第一章 亡国の虜囚
王は冷ややかな怒りと憎悪をこめて、目の前に跪く息子を見据えた。
「そなたには深く失望した。ただいまより王太子の位を剥奪する。ウファル城砦へ行け、何があろうとそこを動くな。一兵士として命を賭して北の蛮族から王都を護ってみせよ。」
「国王陛下、お待ちください‥!」
セレイオス将軍の制止する声を無視するかのように、冷ややかな声は続けた。
「‥聞こえなかったか、リュシアン? さっさとわが目の前から失せよ。王太子の身分を表すものはすべて、その身より外して置いてゆくのだ。一臣下としての忠誠とやらを天に示すがいい。」
「‥‥慎んで拝命いたします。国王陛下。」
立ち上がって一礼し、リュシアンは―――つい先ほどまでエフェルネイド七世と公称されていた男は、父に劣らぬ冷ややかな表情を浮かべ、王太子の証しとなるすべてを自分の身より剥ぎ取ると、静かに軍議の間より退室した。
控えの間からおろおろと見守っていた王妃は、振り向きもせず廊下へと歩いていく息子の腕に取りすがった。
「お待ちなさい‥! 早く、早く謝るのです! 国の危難に際して王家が分裂するなどあってはなりません‥。そなたが、陛下にお許しを請うのです。今ならばきっとお許し下さる‥‥」
振り向きも立ち止まりもせずに、男は冷たく答えた。
「無駄です、母上。陛下はわたしをずっと疎んじておられた。わたしが何を申し上げようと気に入らぬのです。意見を言えば生意気だと叱られ、黙していれば怠慢であると誹られ‥。仰るように這いつくばって許しを請うたりすれば、卑しくあさましいと罵られるだけです。それに‥わたしは許しを請うつもりなどありません。」
「そのような直截なきつい物言いをするから、疎んじられるのです。何がお気に召すのかもっと考えて、と母がいつも申していたでしょう?」
立ち止まり、王妃の手をやんわりと振りほどくと、男はいくらかやわらいだまなざしを母に向けた。
「申し訳ありませぬ。母上の貴重なご諌言を無駄にいたしました。」
「リュシアン‥。」
「王都を護って死ねとの仰せゆえ、生きてお目にかかることはもはやないでしょうが、どうぞご健やかに。」
そう言って彼は深々と頭を下げ、背中を向けて立ち去った。
母が再び振りしぼるように名を呼ぶ声が聞こえたが、振り向かなかった。
自室へ向かい、鎧を装着する。
剣を佩刀し、弓矢を備え、面甲を目深に被ると、護衛の者や従者に誰もついてくるなと言い渡した。
「殿下、わたしたちはお側をお守りするのが‥。」
「おまえたちの務めは王太子の警護だ。わたしはもう王太子ではない。更に言えば王族ですらない。一臣下として城砦の防衛に当たれとのご命令だ‥。今までよく仕えてくれた、礼を言う。そのまま王宮の警護に努めてくれ。母上や妃たちを頼む。」
涙をこらえ、うなずく彼らを退がらせて一人部屋を出ると、廊下にひっそりと佇む人影があった。
「ナターリャ‥。」
王太子妃は二歳になったばかりの王子を抱いて、涙をほろほろと流してじっと彼を見つめた。
「‥お恨み申し上げます。わたくしとこの子にはひと言のお言葉もなく、死地に赴かれるのでございますか。」
「‥‥」
「思えば‥殿下は王子が生まれた時も、顔を見にいらしたのは半年も経ってからで‥。ねぎらいのお言葉一つ賜りませんでした。冷たいお方とは存じておりましたけれど‥あまりなご仕打ち。今もそうです、殿下に先立たれてしまったならば、わたくしたちはこれからどう身を処すればよいのでしょう? なのに何のお言葉もないのですか?」
男は吐息を呑みこみ、答えた。
「‥‥そなたは子どもを連れて王宮を抜け出し、バルド王の陣へ向かえ。この戦はヴェルドキアの負けだ。もっと早くに送るべきであった、すまぬ。」
ナターリャは悲憤やるかたないといった表情で、彼を見返した。
「兄のもとへ戻れと‥! わが故国バルドが盟約を破棄してヴェルドキアへ攻め寄せているからですか? 敵国の女などもう妃ではないと仰せですか‥‥?」
うんざりしながら男は、そうではない、とつぶやいた。
「子とともに生きのびろと申しているのだ。わたしの子ではどちらにせよ、ヴェルドキアの王宮に居場所はない。‥‥そんな立場に追いこんだはわたしの罪だ。そなたには何も咎はない。だからすまぬと‥‥。」
