3
サキュバス!
やっぱり出ますかサキュバス子。
さてどーなります?
「にゅぅー、にゅぅー……!」
口笛を吹くように、口を尖らせながらキアが目を巡らす。
崩れかけの家の、わずかな空地のような裏庭。
表通りから入った路地の、さらに、人がひとり通れる程度の通路の先にある廃屋。
周りをすっぽりと家々に囲まれ、そこだけまるで真空地帯のように切り取られた、五十平米ほどの土地に築五十年ほどの木造住宅が残されているのだ。
ガラスが割れ、雨戸が落ち、屋根も一部壊れて、壁などもボロボロの一軒家。
見るからに空き家なのに、落書きや侵入者で荒らされていないのは、一見してその家までの通路が、道に面した隣家の庭のように思えるからだろう。
小さな家の、ひと坪ほどの小さな庭。
ほとんど日も当たらないため雑草も低く、苔むしている。
その庭で、キア、しゃがみこんで床下に手を伸ばす。
「にゅー?」
首を傾け、覗く。すると、
「フニュー……、ファッ!」
小さな毛だらけの動物がごそごそと出て来た。
長いシッポ。ピンと立った耳。クリッ、と大きな目は、たっぷりの毛で半ば覆われている。その毛に埋もれるように、飾り紐の首輪が。
まだ生まれて半年も経っていない子猫の、そんな大きさ。
一瞬キアを見るが、まっすぐ向かって行くでも、うれしそうにシッポを立てるでもない。ブルブルッ、と身を震わせたかと思うと、後ろ足で首の後ろを気持ち良さそうに掻き、さらに大きく口を開けてアクビまで。
それらをキア、楽しそうに見つめながら、
「おいで。にゅー」
手のひらを差し出す。
にゅー、と呼ばれた子猫は、キアの手をくんくんと嗅ぎ、ぺろっ、となめた。
「うふふ」
キアの相好が崩れる。こんな笑顔は、夷やでも見せたことがない。
ようやくにゅーがキアに密着し、膝小僧に頭をすりすり擦り付け始めた。
「ニュ、ニュー」
名前のとおりに小さく声をあげながら、ごろごろごろごろ、喉を鳴らす。とうとう、
「にゅっ!」
キアの膝の上に飛び乗る。キア、すぐに抱き上げて、
「ぅーん、ぅんぅん、……ーーーーっ!」
子猫の小さな顔に自分の顔を押し付ける。そのまま息を、たっぷりと鼻で吸い込む。鼻孔から子猫の匂いがいっぱいに広がった。
何度もやっているうちに、
「フニュ!」
やめろ、とばかりにゅーが手を上げる。キアの顔を押し戻すようなしぐさ。
「ぁは! うんうん、あはは!」
声を上げて笑いながら、キア、まだ顔を離さない。にゅーが両手で顔を押し戻す。柔毛に包まれた肉球の、グミのような感触が心地よくて、そのままにしていたら、
「ニューーー!」
にゅーが身をよじった。脚をバタつかせる。
「ぁ、ごめん、なさい」
キアが手をゆるめ、にゅーを地面に置こうとするまえに、にゅーの方がするっ、と抜けだした。
身をよじって、着地する。
ちょっとまた頭を振ったりするから、キア、
(やり過ぎちゃった。怒ってる、かな)
心配になる。けれどにゅー、
「ニュー」
あいかわらずごろごろと喉を鳴らしながら、シッポを立て、キアの膝やすねに気持ち良さそうに身を擦り付けている。
(ぁ、よかった)
キアのシッポも、フルフル揺れる。すると、
「ニュッ!」
にゅー、そっちに気が移り、目を丸くしてじゃれる。前足で叩き、跳んだり、転がったり、最後は後ろ足で立って飛びついたと思うと、がっちり全身で抱え込んで、噛みついた。こういうときは、目が真剣で、耳が後ろに倒れている。
「やぁだ! んっ! 痛っ! 痛いよぉー!」
キア、笑っていたが、本当に痛くなって、
「もー!」
にゅーを抱き上げた。
「めっ! ……それより、お腹、空いてるでしょう」
こんどはすぐに地面に戻して、カバンを引き寄せ、中から小さなプラスチック・バッグを取り出す。
中には小分けにしたキャットフードが入っていた。
「にゅー!」
すぐに気づいたにゅーがキアの手にしきりと手を出す。飛び上がり、膝の上に乗り、プラスチック・バッグに顔を突っ込もうとする。
