第9話 王都の失策
ユリウス・レインが王立研究院を去ってから、3日が経った。
王都では、建国祭の準備が進んでいた。
大通りには色布が張られ、王宮前の広場には臨時の観覧席が組まれている。菓子職人たちは焼き菓子の仕込みに追われ、商人たちは祭りの客を見込んで倉庫を開けていた。
誰も、王国が崩壊しかけているとは思っていない。
王立研究院でも、それは同じだった。
「薬草の搬入が遅れている?」
災害記録部の地下室で、ミナ・クレイルは帳簿から顔を上げた。
届けに来た若い事務官は、気まずそうに頷く。
「はい。南部からの荷が止まっているそうです」
「止まっているって、どこで?」
「宿場町です。荷馬車の消毒が必要だとかで」
「消毒?」
「詳しくは。ただ、南から来た商人が咳をしていたとか、井戸水がどうとか」
ミナは手を止めた。
井戸水。
南部。
咳。
その3つの言葉は、彼女が数日前に見た報告書の端にあった。
ユリウスが院長室へ持っていき、却下され、本人ごと研究院から追い出された報告書だ。
ミナは机の上の紙束を探した。
「ユリウスの報告書は?」
事務官が首を傾げる。
「ユリウス?」
「レイン君。災害記録部にいた統計士」
「ああ、解任された人ですか」
「その言い方はやめて」
自分でも思ったより強い声が出た。
事務官は慌てて頭を下げる。
「すみません」
「報告書。院長室に残っているはずよ」
「それなら、上級研究員のヴェルナー様が保管しているかと」
オスカー・ヴェルナー。
ミナは小さく息を吐いた。
あの男が、ユリウスの報告書を丁寧に読むとは思えない。
むしろ、読まないために保管している可能性の方が高かった。
「分かった。ありがとう」
事務官が去ると、ミナは椅子から立ち上がった。
地下室の壁には、王国中から集められた死亡記録、物価表、荷馬車の遅延情報が積み上がっている。
かつてユリウスは、その山を見て「王国はここで先に死ぬ」と言った。
当時はひどい冗談だと思った。
今も、冗談であってほしいと思った。
ミナが本棟へ向かうと、研究院の廊下は浮かれていた。
魔術研究部の新型防壁術式が、建国祭で披露されることになっている。青白い光の模型が廊下に並び、貴族の見学者たちが感嘆の声を上げていた。
「これほどの防壁があれば、王都は安泰ですな」
「ええ。魔物も反乱軍も近づけません」
近づけないものの中に、疫病は含まれていない。
ミナはそう思ったが、口には出さなかった。
院長室の前で、オスカーと鉢合わせた。
彼は銀章を胸に光らせ、分厚い書類を抱えている。
「クレイル君。何か用か」
「レイン君の報告書を見せてください」
オスカーの眉がわずかに動いた。
「彼はもう研究院の人間ではない」
「報告書は研究院の資料だと、あなたが言ったそうですね」
「ずいぶん詳しいな」
「災害記録部ですから。記録は残ります」
オスカーは不快そうに目を細めた。
「何のために読む」
「南部からの薬草の搬入が止まっています。井戸水と咳の話もあります。彼の報告に似ています」
「あの報告書は不確かな憶測だ」
「確認するだけです」
「確認する時間が惜しい」
「人が倒れてから確認する方が、もっと高くつきます」
言ってから、ミナは自分で驚いた。
今の言い方は、少しユリウスに似ていた。
オスカーも同じことを思ったのか、顔をしかめた。
「君まで数字遊びに染まったか」
「数字は遊びではありません」
「王都は建国祭を控えている。不確かな噂で薬草の流通を止め、井戸を調べ、商人を疑えば、混乱が広がる」
「もう荷は止まっています」
「一時的な遅延だ」
「王立病院の死亡記録も増えています」
「冬明けにはよくある」
「薬草価格も上がっています」
「祭り前にはよくある」
「何でも、よくある、で済ませるんですか」
廊下の空気が冷えた。
見学の貴族たちが、ちらちらとこちらを見ている。
オスカーは声を低くした。
「クレイル君。君は災害記録部の人間だ。余計な不安を広げるな」
「不安が広がる前に対策を取るのが、私たちの仕事です」
「違う。君たちの仕事は、起きたことを記録することだ」
その言葉に、ミナは一瞬、何も言えなかった。
起きたことを記録する。
確かに災害記録部の仕事はそうだ。
だが、記録は墓標ではない。
次に死ぬ人を減らすためにあるのだと、ユリウスはいつも言っていた。
「報告書だけでも見せてください」
「必要ない」
「ヴェルナー様」
「必要ないと言っている」
オスカーは踵を返した。