ますます怒りに目をつり上げたナターリャはいいえ、と強く首を振った。
「わたくしは納得できません。この子はヴェルドキア第三位の王位継承権を持つ御子です。その身分を捨てて、故国の厄介者になるなど‥ありえませぬ。いいえ、わたくしはここを動きません。」
「‥‥ならば思うようにせよ。」
男は大きく吐息をつくと、再び歩き出した。
泣き叫ぶ声が耳に届いたが、足を止めなかった。
―――敗戦がはっきりすれば、自分から故国の保護を願うだろう。
バルド王は同母妹のナターリャを溺愛していた。ヴェルドキアにとっても交渉材料としては第一級だ。悪いようにはならないだろう。
どちらにしてももう自分にはどうしようもないことだ、と彼は他人ごとのように冷めた気分で考えた。
彼に忠誠を誓ったヴェルドキア第二軍は、東方の国境マルメ城砦で籠城の末に全滅した。ロワの騎馬兵団に備えて特別編成した機動部隊が、よりによって拠点防衛にまわされて退却不可の命を受け、援軍もなく見殺しにされた。
指揮官は彼の親友サルベール将軍だ。ヴェルドキアの黒鋼の鎧にちなみ、『黒い獅子』と勇名を馳せた男が本領を発揮できぬままに命を落とした。
彼はその間、誰一人気心の知れた者のいない第一軍で副将として西方戦線に従軍させられていた。撤退するしか能のない無策状態の中で、彼の提案はことごとく国王命令のひと言で退けられ、何度も命を落としかけながら帰還した王都で待っていたのは、盟友の無惨な死と西方戦線に対する敗戦の責任追求だ。
―――母上。国の危難にあたり王家を分裂させたのは、頑迷なる父上なのですよ。政争のために戦を利用するなど、愚かとしか言いようがない‥!
意に添わぬ王太子を失脚させるためだけに、あたら有能なる一軍を無意味に見捨て、国内に戦火を拡大させるなどあってはならぬはずであるのに。
そんな当たり前の理屈さえ解らぬのならば、王などと名のるなと言いたかった。
しかし。
―――俺も同じか。
父王を弑逆し王位を簒奪することを躊躇った結果がこれだ。
サルベールと第二軍をマルメへ赴かせる前に決断すべきだった。
国のために―――いや、自分と自分に従う者のためにだ。きれい事で取り繕おうとした自分の甘さが、たくさんの命を無駄死にさせた。
馬を飛ばし、一人ウファル城砦にたどりついた時には既に日は高く上っていた。
闘いの前の異様な静寂。
男は面甲をきっちりと被り直した。
目覚めた場所は岩窟の中だった。
木枠に藁を敷き詰め、麻布を掛けただけの粗末な寝台に横たわっていた。
頭がひどく重い。自分はどれほど意識を失っていたものか、見当もつかない。
上体を起こそうとして、両手首には填められた頑丈な鉄の枷に気づいた。枷は肩幅くらいの長さの太い鎖で繋がれている。目を遣れば、少し離れた場所に壁ではなく丸太を組み合わせた格子戸が見える。
どうやら虜囚となったようだが―――腑に落ちない。
捕虜は普通一つの檻に詰められるだけ詰めこんで収監するものだ。怪我をしていようが寝台など与えないし、殊更に手当などしない。しないというより、戦場では人手も薬も不足していて、味方の傷病兵の手当でさえ十分できない状況だから捕虜にまで回らないのが普通なのだ。
しかし彼は一人で寝台に寝かされていて、背中の傷には包帯が巻かれていた。それどころか体もそれほど汚れていないし、清潔な衣類を身につけている。たかが一兵士に対して、ずいぶんと丁重すぎる扱いだ、と思う。
ゆっくりと起き上がった。頭がくらくらする。
格子戸の外側にいた人影が、こちらを覗きこんで、異国の言葉で何かを訊ねてきた。解らないので答えずにいると、人影は慌ただしくどこかへ走り去った。
しばらくして足音が聞こえた。
格子戸の一部がパタンと音を立てて開き、つかつかと入ってきたのはどこかで見た憶えのある女だった。だが誰だったか思い出せない。
女は一応裾の長い襞飾りのついた服を身につけていたけれども、女にしてはすらりと背が高く、髪を肩にやっと届くかどうかというくらいに短くしていた。薄暗い岩窟の中ではよく見えないが、色白とはお世辞にも言えないのは解る。
