黒の騎士のナイフ
権力を除いてあと僕に残っているのは、お金しかない。僕がアシュを救える道があるとすれば、それだけだ。勿論、それをそのまま貴族院に差し出しアシュを売ってくださいだなんて、気が狂ったかと思われるようなことをする気はない。別の所から、アシュを「買い取る」のだ。
そのためには、その別の所にアシュを手に入れて貰わなければ困るけれど。
別の所、すなわち、影蛇から。
影蛇が盗み出したものを秘密裏に僕が買い取って影蛇から解き放ち、アシュを自由にしてあげればいい。もちろん、盗み出されてしまえば護衛である僕の失敗と言う事になるかもしれない。それは、不本意だけど覚悟の上だ。
不安要素は影蛇の目的で、何のために天気姫を盗もうだなんて考えたんだろう? そもそも、伝説でしかない筈の天気姫が実在すると知っているのは何でだろう?
得体のしれないやつらが、僕の目論見通り金を払えば売ってくれる、すなわちそのままアシュを自由にしてくれるのか、それが一番の懸念材料だ。相手は悪党だから、自由にした後にまた捕まえるかもしれないし。
こういう事を詳しく調べるためにも、僕は影蛇について詳しく知らなければいけない。相手の性質を見極めなければならない。
とはいえ、世の中でも影蛇の名前は有名だけれど予想以上に尻尾が掴めなく得体が知れない団体と言う事以外、調べてみても良く分からなかった。一つ分かったと言えば、貴族にはそこそこ憎まれている影蛇だけど、庶民にはどちらかというと義賊物の物語の登場人物のように好意的に取られていると言う事だ。モデルにした物語本なんかも、密かに流行っているらしい。
情報が掴めない以上、手っ取り早いのは会ってみる事だけど、ここで一つ僕は自分の作戦の盲点を発見した。
どうやって、接触するんだよ?
相手がどこで何をしているのかも全然わからないのに。
世間的にも正体不明の謎の集団に接触する方法だなんてあるのだろうか? プロの警備隊が捜査しても尻尾を掴めないような相手に? 新聞に訪ね人の記事でも出したら来てくれるだろうか? いや、それに気づいた警備隊に待ち伏せされて僕が疑われるのが関の山だろう。
あ。でも。
僕は一度会っているんだ。おそらく影蛇所属だと思われる人間2人と。主都の街中で戦って。そして、僕はナイフを投げられて怪我を受けた。そのナイフは、僕の手元にある。警備隊に証拠品として提出しても良かったけれど、あの時僕はそれをしなかった。影蛇からアシュを守るのは僕等護衛の仕事だし、ライウの傘下である警備隊にわざわざ渡す事もないかと思った。ならば僕が独自に調べてライウを出し抜こうと、思っていた。忙しくて、そのまま忘れて放置していたけれど。
慌てて自室の机の中を探ってみると、ハンカチに包まれたままそれはそこにあった。手にとって中身を取り出す。何の変哲もないような簡素なナイフで、銀色の刃に質素な木造りの柄。何か手掛かりはないものかとひっくりかえしてよく探してみると、柄の底の方に小さな紋章が入っている。顔を近づけて目を凝らして見る。鷹の羽を持った狼の紋章。主都では街中でよく見かける馴染みのある模様。
これは、警備隊の紋章だ。
警備隊の制服や建物には、必ず入っている。と言う事はこのナイフは警備隊の備品と言う事だ。つまり、ナイフの持ち主は警備隊の人間である可能性が極めて高い。警備隊には、影蛇に通じている人間がいる……?