「こらこら、待って。……はい」
ようやく、持ってきた紙皿にフードを開けて、地面に置いた。すぐに膝から飛び降り、フードを食べ始める子猫。
「にゅ、にゅっ、ふぐっ、ぅぐ、うにゅうにゅっ!」
うなりながら食べている。
耳も伏せて、なんだか怒っているようだ。食べるときの、にゅーの癖だった。
「ふふっ」
見守るキアの顔にしあわせそうな笑みが浮かぶ。
「そんなに、急がないで。喉に詰まるよ。ゆっくり、お食べ」
言いながらカバンから、別のプラの容器を出すと、ペットボトルの水をあける。ご飯皿の隣に置いた。
「ニュ、ニュッ」
まだにゅーは一心不乱にフードを食べている。ハーフウェットの粒を、ほとんど噛まずに飲み込む。
ようやくすべてのフードを食べ終わり、ぺちゃぺちゃ、水を飲むまで、キアは頬づえをつくように手を頬に当てて、じっと見ていた。
「カッ、……カハッ、カッ!」
急ににゅーが咳き込むように口をあえがせた。吐く兆候だ。
「ぁ、ほら。急いで食べ過ぎ」
こういうとき、キアはどうしていいかわからない。人間なら、背中を叩くとか、
(お尻を叩く、のかな)
猫にはそうする、と聞いた気がする。けれど、なんだか自分のお尻を叩かれるところをつい想像して躊躇していると、
「カッ、カッ……、ニュ」
しだいにえずくような発作はなくなり、ぺろぺろと口の周りをなめだす。水を飲み、こんどは自分の前足をなめては、しきりに顔を拭う。
「ごはん食べたら、顔を洗うんだね」
ホッとしたキアが、微笑む。
毛づくろいが終わって、またキアの膝や腿に身体を擦り付け始めるにゅー。キアはにゅーの首の後ろをかいてやったり、シッポをしごいたりした。
そのたびに、にゅーは気持ち良さそうに目を細め、ごろごろと喉を鳴らす。とうとう、キアの腿に前足を掛けると、
「ニュ!」
膝の上にすっかり乗ってしまう。そればかりか、後ろ足で立ちあがり、キアの身体を上るように身を伸ばすと、
「んぅっ!」
キアの唇をなめ始める。そのザラザラした舌が唇を割って、口の中までもベロベロ、なめ回す。
人の顔をなめる猫は少なくないが、口までなめるのは、
(困る……、でも)
止められない。無理に引きはがすのも、したくない。
結果、にゅーがキアの顔にまで前足をかけ、唇をなめられるままになってしまう。
ザラザラの舌がそろそろ痛い、というころ、
「ニュー」
ようやくにゅーが離れる。思わず、ふぅー、とため息をついてしまったキアの膝の上で、にゅー、するん、と丸々と、
「フニュァアアア」
大あくび。そして自分の身体に顔を埋めるようにして目を閉じ、
「ぇ、寝ちゃう、の?」
まだごろごろ音が聞こえる。が、しだいに小さくなり、波打つような呼吸がキアの剥き出しの太ももに感じるようになる。
すっかり眠ってしまったにゅーを膝に乗せたまま、
「どうしよう。仕事、行かないと」
ふだん夷やに行く、というより帰る時間はもうとっくに過ぎている。
けれどにゅーを膝から下ろすのもまたはばかられて、
「ニュ……」
しゃがみこんだ姿勢のまま、キアはにゅーの寝顔を見下ろしていた。
*
「いじめ?」
夷やの店内。
例によって客のいない、午後四時。
まだ陽は高いが、なんとなく店内にはだるだるな空気が漂っていた。つまりいつもの夷やである。
接客用のソファーからゆっくり身を起こした源大朗、眠そうな目をこすって、
「いじめられてるって、誰が? オレか? たしかにまあ、お時婆には毎日のように店の賃料払えって言われてるが」
「違うよ! おっさんのわけないじゃん!」
「違うと思いますよ」
は、マレーヤ。それに、お茶を淹れて来たラウネアが、微笑みながら。
店内の空気が急に軽くなる中、静かに、
「キアが、クラスでいじめられているみたいなんです」
そう言ったのはアスタリだった。
「……ぅん。で、どうなんだ」
源大朗、ソファーに座り直す。ラウネアの淹れたお茶をひと口すすった。
