第10話 飢饉の前兆
リーベル村で新しい発熱者が出なくなったのは、井戸を封じてから4日目の朝だった。
完全に終わったわけではない。
ロイはまだ起き上がれない。ギルは熱が下がった途端に「やはり病人ではなかった」と言い張り、セラに寝台へ押し戻された。ニナは粥を半分食べられるようになったが、走り回るにはまだ早い。
それでも、村は息を吹き返しつつあった。
井戸の周りには縄が張られたまま。川の上流から水を運ぶ列は、3人ずつの組に分けられ、煮沸係と看病係は交わらない。
最初は文句ばかりだった村人たちも、今では線を越える前に誰かへ声をかけるようになった。
線を引けば、人は動きやすくなる。
それを知ったことは、俺にとって少し意外だった。
数字より、線。
記録より、桶の置き場所。
正しさより、今できる手順。
研究院では学ばなかったことばかりだ。
「ユリウス、顔色が悪いですよ」
セラが薬草を干しながら言った。
「寝不足だ」
「昨日もそう言いました」
「昨日から寝不足が解消していない」
「つまり寝ていないんですね」
「計算上は、少し寝た」
「人間は計算上で眠る生き物ではありません」
言い返せなかった。
リュカが俺の足元で、ふん、と鼻を鳴らした。
同意しているらしい。
「お前はよく寝ているだろう」
リュカは目をそらした。
セラが少し笑った。
この数日で、村人たちはリュカを怖がらなくなった。
正確には、近づきすぎないようになった。
触ろうとすれば避けられる。しつこくすれば袖を噛まれる。だが、病人のそばでは静かに座る。子供が泣けば尾を貸す。
正体不明の白い獣は、いつの間にか村で一番信用されていた。
俺より先に。
妥当な順番だと思う。
昼前、村長が俺を呼びに来た。
「少し見てほしいものがある」
「病人か」
「いや、麦倉だ」
麦倉。
その言葉だけで、俺の視界の端に薄い数字が浮かんだ。
リーベル村、30日以内の食糧不足発生率、41%。
低くはない。
だが、疫病の数字に比べればまだ扱える。
そう思った瞬間、数字の輪郭が濃くなった。
41%。
46%。
49%。
「……先に見よう」
俺が立ち上がると、リュカもすぐについてきた。
村の麦倉は、広場の西にあった。
厚い木の扉に、古い鉄の錠がかかっている。冬を越すための備蓄と、春先の種麦を保管する場所だという。
村長が鍵を開けると、乾いた麦の匂いが流れてきた。
最初は、問題ないように見えた。
麻袋が積まれ、壁際には乾燥豆の樽が並んでいる。天井近くの小窓から光が入り、埃が白く舞っていた。
だが、リュカが入口で止まった。
中へ入らない。
「リュカ?」
白い獣は麦倉の床をじっと見ている。
耳が伏せられ、尾がゆっくりと膨らんでいく。
疫病の時ほどではない。
しかし、明らかに嫌がっていた。
俺はしゃがみ、床板に手を近づけた。
触れる前に、リュカが袖を噛む。
「触るな、か」
村長が眉をひそめた。
「ここも悪いのか」
「まだ分からない」
「お前の、数字は」
村長がそこまで言って、言葉を止めた。
セラは俺に何が見えているのかを正確には知らない。村長も同じだ。ただ、俺が何かを見ていることには気づいている。
俺は麦倉を見回した。
床板の端に、小さな黒い粒が落ちている。
鼠の糞。
袋の角に、わずかな噛み跡。
それだけなら、どこの麦倉にもある。
だが、袋の位置が不自然だった。
手前の袋はよく整えられている。奥の袋は、少し沈んでいる。
俺は奥へ進んだ。
リュカは入ってこない。
代わりに、入口で低く喉を鳴らしている。
村長が杖を握り直した。
「どうした」
「袋を1つ開ける」
「待て。それは種麦だ」
「だから見る」
村長は苦い顔をしたが、止めなかった。