だけど、警備隊っていたって呆れるくらい人数がいる。その中から該当の人間を探すだなんて、大きなどんぶり一杯の豆粒のなかから、たったひとつ小さな傷がある豆を見つけるようなものだ。気が遠くなりそうだ。もし僕が警備隊の人間で、内部関係を把握しているのならばまだましかもしれないけれど。
……いるな。そういう人間。警備隊の内部事情をすごく把握していそうなやつ。なんてったって隊長様だし。癪に障るけれど。
書庫にしても今回にしても、どうしてもいつでもライウの面影がちらつく。常にあいつは僕の前にいるようだ。もしかしてあいつも、この事に気が付いているだろうか? 警備隊の内部に影蛇に繋がる人間がいる事に。いや、それはないか。だったらそのまま放置しているなんて有り得ない。いや待てよ? あいつならありうるかもしれない。 何か目論見があれば。ライウ自身も何を考えているのかよくわからないし。
もし、ライウも僕と同じ事を考えていれば? それなら、同じ警備隊内にいる影蛇の人間を敢えて野放しにしていてもおかしくない?
いや、それより。
ライウ自身が影蛇の人間と言う可能性は?
まさか、そんな。ライウは由緒正しい貴族の一人息子。そんな人間が盗賊団に所属するだなんて有り得ない。でも、あいつは貴族らしくない。時々見せる、貴族院や今の制度に反発するようなあの行動。アシュに知識を吹き込んだり、勝手に警備隊に就職してしまったり。
まさか。
でも、それならば説明がつく。僕と大道芸人が街中で大立回りを演じた時警備隊が姿を現さなかったのは、隊長であるライウがその派員を拒んだかうやむやにしてもみ消したからでは? それに、あの黒騎士。背の高さや体格を考えてみると、ライウだと言われても不思議ではない。あの気配の殺し方や身のこなしも、ライウならばできるだろう。寄宿舎学校を文武共に首席で卒業したと言われるライウならば。今も警備隊で日夜稽古を欠かしていないだろうし。
さらに、決め手は僕が槍で突けた手の甲の傷。
僕は思い出す。次の日、アシュの元に訪れたライウは白い手袋をしていた。あれは、手の甲の傷を隠すためのものでは? 実際、その後僕が警備隊の本部を訪れた時には手の甲に傷跡があった。あの時は警備隊の稽古かなにかで付けたのかと思っていたけれど。
ライウが影蛇の人間だとすれば、すべてが上手くあてはまる。一部の貴族しか知らない筈の天気姫の存在を、盗賊が知っていた事も。
それならば、へりくだってライウに頼みに行く必要はない。
僕は自室を跳び出して、執事に馬車の用意を言いつける。夜分に失礼かもしれないけれど、この時間ならば在宅だろう。目指すはアマミ家だ。
ライウの自室の部屋は警備隊本部の部屋と同じく簡素なものだった。違いはベッドの有無くらいだ。図々しい時間の訪問にびっくりした顔のアマミ家の執事をやり過ごし、案内した召使の好奇の目を無視してようやく辿りついたその部屋で、ライウはいつも通りの感じの良い笑顔で僕を迎えた。先日の感じの悪さはどこへ行ったかと面食らってしまうほどだ。
でも、やはり先日の毒々しさは僕の幻覚ではなかったらしい。召使が去って、別の侍女がお茶と夜食を置いて去ると、ライウはお茶のカップを片手に微笑んで言った。
「忠告をきちんと聞いて家の方にお訪ねくださるとは、殊勝な事ですね」
やはり本性は嫌味な人間だ。
「夜分遅くでまた叱られるかと思いましたけど」
「私はこの時間帯でないと家にいませんし。家人は迷惑したかもしれませんけどね。少し、社交界であなたの悪評をわが家の人間から広められるくらいですよ。……くだらない、どうでも良い事です」
その口調は、少し冷めているように感じた。やっぱり良くわからない。社交界で悪い噂が流れる事を、貴族は皆嫌う。人に馬鹿にされたり、見下して笑われたりする事を、極度に嫌がる。そのくせ、そこは噂の坩堝で、人々は噂を絶やす事がない。
「暇人たちの戯言はいちいち気にしない事ですよ」