「南部の件は、王都衛生局に通常通り確認させる。災害記録部は余計な口出しをするな」
通常通り。
その言葉ほど、不安なものはなかった。
通常ではない事態に、通常通りで向かえば遅れる。
ミナは奥歯を噛んだ。
その日の午後、王都衛生局は南部からの荷について、簡単な聞き取りだけで通行再開を許可しようとした。
理由は、建国祭に必要な薬草と香草の搬入が遅れていたからだ。
薬草が足りなければ病人が困る。
香草が足りなければ祭りの料理人が困る。
どちらも、王都にとっては大事だった。
だが、汚れた水樽と咳をした商人と、井戸水の話は、書類の端に小さく書かれただけだった。
その書類を見た衛生局の主任は、赤い印を押した。
「問題なし」
その印が押された瞬間、王都中心部の大規模混乱発生率は、誰にも見えないところで少し上がった。
もちろん、ミナには見えない。
ユリウスにも、その場にはいないから見えなかった。
ただ、もし彼がそこにいれば、たぶん顔をしかめていただろう。
夕方、王立病院から使いが来た。
発熱患者が昨日より7人増えたという報告だった。
どれも軽症。
ただし、全員が建国祭の準備に関わる職人か、南部から来た荷に触れた者だった。
ミナはその記録を見て、胸の奥が冷えるのを感じた。
彼女はもう一度、院長室へ向かった。
だが、院長は王宮へ呼ばれて不在だった。
オスカーもいない。
机の上には、建国祭で発表される防壁術式の資料が積まれていた。
災害記録部から上がった報告は、机の端に寄せられている。
その中に、見覚えのある筆跡があった。
ユリウスの報告書。
表紙はなかった。
彼が持っていったのだろう。
だが、中身は残っていた。
ミナは震える手で紙束を開いた。
南部井戸水調査。
薬草流通の一時管理。
西方軍補給路の変更。
王都建国祭の人流制限。
教会治癒記録の実数確認。
そして、最初のページの上部に、細い文字でこう書かれていた。
王国崩壊確率、99.7%。
ミナは思わず紙を握りしめた。
「……本当に、これを書いたのね」
馬鹿げている。
そう思いたかった。
だが、その下に並んだ根拠は、少なくとも馬鹿げてはいなかった。
小さな異常が、何本もの線でつながっている。
水。
薬草。
食糧。
人の移動。
病院の死亡記録。
祭り。
ミナには、ユリウスのように未来は見えない。
数字が浮かぶこともない。
だが、記録なら読める。
記録は、もう十分に警告していた。
そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。
ミナは報告書を抱えたまま振り返る。
オスカーが立っていた。
「何をしている」
声は低かった。
ミナは報告書を胸に抱えた。
「読むべきものを読んでいます」
「それを置け」
「いいえ」
「クレイル君」
「南部へ人を出してください。レイン君を呼び戻すか、少なくとも報告を確認するべきです」
オスカーは数秒、黙った。
そして、笑った。
「追放した男に、研究院が頭を下げろと?」
「頭を下げるだけではなく、現実を見てください。足元が燃えています」
オスカーの表情から笑みが消えた。
「頭を冷やせ」
「私の所属は、災害記録部です。災害から国民を守る必要があります」
「出過ぎた真似をするな」
ミナは報告書を抱え直した。
このままでは取り上げられる。
彼女は一歩下がった。
「失礼します」
「待て」
待たなかった。
ミナは廊下を走った。
研究院で走ることは禁止されている。
だが、今は規則より報告書の方が大事だった。
地下へ戻ると、彼女は机に向かい、急いで手紙を書いた。
宛先は南部リーベル村。
受取人は、ユリウス・レイン。
そこにいる確証はない。
ただ、火傷のある商人と宿場町の話から考えれば、彼は南へ向かった可能性が高い。
手紙は短くした。
長い説明を書いている時間はない。
王都で発熱患者が増えています。
あなたの報告書と一致する兆候があります。
研究院はまだ動きません。
必要なら、私が記録を送ります。
どうか、次に何をすべきか教えてください。
最後に、ミナは少し迷ってから一文を足した。
あなたを信じなかったことを、後悔しています。
封をしたところで、地下室の扉が開いた。
事務官が息を切らして立っている。
「クレイルさん、王立病院から追加です。発熱患者、さらに12人」
ミナは目を閉じた。
王都はまだ笑っている。
建国祭の旗は、夕焼けの中で美しく揺れている。
だが、その足元で、数字を無視した失策は静かに積み上がっていた。




