終章 満天
夜半過ぎに毛布の中でエルデモーナが身じろいだのを感じ、月を見上げていた男はそっと振り向いた。
「‥‥左眼は閉じたままにしておけ。傷が開く。」
耳元に口を近づけて声をかけると、驚いた表情で右眼だけ開けて、声の主を探している。
「いいからじっとしていろ。もうすぐ平地へ出る。」
掌でそっと、晒の上から左目蓋の傷を押さえる。女はその手に自分の手を重ね、指でなぞった。
「‥‥どうして。」
「ん?」
「なぜひとりで逃げなかったの‥。なぜ助けたの、なぜ一緒にいるのよ‥?」
か細い声はすすり泣いているようだ。
男は溜息をついた。
「おまえ。弟にわざと裏切らせただろう? ひどい姉だな。」
エルデモーナはう、と言葉に詰まったようだった。だって、とつぶやいて唇を噛む。
「母さまを‥死なせたことが、どうしても許せなかったの‥。ヨナンを愛しているのに‥大切に想っているのに、あの子が苦しんでいることも知りながら過ちを許せない‥。兄さまは死ぬ前に‥あの子は母さまの苦しみを救ったのだとわたしに言いきかせたわ。でもヨナンはきっと、母さまに死を与えることをまったく躊躇わなかっただろう、とわたしは確信しちゃったの‥。」
エルデモーナは彼の手に両手を重ね、声を上げてすすり泣いた。
「わたしは‥わたしの中の憎しみの芽が育って手に負えなくなることが怖かったの‥。こんな不毛な憎しみの連鎖は、やがて国にとって大きな災いとなる。だからその前に‥。」
男はもう一度溜息をついて、空いている方の手で髪を撫でてやった。
小舟は水の流れるままに、切り立った崖の間から短い草と岩ばかりの荒野へと抜けて進んでいく。
静かで、せせらぎの他には何も聞こえない。
頭上には満天の星が、今にも落ちてきそうなほど眩しく輝いている。
エルデモーナは不安そうに口を開いた。
「‥‥どこへ向かっているの。」
「北だ。」
「北って‥どこへ?」
「さあ‥。運が良ければどこかへ着くだろう。‥‥水を飲むか?」
湧き水を入れておいた革袋から、水を布に湿らせて乾いた唇に当ててやる。エルデモーナはゆっくりと吸った。
「‥‥ヨナンをどうしたの?」
「どうもしない。気絶させただけだ。あのセインとかいう男も。」
もう一度布ごしに水を飲ませながら、男は淡々と答えた。
「俺にとっては敵国の将だが、ハンナに恩があるから二人とも傷つけなかった。ハンナは無事だから安心しろ。おまえの手当をしたのは彼女だ。」
エルデモーナは目を閉じた。そしてもう水は要らない、と言うように首を振り、そのまま黙りこんだ。
男はまた月を見上げる。
やがて彼女は再び口を開いた。
「どうして‥わたしを助けたの? 憎んでいると言ったのに‥。」
振り返ると必死な顔が食い入るように見ている。
男はその瞳をまっすぐ見返した。
「おまえが憎かった‥。身分も名もすべて剥奪されて放り出されたウファルで、おまえと遭って、最後に残った戦士としての誇りさえも粉々に砕かれた。手も足も出ないまま敗れて‥。死ぬことさえ許されず、後悔と絶望の中でのたうち回って、何もかもすべておまえのせいにした。おまえは強くて、俺は弱い。そう認めることが苦しかったからだ。」
男は月光の中で穏やかに微笑んだ。
「今は素直に認める。おまえは誰よりも強い。でも俺は、いつかおまえより強くなってみせる。‥だから勝手に死ぬな。」
エルデモーナは再び唇を噛みしめて、目を閉じた。
何か言おうとして言えず、うっ、うっと顔をくしゃくしゃにして泣き始める。
「おい。泣くなら静かに泣け。顔の筋肉をあまり動かすな。傷がまた開く。」
うなずきながらも嗚咽が止まらない。
「ただでさえ不細工なのに、痕になったらどうする。泣くな。」
しゃくり上げながら彼女は、ひどい、ともっと泣いた。
「また不細工って‥! 嘘つき‥。ほんとは不細工じゃない、可愛かったって‥言ったじゃない、なのに‥。」
男は軽く声を立てて笑い、頬の涙を指で拭ってやった。
「不細工で不器用でとんでもない跳ね返りだが‥。女を愛おしいと思ったのはおまえが初めてだ。」
エルデモーナの大きな瞳が、更に大きく見開いた。
アリュイシオン、とか細い声で名を呼ぶ。
「おまえが呼ぶのならば‥‥その名からもう一度始めよう。」
男は再び左眼の包帯の上に掌を当てて、顔を覗きこんだ。涙を堪えて震えている小さな唇に、軽く口づける。
「十年前と違い、今の俺には何もない‥。故国も家族も何もかも失くした。この先どう生きるべきなのか、それすら何も見えていない。エルデモーナ。それでも俺についてくるか?」
見返す瞳に涙が再びもりあがって、とめどなくあふれ出す。
もちろん、とうなずいて、エルデモーナはにっこりと笑った。
「‥‥アリュイシオン。命のある限り‥離れないわ。」
月の影が水面にゆらゆらと揺れている。
水の流れはまだまだ細く、舟は静かに荒野を流れていく。
この流れの先に待っているのは希望なのか、それとも血ぬれた修羅の道か。
故国を亡くした男と故郷を追われた女が寄り添ってたどる道の上に、運命の星はどんなふうに瞬くのだろう。
どちらにしても選択肢などないと知っていた。進むか留まるか。二度と後悔しないためには進むしかない。
エルデモーナはいつのまにか眠っていた。
夜の静寂に溶けこむように、規則正しい寝息の音がせせらぎの合間に響く。
普通ならば最低でも今夜ひと晩は痛みで眠れないはずなのだが、呆れるほどの回復力だ。
―――こいつと運命を分け合えたならば‥‥きっと前を向いてゆける。
ただひとつだけ運命が彼に残したもの。この手だけは二度と離さない。
アリュイシオンは満天の星空を見上げ、胸に固く誓った。