今一たびの時計台
衛兵の仲間を呼ぶ声が背後から聞こえる。
とりあえず、逃げるんだ。逃げ切って、大時計塔まで行く。
幸い、主都の地理はよく把握していた。衛兵の不得手そうな入り組んだ道を、人の多い道を何度も通り、治安の悪い道に身をひそめ、なんとかその衛兵たちを撒いた。
ようやくおちついた路地裏で息を整えながら考える。幸い今は撒けたけれど、主都に僕がいたという情報はすぐに広まるだろう。父上なら主都全域に警戒網を張り巡らせるくらいすぐにでもやりかねない。今はとりあえず一刻も早く大時計塔に着いてしまう事だ。父上を心配させているとは分かっている。申し訳ないとも思うけれど、この賭けには絶対に勝たなければいけないのだから。
ポケットの中を探ると、ルルに教えられて道中稼いだ小金があった。辻馬車を雇うくらいの金にはなるだろう。せっかく苦労して稼いだお金を全部叩いてしまうのはなんだか勿体ない気分にもなるけれど、ぐずぐずしてはいられないのだ。
慣れた方法て流しの辻馬車を雇おうとしたら、長旅で随分みすぼらしくなった僕の身なりを見て馬ていはみんな嫌な顔をした。三台目に掛け合って、金を前払いで払ってようやくそれに乗る事が出来たのだけど。
だけど、僕の見通しは甘かったのかもしれない。大時計塔のある広場前の道で馬車を降りた僕は、広場に警戒網を敷いている大勢の自分の家の兵たちの姿を見つけた。そうか、ここは僕が失踪したまさにその場所だ。でも、もう行くしかない。僕は意を決して広場に向かって歩き出した。人の影に隠れる様歩いていたけれど、すぐに気付かれてしまうだろう。そこからはもう、強行軍で行くしかない。
案の定、数歩歩いた所で兵の一人に声をかけられた。彼は僕の顔を見た瞬間、門の所で見た兵と同じ顔をする。なんでみんな僕の顔知ってるんだよ。
それを契機に僕はもう隠れる事をせず、大時計塔まで一直線に駆け出した。
広場の中いたるところから、兵が集まってくる。どこにいたんだこんなにたくさん。棒を構えて行く手にふさがる兵たちをなぎ倒すけれど、いかんせん数が多い。その上四方八方から押し寄せてくるから、流石の僕でも手に負えない。瞬く間に周囲を取り囲まれてしまった。幸いなのは彼らが僕に命にかかわる様な危害を加えられない事だけど。
遠巻きに、だけど確実にじりじりと間合いを詰めてくる彼らの包囲網は足踏みしている間にどんどん広がって行く。一方を突破したらその背後から一気に跳びかかられるだろう。円の中心にいて僕は唇を噛んだ。せっかくここまで来たのに。あと一歩なのに。
困り切っていたら、突然僕の目の前の兵の壁が割れた。そこにいた兵たちはなぎ倒されて地面に身を横たえる。目を見開く僕の視界に、見覚えのある長身の黒衣の姿。あれは、いつぞやの黒騎士だ。
黒騎士はまるで僕を導くように手に持った槍の先を塔の方へと向ける。その仕草に、僕は彼が意図するところを知って今まさに道ができたその場所を突進した。
黒騎士はしなやかな身のこなしで僕に向かって駆けてくる兵士たちを次々と地面に這い蹲らせてしまう。その手際は鮮やかで、かなり武術を極めた手練れのようだということが見て取れた。それでも、人数の差は圧倒的だ。段々と黒騎士が追いつめられているのが分かる。僕はそれを横目で見ながらも、とにかく走り続けた。
大時計塔はもうかなり大きく見えてきて、見上げなければ上まで見えない。それなのに、その前にも大勢の兵士たちが待ち構えている。父上、どれだけ投入してるんだよ!
僕は棒を構えて、前に立ちはだかる兵士たちに向かう。それを振り上げ、一人なぎ倒し、二人なぎ倒したところで右腕に痛みを感じた。感じたと思った瞬間、棒をその場に取り落してしまう。兵士の一人の棒が僕の右腕に当たっただけだ。慌てて身を屈めて二波は避けたが、武器の棒が転がってしまった。それを拾う間もないまま、身をくぐらせてその兵士に下から近づき、そのまま拳を突き出して昏倒させ、同時に背後から襲いかかってきた兵士を振り向きざまに蹴り倒したまでは良かったけれど、やはり数には敵わない。すぐさま三人目が右側から襲いかかってきたのには防ぎようもなかった。棒が僕の頭めがけて振り下ろされる。
……ここまでだろうか。
一瞬の間に覚悟を決めた。その速度に体が反応できないから、ただ目だけでそれを凝視する。棒が下りてくる瞬間がやけにゆっくりに見えた。
それが僕の頭に触れる寸前、何かとても速いものが僕の目の前を横切った。人が地面に倒れる派手な音が僕の意識を取り戻させる。その瞬間、僕の手のひらの中には先ほど取り落した棒が握らされていた。
「諦めるのが早すぎやしないかい? セイ」
僕を見下ろしてにっこりと笑ったのは、ルル。
「ルル! 無事だったのか」
「今はそういう長閑な話をしている場合じゃないと思うけどね」
そう言ってルルはひょいとその場に跳び上がる。随分高い跳躍。すごい脚力だ。そのまま長い脚を伸ばして、兵の一人が振り上げた棒を蹴り落とし、もう片方の足でその兵士の顎に蹴りを決めた。兵士は声もなくその場にどさりと横たわる。一方のルルは、宙で一回転した後着地して一息着く間もなく、驚くべき身のこなしの軽さで別の兵士の振り上げた棒の上に跳び上がって乗っかって、その兵士がバランスを崩した所で棒から跳び上がって宙返りをしながらの背後に回っての蹴り。なんだこの身体能力! 自分は戦闘はできないからといつもコウと二人で僕が倒すのを見ていた人間が。というかこの動き、僕は以前見た事がある。……戦った事がある。
