001話 下着泥棒と異国の令嬢
「下着ドロボーだ!! 捕らえろ!!」
野太い声が、真夜中の市場に響いた。
まん丸い月に照らされた路地を、黒い影がいくつも通り過ぎる。
先頭の一人は、茂みを進むトカゲのように、煩雑な路地をシュルシュルと駆け抜けていく。
その後ろから、ドタドタと五、六人の集団が騒がしく追い立てる。
「おい止まれ、下着泥棒!!」
「そ、その呼び方やめてくれ!」
アゼルはなにも、女性物のパンティーを盗んで逃げているわけではない。
彼のパンツは限界だった。
破れた箇所につぎはぎに布を当てられ、悲鳴を上げていた。
そろそろ新しいものが必要だと思っていた矢先に、誰かの物干し紐から地面に落ちていた砂混じりのパンツを拾ったのだ。
拾い上げたタイミングでちょうど家主が現れて、泥棒の疑いをかけられ、まさか衛兵まで呼ばれるとはつゆにも思わなかったのである。
「下着泥棒はどこだ!?」
「おいそこのお前、下着泥棒を見なかったか」
「変態下着泥棒がいたぞ! あっちだ!」
ついに変態にされてしまった。
アゼルは恥ずかしくなって、走りながら首元のスカーフで鼻まで覆った。
「クソッ、速いぞあの変態!!」
足には自信がある。
この国の貧民街に居ついてからというもの、衛兵に追われることなどこれまで何度もあった。
そのうちの何度に正当な理由があったかは分からないが、とにかくアゼルにはこれまで、一度も捕らえられず逃げ隠れしてきた実績があるのだ。
日干しレンガの建物が狭しと並ぶ、迷路のような路地。
そこかしこに掛けられた日よけの天幕の隙間から、月が瞬きするように見え隠れした。
「撒いたか……?」
「あ! 見つけたぞ! 変態下着!」
先回りされていた。
前方の路地からサーベルを抜いた衛兵が二人、すごい剣幕で迫ってくる。
「観念しろ! 変態の貧民が!」
アゼルは急ぎ、腰に結んだ革袋に右手を入れてまさぐった。
「僕は変態じゃない!」
袋の中でミカン大の球を掴む。
右腕をムチのようにしならせ、前方へ放った。
ボゥンッ。
「なっ、何だこれは!? ゴホッ、ゴホッ」
破裂した球から粘度の高い煙が溢れ出て、衛兵たちに纏わり付く。
ゆめみダケの粉末を練り込んだ、催眠効果のある煙玉。
一息吸えばたちまち夢の中だ。
パカラッ、パカラッ。
少し離れたところから、蹄の音が聞こえた。
息をつく間もなく、アゼルはいびきをかいている衛兵を飛び越えて再び駆け出した。
「はぁ、はぁ……ここまで来れば流石に……」
アゼルは街からだいぶ離れた砂漠の上を、小走りで進んでいた。
建物こそ無いが、風が作り出した天然の凹凸のおかげで身を隠しやすい。
「ふぅ。疲れたな」
岩石砂漠の夜は寒い。
火照った身体を冷気に当てて冷まそうと、アゼルは小走りのまま首元のスカーフを緩め、ついでにターバンも外した。
湿った緑色の髪が月光を受けて、爬虫類の鱗のようにぬらりと光った。
「はっ……!」
遠く、豆粒ほどの大きさだが、アゼルは街の方角に動く影を見た。
高さからするに、馬に乗った人の集団だ。
「しつこすぎるだろ……」
たかが下着(自分用)泥棒に動員する数ではない。
元々あの辺を張っていた警備が、今夜は多かったのかもしれない。
そういえば最近、昼間でも衛兵が頻繁に巡回しているのを見かける。
何か、あるのだろうか。
そんなことを考えながら、咄嗟に身を低くして砂丘の陰に隠れた。
ターバンを巻き直すため、風よけになりそうなものを探す。
見るとすぐ近くの砂上に、直径四手幅ほどの角ばった岩が顔を出している。
アゼルは素早く岩陰に滑り込んだ。
「うわッ!?」
大声を上げてしまってから慌てて口を押さえる。
女だ。
真夜中の砂漠。岩の裏に、女が一人でしゃがんでいたのだ。
何者だ?
アゼルの口が開くより早く、女の低い声がした。
「お願い。見逃してくださいまし」
「み、みの……?」
見逃すって何だ? とにかくこの女を人質にしておけば、万が一囲まれても……いやダメだ、こいつもお尋ね者なのだとしたら、二人まとめて牢屋行きだ。しかしこんな女が一体何の罪を?
アゼルは岩陰から一瞬だけ顔を出して、街の方角を見た。衛兵の気配は無い。
視線を謎の女へと戻す。
月には薄く雲がかかっていた。
ぼんやりと照らされる彼女のシルエット。
胸元で、見覚えのある紅色がギラリと鈍く光った。
アゼルははっとして息を呑んだ。
「……いかがなさいましたか?」
「おまえは」
嫌な記憶が、雷撃のように脳裏を駆け巡る。
馬の嘶き。松明の影。崩れる積荷。
怒号。悲鳴。剣戟の響き。
あちこちで噴水のように上がる血飛沫。
アゼルが十一歳の夜。父の率いていた商隊が襲われた。
大人たちは皆殺しにされ、幼きアゼルだけが生き残ったのだ。
賊どもは胸に、揃いのペンダントをつけていた。
まるで血のように鈍く光る、紅色の石を。
あれから五年間探し続けても見つからなかった、あの石。
見間違えるはずがない。
「おまえは誰なんだ?」
「私はただの──」
左腰に括りつけた短剣を右手で抜き放ち、左手は女の肩を掴んで岩肌へ押さえつける。
「おまえ、この石を一体どこで?」
アゼルの声は震えていた。
「んな、何ですの? 石……?」
目の前の少女が、あの時の賊であるわけがない。
その上品な言葉遣いからは、彼女が貴族か王族であろうことが伺える。
「…………! ……!」
彼女はしきりに何か言っているが、アゼルの耳には入らない。
ただ自分の荒すぎる呼吸だけが、耳鳴りのように聴覚を塞いだ。
彼は貴族を恨んでいた。
父の商隊を襲ったのは、どこかの貴族が差し向けた刺客だと睨んでいたからだ。
紅色の石をつけた、貴族の令嬢。
仇の賊と関係があるはず。
関係どころか、目障りな豪商を殺せと指示を出したのは実はこいつかもしれない。
いやそうに決まっている。そうでなくても構わない。
とにかくもう、止まれない。
僕は不幸なんだ──
「やめてくださいまし!!」
「ああああああああああああああああ!!」
強い、強い風が吹いた。
「私は──」
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