6
出発の朝は、よく晴れていた。
グランドフロスト以降、空が晴れることは滅多にない。分厚い雲が常に空を覆い、太陽がどこにあるのかもわからない日が続く。それでもたまに、こういう朝がある。雲が薄くなり、白い空の向こうにうっすらと光が透けて見える。
縁起がいい、と誰かが言った。
私はどちらでもいいと思ったが、口には出さなかった。
広場では荷造りの最終確認が進んでいた。マリが仕分けた物資を男たちが担ぎ、トトスが人員を確認して回っている。子供たちは興奮しているのか、それとも不安なのか、いつもより声が大きかった。老人が一人、廃墟の壁を手で触れてから離れた。二年間、ここで生きてきた場所だ。感慨がないわけがない。
私は集落の外れで、出発の準備を眺めていた。
そのとき、見張りの男が走ってきた。
顔が青かった。
「来る」
息が乱れていた。
「北の方から。でかい。すごくでかい」
広場が一瞬固まった。
次の瞬間、トムの声が響いた。
「子供と老人は建物の中へ。動ける者は武器を持て。落ち着いて動け」
声は大きくなかった。それでも通った。広場が動き始めた。混乱しかけていた流れが、トムの声を軸に整い始める。子供を抱えた母親が建物へ走り、男たちが武器を手に取った。
私はトムの隣に並んだ。
「来たね」と私は言った。
「ああ」とトムは言った。
「足跡の主か」
「たぶんね」
北の雪原の向こうに、白い影が見えた。
大きかった。
「やっぱり」
「サーベルタイガーだ」
サーベルタイガーは目撃例はあるもののその数は極端に少ない巨獣だ。理由は単純で、出会ったものが生還していないから。武装した戦士50人で命からがら討伐したと噂で聞いたことがあった。
その動きは、想像より速かった。
四足で雪を蹴る音が地響きのように伝わってきて、それが近づいてくる。全身が白い体毛に覆われ、雪原と同化するように見えた。上顎から伸びる二本の長い牙が、朝の薄い光の中でぬらりと光った。
体高はトムの倍近い。
広場に飛び込んできた瞬間、まだ逃げ遅れていた数人が悲鳴を上げた。トムが踏み込んで剣を振り、注意を引きつけた。獣の視線がトムに向く。
「逃げて」と私は残っていた者たちに叫んだ。
「早く」
人が散った。
サーベルタイガーがトムに向かって牙を振るった。トムが後退しながら弾く。衝撃で雪が舞い上がった。普通の剣ではあの牙の一撃を受け切れない。トムだから弾けた。
「引きつけてて」と私はトムに言いながら、横に回り込んだ。
「どのくらい」
「三十秒」
「本当は?」
「ごめん、五十秒」
「それでいい」
私は獣の側面に回りながら、体の構造を観察した。全身を覆う体毛は厚い。甲殻のような硬さはないが、その分動きが速い。急所を狙うなら目か、耳の後ろか——
トムが大きく踏み込んだ。獣の注意が完全にトムへ向いた瞬間、私は走った。
獣の後足に向かって低く滑り込み、膝の裏にナイフを入れた。体毛が厚く、浅かった。それでも獣が反応して振り向く。私は転がって距離を取った。
「深くない」と私は言った。
「わかった」とトムは言った。
「別の場所を探す」
獣が私に向かってきた。速い。間に合わない——と思った瞬間、石が獣の顔に当たった。
トトスだった。
廃墟の残骸の陰から、石を投げていた。獣の注意が一瞬散れる。私はその隙に立ち上がって後退した。
「助かった」と私は言った。
「急所はどこだ」とトトスは言った。
「目か、耳の後ろか——でもあの速さじゃ近づけない」
戦いは、広場から雪原へと流れ出た。
一か所に留まって戦える相手ではなかった。突進してくるたびに散り、また集まり、散りを繰り返した。獣は速いが、旋回に時間がかかる。方向転換の瞬間に隙がある。それだけが、唯一の糸口だった。
戦える者が数人、怪我を負った。深手ではないが、動きが落ちた者は後退させた。マリが建物の陰で手当をしながら、全体を見ていた。
「右に回り込んで」とマリが叫んだ。
「左後足をかばってる」
私はそちらに目を向けた。確かに、左後足の踏み込みがわずかに浅い。どこかで傷を負ったのか、それとも元々の癖なのか。いずれにせよ、弱点だ。
「トム」と私は呼んだ。
「見えてる」とトムは言った。
獣が再び突進してきた。今度はトムではなく、私に向かって。
私は逃げなかった。
真正面から向かってくる獣を見ながら、タイミングを測った。牙の軌道。踏み込みの深さ。旋回の癖——来る。
直前に左に跳んだ。牙が空気を切った。獣が通過する瞬間、私は後足の左、傷のある箇所にナイフを全力で叩き込んだ。
獣が吼えた。
動きが乱れた。よろめきながら旋回しようとする——その瞬間、トムが来た。
踏み込みの深さが、これまでと違った。
全力だとわかった。剣が獣の首筋、体毛の薄い箇所に深く入った。一度では止まらなかった。
引いて、もう一度。
獣の動きが、止まった。
ゆっくりと、音を立てて雪の上に崩れ落ちた。
しばらく、誰も喋らなかった。
荒い息だけが、白い空気に溶けていった。
建物の中に避難していた人たちが、おそるおそる出てきた。
サーベルタイガーの巨体が雪の上に横たわっているのを見て、最初は誰も声を出さなかった。それからじわじわと、ざわめきが広がった。子供が一人、駆け寄ろうとして母親に止められた。老人が何か呟いた。
怪我人の確認をした。重傷はなかった。それだけで十分だった。
トムが剣を収めながら、私に言った。
「うまくやったな」
「そっちこそ」と私は言った。
「最後の一撃、見えなかったよ。速すぎて」
「あんたが足を止めたから踏み込めた」
「お互い様だね」
トトスが近づいてきた。豚の面が、倒れた獣を見下ろした。
「でかいな」とトトスは言った。
「うん」と私は言った。
「これが足跡の主だよ、たぶん」
「……偵察に出た三人は」
誰も答えなかった。
答えられなかった。
トトスは少しの間、黙っていた。それから顔を上げた。
「出発しよう」とトトスは言った。
「荷はまとまっている。天気もいい。今日を逃す理由がない」
トムが頷いた。
「そうしよう」
集落を出たのは、昼前だった。
四十人あまりの列が、雪原を歩き始めた。老人が歩き、子供が走り、母親が荷を担いだ。先頭をトムが歩き、後ろをトトスが締めた。マリが列の中ほどを行き来しながら、遅れている者の荷を手伝った。
私は列の横を歩きながら、来た道を振り返った。
廃墟の集落が、遠くなっていく。二年間、四十人が生きた場所。名前もない、小さな集まり。それがいま、全員で別の場所へ向かっている。
悪くない光景だと思った。
隣にトトスが並んだ。
「名残惜しい?」と私は聞いた。
「少しね」とトトスは言った。今日は口調が柔らかかった。緊張が解けたのかもしれない。
「でも、ずっといるつもりもなかった。最初から」
「そうなの?」
「ああ。あそこは、次へ行くまでの場所だと思っていた。」
「じゃあ、次が来たってことか」
「そういうことだ」
トトスは前を向いた。列の先頭で、トムが振り返らずに歩いていた。
雪原は広く、空は白く、道は長かった。
でも、歩く理由があった。それだけで十分だった。