女は軽やかな足取りで近づいてくると、にっこりと笑った。
「アリュイシオン。わたしを覚えている?」
男ははっとしてまじまじとその女を見た。
意識を失う直前の記憶が甦ってくる。
近くで見れば跳ね上がった癖の強い髪は真っ赤な色をしている。低いが柔らかく耳障りのいい声。
「おまえ‥。ロワの『赤い疾風』か? 女だったとは‥!」
彼女は人の良さそうな素朴な顔をいっぱいにしかめて、あーあ、と大きな溜息をついた。陽に焼けた小麦色の頬にはそばかすが浮いている。小さな顔に大きすぎる緑色の瞳が印象的だ。
「‥‥覚えていないのね。まあねえ、十年経つし。一度しか会っていないものね。無理ないか。」
「十年?」
彼女は隣に腰を下ろし、彼の頬に手を当てて間近でじっと見つめた。
「そうよ。わたしはエルデモーナ。十年前、ロワは大国ヴェルドキアに要求されるまま、人質兼後宮入りのために王女を贈ったの。王太子エフェルネイド七世の三番目の妃としてね。それがわたし、十三だったわ。」
彼女は彼の耳に唇を近づけて、囁くような小声で話した。
「ふた月以上もさんざん待たされて‥。やっと謁見できる日が来て、どきどきしながら頭を下げて待っていたの。そうしたらしばらくして顔を上げていいって声がして、貴方がいた。‥‥この顔、この声。忘れたことはないわ。子ども心に眩しいほど美しい人だと思ったの。」
男は冷ややかな表情で、女の手を頬から払った。
彼女は苦笑いを浮かべる。
「ふふん。そんな女は掃いて捨てるほどいたんでしょ? 覚えてるわけないって顔よね。でも不細工だから要らないって言われて、国に返されたのはわたしだけのはずよ。側に置きたくない、山出しは山に帰れって‥。面と向かってそう言ったの。覚えていないの?」
不意に真っ赤なくるくると渦巻く髪に、きらきらした大きな緑の瞳の少女の姿が脳裏に甦った。
まっすぐな黒い髪に青か灰色の瞳が多いヴェルドキアでは、渦巻く髪も赤い色も、緑の瞳も―――更に言えば臈たけた白い肌ではなく小麦色の肌もとても物珍しかった。まるで人ではない生きもののように見えた、と言えばそうなのだが。
―――あの日は‥いろいろな事が積み重なって苛々していた。単なる八つ当たりだ。
男は冷たい無表情を崩さずに、女を見遣った。
「だからヴェルドキアを恨んでいるのか? それで‥‥」
「戦を仕掛けたとでも? まさか、そんなバカげたことはしないわ。‥‥一応、いろいろあって、ロワは現在わたしが王位にいるのよ。返されて良かったわ。どうせあそこで帰れって言われなかったとしても、嫌いなんだからぜったい逢いに来てくれないでしょう? あんな息の詰まる場所で飼い殺しになってたら、病気になって死んじゃってたと思う。」
女王はにこにこと屈託なく笑った。
殺されたって死にそうもなく見える、と心の中でひそかに言い返す。
彼女は再び、男の頬を両手で挟みこんで自分の方を向かせ、じっと見つめた。
「アリュイシオン‥。なぜあんな場所にいたのかは知らないけれど‥。貴方はわたしの愛しいアリュイシオン。戦場で拾ったのだから、貴方はわたしのもの。否やはないわ。ふふ。」
冷徹な瞳でじっと見つめ返し、彼は言った。
「何を考えているのか知らないが‥。無名の兵士に人質の価値はないぞ。」
するとエルデモーナは口もとに冷ややかな嘲笑を浮かべ、手を離して立ち上がった。
「ごめんなさい、人質は要らないの。ヴェルドキア王国はもうないんですもの。交渉相手がいないのに、人質は意味がないでしょう? 国王陛下も王太子殿下も、セルジア軍の手にかかることを潔しとせず、戦火の中で自決なさったわ。」
「ヴェルドキアが‥‥ない‥?」
男の胸の中で急に、訳の解らない激しい感情が噴き上がってきた。
―――あの父が‥‥死んだ? ヴェルドキアが滅亡したというのか。
四百年続いた大国ヴェルドキアが、ただ一度の敗戦で滅亡する―――信じられない。
だがその思いより強く激しくこみあげる、父の死へのこの、足下が崩れ落ちるような喪失感はいったい何なのだ?
女の冷たい微笑を呆然と見返して―――漸う己の甘さを思い知るとともに、我が身の浅はかさを男は心の底から呪った。