第13話 未来を見ている男
リーベル村で、俺の呼び名が増えた。
最初は、王都から来た統計士。
次に、井戸を封じた人。
その次が、白い獣を連れた人。
そして、魔物の夜が明けた翌日には、別の呼び名が混じり始めた。
未来を見ている男。
「見ていない」
俺がそう言っても、村人たちは困ったように笑うだけだった。
否定すればするほど、かえって怪しくなるらしい。
「でも、棘猪がどこを通るか分かったじゃないか」
ギルが麦倉の前で言った。
彼はまだ本調子ではないくせに、もう水路修復の現場へ出ようとしている。セラに見つかると寝台へ戻されるので、最近は俺のそばにいることで仕事をしているふりをしていた。
あまり賢い作戦ではない。
「分かったわけではない。森の水場が変わり、餌の動きが変わり、村の方へ来る可能性が高かっただけだ」
「それで、どの道を通るかも分かったんだろ」
「地形を見れば、通りやすい場所は限られる」
「俺は見ても分からなかった」
「見方の問題だ」
「普通は見方を変えても、線なんか見えないぞ」
俺は手を止めた。
「誰が線と言った」
ギルはきょとんとした顔をした。
「今、俺が言った」
「なぜ線だと思った」
「いや、何となく。お前、地面に線を引きながら、こっちじゃない、そこでもない、みたいな顔してただろ。だから、頭の中で線でも見えてるんじゃないかって」
ギルは軽く言った。
ただの冗談のつもりだったのだろう。
だが、俺の背筋には冷たいものが走った。
実際に、見えていた。
魔物が通る可能性の高い道筋が、赤い線のように浮かんでいた。
俺はそれを誰にも言っていない。
「どうした」
ギルが眉をひそめる。
「いや」
「顔色が悪いぞ」
「寝不足だ」
「セラに禁止されたんじゃなかったか、その言い訳」
「まだ正式には施行されていない」
「何の話だよ」
ギルは呆れたように笑った。
その笑いで、少しだけ呼吸が戻る。
冗談だ。
ギルは何も見えていない。
そう考えればいい。
そう考えることにした。
午前のうちに、隣村から2人の男が来た。
リーベル村が疫病を止めたという話を聞き、水路を見てほしいという。
話は、もう広まり始めていた。
井戸を封じて病を止めた。
麦倉の鼠を見つけた。
魔物の進む道を読んだ。
白い獣が彼だけに従っている。
そのどれもが、事実に近い。
近いが、正確ではない。
事実は、人の口を通ると、少しずつ物語になる。
「水路を見るだけだ」
俺が言うと、隣村の男は緊張した顔で頷いた。
「もちろんです、賢者様」
「賢者ではない」
「では、統計士様」
「様もいらない」
「では、統計士殿」
「距離が詰まらないな」
ギルが横で吹き出した。
「いいじゃないか、統計士殿」
「お前も呼ぶな」
「じゃあ、未来を見ている男」
「もっと悪い」
隣村の男たちは、冗談なのか本気なのか分からない顔で笑っていた。
その視線が、俺の隣のリュカへ向く。
リュカは俺の足元で座っている。
汚れはだいぶ落ちたが、耳の先にまだ小さな草の種が残っていた。
男の1人が、そっと手を伸ばす。
「綺麗な獣ですね」
リュカは、すっと俺の後ろへ隠れた。
男の手が空を切る。
「……触られるのは嫌いらしい」
「あなたには懐いているのに?」
「俺にも懐いているかは怪しい」
リュカが俺の靴を踏んだ。
「痛い」
ギルが笑った。
「懐いてるだろ。あれは身内にする態度だ」
「身内は足を踏まない」
「踏む身内もいる」
「嫌な身内だな」
リュカは涼しい顔をしていた。
隣村の男たちは、そのやり取りを妙に感心した顔で見ていた。
やめてほしい。
こういう小さなやり取りまで噂にされると、白い聖獣と会話する賢者、などと言われかねない。
会話はしていない。
足を踏まれているだけだ。
午後、隣村の水路を見に行った。
セラも同行した。
病人の状態が安定してきたので、薬草採りを兼ねると言ったが、たぶん俺を1人にしないためだ。
「監視か」
道中で聞くと、セラは平然と答えた。
「見守りです」
「言い方を変えただけだな」
「印象が違います」
「そういうものか」
「そういうものです」
隣村までの道は、思ったより荒れていた。
雨水が道を削り、畑の端には泥が流れ込んでいる。水路の一部は草で覆われ、流れが見えない。
俺の視界に数字が浮かぶ。
隣村、30日以内の水路破損拡大率、62%。
秋の収穫減少率、51%。
魔物接近率、22%。
リーベル村ほど悪くはない。
だが、放置すればいずれ似たようなことが起きる。
「ここも、水が戻っている」
俺は斜面を指した。
「本来は右へ流すべきだ。今は土砂で詰まり、村の低い畑へ流れている」
隣村の男が息をのむ。
「確かに、あそこの麦だけ背が低いです」
「湿りすぎて根が弱っている。反対側の畑は乾きすぎている。水が偏っている」
「そんなことまで」
「見れば分かる」
言ってから、また曖昧な言い方だと思った。
見れば分かる。
最近、この言葉の意味が変わってきている。
以前は、記録を見れば分かる、という意味だった。
今は、本当に視界に浮かんでくる。
数字も、線も、時には判定のような短い言葉まで。
俺はそれを、自分の分析だと言い張っている。