「ぁちっ!」
口から半分噴き出す源大朗に、黙ってハンカチを差し出すのはラウネアだ。
「靴が。ね、アスタリ」
「三日くらいまえ、帰り道、偶然キアといっしょになったんです。変わりないように見えたのに、靴が、上履きでした」
「きっと隠されたんだと思う。盗られたっていうか。下駄箱から」
「中等部のクラスとはフロアが違うので、以前からときどき見に行ってたんですけれど、気づかなくて」
「それでね。調べたんだ! アスタリと。ふたりで、ね。そうしたら、中等部のクラスでサキっていうコがいて」
「サキュバス族のコみたいなんです」
アスタリが言うと、源大朗とラウネア、顔を見合わせる。
「サキュバス、かよ」
「まぁ。こちらの世界にも、来ているのですね」
「で、やっぱりあれか。エロエロな」
「違うよ! おっさんはすぐそれだからヤなんだよねー! もう!」
「見た目は派手な、ギャル、っていうんでしょうか。長い金髪に肌も焼いているような。けど、それくらいで」
「あーでも、制服は着崩してるかなー、ちょっと。たしかに、なんか、うーん……、エッチな感じはするかも」
「ほらみろ。サキュバスってのは、そういうもんなんだろ」
「でもそれだけなんです。男子生徒と何かあるとか、そういうのを徹底的に遠ざけている、というか。仲のいい……」
「手下っしょ、あのふたり」
「そうかも。ドラフのコふたりといつもいて、とくに乱暴なことをしたり言ったりするわけではないのに、クラスを仕切っている、というか」
「誰も何も言えないって感じだったよねー」
ふたり、うなずき合う。
キアの異変を感じて、マレーヤとアスタリが調べた中身は核心をついていた。源大朗、あごの無精ひげをしきりに撫でながら、
「で、どうする」
「どうするって、キアがいじめられてるんだよー! なんとかしてよ、おっさん!」
「キアがそう言ってたのか」
「そうは、言ってません。聞いても、だいじょうぶ、って」
「そうだろ、な」
「だいじょうぶじゃないよー! 靴だって隠されて、あ、その靴、あとでぐちゃぐちゃにされて、出て来たんだって。切られたりして」
「ふーん」
「実際に被害が出てますし、クラス中から無視されてるみたいです。それに、これ」
そう言ってアスタリが指し示すのは手に持ったスマホの画面だ。
「なんだ?」
源大朗がのぞき込む。渡されて、文字と絵が入りじった画面をスクロールして眺める。
「なんだ、こりゃあ」
ともう一度。アスタリが説明する。
「キアのクラスの、裏SNSです」
「裏、だと。ふん……」
画面を見つめる源大朗の顔が険を帯びる。
そこには、
『ネコ女死ね!』
『ドロボウ猫、マジうざい!』
『キアってなんかすごい偉そうだし嫌い』
『しゃべんないし、何考えてんだかわかんない。こわーい』
『もとの異世界じゃ、身体売ってたんだって。ははは、やだー!』
次々現れる文字列のほとんどが、キアへの悪口、もっと言えば、脅迫めいた言葉で埋め尽くされていた。
「ひどいよね、信じらんない! 同じクラスなのに、こんなこと」
「『ボロい変な店ではたらいてるんだって。ぜったい援助交際してる』だと、ウチの店を何だと思ってる。許せん」
「そっちじゃないと思います」
ラウネアの口調にも少し苛立ちのようなものが。顔はやさしく微笑んでいるものの。
「ほらよ。それにしてもこんなもん、よく見つけたな、おまえら」
スマホをアスタリに返して、源大朗。
「えっ? えっとぉ、キアのクラスの誰かがさ、体育の時間に着替え教室に置いてあったスマホの、ぅーん……」
パスワードロックのかかっていなかったものを、忍び込んで見つけた、というところらしい。
「はー、しかし世も末だな。裏でこそこそとこんなものを。……だがちょっと見たところでも、あおってるのは二、三人で、あとの大勢は合わせてるって感じだな」
「そう! そうなんです。おそらくサキや取り巻きのふたりがメインで」