僕の考えている事を読んだかのようにライウはそう言って、にっこりと笑った。そういえば、こいつの噂は常に絶える事がないものな。
「それで、今日は何のご用事です?」
促されて、僕はちらりと一瞬ライウの左手の甲に目をやる。もうほとんど治っているけれど、傷はまだうっすらとそこにあった。それが、僕の背中を押した。
「この部屋は、誰かに話を聞かれている可能性はありますか?」
「ないですね。僕はそこら辺に関しては慎重を期しています。誰かが部屋に近づいたら分かる様な仕掛けをしていましてね」
自分の家にいて、自分の部屋にいるのに驚くくらいの慎重さ。舌を巻く思いながら、僕はそれで安心して口を開く。
「確認したい事があります。これは、あなたのナイフですか?」
僕は布に巻いて上着の内側に忍ばせておいたナイフを慎重に取り出し差し出す。じっくりとライウの表情を観察しながらだったのに、ライウは眉の一つをぴくりとも動かすことはなく、まったくいつもと変わらない表情だった。そのまま、僕の手の中からナイフを受け取って手の中でそれを検分する。
「私の物かは分かりかねますが、警備隊のものではあるようですね」
無難な回答。
僕は徐々にせり上がってくる興奮と、緊張で心臓がどくどくと言うのを感じた。
「それは、僕が大道芸人と戦った時にこちらに向かって投げられたものです」
「そうですか。それで、何故私のものだと?」
「大道芸人の中に、黒騎士に扮した者がいて。その者の背格好がライウ殿とよく似ていたような気がしたのがひとつと」
僕はもう一度、ライウの手の甲に目を走らせる。
「その時僕が相手に追わせた槍傷と同じような傷が、ちょうどあなたの左手の甲にあるのです」
ライウはちらりと自分の左手に目を落とした。でも、それ以上の反応はない。
僕はライウの言葉を待って口を閉じる。胸が苦しくなって、息をするのに苦労をした。ライウはなんと答えるだろう? 僕はこいつをきちんと追いつめられているのだろうか?
「もし私がその大道芸人だったとして、セイ殿は何の目的でいらしたのですか?」
ライウは特に言葉を乱すことなく、本当に疑問に思った事を聞いたという風に僕に尋ねた。
「何の目的って……」
何故か僕の方が動揺してしまった。その事でお前を脅迫しに来たと、あからさまに言えない。ライウは僕の動揺を見て僅かに面白そうに目を細めた。
「それで私を捕えようというのならば、張本人に突然言い出すよりも信用のおける筋に先ず相談して脇を固めるのが普通でしょう。それを思い至らないほど愚かな方ではないと思いますしね。それをせず、人払いを求めてまで私の部屋にご自身だけでいらしたのでしたら、何か目的があっての事かと思いますが」
そう言って、答えを待つように僕を見る。ゆったりと椅子に背を預けて膝の上で指を軽く組んで、随分余裕な態度だ。
僕のこめかみから、汗が一筋流れ落ちた。言ってしまって大丈夫だろうか? こいつは信用できるのか? 万が一余計な事を言って貴族院に告げ口をされては?
でも、ここで言わなければ話が進まない。僕の計画は、進めない。
迷った末に絞り出した声は自分の声じゃないようだった。
「あの大道芸人は影蛇に繋がっています。だから、あなたが影蛇に直接関わりがあるのならば……僕の提案を、影蛇の人間に繋いで欲しいと」
「提案?」
「それは、言いません。あなたが答えるのが先です」
僕が言うと、ライウは苦笑した。
「セイ殿、書庫に行きましたね?」
「え?」
「あなたは、素直だな。昔の私を見ているようで面映ゆくなる」
「どういう意味ですか?」
癇に障る言い方だ。僕がちょっと言葉を強めると、ライウは軽く首を振って気にするなと言うような仕草をした。
「数日前、警備隊本部から備品が数点盗み出されました。犯人は捕まっていませんが、このナイフは、おそらくその時の盗品でしょう。それから、私のこの傷は街中で起きた窃盗事件で犯人に負わされたものですよ」
目の前が真っ暗になった。なんだと? じゃあ、全部僕の勘違い?