だが、分析とは何だったか。
計算とは、どこからどこまでを言うのか。
考え込んでいると、リュカが俺の足首に体をぶつけた。
足元を見る。
斜面の下に、小さな穴があった。
獣の通り道かと思ったが、違う。
水が土を削ってできた空洞だ。
このまま雨が降れば、斜面が崩れる。
崩落発生率、48時間以内で34%。
人が作業中に巻き込まれる率、19%。
「今日は掘るな」
俺は言った。
隣村の男が驚く。
「え? でも直すために来ていただいたのでは」
「今掘ると崩れる。先に上流側の流れを変える。水を抜いてから土を触る」
「そんなことが分かるんですか」
「崩れそうだからだ」
男は斜面を見た。
たぶん、彼にはただの湿った土に見えている。
だが、俺にはそこに薄い赤い面が見えた。
崩れる可能性が高い場所。
触ってはいけない場所。
見える。
見えてしまう。
俺は無意識に一歩下がった。
セラがそれに気づいた。
「ユリウス」
「何でもない」
リュカが半歩離れた。
嘘だ。
そう言われた気がした。
セラの目も同じだった。
「何でもない、は嘘ですね」
「……少し、見え方が変だ」
初めて、そう言った。
セラは静かに聞いていた。
「何が見えますか」
「数字と、線と、触ると危ない場所」
言ってから、ひどく馬鹿げて聞こえると思った。
だが、セラは笑わなかった。
「それは、前からですか」
「数字は前からだ。線は最近だ。場所まで見えるのは、たぶん今日が初めてだ」
「痛みは?」
「頭が少し重い」
「ほかには」
「自分が嫌になる」
口にしてから、しまったと思った。
セラが少しだけ目を見開く。
隣村の男たちは、距離を取って待っている。聞こえてはいないようだった。
「なぜですか」
「人を見ると、数字が浮かぶ。危ない場所を見ると、線が浮かぶ。麦を見ると、使えるか捨てるべきかが分かる。便利だ。あまりにも便利だ」
「便利だと、嫌なんですか」
「便利なものは、使われる」
セラは黙った。
俺は斜面を見た。
「研究院では、俺の数字は嫌われた。ここでは役に立っている。でも、役に立つほど、俺は人間じゃなく道具になっていく気がする」
言葉にすると、思ったより本心だった。
リュカが俺の足元に戻ってきた。
今度は踏まなかった。
ただ、体を寄せた。
セラは少し考えてから言った。
「道具は、自分が嫌だなんて言いません」
俺は彼女を見た。
「それで十分か」
「少なくとも、今は」
セラは柔らかく笑った。
「それに、道具はリュカに叱られません」
「それは、人間である証明として有効なのか」
「かなり有効です」
リュカが得意そうに尾を揺らした。
俺は少しだけ息を吐いた。
冗談に救われることがある。
それも、研究院では学ばなかった。
隣村の水路は、その日のうちに応急処置だけをした。
上流側に小さな溝を掘り、水を一時的に逃がす。崩れそうな斜面には近づかず、木杭を打って立ち入りを止める。
本格的な修理は、翌日以降にすることになった。
隣村の男たちは何度も礼を言った。
「さすが、未来を見ている方は違う」
「見ていない」
俺は何度目かの否定をした。
男は困ったように笑った。
「でも、助かりました」
その言葉には反論できなかった。
助かったなら、それでいい。
ただ、その助かった理由を、未来を見たからだと言われるのは落ち着かなかった。
夕方、リーベル村へ戻ると、村の入口に馬が1頭つながれていた。
見慣れない馬だ。
鞍には、王立研究院の印がある。
俺は足を止めた。
リュカの毛が、かすかに逆立つ。
村の広場には、灰色の外套を着た男が立っていた。
研究院の使者だろう。
ただし、ミナの使いではない。
胸元に、上級研究員付きの銀糸の紋があった。
オスカーの部下だ。
男は俺を見つけると、書状を取り出した。
「ユリウス・レイン殿ですね」
「そうだ」
「王立研究院より、召喚状をお持ちしました」
周囲の村人たちがざわつく。
ギルが顔をしかめた。
セラは黙って俺を見ている。
俺は書状を受け取らなかった。
「俺は解任されたはずだが」
使者は一瞬だけ困った顔をした。
それから、用意された言葉を読むように言った。
「緊急事態につき、貴殿の知見を一時的に求める、とのことです」
「知見」
便利な言葉だ。
追い出すときは役立たず。
必要になれば知見。
人間は、本当に言葉をよく使う。
俺は使者の手元の書状を見た。
視界に数字が浮かぶ。
研究院へ戻った場合の利用される率、82%。
王都の発熱拡大を抑える可能性、41%。
リーベル村を離れた場合の再悪化率、23%。
リュカが俺の袖を噛んだ。
行くな、か。
それとも、よく考えろ、か。
俺にはまだ分からなかった。
使者は書状を差し出したまま待っている。
村人たちも、セラも、ギルも、村長も、俺を見ていた。
未来を見ている男。
その呼び名が、頭の奥で嫌な音を立てた。
もし本当に未来が見えるなら、迷わなくて済んだのだろうか。
だが、俺に見えているのは確定した未来ではない。
悪い可能性の束だけだ。
俺は書状を受け取った。
封蝋には、王立研究院の紋が押されている。
追放された場所からの、召喚状だった。