「そいつらがいないと、ふつうの話題してたりするんだよね。けど、また戻って来ては、キアを攻撃するの。ちょっと見ただけでよくわかったね、やるじゃん、源大朗!」
「まぁな。教師はなんて言ってる」
「担任の先生には聞いてみたんですけれど。そういうことはない、って。靴は、どこかに忘れて来たんじゃなかって」
「んなことあるわけないじゃん! 靴忘れて、どうやって戻って来るのさー! んぐ! もぐっ」
憤るマレーヤ。怒りのクッキー三枚同時食い、である。
「喉に詰まるぞ。お茶飲め。……いまのところできることは、ない、な」
「ええー!! ひどくなーい! おっさん、バカぁ!!」
「うわっ! おい、口から菓子のかけら飛ばすな! こら!」
「だって、なによなによ! いつもは、夷やの従業員はオレの家族だ! みたいなこと言っててさー! ぜんぜん違うじゃーん!」
「なんとかなりませんか、源大朗さん」
ラウネアも心配そうな顔を向ける。
源大朗、こんどこそ適温になったお茶をぐいっ、とひと息に飲み、マレーヤたちを見回した。
「ならないな」
「えええー!! なんだよじじぃー!」
「おっさんからじじいに格上げか」
「キアが大事じゃないのかよー! 信じらんなーい!」
「まぁ聞け。キアもラウネアも、オレの家族同然だ。そんなことは言うまでもない。言わせんな、ってことだ」
「だったら」
「いいか。いじめってのは、どこにでもある。学校だけじゃない、会社でもサークルでも、三人いればひとりがいじめにあうってくらいだ。四人いれば、派閥ができる、がな」
「でも、放置して、もっとひどいことになってからでは遅いと思います」
「甘く見てるわけじゃない。だがまずは、あいつに、キアに話を聞かなきゃなにもできねえ。勝手に動いて、あいつが困ることだってあるだろ。けどな、この件を報せてくれたことは、礼を言う。おまえらがいろいろ動いてくれたことにもな」
キアがもといた世界で、両親がいなくなってからの数年間をひとりぼっちで生きて来たのを源大朗は知っている。
だからキアの強さを知っていた。
同時に、弱さもまた。
「そんなの、キアのためだもん、あたりまえじゃん!」
「わかりました。たしかに、キア本人からまだ肝心なことを確かめていないのはよくないって、思います。けれど決して気のせいとか、誤解じゃありません。だからちゃんとみんなで聞いて、解決に向けて動かないと」
アスタリの言葉で、全員がうなずく。マレーヤはしぶしぶだったが。
「そうですね。まずはキアさんを待ちましょう。ねっ。お茶、お代わり淹れますね」
ラウネアが給湯スペースへ立つ。
「ぁ、マレーヤも手伝うよ!」
「はい」
マレーヤとアスタリ、各人の湯飲みを集めて、洗い物を引き受ける。
「そういやキアのやつ、遅いな。もう五時近いぞ。なにやってるんだ。いくらウチがヒマだからって、サボりかよ。時給下げるぞ」
ぶつぶつ言う源大朗に、
「あら、夷やは時給じゃありませんけれど。はい。熱いので気をつけて」
新しいお茶の湯飲みをテーブルに置いていくラウネア。
そこへ、
「……ただいま」
キアが帰って来た。
「おっ」
「キア!」
「おかえりなさい」
色めき立つ全員。
マレーヤなどキアにさっそく飛びつこうとして、
「キア~! だいじょうぶだった? ……ぁう!」
するん、とキアにかわされる。
「おやすみなさい」
店の奥へと入っていくキア。
「おい、店はどうするんだ。仕事だぞ」
源大朗が言うと、
「お客さん、来るの」
「……いや」
「だったら、来たら教えて。疲れたから、ちょっと寝る」
それだけ言うと、階段から二階の自室へ上がって行った。トントン、という足音が消えると、
「オレも寝るか」
「あ、あの」
「ちょっと、おっさん!」
全員に尻を向けてソファーにごろり、横になる源大朗。しかしその目は細くだが開かれたまま、
「……」
じっと何かを考え込んでいた。
*