せっかく影蛇の尻尾をつかんだと思ったのに。アシュを救える一筋だけの道に光が差したかもしれないと、思ったのに。
突然、目の前のライウが声を上げて笑いだした。心底愉快そうに。
「本当に素直だな。せっかくたどり着いた真実を、ちょっとそれらしく否定されただけであっさりと諦めてしまうだなんて」
僕は驚いて目を見開く。こんな笑い方をするライウを見るのは初めてだ。
「だからあの子は、君を思いきれないのかもしれない」
はあと息をついて、どうにか笑いを収めてライウは僕を見る。恐いくらいまっすぐな目だった。僕の体の中を射抜くような。
「君はまだ子供ですね。自分が子供だと分かっていないようだけど。でも、久しぶりに笑わせて頂いたからお礼をしようか。明日の正午の鐘が鳴る丁度その時、主都の大時計塔の下にいてみなさい。もしかしたら、君の会いたい人に会えるでしょう」
言うだけ言って、質問を許さないかのように立ちあがって優雅に歩いて部屋のドアを開けた。
「さあ。もう夜も遅い。お家へお帰りなさい」
聞きたい事はたくさんあった。言いたい事は、たくさんあった。それなのに何も言えなかった。口を開きかけた僕の言葉を、ライウは視線で制止した。何もかも見通したような目をしていると思った。僕の目的も、考えている事も全部分かっているというような顔をしていた。
大時計塔は主都の真ん中にあって、決まった時間になるとその大きな鐘を主都中に響き渡らせる。今日のアシュの護衛はヒョウが当番だから、僕は比較的自由に行動できる。ライウが信用できるのかどうかと疑いはあったものの、結局僕は言われた通り正午前になると、大時計塔に向かった。用心の為に、棒を持って。
大時計塔前と言っても広い。そこは大きな広場となっていて、様々な露店が出たり、大道芸人たちがそれぞれパフォーマンスをしている。待ち合わせや散歩をする人間も多くて、人ごみとは言えないまでも、人は多かった。
こんなところで僕が見知らぬ誰かを見つける事ができるのだろうか?
本日の天気予測は晴天。呑気な青い空には白い雲がいくつかぷかぷか浮いている。明るい広場には、多くの人間が笑いあって行き交っていた。何の憂いもなさそうな長閑な風景だった。子供たちが大騒ぎでじゃれ合って遊んでいる。どう見ても、平和そのものの風景だった。
頭上で、大きな音が空気を揺らした。鐘の音は僕の鼓膜を恐ろしいほど震わせる。広場の人間がみんな一瞬時計塔を見上げた。ああ、正午きっかりだ。心臓が、ぎゅうと一瞬収縮する。
風景に特に変わりはない。相変わらず、人は多いしゆったりとした時間が流れている。無意識に構えていた事に気づいて息を吐こうとした瞬間、しゃん、という音が耳に届いた。どこかで聞いた音。空気を微かに震わせる鈴の音。
僕は顔を動かして、音の出元を探る。行き交う人の中に、悠々と歩く見覚えのある大道芸人。顔に濃い化粧を施し、足についた鈴をしゃんしゃんと鳴らして歩くひょろながい体格は、見間違えようもない。あの時の狂言回し。異彩を放つ格好だけど、広場には多くの大道芸人がいるので誰も気に留める者はいない。雲の上を歩くように、重さを感じさせない飄々とした歩き方でこちらをちらりとも見る事はなく、狂言回しは僕の前を横切って行く。
一瞬呆然とそれを見送って、それから慌ててその後ろ姿を追いかけた。