俺は奥の麻袋を1つ下ろし、口紐をほどいた。
中の麦は、一見すると乾いている。
だが、指で掬うと、下の方がわずかに湿っていた。
鼻を近づける。
かび臭い。
湿気による備蓄損失率、28%。
鼠害拡大率、37%。
種麦不足発生率、52%。
30日以内の食糧不足発生率、49%から64%。
数字が跳ねた。
俺は袋の口を閉じた。
「この麦倉は、いつ点検した」
「冬の終わりだ」
「何日前だ」
「20日ほど前か」
「その後、誰かが開けたか」
「病の騒ぎで、ほとんど触っておらん」
「屋根から水が入っている。奥の袋が湿っている。鼠もいる」
村長の顔がこわばった。
「どれほど悪い」
「全部捨てるほどではない。だが、このまま放置すれば、1か月以内にかなり失う」
「今度は飢えると言うのか」
「今なら避けられる」
俺はそう言った。
言いながら、少しだけ自分に言い聞かせていた。
今なら避けられる。
疫病もそうだった。
数字が悪くても、手順を間違えなければ変えられる。
そのはずだ。
村長はしばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「人を呼ぶ」
「まだ全員は呼ぶな。麦倉に出入りする者を絞る。病の時と同じだ。乾いた袋、湿った袋、鼠に噛まれた袋を分ける。種麦は最優先で確認する」
「また分けるのか」
「ああ。今度は水ではなく麦だ」
村長は深く息を吐いた。
「お前は、何でも分けるな」
「混ぜると分からなくなる」
「分からないものは、怖いか」
「怖い」
正直に答えると、村長は少しだけ驚いた顔をした。
「お前にも怖いものがあるのか」
「ある。山ほどな」
「そうは見えん」
「見せ方が下手なんだろう」
村長は初めて、少し笑った。
その笑いはすぐに消えたが、空気は少しだけ軽くなった。
麦倉の外に出ると、セラが水桶を運ぶ列を確認していた。
俺を見るなり、眉を寄せる。
「今度は何ですか」
「麦が少し悪い」
「少し、ですか」
「少しから始まる」
セラは一瞬だけ空を見上げた。
「病の次は麦ですか」
「順番を選んではくれないらしい」
「本当に、嫌なことばかり見つけますね」
「見つけたくて見つけているわけではない」
「分かっています」
セラはそう言ってから、少しだけ口元を緩めた。
「でも、見つけてくれて助かります」
その言葉は、思ったより胸に残った。
嫌なことを見つける。
研究院では、それは疎まれる理由だった。
ここでは、まだ間に合う理由になる。
俺は何か返そうとしたが、リュカが急にセラの籠へ顔を突っ込んだ。
「リュカ?」
セラが驚いて籠を下ろす。
中には乾かした薬草と、昨日採った野草が入っていた。
リュカはその中の1本を前足で押さえた。
細い茎。白い小さな花。葉の裏が少し銀色をしている。
「それは?」
「銀葉草です。熱冷ましに少し使えます。ただ、たくさんはありません」
リュカは薬草を押さえたまま、麦倉の方を見た。
俺は眉を寄せた。
「麦のかびと関係があるのか」
「直接は……でも、銀葉草は湿った場所に生えます。村の北斜面に少しだけ」
「北斜面」
リュカの尾が揺れた。
偶然ではない。
少なくとも、リュカは何かを示している。
「北斜面に行く」
セラが目を丸くした。
「今からですか」
「麦倉の湿気の原因が分かるかもしれない。水の流れが変わっているなら、井戸や麦倉だけでは済まない」
「また水ですか」
「ああ。結局、全部そこに戻る」
村長が杖を鳴らした。
「人をつけよう」
「発熱していない者を2人。麦倉には別の2人。作業を混ぜるな」
「分かった。混ぜるな、だな」
村長はもう反論しなかった。
それだけでも、数日前とは違う。