結局キアが降りて来たのは午後六時近かった。
もう夷やは閉店時間間際。マレーヤたちはとっくに帰っていた。
「ごめん。お給料、減らしておいて」
「あほ。うちは時給じゃねえよ」
「でも。……うん」
それだけ言って、また上へ上って行こうとするキア。
「待て。おまえなにか、言うことがあるんじゃないのか」
キアは答えない。源大朗は続けて、
「心配してたぞ。アスタリやマレーヤが。おまえが学校でいじめられてるんじゃないか、ってな」
「……それは、いいの」
「いいの、ってなんだ。ちゃんと言えよ」
「言いたくない。いまは」
こうなると、無理にしゃべらせることはできない。こう見えて、意外と強情なのを源大朗は知っている。
ここで助け舟を出したのはラウネアだ。
「言いたくないなら、源大朗さん、もう少し待ってあげましょう。キアさんが自分から言いたくなるまで。ねっ」
「けどな」
「まぁ、急がずに。キアさんにも考えがあるんですよ。それより、ちゃんとご飯、食べてますか? 晩ご飯、作りますね」
店奥の給湯スペースへ、そう言って行こうとするラウネア。
「いい」
「ダメですよ。ちょっと待ってください。そこにいてくださいね」
「作るって、ここでか。お湯くらいしか沸かせないだろ」
「IHのコンロを買ったんです。炒め物くらいなら、できますから」
そう言って、スーパーの袋に入った食材をかざして見せる。
「いつ買い物に行ったんだ。てか、ラウネア、買い物になんて」
「マレーヤさんたちが買って来てくれたんですよ。源大朗さん、寝てらしたから」
「そう、か」
「はい。少し待っていてくださいね。源大朗さんもお夕飯まだですよね。いっしょに召し上がってください」
ラウネアが給湯スペースへ消える。
残されたキアと源大朗。
「……」
「まぁ、言いたくなけりゃいい。だがな、遠慮はするな。迷惑がかかる、とかな。そんなもんは迷惑でもなんでもない。キア、おまえがどうにかなっちまうほうが、よっぽど迷惑だからな」
それだけ言うと、
「……うん」
キア、小さくうなずく。
源大朗、上着を引っかけて立ち上がる。
「食べない、の」
「ああ。おまえはしっかり食べとけよ」
表戸に手をかける源大朗に、
「源大朗さん、食べて行きますよね」
奥から顔を出したラウネアにしっかりと、釘を刺される。
「いや、オレは」
「お酒ばかり、いけませんよ」
「いや、……まぁ、食って行くか」
改めてどっかりとソファーに腰を落とす。どうやら飲み屋へ行こうとしていた源大朗の行動はすっかり読まれていたようだ。
十五分後。
「ぉ、うまいな」
「……うん。おいしい」
「お代わり、してくださいね。はい」
狭い夷やの店内は、すっかり料理の匂いと温かさで満たされていた。
となると。
「はろー! キア、元気になったー!?」
「あの、こんばんは」
がらがらがら、表戸を開けて顔を出すのは当然、
「おまえら、またか!」
「あら、いらっしゃい♪」
「うーん、いい匂い! そろそろかと思ってー。へへっ」
「キア、だいじょうぶですか?」
マレーヤとアスタリ。
「キア、ほんと、なんでも相談してよねー!」
「いつでも力になります」
ふたり、ラウネアにうながされてさっそくソファーへ。源大朗、狭くなって抜け出し、
「まったく、何回来るんだ。……まぁいい、オレの分も食ってけ」
「ダメですよ、源大朗さんの分はちゃんとあります。いますぐ、追加で作りますね」
「わぁーい! ラウネアさん、大好き!」
「すいません、ありがとうございます」
またにわかに賑やかになる夷やの店内。
その中で、
「……はむっ」
キアもラウネアの料理を口に運ぶ。
もう立ち入った話はない。誰も求めない。
ただ、いっしょにいるだけで、いい。
頭の上の耳が、どことなくうれしそうにずっと揺れていた。
*
翌日。
「おはよう」
帰って来るはずのない挨拶をして、キアは教室に入る。
だがすでに異様な空気に気付く。
