、宥めるって気持ちの方が断然強いのかもしれねぇな。そもそもお互い歳が離れてるし。まぁ、喧嘩しない事が絶対良いだなんて、俺も言う気はないけどさ」
彼は思い返しながら答える。
スヴェンとアルベルトは数年ほどではなく、10年ほど歳が離れている。
そこまで来ると、喧嘩にもならないのかもしれない。
喧嘩とはそもそも、考えの不一致から始まる。
互いに近い間柄になればなるほど、見えてくるものがあるせいだ。
彼女は自分を敬遠するようになった妹を考え、少しだけ肩を落とす。
「何が、正しいんでしょうね?」
「そりゃあ、人ぞれぞれってヤツだな。朝型のような奴もいれば、ソフィーのような夜型もいる。そういう事さ」
「……スヴェンさん?」
「まぁまぁ。俺が言いたいのは、お互いに落としどころを見つければ良いって話だ。良い所は良い、悪い所は悪いって伝われば、それは自然と直っていく筈だぜ」
両手を軽く挙げながら、軽口を叩く。
きっと迷子の姉弟にも、伝わらなかったことがあったのだ。
意固地になってしまえば、自分勝手に振舞えば、溝はどんどん深くなっていく。
そうして遂に、飛び越えることのできない崖になっているのだろう。
それを埋めるためには、どうすれば良いのか。
ソフィーが先の歩む道へ視線を上げると、前方に見えた石造の橋に誰かがいることに気付く。
「あれ……あの子……」
「ん?」
スヴェンもその人物に気付き、あっと声を上げる。
橋の手摺りに腰を下ろしていたのは、黒髪の幼い少年だった。
橋の下を流れる川をジッと見つめ、不貞腐れたように両足をぶらつかせている。
行く当てもなく、どうすれば良いのか分からずに立ち竦んでいるようだった。
周囲に保護者らしき者はいない。
聞いていた容姿とも一致するため、恐らく例の迷子に違いない。
ソフィーは自然と近づいていった。
自分の事ではない筈なのだが、少しだけ緊張する。
そして気配に気付いて少年が振り返ったと同時に、彼女は声を掛けた。
「そこの君、もしかして迷子?」
「……え?」
「貴方のお姉さんが、探していましたよ?」
「ね、姉ちゃんが!? ど、どうしよう……また怒られ……!」
迷子を指摘され少年は慌て始める。
喧嘩した時の姉を思い出したのだろうか。
ソフィーを見て、恐れ戦くような顔をした。
その動揺が全身にまで行き渡り、そのままバランスを崩す。
ほぼ無意識の行動だった。
橋の手すりに乗っていた少年は体勢が後方へ、川の方へと投げ出される。
「あっ!?」
少年が目を見開き、ソフィーが声を上げた瞬間だった。
風を切るような音が聞こえ、横から何かが飛び出した。
スヴェンだ。
手に持っていた地図を放り投げ、一瞬で少年の元まで辿り着く。
迷いは一切ない。
手すりから半身を乗り出し、空を切っていた手を掴み取る。
少年は重力のままに落下する直前、彼の手によってぶら下がりの状態になった。
あまりの事に声も出ないようだった。
スヴェンはそこから一気に引き上げ、いとも簡単に橋へと引き戻す。
ゆっくりと足場に下すと、少年はその場にへたり込んだ。
「欄干に乗ると危険ですよ。気を付けなさい」
「ぁ……」
「怪我は……ん~、大丈夫そうですね」
「ご……ごめんなさい……」
「謝るのは良いけど、それはちょっと、相手が違うかな」
やっとの思いで謝罪する少年の額を、彼は触れるように軽く小突いた。
怒っている雰囲気はない。
窘めるように笑みを浮かべるだけだ。
本当に謝るべきは誰なのか。
彼はそれを気付かせようとしている。
出遅れてしまったソフィーも、二人に駆け寄った。
「スヴェンさん!」
「あぁ、ソフィー。悪い、気付いたら身体が動いてた」
「け、怪我とかは……!?」
「ないない。ただ引き上げただけだぜ?」
互いに怪我はなさそうだ。
下は川とは言え、底は浅いので落下していたらどうなっていたか分からない。
思わず安堵の息を吐く。
すると時を待たずして、騒ぎを聞きつけた人々がこの場に辿り着いた。