ひょいひょいと身軽に人を避けて歩く様子から一見そうは見えないが、その歩く早さはかなり早い。大きな時計塔の周囲を一周するように歩いたと思ったら、裏にある入口から塔の中に入った。塔はいつも管理人が管理していて、中に入る為の鍵は管理人が所持している筈だけど、ドアに鍵はかけられていないようだった。僕がノブを回しても、ドアは開く。
外の明るさの中から急に塔の中の薄暗闇に入ったから、目がくらむ。塔の上の方には天窓から光が入っているから、下から見上げると上の方だけ明るく見えるけれど、底の方は闇が沈んで貯まりこんでいるように暗かった。早足の狂言回しは既に上の方にいるのか、鈴の音が反響して上から降ってくる。それに重なって、微かな時計の針が時を刻む音。僕も上に登ろうと目の前から伸びている螺旋階段に足をかけた。階段は壁に沿って作られており、傾斜が急で、しかも視界も悪いからとても登りにくい。足元に注意をして上っていると、上の方からの鈴の音に鼻歌が混じった。どっかの田舎の地方の遊び歌だ。おちょくられているようで少しムッとする。その声はかなり上の方から聞こえたし。あいつ、本当に足早いな。
登れど登れど、階段には先がある。眩暈がしそうだ。ぐるぐるぐるぐると、塔の塀に沿って。息が上がって、壁に手をつきながら肩で大きく息をして歩き続けた。
ようやく光の差し込むあたりにたどり着いた。終わりが見えた気がして立ち止まり、少し息を整える。万が一、頂上についてすぐに攻撃されたりしたらたまらない。ここで体勢を整えておかなければ。大きくゆっくりと呼吸をして息を整える。顔も体も汗でびっしょりだ。衣服が体に張り付いて気持ちが悪い。
なんとか息を整えて、体を冷ましてからまた歩き出そうとする。いつの間にか、鈴の音も鼻歌も聞こえなくなっていた。しんとした塔の中に時計の音だけが一定間隔で時を刻み続ける。下で聞いたより、大分大きい。歩きだす直前塔の中心の空洞を見下ろしたら、闇に塗りつぶされて下が見えなかった。どれだけ高くまで登ってきたのだろう。ここから落ちたら死ぬだろうなあ、と思ってしまってちょっとぞっとする。
よし、と一息入れてまた階段を上る。ここまでくればあと一息だ。また階段を昇り始める。ぐるぐるぐるぐる。上に近づくにつれて時計の音がどんどん大きくなる。頭が割れそうなほど。だんだんと、文字盤の裏側が見えてくる。飲み込まれそうな大きな歯車がいくつも連なってゆっくりと緩慢に回転しているのが、化け物のようだ。そのすぐそばを通り抜けて、文字盤の裏側にある部屋のような場所を抜けて、更に上を目指す。文字盤から外の光が漏れ差し込んでくるから部屋の周囲は明るい。でも、そこを通り抜けると、また辺りは薄暗くなった。せめて、ここで鐘が鳴らないのが救いだ。時を刻む音だけでこんなにうるさいんだから、こんな場所であの大きな鐘の音を聞いたらきっと耳が壊れてしまう。
部屋を抜けると階段はすごく細くなってきた。体を細める様にして更に急斜面になったそこを上がりきると、とうとう目の前に粗末な木造りのドアが現れた。
ゆっくりと、警戒しながらそのノブを回す。少し錆びたような感触を手の中に残したそれは、力を込めると素直に回った。ゆっくりドアを開けると、細い隙間から青空が広がった。そこは小さなバルコニーのようになっていて、主都が上空から広く見渡せる。一歩外に出ると、大きく風に煽られた。すごい風だ。風の音が耳元でけたたましい。でも、バルコニーの手すり越しに見える主都は広々と美しく、青空はどこまでも遠く広がっていて気持ちが良かった。
あいつはどこへ行った!?