視線を巡らすとわかった。黒板一面に書かれた、らくがき。
『ドロボウ猫、出ていけ!』
『クラスの空気悪いの、おまえのせいなんだよ!』
『マジ猫臭い! 最悪!』
などの文言が所せましと並んでいる。
ほかにもお決まりの、身体を売っている、男好き、盗みの常習犯、などが。クラスで物がなくなったのを、キアのせいと決めつける言葉も。
「……」
黒板に相対するキアを、クラス中が見つめていた。
しかしキア、なにも言わずに視線を外す。自分の席へ。
ところがここでも、待っていたのは嫌がらせの続きだった。
キアの机も、一面の誹謗と中傷の言葉で埋め尽くされていたからだ。
「ふふん」
にやにや眺めるのはサキと取り巻きのふたり。
キアの斜め後ろ、特等席で高みの見物だ。
だがキア、何も言わずに席に着く。椅子を引き、音もなく腰かけた。
すぐにカバンを開け、授業道具を取り出すことまで。
キアを注視していたクラスの生徒たちは、一瞬当惑するものの、拍子抜けし、さらにはどこかホッとした空気が流れた。
すぐにふつうのおしゃべりが始まり、教室はいつもの雑然とした雰囲気に包まれる。そのふつうさが、どこかキアを擁護するかのようだ。
逆に苛立ちが高じるのは、
「……ちっ!」
サキたちだ。
「なんだよあれ、認めてんのかよー」
「いくらで身体売ってんのー、ねー!」
囃すが、クラスの空気はもう乗せられない。付いてこない。
逆にサキたちへの目線が、厳しくなる。
サキは眼差しするどく、なにもアクションを起こさなかったが、
「な、なんですかっ! これっ!」
いちばん騒がしい声をあげたのは、いつの間にか入って来ていた担任教師だった。黒板を見るや、蒼白になる。
「誰ですか! 誰がやったんだ! き、キアくん! きみ、何か言いなさい!」
教師に名指しされ、キアが立ち上がる。
その机もまた、黒板と同じことになっているのを、教師も気づいた。
「誰がやったんです!」
「わかりません」
「なぜですか、なぜわからないんです!」
「朝来たら、こうなってた」
「じゃあ、誰が!」
「さあ……」
キアではらちが明かないと思ったのか、男性教師は他の生徒たちに次々問いかける。しかし誰もはっきりと答えない。
ただ、サキたちのほうをチラチラを見る者たちはいて、そうした空気は否応なく伝わって来る。
だが男性教師は、サキを一瞥するだけですぐに目を逸らし、
「な、なぜだ! なぜです! なぜ問題ばかり起こす! キミたちは! あ、亜人は、だからイヤなんだ! わけがわからないし、なに言っても変な能力でけむに巻くし! 手に負えないよ! 嫌だ嫌だ! 亜人なんてこりごりだ! 無理だ! なんで僕が亜人の面倒なんてみなきゃならない! ふつうの人間が、亜人なんて相手にやってられるかぁ!」
わなわなと震えながらいっきに吐き出すと、教室を飛び出していく。
加害者でも被害者でもない教師が、顔を真っ赤にしてわめき、投げ出すように姿を消す。その異常さは、人間でない亜人たちでもわかる。伝わる。
こうして朝のホームルームは吹き飛んだ。
キアは黒板も、自分の机の落書きも放置して、そのまま座っていた。
時間が来て、一時間目の授業の教師が黒板を見て、また紛糾する、と思いきや、
「この、キアって子はどこに? あなたがキアさん? 担任の斉藤先生は? ……わかりました。キアさんは、放課後わたしのところに来てください。では授業、始めますよ」
現れたのは女性教師。それだけ言って自分から黒板を消すと、しごくたんたんと授業を始めた。
ようやくホッとした空気が教室に流れる中、
「……くっそつまんねえ」
サキが暗い目でつぶやいた。
*
放課後。
言われたとおり、キアは女性教師のもとに行き、生徒指導室で話した。担任の男性教師はもう早退して、職員室にいなかった。
キアは問われたことだけを答えた。事実だけを話し、推測は極力混ぜなかった。
そんなキアに、女性教師は感心したように、