「走れ!」
言われて僕はまた走り出した。今はそんな事、考えている場合ではないのだ。
ルルに背後を守られながら、いよいよ大時計塔に近づく。
「急げ!」
いつの間にか追いつかれていた黒騎士に急かされる。黒騎士のこの声も、聞き覚えあるんだけど……。
黒騎士とルルを引き連れて、塔の内部に跳び込んで内側から鍵をかける。
「ドアを壊される可能性がある! とにかく上へ」
黒騎士に急かされて、僕は階段を駆けのぼる。あんなに長い階段。気が遠くなる程高くまで登る階段だ。だけど、休んではいられない。ぐるぐるぐるぐると円を描くようにらせん状のそれをひたすら駆けあがる。息が上がる。意識が朦朧とする。でもとにかく、足は動かさなければ。目的地はもうすぐそばなのだ。ここで諦めるわけにはいかない。目が回る。息が足りない。苦しい。足がだるい。もう、足を動かせない。でも、進まなきゃ。
時計の時が刻む音が僕の荒い呼吸と足音と重なって、僕の脳内で反響する。がんがんと、頭の中をかき混ぜる様に。ああ。もうすぐだ。もうすぐで僕はアシュを。アシュのあの笑顔を、もう一度……。
見覚えのある木の扉を開けて、僕は白く輝くバルコニーに出る。外気が僕の火照った顔を激しく通過していく。髪が浚われる。空は厚い雲に覆われていて、圧倒されそうな広さだ。
でも、まだだ、ここじゃない。頂上はこの上だ。ぐるりとバルコニーを回って、上へと登る方法を探す。鐘楼だって点検するはずだ。どこかに必ず登る道はある。
案の定、数歩歩いたところに、転々と手足をかけられるような窪みが出来ていた。風も強いし、命綱もないから落ちたら死ぬ。一瞬、上から下を見下ろしてその高さにぞっとする。だけど、ここまで来たんだ。引き下がれない。
ひんやりとした石造りの壁に手をかけて、足を踏み出す。膝ががくがくと震えている。耳元で派手な音を立てて風が駆け抜けて行った。下を見ると進めなくなるから、僕はただひたすら上を見る。大丈夫だ。大丈夫。自分に言い聞かせて足を進めて行く。
ようやく中腹まで来た時に、ざわざわと騒ぐ声が風に乗って僕の耳に届いた。ちらりと見ると、兵士たちが既にバルコニーに出ていて、壁を登る僕に向かって何か大声で口ぐちに叫んでいた。その顔はみんなひきつっている。何人かは躊躇うように僕の登る窪みに触れているようだった。ここまでも追いかけてくる気かもしれない。僕は足を踏み出す速度を上げた。震えを押し込めるようにして、空の中に聳え立つ鐘楼の真横まで。そこには簡素な足場が設置されている。おそらく作業員が利用するのだろう。あと少し。僕はその屋根を見上げる。この上が頂上だ。
鐘楼の周囲を囲む四本の柱の内一本の柱の内側に、外から見えないように鉄状の足場がついている。先ほどの窪みよりは随分楽だ。僕はそれを進んで今度はまた塔の内側を上へ上へと上がって行く。屋根に覆われて視界が暗くなってもしばらく進んでいると目が慣れて周囲の様子が見えてくる。上の方の暗闇の中に取っ手のようなものがあった。僕はそれを思い切り内側に引く。取っ手は難なく開いた。腕を伸ばしてそこから這い出すと、僕は、大時計塔の屋根の上にいた。数歩進んで、傍にあった風見鶏を掴んでその頂上に仁王立ちする。
吹く風が僕の体を駆け抜けて、汗が冷えて気持ちが良い。景色は広くて、この世界のどこまでも見渡せそうな気がする。僕は腹の中の中まで大きく息を吸い込んで、それから黒雲覆う空に向かって大声を上げた。
「セン! 僕の勝ちだ。約束通り、アシュを救ってくれ」
強い風が僕の髪や服を四方八方に乱れさせる。そこには風の音しか聞こえなかった。風の音が、うるさすぎて静かだ。
突然、僕の足元を揺るがすような振動が僕の体を直撃した。一瞬何が起こったのか分からなかった。頭が割れる様に痛くて、衝撃で思わず体を支えていた手を放していた。
鐘が鳴ったんだ。
僕が気付いた時には、既に僕の体は宙を浮いていた。ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような恐怖感。体中の血の気が引く。こんな高い場所から落ちたら……!
目を見開いて為す術もなく落下しようとした僕を救ったのはルルだった。屋根の上から、ルルの長い手がにゅっと伸びてきて、その大きな手が僕の手首を掴む。腕一本を支えに、僕の体はなんとか時計塔に留まった。
屋根の上に引っ張り上げられた僕に、ルルが何かを話しかけているけれど、僕の耳は鐘の音にやられてしまって何も聞く事が出来なかった。じんじんという音だけがずっと耳元で鳴り続けているようだ。それに気付いたのか、ルルは僕の手のひらを開いてその上に文字を書く。
『よくやった』
その顔を見上げると、にっこりと微笑んでいた。栗色の長めの癖っ毛が強い風にはためいていて、その顔を露わにしていた。
ルルは塔の外を指さす。見れば、屋根の横にいつの間にか空船が横付けされていた。ひょろりと長い縄梯子が僕等を招くように垂れ下がっている。僕はルルの手をほどくと、立ちあがってそちらに向かって手を伸ばした。