僕は手すりにつかまりながら警戒して周囲を見渡す。バルコニーは塔の壁にそってぐるりと円状に作られている。ゆっくりと警戒しながらそれに沿って歩いて行くと、狂言回しの姿は見当たらなかった。ただ一つ、たらりと力なく垂れ下がった縄梯子が塔の天井から垂れて来ている。階段はここまでだけど、確かにこの塔にはこの上がある。鐘のある鐘楼があって、その上に屋根がある。その屋根の上にこの国の国章である太陽のマーク。
悩んだ末に、僕は梯子に手をかけた。おそらく上へと続いているのだろう。丈夫さに不安があって何度か引っ張ったけど、特に緩む様子はなかったし。
階段と違って不安定な縄梯子の不安さは言い知れない。風の強い場所だし、足元が常にぐらぐらとする。壁に沿ってある縄梯子だと言う事だけが救いだ。少なくともそちら側にはぐらぐらと動かない。そう思っていたら突然その縄梯子がふわりと壁から離れた。え? 僕は慌てて進めていた足を止めて縄梯子に足を踏ん張った。何が起きたか把握できない。ただ、分かる事は縄梯子がどんどん時計塔から離れて行っている事だ。そして、僕の体も……。
僕の体は既に時計塔のバルコニーの範囲からも抜けて、何もない空中に縄梯子とともに浮いていた。混乱する頭で、なんとか振り落とされないようにと縄梯子に更に強くしがみつく。上を向くと、青い空が広がっている。空の中からぽっかりと縄梯子が垂れ下がっている? そんな馬鹿な。目を凝らそうとしたら、空の真ん中、縄梯子の続く先に突然黒い四角い穴がぽっかりとできた。なんだ、あれ? もっと良く目を凝らして、僕はようやく合点が入った。空の中に、異質な物体の輪郭が見える。あの姿は、何度か見た事がある。この国で目にする機会は殆どないけれど。とある外の国では随分活躍していると聞く空船だ。まるで空を海のように行き来する船。その国では空船専門の盗賊までいるらしい。この国ではこれを使った所で特に役に立つ事もない上、燃料がこの国では発掘されていないものなので普及していない。僕の頭上にぽっかりと浮いている空船は、その全面が空と同じ青色で、吐く煙は雲と同じ白。よくもこれだけ色を似せられたものだと感心してしまう。
僕が唖然としていると、入口であろう黒い穴から狂言回しが顔を出した。僕を見つけると、青く塗った毒々しい唇の両端を吊上げてにまりと笑って、ひょいひょいと細長い指で僕に向かって手招きをした。
罠かもしれない。としても僕はすでに罠にかかってしまっているのだろう。こんな空のど真ん中で、逃げ場なんてどこにもない。もう進むしかないのだ。
僕は覚悟を決めて、ふらふらと心もとない縄梯子を踏みしめる。ぎゅうぎゅうと嫌な音をたてる梯子は、それでも一応梯子の役目は果たしている。ようやく梯子を渡り切ると、狂言回しは僕にそこから中に入るように促した。僕が入りこむと、内側からまたぱたりと青い蓋をする。それからついて来てくださいと僕に言って、ふらふらと歩きだした。鈴は外したのか、もう音はしない。
「久しぶりですねえ。貴族の坊ちゃん」
狂言回しは歩きながら特に好悪の感情を感じさせない、世間話をするような気軽な口調で話した。
「その後、天気姫はお元気ですか?」
「……さあね。一応元気そうにしているけど、本当に元気なのか、僕には分からないよ」
言ったら狂言回しはひょい、と浅く僕を振り向いて軽く眉を上げた。
「そうですか。でも私は結構元気じゃなかったですよ。あなたに槍で殴られた場所は痣になって顔が腫れあがるし、そのせいで熱は出るし、天気姫を取り戻されたせいでお頭には怒られるし」
そんなの僕に言われても困る。
船の中は見た目にはこだわらないのか随分雑然としている。壁のいたるところに剥き出しの配管のようなものが走っているし、床は塗装もしていない木がそのまま曝け出されているだけだ。特に明りもないから、廊下のようなその場所は、とても薄暗い。そして狭苦しい。おまけにぼろくさい床は歩くたびにみしみしと軋むし。
「お頭はね。恐いんですよ。恐いって言っても別にそんな怖くないんですけどね」