「皆さん! ご無事ですか!」
よく見ると、巡回中の衛兵だった。
三人の姿を見て、重々しい鎧をガチャガチャと鳴らしながら近づいてくる。
取りあえずは一件落着という所か。
ソフィーとスヴェンはお互いに顔を見合わせ、ゆっくり頷いた。
助けられた少年は、当然だが姉の元へ届けられた。
駐在所で待っていた彼女は、はぐれてしまった弟を見て、声を荒げはしなかった。
何処も怪我はないかと案じるばかり。
家族を思いやる様子だけがあった。
スヴェンが少年の背中を押すと、彼はしっかりと頭を下げて謝った。
「姉ちゃん……ごめんなさい。僕、我がままだった……」
「う、ううん。私も、言い過ぎたわ……ごめんね」
自分本位な考えを止め、お互いに歩み寄る。
ようやく二人は喧嘩から離れられたようだ。
衛兵達も今度からは気を付けるようにと忠告するだけで、それ以上は言わなかった。
姉弟は衛兵達に、そしてソフィー達にお礼を言って去っていく。
これで良かったのだろう。
ソフィーが小さく手を振り返していると、スヴェンは安心したように息を吐いた。
「大事にならなくて良かったな」
「そうですね。この辺りは馬車の通行も多いですし、万が一なんて事もありますから。って、あれ……」
「ん? どうした?」
「スヴェンさん。その右手……」
彼が気付くよりも先に、そこを指差す。
よく見ると、右手の側面に僅かな血が滲んでいる。
橋から助け出す際に、何処かで擦りむいたのかもしれない。
とは言え、怪我という程のものでもない。
スヴェンも痛みを感じている様子はなく、指摘されて初めて気付いたようだった。
何でもないと言うように、右手を軽く振る。
「ちょっと擦った位だ。放っておいても治る」
「ダメです」
「へ?」
「手を出してください」
しかし、そのままにはしておけなかった。
ソフィーは何か血を止める物がないか探す。
流石に包帯は持っていなかったが、持っていた白のハンカチがあった。
予備で二枚持ってきていたので問題はないと、一度も使っていない方を傷口に巻き付けようとする。
代わりに彼は、少しだけ気が咎めるようだった。
「大袈裟だろ? わざわざハンカチを使うまでも……」
「大袈裟かどうかは人ぞれぞれ、ですよ」
「そういうモンか?」
「はい。そういうモンです」
ソフィーは強く頷く。
自分にはこれ位の事しか出来ないが、しないよりはマシな筈だ。
そうでなければ気が済まないと、そのまま大きな掌にハンカチを結んでいく。
巻かれたスヴェンはむず痒そうにしているが、痛いという話ではない。
単純に、くすぐったいだけ。
衛兵達はそんな二人を前に、再び書類に目を通していくだけだった。
去り際に礼を言われつつ駐在所を出ると、既に辺りは夕焼けになっていた。
いつの間にか、こんなにも時間が経っていたらしい。
辺りの光景が、人々が暁色に染まっていく。
眩しさはない。
二人は陽の沈む方向、帰路を見つめた。
「もう夕暮れ時か。この調子だと、5日なんて直ぐに終わっちまいそうだ」
彼も同じように、あっという間だったことを自覚する。
今回の件について、スヴェンは5日間滞在する予定だ。
今日だけ街を回って終わりという訳でもない。
以前、彼の屋敷でおもてなしを受けたように、ある程度の予定はソフィーも、彼女の両親も準備していた。
だがそれ以上に、力になってもらいたい事が見つかった。
歩き出す彼の大きな背中を、ソフィーは見上げる。
思い出すのは仲直りをした先程の姉弟。
そして今も距離が開いたままの姉妹の姿。
「す、スヴェンさん」
「ん?」
「明日は旅亭にある喫茶店で待ち合せませんか? 少し、話したい事があって……」
「話したい事?」
「はい。貴方に、相談があるんです」
不躾でも、スヴェンならば変えられるかもしれない。
今の自分を変えてくれるかもしれない。
ソフィーは勇気を出して、今抱えている悩みを打ち明けた。