北斜面へ向かう途中、村の畑を通った。
畑は青く見えた。
だが、近づくと麦の背丈にばらつきがある。低い場所の土はぬかるみ、高い場所は逆に乾きすぎていた。
雨量の偏り。
水路の詰まり。
種麦の劣化。
人手不足。
いくつもの要因が、頭の中で重なる。
リーベル村、秋の収穫減少率、48%。
対策なしの場合、冬季食糧不足発生率、67%。
王国南部全体への波及率、まだ不明。
不明。
その文字が浮かんだ瞬間、俺は足を止めた。
今まで、数字が見えないときは空白だった。
だが、今は違う。
不明、という形で浮かんだ。
「ユリウス?」
セラが振り返る。
「いや」
「顔色が悪いです」
「寝不足だ」
「その言い訳、そろそろ禁止にします」
返す言葉が見つからなかった。
リュカが俺の足首に体をぶつける。
急げ、ではない。
倒れるな、でもない。
たぶん、見すぎるな、だ。
そんなことを言われても、見えるものは見える。
北斜面には、小さな水路があった。
本来は雨水を村の外へ逃がすためのものらしい。
だが、その水路は半分ほど土砂で埋まり、水が途中で向きを変えていた。
流れは、村の麦倉の裏手へ向かっている。
それだけではない。
さらに下れば、井戸の裏の斜面にもつながる。
「これか」
セラが青ざめた。
「雨水が、全部村の方へ戻っていたんですね」
「ああ。井戸も、麦倉も、原因は同じかもしれない」
「水路を直せば」
「少なくとも、これ以上は悪くならない」
リュカが水路の縁に立ち、前足で土を掻いた。
そこを掘れ、ということらしい。
俺は村の若者たちを呼んだ。
水路を掘り返し、土砂を除き、流れを村の外へ戻す。
単純な作業だ。
しかし、これをしなければ井戸を封じても麦を分けても、次の雨でまた同じことが起きる。
対策とは、目の前の火を消すことではない。
次に燃える場所を、先に濡らしておくことだ。
夕方までに、水路は半分だけ戻った。
麦倉の湿った袋は外へ出され、乾かせるものと捨てるものに分けられた。
種麦は思ったより無事だった。
食糧不足発生率、64%から46%。
冬季食糧不足発生率、67%から53%。
まだ高い。
だが、悪化は止まった。
広場に戻ると、宿場町から使いが来ていた。
先日知らせを持ってきた若者とは別の、王都の封蝋がついた手紙を持つ使いだった。
「ユリウス・レイン様は、こちらにおられますか」
研究院で様をつけられたことは、一度もない。
俺は少しだけ嫌な予感がした。
「俺だ」
使いはほっとしたように手紙を差し出した。
封蝋は、王立研究院のものだった。
差出人の名は、ミナ・クレイル。
俺は封を切った。
王都で発熱患者が増えています。
あなたの報告書と一致する兆候があります。
研究院はまだ動きません。
必要なら、私が記録を送ります。
どうか、次に何をすべきか教えてください。
最後の一文で、手が止まった。
あなたを信じなかったことを、後悔しています。
俺はしばらく、その文字を見ていた。
風が吹き、リュカの白い毛が揺れる。
セラがそっと聞いた。
「王都からですか」
「ああ」
「悪い知らせですか」
俺は王都の方角を見た。
視界の端に、もう一度数字が浮かぶ。
王都中心部、60日以内の大規模混乱発生率、76%。
発熱患者増加による建国祭中断率、43%。
薬草不足発生率、69%。
ミナが見たものを、俺は今になって受け取った。
村の飢えを止めたと思ったら、王都の熱が上がっている。
まったく、順番を選んではくれない。
「悪い知らせだ」
俺は手紙をたたんだ。
「だが、まだ間に合うかもしれない」
リュカが王都の方を向いた。
その白い背中が、夕暮れの光の中で小さく震えていた。