どっちだよ。
「ただね、怒るんですよ。怒鳴りつけられるって言うんですか? あれはどうもね。いくつになっても母親に怒られてるようで慣れないですねえ」
いや僕、母親に怒られた事ないし。分からない。
「あ。今から君にそのお頭に会ってもらいますから」
今まで恐いという話をしていてこの流れ! 計算なのか、単なる無神経なのか。化粧で隠されて表情も読めないから、何を考えているのか全く分からない。
「まあ、見も知らない人間にいきなり怒鳴りつけるような人じゃないと……多分、きっと、おそらくそう思いますんでそんな緊張しないでくださいね」
さあ着きました、と言って狂言回しが振り返ったのは質素なドアの前だった。これまでにいくつか似たようなドアの前を通り抜けてきたけれど本当に何の変哲もない、木の板だ。
「お頭、入りまーす」
狂言回しは、予告もなく大きく声をかけて、ノックもしないでドアを開ける。
「おお。連れて来たか」
中から聞こえて来た声に、僕は少し驚いた。お頭、と言う事はおそらく影蛇で一番偉い人間だと思っていた。僕が想像するに、体格のがっしりとした筋骨隆々の髭面の中年男。だけど、聞こえて来た声はおそらくまだ若い、女性の声だったからだ。
「ご苦労。お前は戻っていいぞ」
「はいはーい」
狂言回しは気軽な声を上げて、さっさとその場から出て行ってしまう。目の前に立つ狂言回しがいなくなったから、僕にも部屋の中が良く見えた。
狭い部屋に所狭しと並んでいる、あまり趣味が良いとは言い難い置物や飾り物。机には派手な装飾が施してあり、赤を基調としたカーテンや絨毯の柄はどこか外の国のものであろう目が回りそうな幾何学模様だ。部屋の中はどこもかしこも原色の色を何色も使用していて、見ているだけで目が疲れてくる。天井からつり下がっているランプもごてごてと装飾が施されている。
部屋の真ん中には獣の皮が敷いてある大きな椅子が置いてあり、そこにこの部屋の主であろうと思われる人間が踏ん反り返って足を組んで座っていた。黒く長い髪はひとまとめにして頭の上高くで簡素にまとめてある。長身で威圧感があるけれど胸が大きいから絶対に女性だとは思うのだけど、男性のように長い踝までの丈のぴったりとしたズボンを穿いて、男性用のシャツを首元の釦をふたつ外しただらしない着方で着ていた。椅子の背には裾の長めの派手な金の縁取りのある赤い上着がかけられている。椅子の肘かけに右手の肘をついて、その手の中指と人差し指の間には長い煙管が挟まっている。煙管の先からは、細い煙が立ち上っていた。そのせいか、部屋には微かに独特の癖がある甘い香りがする。
女の少しきつめの黒い目は、僕を見てすっと細くなった。
「はじめまして坊ちゃん。あたしが影蛇を率いてるセンだ。あんたは?」
「ハレノ家の第一子、セイだ」
「聞いてるけどね。もう一人の坊ちゃんが、あたしに会いたがってる貴族のガキが一人いるから会ってみろって言うからさ。特別に招いてやったんだけど、なんだい? 用件は?」
まるで警戒なんてしていない寛いだ調子で、センと名乗った女は言った。ついでに煙管を一口吸い込んで、唇からふわりと白い煙を吐く。
「その前に聞きたいんだけど、なんでお前たちは天気姫を狙ってる?」
「何でって、天気姫だなんて色々と使い道がありそうじゃないかい」
「じゃあ、特にその用途や目的があるわけじゃないんだな?」
僕が尋ねると、センは唇の片端を少し持ち上げた。
「なんでだい?」
「もし、お前たちが天気姫を盗み出してから、僕に売ってくれると言うのなら、僕はお前たちに協力したい」
「売るだって?」
「僕の貯金は全て渡す。足りなければ、僕が家を継ぐまで待ってもらえればもっと出せると思う。具体的な金額は……」
僕が言葉を続けようとするのを、センはぞんざいに手を振り払うようにして遮った。うっすらと立ちこめた煙が煽られてゆらりと動く。
「いいよ。どうせ聞いても応じないから」
「え?」
僕はきっと、唖然とした顔をしていたのだろう。センは少し哀れそうにその眉毛の端を落とした。