「わかりました。ほかの生徒にも聞いてみるわね。その、サキさんにも」
言う。
「先生が、このことを調べる、の?」
キアが問うと、女性教師は笑って、
「ええ。わたし、副担任なのよ。担任の斉藤先生は、一週間程度休むって、さっき連絡があったの」
それから女性教師、大事なことを忘れていた、とばかり、
「そうそう。さっき変な男の人が来て」
「男の、人」
「ええ。あなたの保護者だ、って。こう、髭がちょっと伸びていて、背が高くて、うーん、ぶっきらぼうな感じの……」
「あっ……」
「あなたがいじめにあっているから、調べて対応してくれって。最初は斉藤先生に言っていたのだけど、なんだかずいぶん口論みたいになって、斉藤先生は帰ってしまうし、わたしが話をして」
「それ、源大朗」
「そう! たしかそう名乗っていたわ! 訪問者の用紙に記入してください、って言ったのにきかなくて。でもとにかく、あなたのことをずいぶん心配しているみたいだった。おたくがやらないなら、オレが勝手にやらせてもらう、とか。だから少し、調べる時間を待っていただくようお願いしたのだけど」
「わかりました。ありがとう」
源大朗が学校に来ていた。
キアにわからないと思ったのだろうか。
そんなやり方も、源大朗らしい。
「とにかく、がんばりましょう。ねっ!」
女性教師がうなずく。そして言った。
「先生の名前はセイラ。こう見えて、セイレーンなのよ」
*
三日ほどが経った。
セイラのていねいなクラスメイト全員との懇談で、事件のほぼ全貌が明らかになって来ていた。
最初のうち生徒たちは口を閉ざし、なにかにおびえていたが、断片的にでもひとりがしゃべり出すと、すぐに続く者が出、やがて堰を切ったように話し出す。
その、どの証言もが、サキとその取り巻き一派によるいじめの始まりとエスカレートを顕していた。
だが決してサキは認めなかった。
「で、サキさん、どうなの? みんなが、あなたに言われてやった、あなたたちに命じられて逆らえなかった、と言っているのよ」
「……さあ」
目も合わせず、必要なこともしゃべらない。
知らなかった、やってない、あたしじゃない。だいたいその三言のみ。
ため息混じりにセイラはノートを閉じる。
「わかりました。あと一日だけ待ちましょう。明日の放課後までに、真実を先生に話してくれたら、その時点で判断します」
それだけ言うとセイラはサキに退室をうながす。
サキ、立ち上がると、後ろも見ずに生徒指導室を出る。
部屋を出ると、廊下の先に取り巻きのドラフの少女ふたりが待っていた。
サキはふたりの顔も見ない。
歩き続けるサキにふたりが並んで、
「どうする?」
「まずくない、これ」」
言うと、サキ、不意にふたりの髪をつかんで引っ張る。そのまま引き倒した。
「ぁ、ぁあああっ!」
「ぅうううっ、痛たたた、痛いっ!」
「おまえらがしくじったからだろっ! マジ使えねーな、くそドラフ!」
倒れたふたりを蹴り上げる。
ふたり、頭を押さえて転げ、
「ごめんなさい! ごめん! ごめんなさいっ!」
「許して! お願い! 痛いっ!」
腹の虫がおさまらないのか、サキは何度も蹴り続けるが、しまいには息を切らして壁にもたれる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……、マジつまんねえ。マジ」
乱れた長い髪が顔を覆う。
かきあげて、歩き出す、というところ、
「あ、あいつ、変なところに毎日行ってるみたいで」
ドラフのクンが、すがるように。蹴られ、踏みつけられ、擦り傷で血がにじむ顔を向けて、サキに告げる。
サキ、足を止めて、
「変なとこ?」
「こないだ、あたしらだけでキアをつけてみたんだよ。そしたら、なんか誰も住んでない空き家みたいのに入ってって」
シーも、声をそろえる。
サキは急に興味を抱いたようだった。
「いいじゃん。そこに連れてけっての」
明日も更新予定です。