「世間知らずな坊ちゃんだね。どんなに良い家の坊ちゃんでもね。精一杯金を積み上げたって、そんなのはした金さ。天気姫さえ手に入れてしまったら、あとは貴族院のおじ様方を脅せば好きなだけ金なんて搾りとれるのに」
自分の顔から、血の気が引くのが分かった。
センはそんな僕の様子が楽しいとでも言うように、にんまりと微笑んだ。
「正義感に溢れた坊ちゃん。囚われのお姫様を助けようとしたのかい? まるで、お伽噺の騎士様のようだね。もっとも、黒騎士様は既にいるようだけど」
その言葉に、僕の脳裏には即座にライウの顔が浮かぶ。きっとムッとした顔をしたのであろう僕を、センは高い声で笑った。
「個人的には、あんたみたいの結構嫌いじゃないよ。お姫様の為に恐い思いをして空船にまで乗り込んで。手ぶらで返すのも申し訳ないねえ」
ふう、とセンは煙管の煙を僕の顔に向かって吹きかけた。甘い匂いが一層強く僕の鼻を刺激する。僕が顔をしかめると、センはくすくすと笑った。
「一つ、賭けをしようか?」
「賭け?」
「そう。あたしは賭け事が大好きなのさ。あんたが勝ったら、あたしはあんたの希望をきいてあげよう。でも、あたしが勝ったらあんたはもう二度と、あたしたちの邪魔をしないと言うのでどうだい?」
「邪魔をしないって、そんなの無理だ。お前らが捕えた天気姫に危害を加えないと言うのなら別だけど。そうじゃないなら被害が及ぶのはアシュだ。それじゃあ、僕の賭けじゃない」
「成程。筋の通った言い分だ」
センは鷹揚に頷いて、それからひょいと首をかしげる。さらりと長い髪が流れてランプの明りを反射した。
「ではこうしよう。あたしらが勝ったら、あんたの命を頂く」
背筋に冷たい刃物を当てられたような恐ろしさが体を走った。手のひらが、小刻みに震えた。センの真っ黒な目は、形は笑ったように微笑んでいるけれど、その奥の瞳が笑っていない。本気の目だ。こいつは、本気で僕を殺す。
どうしよう? どうすれば良い?
「迷ってるね」
センは揶揄するように甘い声で言って微笑んだ。
「お姫様の為でも、命はかけられないかい?」
「……賭けといっても、はなから勝てない賭を持ちだされるかもしれない。イカサマで僕にまったく勝ち目のない賭をやらされて無駄死にするのはご免だ」
「なかなか抜け目がないぼっちゃんだね。いいよ、賭の内容を教えようか。多分あたしじゃなくて、あんた次第の賭けだよ。あたしの見る所、勝率はお互い五分五分で、良い勝負だと思うけれど」
センはぺろりと薄く朱い唇を舐めて、それから言った。
「あたしはこれからあんたをある場所に連れて行く。もちろん、国内のね。あんたはそこから無一文で大時計塔の頂上まで帰りつかなければならない」
「無一文で?」
「そう、今持っているものは全て船に置いてってもらう。服も金に換えられるから駄目だよ。武器も服も、全て預からせてもらう……心配しなくてもそんなもん盗るほど貧しくないからね、最後にはきちんと返してやるよ。もっともあんたが賭けに勝てたら、の話だけどね」
僕は目を閉じる。負けたら、殺される。
心臓がどくどくと言っている。体中が熱い。引き返す機会は今しかない。これを受けてしまったら、後戻りはできないだろう。希望を通すか、死ぬかだ。
体が震える。だけど、まぶたの裏にアシュの痣だらけの腕がちらついて……。
「やる」
声が、自分の声じゃないみたいに聞こえた。掠れていた。
「へえ」
自分から言い出したくせに、センは片眉をちょっと持ち上げて意外そうな顔を作って見せた。唇が薄く引き延ばされて、笑みの形になる。
「賭けは成立だね。じゃあそれまであんたは、眠ってな」
眠ってる? どういう意味だ?
思った瞬間、センはひときわ大きく煙を僕に向かって吹きつけた。目の前が真っ白に染まる。不意打ちだったから、思い切り吸い込んでしまった。くらりと意識が遠のく。気がつくと、手足が上手く動かない。
「慣れない子供には、その匂いは強いだろう」
くすくすと言う笑い声を聞いたのが最後に、僕の意識は遠のいた。